彌彦神社にまつわる神話・伝説
2016/07/13
新潟県の弥彦村には、県内屈指のパワースポットである彌彦神社があることで有名ですが、弥彦村および越国周辺には彌彦神社の祭神の天香山命(彌彦大神)にまつわる神話や伝説が数多く残されているようです。
そこで、彌彦神社および主祭神・天香山命(彌彦大神)にまつわる神話・伝説を集めてみました。なお、弥彦村にまつわる伝説については「弥彦村の民話・伝説」をご覧ください。
【目 次】
彌彦大神(天香山命・高倉下)の神話
『古事記』
天孫・邇邇芸命(ニニギ)の子孫である神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ)は、天下に治めるに相応しい場所を求めて、日向を出発して東を目指した。
その際、宇佐、筑紫、安芸、吉備を経て 遂に浪速に到ったが、そこで待ち構えていた登美(トミ)の那賀須泥毘古(ナガスネヒコ)の軍と争って敗れ、兄の五瀬命(イツセ)を失ってしまった。
イツセは死ぬ前に「日の神の皇子が日の向かって戦ってしまったことが敗因である」と言った。そこで、イワレビコは回り道をして日を背に戦おうと誓い、浪速から紀伊の熊野村に到った。
すると、そこで大熊髣(オオクマホノカ)が姿を見せて隠れると、イワレビコや兵士は皆 気を失ってしまった。
このとき、高倉下(タカクラジ)が一本の大刀を携えてイワレビコの元にやってくると、イワレビコは目を覚まして「ずいぶん寝てしまっていたようだ」と言った。そして、イワレビコが大刀を受け取ると、熊野の悪神たちは自然に斬り倒されて気を失っていた兵士も皆 正気を取り戻した。
そこで、イワレビコがタカクラジに大刀を得た経緯を訪ねると、タカクラジは このような夢を見たと語った。
天照大神(アマテラス)と高木神(タカミムスビ)の二神が現れて、タケミカヅチの神に「葦原の中心の国はひどく騒いでいる。私の御子たちが困っているので、お前が降りて助けよ」と命じた。
そこで、タケミカヅチの神は「私が降りなくても、国を平定した大刀を降ろせば治まるでしょう。この大刀はタカクラジの倉の屋根に穴を開けて、そこから降ろしましょう」と答えた。
そして、タケミカヅチの神はタカクラジに「お前は朝 目覚めたら、この大刀を持って天神の御子に献上せよ」と教えたため、翌朝、倉を開けると本当に大刀があった。よって、この大刀を献上したという。
なお、この大刀の名はサジフツの神、またはミカフツの神、またはフツノミタマと言い、今は石上神宮にある。
その際、宇佐、筑紫、安芸、吉備を経て 遂に浪速に到ったが、そこで待ち構えていた登美(トミ)の那賀須泥毘古(ナガスネヒコ)の軍と争って敗れ、兄の五瀬命(イツセ)を失ってしまった。
イツセは死ぬ前に「日の神の皇子が日の向かって戦ってしまったことが敗因である」と言った。そこで、イワレビコは回り道をして日を背に戦おうと誓い、浪速から紀伊の熊野村に到った。
すると、そこで大熊髣(オオクマホノカ)が姿を見せて隠れると、イワレビコや兵士は皆 気を失ってしまった。
このとき、高倉下(タカクラジ)が一本の大刀を携えてイワレビコの元にやってくると、イワレビコは目を覚まして「ずいぶん寝てしまっていたようだ」と言った。そして、イワレビコが大刀を受け取ると、熊野の悪神たちは自然に斬り倒されて気を失っていた兵士も皆 正気を取り戻した。
そこで、イワレビコがタカクラジに大刀を得た経緯を訪ねると、タカクラジは このような夢を見たと語った。
天照大神(アマテラス)と高木神(タカミムスビ)の二神が現れて、タケミカヅチの神に「葦原の中心の国はひどく騒いでいる。私の御子たちが困っているので、お前が降りて助けよ」と命じた。
そこで、タケミカヅチの神は「私が降りなくても、国を平定した大刀を降ろせば治まるでしょう。この大刀はタカクラジの倉の屋根に穴を開けて、そこから降ろしましょう」と答えた。
そして、タケミカヅチの神はタカクラジに「お前は朝 目覚めたら、この大刀を持って天神の御子に献上せよ」と教えたため、翌朝、倉を開けると本当に大刀があった。よって、この大刀を献上したという。
なお、この大刀の名はサジフツの神、またはミカフツの神、またはフツノミタマと言い、今は石上神宮にある。
※この説話は神武東征の一部であり、それを大分要約した形にまとめています。
『日本書紀』
天孫・瓊々杵尊(ニニギ)の子孫である神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレヒコ)は、鹽土老翁(シオツチノオジ)から東にある美しの国が天下に威光を示すのに相応しい場所であると聞き、そこを六合(クニ)の中心の都にするべく、兄弟や皇子たちと共に東を目指した。
その際、筑紫、安芸、吉備を経て 遂に河内に到ったが、そこで待ち構えてい長髄彦(ナガスネヒコ)の軍と争って敗れ、兄の五瀬命(イツセ)を失ってしまった。
そこで、イワレヒコは「日の神の子孫が日の向かって戦えば天道(アメノミチ)に逆らうことになる。ここは一度退き、今度は日の神の勢いを背負って敵を倒そう」と言った。
その後、イワレヒコは軍を率いて熊野荒坂津(クマノアラサカツ)に到った。そのとき、神が毒を吐き、兵士らを皆を冒してしまった。これにより、毒に当たったイワレヒコや兵士は皆 臥し眠ってしまった。
