諏訪神社(板野町) [徳島県]
2015/11/12
徳島県板野郡板野町にある諏訪神社(すわじんじゃ)です。
阿波川端駅付近にある丘上に鎮座する神社であり、主祭神に建御名方神(タケミナカタ)を祀り、伊弉諾命(イザナギ)、大山祗命(オオヤマツミ)、日本武尊(ヤマトタケル)を配祀しているようです(建御名方神以外は、定かではない)。
創建年代や由緒などは不明なものの、社名から長野県の諏訪大社から勧請された神社であると思われます。
また、境内には徳島藩で普及したとされる五角形の石碑「地神塔」が安置されており、なかなか珍しいものだったため、ここに取り上げて考察してみたいと思います。
謎の地神塔
地神塔とは?
地神塔とは徳島県独特の祭礼に由来するものであり、一般的には「地神さん」と呼ばれているそうです。
四国内で見られる「地神塔」は五角形であり、地神とされる五柱の神々の名が、五面のそれぞれに刻まれています。
また、四国以外で見られるものについては、自然石に「地神」と刻まれて建てられているものが多いとされ、四国内で見られるものとはスタイルが異なるようです。
地神とされる五柱の神々
・農業神・天照大神(アマテラス)
・五穀護神・大己貴命(オオナムチ)
・五穀祖神・少彦名命(スクナヒコナ)
・土御祖神・埴安姫命(ハニヤスヒメ)
・五穀祖神・倉稲魂命(ウカノミタマ)
通説では農業五面神とされる
・農業神・天照大神(アマテラス)
・五穀護神・大己貴命(オオナムチ)
・五穀祖神・少彦名命(スクナヒコナ)
・土御祖神・埴安姫命(ハニヤスヒメ)
・五穀祖神・倉稲魂命(ウカノミタマ)
通説では農業五面神とされる
地神塔の由緒
地神塔の由緒は江戸中期(1790年)にまで遡り、当時の徳島藩主であった蜂須賀治昭(はちすか はるあき)が神職早雲伯耆の建白を受け、藩内全域に地神塔(塚)を建てて、春秋の社日(戌の日)に地神祭を行うようにさせたということを起源とするそうです。
なお、当時は淡路も徳島藩だったため、淡路にも同じく「地神塔」が建てられ、社日には祭礼を行わせたとされています。また、社日に農作業をすると「地神さん」の頭に鍬を打ち込むことになるとされたことから、忙しい時期であっても全ての農家が農作業を止めて「地神塔」の周りで祭礼を行ったそうです。
地神塔の祭礼
祭礼については、社日になると「地神塔」の周りに注連縄が張られ、沢山の供物が供えられたとされています。そして、祭礼が終わると供物が子供達に分け与えられたとされるため、子供達は社日を「おじじんさん」と呼んで年中行事の楽しみの一つとしていたんだそうです。
地神塔の伝播
その後、地主塔は徳島県から香川県や岡山県、および徳島藩から入植した人々が住む北海道の一部へと伝播し、やがて農民間から地域に定着し、それが人の交流と共に全国的に伝播していったと考えられています。
そのため、四国内における五角形の地神塔は、徳島県のほかにも香川県などの神社でよく見られます。
地神塔が建てられた理由について
『記紀』において、四国は「国産み」で最初期に誕生したとされるものの、神代よりその地理や歴史にあまり触れられることなく、流刑地として扱われる描写も多数見られます。要するに、四国は正史上において謎に包まれているといった感じです。
一方、四国内には独自の神話伝承があり、それにまつわるとされる数多くの古墳(古代遺跡)なども存在しています。そのため、正史上では触れられていない謎めいた事実も埋没しているものと思われます。
地神塔が建てられた理由として、一説によれば、阿波国内の天皇陵や古代の遺跡を掘り荒らし、その神罰を恐れたために地元の氏子や農民に祭祀を行なわせたと云われています。
その裏付けとして、元禄年間に徳川幕府から「阿波淡路右両国之内、古代之天子葬之場所有之由ニ候云々」として阿波で古代天皇の埋葬が行われた痕跡を徳島藩に調査という記録が残っているんだそうです。
この件に関しては、個人的には全く検証していないため、その真偽のほどは今のところ不明です。そのため、四国についてはこれから徐々に謎を紐解いて、追って報告していこうと思います。
参考サイト:地神さん、阿波独特の祭礼(地神塔)
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「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
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