弘法大師幼時霊場仙遊寺 [香川県]
2015/11/28
香川県善通寺市にある仙遊寺(せんゆうじ)です。
幼少時代に神童と称えられた空海の逸話にまつわる地蔵堂であり、こじんまりとした境内に地蔵菩薩が祀られています。
なお、仏堂は非常に簡素なものであるため、地元ではあくまで史跡として扱われているようです。
縁起
由緒書によれば、空海が幼い頃に泥で仏像を造り、それを小さな仏堂に納めて祀っていた場所とされています。
その後、当地にやってきた地方監察官が幼い空海を見て神童と称え、それによって後世、付近の里人が神童・空海ゆかりの地として地蔵菩薩を祀り、旧跡としたんだそうです。
由緒書にそれらのことが書いてあるのですが、昭和の半ばに書かれたものらしく、古語が多くて大変読みづらいものとなっています。そのため、それを訳して下記に転載しておきます(独自に訳し、かつ、加筆修正したものなので、誤訳に注意してください)。
仙遊寺縁起
そもそも当院は弘法大師幼時の霊場であり、大師は幼くして崇仏の念が深く、5、6歳の頃から外で遊ぶ時は泥土を以って仏像を造り、小さい御堂も造って仏像を安置し、礼拝していたと伝わっています。
ある日、問民苦使(もんみんくんし、地方監察官)が屏風ヶ浦の辺りを巡視した道すがら、遊んでいる大師の姿を見て忽ち馬から飛び降り、うやうやしく跪(ひざまず)いて大師に敬礼したので、随員(部下)の人々は大変怪しみ、その訳を尋ねると「この子は凡人にあらず、四天王が白蓋(びゃっかい)を捧げてこれを護れと聞き伝える」と言ったそうです。
以来、遠近の里人は大師を神童と称えて、後世にその礼拝した土地を仙遊ヶ原として、此処に本尊・地蔵菩薩を安置して旧跡としたとされています。なお、この本尊は「夜泣地蔵」と申し、各所より沢山の人が礼拝に訪れます。
また、かつて日本軍の第十一師団の練兵場を造るに当たり、仙遊ヶ原の旧跡も他に移転しましたが、時の師団長・乃木将軍は霊夢によって直ちに元の位置に戻すよう言われたため、練兵場の中央に仙遊ヶ原の霊跡を保存し、現在に至っています。
世界広しといえど、恐らく誰も練兵場内に仏堂があったとは知らないことでしょう。なお、昭和26年7月7日を以って寺名を旧跡に因んで仙遊寺と呼称することになりました。
そもそも当院は弘法大師幼時の霊場であり、大師は幼くして崇仏の念が深く、5、6歳の頃から外で遊ぶ時は泥土を以って仏像を造り、小さい御堂も造って仏像を安置し、礼拝していたと伝わっています。
ある日、問民苦使(もんみんくんし、地方監察官)が屏風ヶ浦の辺りを巡視した道すがら、遊んでいる大師の姿を見て忽ち馬から飛び降り、うやうやしく跪(ひざまず)いて大師に敬礼したので、随員(部下)の人々は大変怪しみ、その訳を尋ねると「この子は凡人にあらず、四天王が白蓋(びゃっかい)を捧げてこれを護れと聞き伝える」と言ったそうです。
以来、遠近の里人は大師を神童と称えて、後世にその礼拝した土地を仙遊ヶ原として、此処に本尊・地蔵菩薩を安置して旧跡としたとされています。なお、この本尊は「夜泣地蔵」と申し、各所より沢山の人が礼拝に訪れます。
また、かつて日本軍の第十一師団の練兵場を造るに当たり、仙遊ヶ原の旧跡も他に移転しましたが、時の師団長・乃木将軍は霊夢によって直ちに元の位置に戻すよう言われたため、練兵場の中央に仙遊ヶ原の霊跡を保存し、現在に至っています。
世界広しといえど、恐らく誰も練兵場内に仏堂があったとは知らないことでしょう。なお、昭和26年7月7日を以って寺名を旧跡に因んで仙遊寺と呼称することになりました。
境内
仙遊寺の境内です。
古くは空海が遊んでいたとされ、近世は日本軍の練兵場であったとされています。
しかし、地蔵堂以外は何もなく、まさに「がらんどう」といった感じです。
地蔵菩薩
仙遊寺の地蔵菩薩です。
地蔵尊の隣にある像は、おそらく幼少時の空海だろうと思われます(善通寺の空海像に類似)。
なお、この地蔵尊は「夜泣地蔵」と云われ、子供の夜泣きに霊験あらたかとされているようです。
祠
仙遊寺の付近には二つの祠が祀られています(祭神不明)。
料金: 無料
住所: 香川県善通寺市仙遊町1丁目10
営業: 終日開放
交通: 善通寺駅(徒歩23分)
住所: 香川県善通寺市仙遊町1丁目10
営業: 終日開放
交通: 善通寺駅(徒歩23分)
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「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
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