なお、この土地には熊野高倉下(クマノノタカクラジ)という者が居り、このような夢を見たという。
夢の中で天照大神(アマテラス)が武甕雷神(タケミカヅチ)に「葦原中国は未だに騒がしく乱れている。お前が行って静めよ」と命じた。すると、タケミカヅチは「私が行かなくとも、私が国を平定したときに使った剣を降ろせば、すぐに国は静まるでしょう」と答えた。
アマテラスが それを許すと、タケミカヅチはタカクラジに「私の剣はフツノミタマという。この剣をお前の蔵の中に置いておくから、これを受け取って天孫(イワレヒコ)に献上せよ」と命じた。
翌朝、タカクラジが夢の教え通りに蔵を開けてみると、蔵の床板に剣が突き刺さっていたので、すぐに剣を取ってイワレヒコに献上した。
そのとき、イワレヒコは目覚めて「私はどうして、こんなに長く眠っていたのだろう」と言った。すると、毒に当たっていた兵士たちも皆 目覚めた。
その際、筑紫、安芸、吉備を経て 遂に河内に到ったが、そこで待ち構えてい長髄彦(ナガスネヒコ)の軍と争って敗れ、兄の五瀬命(イツセ)を失ってしまった。
そこで、イワレヒコは「日の神の子孫が日の向かって戦えば天道(アメノミチ)に逆らうことになる。ここは一度退き、今度は日の神の勢いを背負って敵を倒そう」と言った。
その後、イワレヒコは軍を率いて熊野荒坂津(クマノアラサカツ)に到った。そのとき、神が毒を吐き、兵士らを皆を冒してしまった。これにより、毒に当たったイワレヒコや兵士は皆 臥し眠ってしまった。
なお、この土地には熊野高倉下(クマノノタカクラジ)という者が居り、このような夢を見たという。
夢の中で天照大神(アマテラス)が武甕雷神(タケミカヅチ)に「葦原中国は未だに騒がしく乱れている。お前が行って静めよ」と命じた。すると、タケミカヅチは「私が行かなくとも、私が国を平定したときに使った剣を降ろせば、すぐに国は静まるでしょう」と答えた。
アマテラスが それを許すと、タケミカヅチはタカクラジに「私の剣はフツノミタマという。この剣をお前の蔵の中に置いておくから、これを受け取って天孫(イワレヒコ)に献上せよ」と命じた。
翌朝、タカクラジが夢の教え通りに蔵を開けてみると、蔵の床板に剣が突き刺さっていたので、すぐに剣を取ってイワレヒコに献上した。
そのとき、イワレヒコは目覚めて「私はどうして、こんなに長く眠っていたのだろう」と言った。すると、毒に当たっていた兵士たちも皆 目覚めた。
※この説話は神武東征の一部であり、それを大分要約した形にまとめています。
『旧事紀(先代旧事本紀)』
饒速日尊(ニギハヤヒ)には、天香語山命(アマノカゴヤマ)という子がいる。天降った後の名を手栗彦命(タグリヒコ)または高倉下命(タカクラジ)という。
この天香語山命は、父の天孫の尊(饒速日尊)に随従して天から降り、紀伊国の熊野邑(くまのむら)に住み着いた。
天孫・天饒石国饒石天津彦々火瓊々杵尊(ニニギ)の子孫の磐余彦尊(イワレヒコ)が西の宮を出発し、自ら船軍を率いて東征した時、磐余彦尊の命に背く者が蜂のように起こり、未だに服従していなかった。
そのとき、中つ国の豪雄・長髓彦(ナガスネヒコ)は兵を整えて磐余彦尊の軍と対峙した。磐余彦尊の軍は頻りに戦ったが長髄彦の軍には勝つことができなかった。
先に紀伊国の熊野邑に至った時のこと、悪神が毒気を吐いて皆を毒に冒した。天孫(イワレヒコ)はこれに困惑したが、これを治すための良い方法が無かった。
高倉下命(天香語山命)はこの邑に居て、夜中に このような夢を見た。
天照大神(アマテラス)が武甕槌神(タケミカヅチ)「聞くところによれば、葦原の瑞穂国は未だに騒がしいという。お前が出ていって、これを討ちなさい」と言った。
すると、武甕槌神は「私が出向かずとも、私が国を平らげたときの剣を下したならば、自然に平定されるでしょう」と答え、高倉下命に「我が剣であるフツノツルギを、お前の家の庫(くら)の内に置いておく。お前はそれを天孫に献上せよ」と命じた。
高倉下命は「おお」と言って目覚め、 翌朝に庫を開けてみるとフツノツルギが庫の底板に逆さまに立っていた。そこで、それを持って天孫(イワレヒコ)に献上した。
そのとき天孫(イワレヒコ)は眠っていたが、フツノツルギを持って行くと目覚めて「私はどうしてこんなに長く眠っていたのか」と言った。次いで毒気に当たっていた兵士達も、皆 目覚めて起き上がった。
天孫(イワレヒコ)は神剣を得たことで日に日に威光と軍の勢いが増した。そして、これを成した高倉下を褒めて侍臣とした。
この天香語山命は、父の天孫の尊(饒速日尊)に随従して天から降り、紀伊国の熊野邑(くまのむら)に住み着いた。
天孫・天饒石国饒石天津彦々火瓊々杵尊(ニニギ)の子孫の磐余彦尊(イワレヒコ)が西の宮を出発し、自ら船軍を率いて東征した時、磐余彦尊の命に背く者が蜂のように起こり、未だに服従していなかった。
そのとき、中つ国の豪雄・長髓彦(ナガスネヒコ)は兵を整えて磐余彦尊の軍と対峙した。磐余彦尊の軍は頻りに戦ったが長髄彦の軍には勝つことができなかった。
先に紀伊国の熊野邑に至った時のこと、悪神が毒気を吐いて皆を毒に冒した。天孫(イワレヒコ)はこれに困惑したが、これを治すための良い方法が無かった。
