人文研究見聞録:住吉神社(益田市) [島根県]

島根県益田市にある住吉神社(すみよしじんじゃ)です。

益田氏の史跡・七尾城跡付近に鎮座しており、祭神に住吉三神神宮皇后を祀っています。


神社概要

由緒

由緒書によれば、第82代後鳥羽天皇の御代(1192年)に七尾山に築城と共に鎮座し、以来、城山鎮護の神として氏子・崇敬者の守護神として崇敬を集めて現在に至るとされます。

なお、七尾城を築城した益田兼高(ますだかねたか)は、石見国で唯一源頼朝の呼びかけに応えて父兼栄とともに一ノ谷の戦いに参加し、壇ノ浦の戦いでは源義経に属して平家長と相対し、兵船25艘を捕獲し280人を討ち取る戦功をあげ、その偉功を以って石見の守護となった人物とされています。

祭神

人文研究見聞録:住吉神社(益田市) [島根県]

住吉神社の祭神は以下の通りです。

・底筒男命(ソコツツノオ):イザナギの禊によって、瀬の深い所で化成したとされる(住吉三神の一柱)
・中筒男命(ナカツツノオ):イザナギの禊によって、瀬の流れの中間で化成したとされる(住吉三神の一柱)
・表筒男命(ウワツツノオ):イザナギの禊によって、瀬の水表で化成したとされる(住吉三神の一柱)
息長足姫命(おきながたらしひめ)神功皇后ともいう(住吉大神の一柱として祀られることもある)

※併せて住吉大神と総称されることが多い

祭神の伝説

『記紀』には住吉三神神功皇后について、以下のような伝説が記されています。

住吉三神と神功皇后


人文研究見聞録:住吉神社(益田市) [島根県]

住吉三神と神功皇后については『記紀』の「仲哀天皇記」に記されており、『日本書紀』によれば、仲哀天皇の御代、熊襲や隼人など大和朝廷に反抗する部族が蜂起したとき、住吉大神が神功皇后が神がかり「反乱軍の背後には三韓の勢力がある。まず三韓を征討せよ」との神託を得た。

しかし、仲哀天皇はこの神託に従わず翌年崩御した。その翌月、再び同様の神託を得た神功皇后は、自ら兵を率いて三韓へ出航した。このとき、住吉大神の和魂が神功皇后の身辺を守り、荒魂は突風となり、神功皇后の船団を後押しするとともに、三韓の軍を大いにに苦しめたという。

境内の見どころ

鳥居

人文研究見聞録:住吉神社(益田市) [島根県]

住吉神社の二の鳥居です。

この先の石段を上って本社を目指すようになっています。

神門

人文研究見聞録:住吉神社(益田市) [島根県]

住吉神社の神門です。

石段を登りきった場所に位置しており、非常に目立つ赤色で塗られています。

本殿

人文研究見聞録:住吉神社(益田市) [島根県]

住吉神社の本殿です。

軒下には注連縄スピーカーが設置されています。

なお、この神社には参拝用の祝詞があるようです。一応以下に記載しておきます。

祓詞

掛けまくも畏(かしこ)き 伊邪那岐大神(いざなぎのおほかみ)

筑紫(つくし)の日向(ひむか)の橘小戸(たちばなのをど)の阿波岐原(あはざはら)に

御禊祓(みそぎはら)へ給(たま)ひし時に生(な)り坐(ま)せる

祓戸(はらへど)の大神等(おほかみたち) 諸諸(もろもろ)の禍事罪穢(まがごとつみけがれ)有らむをば

祓へ給ひ清め給へと白す事を聞こし食(め)せと 恐(かしこ)み恐みも白(まお)す

粟嶋神社

人文研究見聞録:住吉神社(益田市) [島根県]

住吉神社の境内社・粟嶋神社(あわしまじんじゃ)です。

粟島神を祀っているものと思われます。

多賀大社

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住吉神社の境内社・多賀大社(たがたいしゃ)です。

祭神は不詳ですが、滋賀県の多賀大社では祭神をイザナギ・イザナミとしています。

稲荷社

人文研究見聞録:住吉神社(益田市) [島根県]

住吉神社の境内社・稲荷社です。

多数の鳥居をくぐった先に変わった形の祠がありますが、大分荒れています。

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稲荷社の祠

不明の社

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住吉神社の境内社ですが、社名は不明です。

社殿の前には複数の鳥居が配されています。

壊れた鳥居

人文研究見聞録:住吉神社(益田市) [島根県]

住吉神社の境内には壊れた鳥居があります。

両部鳥居であるため、かつては神宮寺があったとも考えられます(由緒書には無い)。

料金: 無料
住所: 島根県益田市七尾町4(マップ
営業: 終日開放
交通: 益田駅(徒歩30分)
matapon
著者: matapon Twitter
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。