悪王子神社(元悪王子社) [京都府]
2016/06/01
京都市下京区にある悪王子神社(あくおうじじんじゃ、元悪王子社)です。
八坂神社の摂社である悪王子社の旧鎮座地に再建された神社であり、元悪王子町の由来となったとされています。
八坂神社についてはこちらの記事を参照:【八坂神社】
由緒
由緒書によれば、八坂神社の摂社として天延2年(974)に東洞院通四条下るの西側に創建された神社であり、八岐大蛇を倒した素戔嗚尊(スサノオ)の偉業を讃えて その荒御魂を祀ったことに始まるとされています。
なお、創建当時は「承平天慶の乱」によって非業の死を遂げた死者の怨念によって疫病や災害が相次いだとされ、それらを鎮める目的で行われた祇園御霊会(現在の祇園祭)の際には、当社で神供式を行った後、此処から巡業の列を作ったんだそうです。
その後、祇園御霊会の形式が疫病発生の予防のために行われるようになると、巡業の無事を祈願する神社に変わって行ったとされています。
また、豊臣時代には秀吉の命によって烏丸五条に移転され、そこを「悪王子町」とし、旧鎮座地を「元悪王子町」と呼ぶようになったとされ、さらに時代が下って明治に入ると、神仏分離令の影響で八坂神社の境内に移転することになったそうです(現在は八坂神社の摂社として境内に悪王子社がある)。
そして、この元悪王子社は町のシンボルとして祠が再建され、平成10年4月に再び祀られることになったとされています。
なお、祠の前には由緒書の立札がありますが、祠の下には由緒書の記された紙が配布されています。どちらも同様のことが書かれていますが、紙の方が詳しく書かれているため、そちらの内容を以下に転載しておきたいと思います。
悪王子社と祇園祭
悪王子神社は素戔嗚尊(スサノオノミコト)の荒御霊(アラミタマ)が祀られています。素戔嗚尊の御魂をお祀りする八坂神社の摂社として天延2年(974年)に、東洞院通四条下る西側に建立されました。
『古事記』や『日本書紀』の中に記されていますように、出雲の国の肥河(ヒノカワ)の川上で八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治された素戔嗚尊の勇猛心と、困難に立ち向かって運命を打開する王子様を尊敬して"悪王子"の称号を贈り、その若き時の勇猛心を持つ御霊を荒御霊と申してお祀りしたのが悪王子神社であります。
その当時は第64代 円融天皇の御代(969~984年)であり、平将門の乱(935~941年)や藤原純友の乱(939~941年)などの影響で地方の国々が乱れ、その度の出兵では多くの戦死者を出し、また罪人の処刑も行われました。そのため、これらの人々の霊が鎮まらず、その祟りとして疾病や災害が起きると考えられたのです。
なお、947年には疱瘡(ほうそう、天然痘と同義)が、957年には頸部腫瘍(けいぶしゅよう)が大流行し、また、風水害も相次いで大被害を蒙ったとされています。
これらは怨霊のためであり、これを鎮めるために祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)が行われました。これが祇園祭の始まりであります。最初は疾病が流行する度に行われていましたが、次第に流行する前に祈るように変遷し、徐々に現在のような巡業の形態を為すようになりました。
また、勇猛心のある荒御霊で怨念を鎮めるべく建てられました悪王子神社も、祇園祭の行列の無事を祈願する神様に変わって行ったのであります。すなわち、この東洞院四条の辻にて四方に斎竹を立て、注連縄(しめなわ)を曳き渡し、神供式を行った後、この辻より巡業の列を作ったと祇園会起源に記されています。
それが、豊臣太閤秀吉の命によって神社を烏丸五条に移され後に当地を元悪王子町とし、移転地を悪王子町と呼ぶようになったとされています。また、明治初年の神仏習合の廃止(神仏分離令)により、悪王子神社は明治10年に現在の八坂神社の境内に鎮座されたのであります。
悪王子神社が我が町内のシンボルでありますれば、この地に神社があるのが本当でありますが、お祀りする場所が無くて諦めておりました。そんな折、土地所有者の御好意によって祠が造られ、悪王子社として分霊を頂き、平成10年4月にお祀りすることができました。
※多少加筆修正しています
悪王子神社は素戔嗚尊(スサノオノミコト)の荒御霊(アラミタマ)が祀られています。素戔嗚尊の御魂をお祀りする八坂神社の摂社として天延2年(974年)に、東洞院通四条下る西側に建立されました。
『古事記』や『日本書紀』の中に記されていますように、出雲の国の肥河(ヒノカワ)の川上で八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治された素戔嗚尊の勇猛心と、困難に立ち向かって運命を打開する王子様を尊敬して"悪王子"の称号を贈り、その若き時の勇猛心を持つ御霊を荒御霊と申してお祀りしたのが悪王子神社であります。
その当時は第64代 円融天皇の御代(969~984年)であり、平将門の乱(935~941年)や藤原純友の乱(939~941年)などの影響で地方の国々が乱れ、その度の出兵では多くの戦死者を出し、また罪人の処刑も行われました。そのため、これらの人々の霊が鎮まらず、その祟りとして疾病や災害が起きると考えられたのです。
なお、947年には疱瘡(ほうそう、天然痘と同義)が、957年には頸部腫瘍(けいぶしゅよう)が大流行し、また、風水害も相次いで大被害を蒙ったとされています。
これらは怨霊のためであり、これを鎮めるために祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)が行われました。これが祇園祭の始まりであります。最初は疾病が流行する度に行われていましたが、次第に流行する前に祈るように変遷し、徐々に現在のような巡業の形態を為すようになりました。
また、勇猛心のある荒御霊で怨念を鎮めるべく建てられました悪王子神社も、祇園祭の行列の無事を祈願する神様に変わって行ったのであります。すなわち、この東洞院四条の辻にて四方に斎竹を立て、注連縄(しめなわ)を曳き渡し、神供式を行った後、この辻より巡業の列を作ったと祇園会起源に記されています。
それが、豊臣太閤秀吉の命によって神社を烏丸五条に移され後に当地を元悪王子町とし、移転地を悪王子町と呼ぶようになったとされています。また、明治初年の神仏習合の廃止(神仏分離令)により、悪王子神社は明治10年に現在の八坂神社の境内に鎮座されたのであります。
悪王子神社が我が町内のシンボルでありますれば、この地に神社があるのが本当でありますが、お祀りする場所が無くて諦めておりました。そんな折、土地所有者の御好意によって祠が造られ、悪王子社として分霊を頂き、平成10年4月にお祀りすることができました。
※多少加筆修正しています
祭神
元悪王子社の祭神は以下の通りです。
主祭神
・素盞鳴尊の荒御霊(スサノオのアラミタマ)
→ スサノオの若かりし頃の勇猛心を持つ御霊であるとされる
→ 八坂神社の悪王子社も同様の祭神であり、その分霊とされる
・素盞鳴尊の荒御霊(スサノオのアラミタマ)
→ スサノオの若かりし頃の勇猛心を持つ御霊であるとされる
→ 八坂神社の悪王子社も同様の祭神であり、その分霊とされる
社殿
元悪王子社の社殿です。
阪急烏丸駅、地下鉄四条駅からほど近い、東洞院通の一角に ひっそりと祀られています。
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「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
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