高倉下命(天香語山命)はこの邑に居て、夜中に このような夢を見た。
天照大神(アマテラス)が武甕槌神(タケミカヅチ)「聞くところによれば、葦原の瑞穂国は未だに騒がしいという。お前が出ていって、これを討ちなさい」と言った。
すると、武甕槌神は「私が出向かずとも、私が国を平らげたときの剣を下したならば、自然に平定されるでしょう」と答え、高倉下命に「我が剣であるフツノツルギを、お前の家の庫(くら)の内に置いておく。お前はそれを天孫に献上せよ」と命じた。
高倉下命は「おお」と言って目覚め、 翌朝に庫を開けてみるとフツノツルギが庫の底板に逆さまに立っていた。そこで、それを持って天孫(イワレヒコ)に献上した。
そのとき天孫(イワレヒコ)は眠っていたが、フツノツルギを持って行くと目覚めて「私はどうしてこんなに長く眠っていたのか」と言った。次いで毒気に当たっていた兵士達も、皆 目覚めて起き上がった。
天孫(イワレヒコ)は神剣を得たことで日に日に威光と軍の勢いが増した。そして、これを成した高倉下を褒めて侍臣とした。
『ホツマツタヱ』
カグヤマ(橘山)の子のタクリ(手栗彦命)がアメミチヒメ(天道日女命)を娶って生んだ子をタカクラマロという。別名をタカクラシタ(高倉下)といい、タキコ(多岐都比売命)の孫、アマテル(天照大御神)の曾孫に当たる。
大和を治めていたクシタマホノアカリ(櫛玉火明命)は、世嗣が無かったことからアメミチヒメを娶って子を儲けようとしたが、子が出来なかったので、タクリの子のタクラマロ(高倉下)を養子とした。
しかし、クシタマホノアカリの后であるハセヒメ(初瀬姫)に憎まれてしまい、タカクラマロは母のアメミチヒメと共に捨てられてしまった。
その後、クシタマホノアカリ(櫛玉火明命)が亡くなると、アマテル(天照大御神)はニニキネ(瓊々杵尊)の孫のクニテル(国照)に後を継ぐように命じ、十種宝とニギハヤヒ(饒速日命)という尊名を与えた。
ニギハヤヒが大和に入った後、アメミチヒメを母とし、その子のタクラマロと共に大和に呼び寄せたが、タカクラマロは応じなかった(この後、タカクラマロは熊野に住み着いたと推定される)。
その後、ニギハヤヒの忠臣であったナガスネヒコが騒ぎを起こしたことから、ニニキネ(瓊々杵尊)の曾孫のカンヤマトイハワレヒコ(神日本磐余彦尊)が大和を平定するべく、軍を起こして東征を開始する。
その途中、皇軍が熊野の荒坂に到ると、そこでイソラ(悪霊)に取り憑かれたニシキドに遭遇した。皇軍の侵入を拒んだニシキドがオヱ(穢れた気)を吐くと、皇軍は皆 疲れ、その場に臥して眠ってしまった。
この間、タカクラシタに神託が降り、夢の中に このような様子が現れた。
アマテルがタケミカツチ(武甕槌命)に「地が騒がしければ、汝が行って平らげるがよい」と言うと、タケミカツチは「我が行かずとも、クニムケツルキを下せば問題ないでしょう」と答えた。
これにアマテルも頷くと、タカクラシタに「タケミカツチのフツノミタマを倉に置く、これを君(イワレヒコ)に献じよ」と命じた。そこで、タカクラシタは「あひあひ」と返事をすると、そこで目が覚めた。
翌朝、目覚めたタカクラシタが倉を開けると、底板に刺さって立っている剣を見つけた。そこで、イワレヒコの元に行き、この剣を献上するとイソラのオヱが醒め、皇軍が諸共に立ち上がった。
その後、イワレヒコが大和を平定して橿原で帝位に就くと、タカクラシタは臣としてイワレヒコに仕えた。
タカクラシタは、やがて統使人(国家鎮定の大使)となって諸国を巡り、橿原に戻ってきた際に「私は昔 御言を賜って遠国から筑紫と山陰も巡り治めました。また、越後の弥彦山に巣くうツチグモをと五度に亘って戦って殲滅し、四国も治めました」と報告した。
また、クニスヘヱ(国統絵)も捧げると、イワレヒコはタカクラシタに紀州国造としてオオムラジ(大連)の役を与えた。
その後、越後が初穂を納めなかったため、タカクラシタが越後に行って太刀を抜かずに皆を従えた。イワレヒコは この功績を讃えてクニモリ(国守)の役とヤヒコカミ(弥彦守)のヲシテ(璽)を与えた。これにより、タカクラシタは越後に定住することになったため、妹婿のアメノミチネを紀の国造としてキノタチ(紀の館)を与えた。
それから時が経ち、ヤヒコ(タカクラシタ)が橿原宮にてイワレヒコを拝む時、イワレヒコは「汝は昔、盃が進まなかったが、今よく飲むのは何故だ?」と問うと、ヤヒコは「我が国は寒く、常に飲んでいると自然に好きになってくるのです」と答えた。
そこで、イワレヒコは笑んで「汝の酒に肴を与えよう。私の乙下侍(后の一人)である。77歳の男に20歳の女であるぞ」と言い、ヤヒコに乙下侍を与えた。この後、タカクラシタは越後に戻って乙下侍(ユリヒメ)と結婚し、男女の子を生んだ。
大和を治めていたクシタマホノアカリ(櫛玉火明命)は、世嗣が無かったことからアメミチヒメを娶って子を儲けようとしたが、子が出来なかったので、タクリの子のタクラマロ(高倉下)を養子とした。
しかし、クシタマホノアカリの后であるハセヒメ(初瀬姫)に憎まれてしまい、タカクラマロは母のアメミチヒメと共に捨てられてしまった。
その後、クシタマホノアカリ(櫛玉火明命)が亡くなると、アマテル(天照大御神)はニニキネ(瓊々杵尊)の孫のクニテル(国照)に後を継ぐように命じ、十種宝とニギハヤヒ(饒速日命)という尊名を与えた。
ニギハヤヒが大和に入った後、アメミチヒメを母とし、その子のタクラマロと共に大和に呼び寄せたが、タカクラマロは応じなかった(この後、タカクラマロは熊野に住み着いたと推定される)。
その後、ニギハヤヒの忠臣であったナガスネヒコが騒ぎを起こしたことから、ニニキネ(瓊々杵尊)の曾孫のカンヤマトイハワレヒコ(神日本磐余彦尊)が大和を平定するべく、軍を起こして東征を開始する。
その途中、皇軍が熊野の荒坂に到ると、そこでイソラ(悪霊)に取り憑かれたニシキドに遭遇した。皇軍の侵入を拒んだニシキドがオヱ(穢れた気)を吐くと、皇軍は皆 疲れ、その場に臥して眠ってしまった。
この間、タカクラシタに神託が降り、夢の中に このような様子が現れた。
アマテルがタケミカツチ(武甕槌命)に「地が騒がしければ、汝が行って平らげるがよい」と言うと、タケミカツチは「我が行かずとも、クニムケツルキを下せば問題ないでしょう」と答えた。
これにアマテルも頷くと、タカクラシタに「タケミカツチのフツノミタマを倉に置く、これを君(イワレヒコ)に献じよ」と命じた。そこで、タカクラシタは「あひあひ」と返事をすると、そこで目が覚めた。
翌朝、目覚めたタカクラシタが倉を開けると、底板に刺さって立っている剣を見つけた。そこで、イワレヒコの元に行き、この剣を献上するとイソラのオヱが醒め、皇軍が諸共に立ち上がった。
その後、イワレヒコが大和を平定して橿原で帝位に就くと、タカクラシタは臣としてイワレヒコに仕えた。
タカクラシタは、やがて統使人(国家鎮定の大使)となって諸国を巡り、橿原に戻ってきた際に「私は昔 御言を賜って遠国から筑紫と山陰も巡り治めました。また、越後の弥彦山に巣くうツチグモをと五度に亘って戦って殲滅し、四国も治めました」と報告した。
また、クニスヘヱ(国統絵)も捧げると、イワレヒコはタカクラシタに紀州国造としてオオムラジ(大連)の役を与えた。
その後、越後が初穂を納めなかったため、タカクラシタが越後に行って太刀を抜かずに皆を従えた。イワレヒコは この功績を讃えてクニモリ(国守)の役とヤヒコカミ(弥彦守)のヲシテ(璽)を与えた。これにより、タカクラシタは越後に定住することになったため、妹婿のアメノミチネを紀の国造としてキノタチ(紀の館)を与えた。
それから時が経ち、ヤヒコ(タカクラシタ)が橿原宮にてイワレヒコを拝む時、イワレヒコは「汝は昔、盃が進まなかったが、今よく飲むのは何故だ?」と問うと、ヤヒコは「我が国は寒く、常に飲んでいると自然に好きになってくるのです」と答えた。
そこで、イワレヒコは笑んで「汝の酒に肴を与えよう。私の乙下侍(后の一人)である。77歳の男に20歳の女であるぞ」と言い、ヤヒコに乙下侍を与えた。この後、タカクラシタは越後に戻って乙下侍(ユリヒメ)と結婚し、男女の子を生んだ。
※上記の神話は『ホツマツタヱ』にあるタカクラシタの説話を集めてまとめたものです。
参考:ホツマツタヱ・ミカサフミ 現代語訳
彌彦神社にまつわる伝説
彌彦大神の雷退治
昔、彌彦大神(天香山命)が夏の米水浦(野積浜)で、里人たちに塩を作る方法を教えていた時のこと。
一日がかりで塩を作れば、夕方には沢山の塩ができあがった。皆が大喜びする中、突然 雷鳴がとどろき、空が曇ったと思うと、激しい夕立が降り始めた。すると、あっという間に作りあげた塩が雨で流されてしまった。
彌彦大神は大変 怒り、早速 天に呼びかけて雷どもを集めた。彌彦大神が厳しく戒めると、これを恐れた雷どもは「これ以後、この地方では絶対に雷を鳴らさず、夕立も降らせません」と言い、深く詫びて固く誓ったという。
これ以降、弥彦山には夕立も降らず、雷も鳴らないと云われている。
また、同様に このような伝説もある。
ある夏の夕方、彌彦大神が弥彦山を巡っている時に雷鳴がとどろき、夕立が降ってきた。驚いた彌彦大神は雨宿りするために山道を走っていると、道端のウドの芽で目を突いてしまった。
これを以って、彌彦大神は雷とウドを厳しく叱ると、恐れた雷は「これ以後、弥彦山の上で雷を鳴らさず、夕立を降らしません」と誓い、ウドも「これからは弥彦山には絶対に繁殖しません」と誓った。
そのため、今でも弥彦山でウドを見ることは ほとんど無いという。
一日がかりで塩を作れば、夕方には沢山の塩ができあがった。皆が大喜びする中、突然 雷鳴がとどろき、空が曇ったと思うと、激しい夕立が降り始めた。すると、あっという間に作りあげた塩が雨で流されてしまった。
彌彦大神は大変 怒り、早速 天に呼びかけて雷どもを集めた。彌彦大神が厳しく戒めると、これを恐れた雷どもは「これ以後、この地方では絶対に雷を鳴らさず、夕立も降らせません」と言い、深く詫びて固く誓ったという。
これ以降、弥彦山には夕立も降らず、雷も鳴らないと云われている。
また、同様に このような伝説もある。
ある夏の夕方、彌彦大神が弥彦山を巡っている時に雷鳴がとどろき、夕立が降ってきた。驚いた彌彦大神は雨宿りするために山道を走っていると、道端のウドの芽で目を突いてしまった。
これを以って、彌彦大神は雷とウドを厳しく叱ると、恐れた雷は「これ以後、弥彦山の上で雷を鳴らさず、夕立を降らしません」と誓い、ウドも「これからは弥彦山には絶対に繁殖しません」と誓った。
そのため、今でも弥彦山でウドを見ることは ほとんど無いという。
参考:彌彦神社にまつわる伝説
九鵙(くもず)
昔、守門岳の麓の刈谷田川に九鵙(くもず)という賊の首領が居た。この九鵙は泳ぎに長けており、暴行を働いては川に逃げ込み、何日も淵に隠れていたという。
この様子を見た天香山命(アメノカゴヤマ)は、臣下に多くの生姜(しょうが)を集めさせ、それを砕いて赤土と混ぜて、上流から淵に投げむよう命じた。
すると、これに耐え切れなくなった九鵙が浮かんできたため、これを捕らえた。そして、九鵙に己の非を悟らせ、今後は人民に迷惑を掛けないよう誓わせて釈放したという。
この様子を見た天香山命(アメノカゴヤマ)は、臣下に多くの生姜(しょうが)を集めさせ、それを砕いて赤土と混ぜて、上流から淵に投げむよう命じた。
すると、これに耐え切れなくなった九鵙が浮かんできたため、これを捕らえた。そして、九鵙に己の非を悟らせ、今後は人民に迷惑を掛けないよう誓わせて釈放したという。
参考:彌彦神社にまつわる伝説
安麻背(あまぜ)
神代の昔、彌彦大神が越後を開拓するために野積に上陸した。
この当時、弥彦山裏側の海浜一帯には安麻背(あまぜ)という凶賊が蔓延っていた。安麻背は多くの部下を従えて近隣を荒らし回り、婦女を略奪することから、近隣の住民から恐れられていた。
なお、安麻背は身長が1丈6尺(約4.8m)もあり、海に飛び込んで素手で大魚を掴み取り、獣を素手で打ち殺すほど力が強かった。そこで、彌彦大神は何とかしようとして部下と相談し、安麻背をやり込めるための計略を練った。
安麻背が浜辺の岩屋で手下と酒盛りをしていたとき、彌彦大神は「大和朝廷より、越国の王である貴方に剣と酒を贈ろうと思う。この剣は特別に鍛えたものであり、刃の鋭さは大岩を断ち割り、荒波をも二つに分けるほど素晴らしい。また、この酒は特に醸した天下一の美酒である」と言い、一振りの長剣 と 香り高い美酒 を安麻背に手渡した。
これを喜んだ安麻背は、早速 自分の腰に付けていた山刀と長剣を取り替え、彌彦大神一行を迎えて贈られた美酒で乾杯した。
そして、彌彦大神は宴が盛り上がったころ合いを見て「これから浜辺に出て、差し上げた剣で貴方の素晴らしい腕前のほどを見せてほしい」と持ち掛けた。これに乗った安麻背は上機嫌で応じ、外に出て腕前のほどを見せようと腰の長剣を引き抜くと、波打ち際の大岩に向かって剣を振り下ろした。
すると、贈られた剣は根元から折れてしまい、安麻背が彌彦大神の計略に気付いた時には、彌彦大神の剣が安麻背の胸元に突き付けられており、観念した安麻背は易々と縄で縛り上げられてしまった。そこで、彌彦大神が安麻背を諭すと やがて改心し、遂には彌彦大神の家臣となった。
そして、安麻背は浜辺の開発と漁業の振興に励み、大いに栄えさせたという。
この当時、弥彦山裏側の海浜一帯には安麻背(あまぜ)という凶賊が蔓延っていた。安麻背は多くの部下を従えて近隣を荒らし回り、婦女を略奪することから、近隣の住民から恐れられていた。
なお、安麻背は身長が1丈6尺(約4.8m)もあり、海に飛び込んで素手で大魚を掴み取り、獣を素手で打ち殺すほど力が強かった。そこで、彌彦大神は何とかしようとして部下と相談し、安麻背をやり込めるための計略を練った。
安麻背が浜辺の岩屋で手下と酒盛りをしていたとき、彌彦大神は「大和朝廷より、越国の王である貴方に剣と酒を贈ろうと思う。この剣は特別に鍛えたものであり、刃の鋭さは大岩を断ち割り、荒波をも二つに分けるほど素晴らしい。また、この酒は特に醸した天下一の美酒である」と言い、一振りの長剣 と 香り高い美酒 を安麻背に手渡した。
これを喜んだ安麻背は、早速 自分の腰に付けていた山刀と長剣を取り替え、彌彦大神一行を迎えて贈られた美酒で乾杯した。
そして、彌彦大神は宴が盛り上がったころ合いを見て「これから浜辺に出て、差し上げた剣で貴方の素晴らしい腕前のほどを見せてほしい」と持ち掛けた。これに乗った安麻背は上機嫌で応じ、外に出て腕前のほどを見せようと腰の長剣を引き抜くと、波打ち際の大岩に向かって剣を振り下ろした。
すると、贈られた剣は根元から折れてしまい、安麻背が彌彦大神の計略に気付いた時には、彌彦大神の剣が安麻背の胸元に突き付けられており、観念した安麻背は易々と縄で縛り上げられてしまった。そこで、彌彦大神が安麻背を諭すと やがて改心し、遂には彌彦大神の家臣となった。
そして、安麻背は浜辺の開発と漁業の振興に励み、大いに栄えさせたという。
妻問石(口あけ石)
昔、今の寺泊地方の近辺に海賊が出没し、漁師や村人から船や金品を強奪するなど 大変迷惑な振る舞いをしていた。
そこで、これを恐れた人々が、大和から越後に派遣されていた彌彦大神に救いを求めると、大神は早速 海賊を征伐し、奪われた品々を村人たちに返してやった。
その品が海岸に山のように積まれたので、当時の寺泊地方は野積(のづみ)と名付けられたという。
なお、彌彦大神は大和を出る時に美しい后を残してきた。これは女は足手まといになるという理由からである。しかし、一人残された后は大神恋しさに大和から越後に向かい、野積の近くまで来ていた。
これを噂に聞いた彌彦大神は、越後平定の最中に后が来ることを拒み、居場所を知られる前に山中に隠れることにした。
そこで、山を登っていると一人のキコリに出くわした。彌彦大神は后は自分を追って来ることを予見していたが、このキコリに自分の居場所を話されては困ると思い、「私を訪ねてくる女が居るだろうが、絶対に話してはならぬ。もし、話そうものなら、お前を石に変えてしまうぞ」と脅かして山中に隠れた。
その2、3日後、案の定 后が大神の後を追って山に入り、そこで出会ったキコリに彌彦大神の行方を尋ねた。キコリは大神の忠告を恐れて話すのを躊躇したが、目の前で哀願している后の姿を気の毒に思い、遂に大神の居場所を話してしまった。
すると、キコリは后の目の前で たちまち石に変わってしまった。驚いた后は石に縋って詫びたが、石はただ転がっているばかりで元に戻ることは無かった。そのため、后は自分の行動を悔い、石の前に草庵を建てた。
そして、夫に会うことも無く、生涯キコリの霊を慰めて暮らすことにしたという。なお、この石は今も妻戸神社の一隅に置かれていると云われている。
そこで、これを恐れた人々が、大和から越後に派遣されていた彌彦大神に救いを求めると、大神は早速 海賊を征伐し、奪われた品々を村人たちに返してやった。
その品が海岸に山のように積まれたので、当時の寺泊地方は野積(のづみ)と名付けられたという。
なお、彌彦大神は大和を出る時に美しい后を残してきた。これは女は足手まといになるという理由からである。しかし、一人残された后は大神恋しさに大和から越後に向かい、野積の近くまで来ていた。
これを噂に聞いた彌彦大神は、越後平定の最中に后が来ることを拒み、居場所を知られる前に山中に隠れることにした。
そこで、山を登っていると一人のキコリに出くわした。彌彦大神は后は自分を追って来ることを予見していたが、このキコリに自分の居場所を話されては困ると思い、「私を訪ねてくる女が居るだろうが、絶対に話してはならぬ。もし、話そうものなら、お前を石に変えてしまうぞ」と脅かして山中に隠れた。
その2、3日後、案の定 后が大神の後を追って山に入り、そこで出会ったキコリに彌彦大神の行方を尋ねた。キコリは大神の忠告を恐れて話すのを躊躇したが、目の前で哀願している后の姿を気の毒に思い、遂に大神の居場所を話してしまった。
すると、キコリは后の目の前で たちまち石に変わってしまった。驚いた后は石に縋って詫びたが、石はただ転がっているばかりで元に戻ることは無かった。そのため、后は自分の行動を悔い、石の前に草庵を建てた。
そして、夫に会うことも無く、生涯キコリの霊を慰めて暮らすことにしたという。なお、この石は今も妻戸神社の一隅に置かれていると云われている。
参考:彌彦神社にまつわる伝説
十宝山の神鏡捜索の旅
神武天皇即位4年、彌彦大神は天皇より越後開拓の大任を任せられた。これにより、彌彦大神は大和から多数の部下を率いて天の鳥船に乗り、若狭湾より出て日本海を北上し、遂に越後の米水ヶ浦(寺泊町野積浜)に上陸した。
この時、彌彦大神は大和朝廷より天璽瑞宝(てんじずいほう 十種神宝)を預けられ、これを持参して上陸したという。
彌彦大神による越後開拓が一段落ついた時、天璽瑞宝を十宝山(とだからやま)の頂上に埋納しようと考え、この仕事を重臣の稚彦命(ワカヒコ)に命じた。
稚彦命は、長男の小稚彦(コワカヒコ)および家臣一同と共に十宝山に登り、その頂上に到ると、幾日も掛けて天璽瑞宝の埋納作業に従事した。遂に その作業も終わりに近づいた夜、宝物類の中でも最も大切な神鏡が無くなっている事が分かった。
これに驚いた稚彦命は、家臣一同と共に手分けして必死に探し廻ったが、神鏡は一向に見つからなかった。困り果てた稚彦命は一命をもって彌彦大神に詫びようと覚悟を決め、急いで下山して神鏡を失ったことを告げた。
すると、彌彦大神は稚彦命を論しながら「死んで詫びることは簡単であるが、そうしたところで大切な神鏡が見つかるワケではあるまい。また、汝は永年の間、私と共に越後開拓のために尽くした家臣である。よって、本日より暇を与えることにしよう。これより時間を惜しまず、念を入れて神鏡の行方を探し出すが良い」と命じた。
また、この神鏡捜索の旅に当たり、彌彦大神は稚彦命に一振りの神剣を授けた。これに稚彦命は畏まり、早速その足で長男の小稚彦を供にして、神鏡捜索の長い旅路に出発した。
これより十数年が経ったが、神鏡の捜索は進展することは無く、稚彦命はすっかり年老いて白髪になってしまった。その後、北辺の海浜に辿り着いた稚彦命は、疲労と悲しみのあまり ついに一軒の漁師の家で病の床に臥せてしまった。
そこで、稚彦命は長男の小稚彦を枕元に呼び寄せ、「私は この寂しい浜辺で志も空しく死んでいくが、お前は父に代わって神鏡を探し出し、弥彦で待っている大神にお届するのだ。そして、父の不忠を詫びると共に、父の分まで忠誠を尽くすように」と告げた。
小稚彦は、病床の父の看病を漁師夫妻に頼むと、大神より賜った神剣を背負って一人で神鏡捜索の旅に出発した。
その翌年の春のこと、山の麓の小屋に辿り着いた小稚彦は、疲労のあまり軒先で眠り込んでしまった。その夜、小稚彦が寝惚け眼を開くと、枕元に上品な白髪の老夫婦が座って泣いているのに気付いた。
驚いた小稚彦は「どうして、こんなところで泣いているのだ?」と尋ねると、老夫婦は「何を隠そう、私どもの正体は この先の山の頂上に棲む白鳥であります」と答えた。
また、続けて「私どもは貴方が探し求めている彌彦大神の神鏡の行方を知っています。その在処は この山の奥に潜んでいる大鷲が持っているのです」と告げた。
そこで、小稚彦が大鷲について尋ねると、老夫婦は「この大鷲は長年にわたって猛威を奮い、私たちの子や孫を年々喰い殺すような輩で大変困っております。そして、大神の大事な神鏡も、この大鷲が十宝山頂から盗み取って来たのであります」と答えた。
また、続けて「貴方が此処へ来られたことは、大神と病床に臥せている父上のお導きでしょう。どうぞ、この大鷲を征伐して神鏡を取り戻すと共に、長年苦しんできた私どもの難儀をお救いください」と涙ながらに懇願し、話し終わると姿を消してしまった。
そこではっきりと目覚めた小稚彦は、「今のは夢であろうか」と驚きつつ辺りを見渡すと、既に夜も明け始めた頃であり、上空には二羽の大白鳥が旋回し、あたかも道案内するかの様に円を描いて飛んでいた。
これを観た小稚彦は「これぞ正夢」と喜び勇み、すぐに身支度を整えて白鳥の後を追いかけた。そして、山奥の深く踏み入ると、やがて山頂の大岩に止まっている大鷲を見つけた。また、大鷲の周りをよく見ると、その巣の中に長年探し求めた神鏡の姿が目に入った。
これに勇躍した小稚彦は、彌彦大神より授けられた神剣を構えて大鷲に立ち向かい、激闘の末に遂に大鷲を退治した。そして、念願の神鏡を取り戻すことに成功した。
小稚彦は、歓喜の涙にくれる白鳥に見送られながら、病床の父の稚彦命の元に急いで帰り着いた。そこで、早速 取り戻した神鏡を見せたところ、その霊気によって稚彦命の病状も 忽ち良くなった。また、急ぎ弥彦の宮居へ帰り、この吉報を告げようとしたが、彌彦大神は既に現世を去った後であった。
そのため、稚彦命と小稚彦は見つけ出した神鏡を大神の御廟の前に供え、天地に向けて嘆き悲しんだ後、彌彦大神の命のままに十宝山の山頂深くに神鏡を埋納し、以後は末永く神鏡の守護に当たったと伝えられている。
この時、彌彦大神は大和朝廷より天璽瑞宝(てんじずいほう 十種神宝)を預けられ、これを持参して上陸したという。
彌彦大神による越後開拓が一段落ついた時、天璽瑞宝を十宝山(とだからやま)の頂上に埋納しようと考え、この仕事を重臣の稚彦命(ワカヒコ)に命じた。
稚彦命は、長男の小稚彦(コワカヒコ)および家臣一同と共に十宝山に登り、その頂上に到ると、幾日も掛けて天璽瑞宝の埋納作業に従事した。遂に その作業も終わりに近づいた夜、宝物類の中でも最も大切な神鏡が無くなっている事が分かった。
これに驚いた稚彦命は、家臣一同と共に手分けして必死に探し廻ったが、神鏡は一向に見つからなかった。困り果てた稚彦命は一命をもって彌彦大神に詫びようと覚悟を決め、急いで下山して神鏡を失ったことを告げた。
すると、彌彦大神は稚彦命を論しながら「死んで詫びることは簡単であるが、そうしたところで大切な神鏡が見つかるワケではあるまい。また、汝は永年の間、私と共に越後開拓のために尽くした家臣である。よって、本日より暇を与えることにしよう。これより時間を惜しまず、念を入れて神鏡の行方を探し出すが良い」と命じた。
また、この神鏡捜索の旅に当たり、彌彦大神は稚彦命に一振りの神剣を授けた。これに稚彦命は畏まり、早速その足で長男の小稚彦を供にして、神鏡捜索の長い旅路に出発した。
これより十数年が経ったが、神鏡の捜索は進展することは無く、稚彦命はすっかり年老いて白髪になってしまった。その後、北辺の海浜に辿り着いた稚彦命は、疲労と悲しみのあまり ついに一軒の漁師の家で病の床に臥せてしまった。
そこで、稚彦命は長男の小稚彦を枕元に呼び寄せ、「私は この寂しい浜辺で志も空しく死んでいくが、お前は父に代わって神鏡を探し出し、弥彦で待っている大神にお届するのだ。そして、父の不忠を詫びると共に、父の分まで忠誠を尽くすように」と告げた。
小稚彦は、病床の父の看病を漁師夫妻に頼むと、大神より賜った神剣を背負って一人で神鏡捜索の旅に出発した。
その翌年の春のこと、山の麓の小屋に辿り着いた小稚彦は、疲労のあまり軒先で眠り込んでしまった。その夜、小稚彦が寝惚け眼を開くと、枕元に上品な白髪の老夫婦が座って泣いているのに気付いた。
驚いた小稚彦は「どうして、こんなところで泣いているのだ?」と尋ねると、老夫婦は「何を隠そう、私どもの正体は この先の山の頂上に棲む白鳥であります」と答えた。
また、続けて「私どもは貴方が探し求めている彌彦大神の神鏡の行方を知っています。その在処は この山の奥に潜んでいる大鷲が持っているのです」と告げた。
そこで、小稚彦が大鷲について尋ねると、老夫婦は「この大鷲は長年にわたって猛威を奮い、私たちの子や孫を年々喰い殺すような輩で大変困っております。そして、大神の大事な神鏡も、この大鷲が十宝山頂から盗み取って来たのであります」と答えた。
また、続けて「貴方が此処へ来られたことは、大神と病床に臥せている父上のお導きでしょう。どうぞ、この大鷲を征伐して神鏡を取り戻すと共に、長年苦しんできた私どもの難儀をお救いください」と涙ながらに懇願し、話し終わると姿を消してしまった。
そこではっきりと目覚めた小稚彦は、「今のは夢であろうか」と驚きつつ辺りを見渡すと、既に夜も明け始めた頃であり、上空には二羽の大白鳥が旋回し、あたかも道案内するかの様に円を描いて飛んでいた。
これを観た小稚彦は「これぞ正夢」と喜び勇み、すぐに身支度を整えて白鳥の後を追いかけた。そして、山奥の深く踏み入ると、やがて山頂の大岩に止まっている大鷲を見つけた。また、大鷲の周りをよく見ると、その巣の中に長年探し求めた神鏡の姿が目に入った。
これに勇躍した小稚彦は、彌彦大神より授けられた神剣を構えて大鷲に立ち向かい、激闘の末に遂に大鷲を退治した。そして、念願の神鏡を取り戻すことに成功した。
小稚彦は、歓喜の涙にくれる白鳥に見送られながら、病床の父の稚彦命の元に急いで帰り着いた。そこで、早速 取り戻した神鏡を見せたところ、その霊気によって稚彦命の病状も 忽ち良くなった。また、急ぎ弥彦の宮居へ帰り、この吉報を告げようとしたが、彌彦大神は既に現世を去った後であった。
そのため、稚彦命と小稚彦は見つけ出した神鏡を大神の御廟の前に供え、天地に向けて嘆き悲しんだ後、彌彦大神の命のままに十宝山の山頂深くに神鏡を埋納し、以後は末永く神鏡の守護に当たったと伝えられている。
参考:彌彦神社にまつわる伝説
四足二足の肉
天香山命(アメノカゴヤマ)は、孝安天皇元年2月2日に亡くなり、弥彦山の山頂に葬られた。
ある時、第二世の五田根命(イツタネ)が墓所を参ると、白い鳥が稲穂を咥えて飛んで来た。また、もう一方から黒い鳥が鮮魚を咥えて飛んできて、共にお墓に供えて飛び去って行った。
これを見た五田根命は、「鳥たちにも心あり、父神の墓に供物を置いて行ったのだろう」と、鳥たちの優しい心根に感動し、これより四足二足(鳥類)の肉を食べないことに決めた。
近代まで、弥彦の社家や住民には肉や卵を食べない慣わしがあったのは、この話に由来するものと云われている。
ある時、第二世の五田根命(イツタネ)が墓所を参ると、白い鳥が稲穂を咥えて飛んで来た。また、もう一方から黒い鳥が鮮魚を咥えて飛んできて、共にお墓に供えて飛び去って行った。
これを見た五田根命は、「鳥たちにも心あり、父神の墓に供物を置いて行ったのだろう」と、鳥たちの優しい心根に感動し、これより四足二足(鳥類)の肉を食べないことに決めた。
近代まで、弥彦の社家や住民には肉や卵を食べない慣わしがあったのは、この話に由来するものと云われている。
参考:彌彦神社にまつわる伝説
津軽火の玉石
慶長年間(1596~1615年)のこと、弘前城主・津軽信牧(つがるのぶひら)が江戸から帰国する途中に佐渡沖合を通過していたところ、暴風雨に遭って大波に船が呑まれそうになった。
そこで、信牧は彌彦大神に救いを求めようと、弥彦山に向かって鳥居奉納を誓いながら祈願した。すると、海はたちまち静かになり、一行は無事に帰国することができた。
これ以来、毎年使者を送って礼参を続けていたが、鳥居奉納を行うことは無かった。それから時が経った ある日、毎夜のように、天守閣を中心に城内を二つの火の玉が唸り声を上げながら飛びまわるという怪異が起こるようになった。
これに驚いた信牧は、早速 城内を調べたところ、この二つの火の玉はちょうど大人の頭ほどの大きさの石であることが分かった。また この原因に心当たりは無いかと心中を探ると、彌彦大神に鳥居奉納の誓願を果たしていなかったことを思い出した。
そこで、早速 工事にかかり、元和3年(1617年)に完成した大鳥居を奉納したと伝わっている。
また、このとき同時に霊威を示した火の玉石も共に彌彦神社に納められた。これが現在でも見られる「火の玉石(重軽の石)」のことである。
そこで、信牧は彌彦大神に救いを求めようと、弥彦山に向かって鳥居奉納を誓いながら祈願した。すると、海はたちまち静かになり、一行は無事に帰国することができた。
これ以来、毎年使者を送って礼参を続けていたが、鳥居奉納を行うことは無かった。それから時が経った ある日、毎夜のように、天守閣を中心に城内を二つの火の玉が唸り声を上げながら飛びまわるという怪異が起こるようになった。
これに驚いた信牧は、早速 城内を調べたところ、この二つの火の玉はちょうど大人の頭ほどの大きさの石であることが分かった。また この原因に心当たりは無いかと心中を探ると、彌彦大神に鳥居奉納の誓願を果たしていなかったことを思い出した。
そこで、早速 工事にかかり、元和3年(1617年)に完成した大鳥居を奉納したと伝わっている。
また、このとき同時に霊威を示した火の玉石も共に彌彦神社に納められた。これが現在でも見られる「火の玉石(重軽の石)」のことである。
参考:彌彦神社にまつわる伝説
その他
・国学者の平田篤胤は「彌彦神社に聖徳太子が記した神代文字が存在する」と主張したが、その文書は焼失したと伝わる
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「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
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