人文研究見聞録:親鸞聖人清水 [新潟県]

新潟県西蒲原郡弥彦村にある親鸞聖人清水(しんらんしょうにんしみず)です。

伝説によれば、越後に配流になった親鸞聖人が杖で突いて湧き出させた清水であると伝えられています。


概要

人文研究見聞録:親鸞聖人清水 [新潟県]

浄土真宗の開祖・親鸞聖人(見真大師)は、承元元年(1207年)に起こった承元の法難(じょうげんのほうなん)に伴い、35歳の時に流罪を言い渡され、都を追われて現在の直江津市五智に流されたとされます。

越後国に住むことになった親鸞は、彌彦神社参拝の折に当時の庄屋・林部四郎治の宅に宿泊しましたが、当時の弥彦は水不足に悩まされており、宿泊先の老母がわざわざ付近の川まで行って水汲みしている姿を目にしたことで これを憐れんだそうです。

そこで、親鸞は林部宅の裏の竹林へ行き、その一隅を持参した杖で突いて仏に念じると、やがて清水がこんこんと湧き出てきたと伝えられており、これ以後 村人たちは この井戸を「聖人清水」と名付けて、現代まで語り継いできたとされています。

なお、現地の案内板では以下のように伝えられています(以下はいくつかある案内板の一つ)。

聖人清水

浄土真宗の開祖・親鸞聖人(しんらんしょうにん)が越後国配流中に弥彦神社に参拝して当家に宿泊し、家人の水に苦しむを憐れみ、所持の杖で家の裏の地を突いたら、この清水が湧き出たと伝えられる。

なお、同上人参拝の折、次の歌を詠んで神助を祈ったと言う。『願わくば 都の空に墨染の 袖吹き返せ 椎の下風』

親鸞聖人とは?

人文研究見聞録:親鸞聖人清水 [新潟県]
親鸞

親鸞(しんらん)とは、鎌倉前期~中期に活躍した日本の僧であり、一般的には浄土真宗の宗祖とされています。

9歳で出家し、青蓮院の慈円(じえん)の元で得度(出家の儀式)を受けたとされ、出家後は叡山(比叡山延暦寺)に登って天台宗の堂僧となり、不断念仏の修行をしたとされます。

しかし、叡山において20年にわたる自力修行をしたものの、これに限界を感じるようになり、29歳の時に叡山から下山して聖徳太子建立の六角堂にて後世の祈念の為の百日参籠したそうです。

この95日目に聖徳太子(救世菩薩の化身)が現れる霊夢を見た親鸞は、この夢の告げに従って東山吉水の法然(ほうねん)の草庵を訪ね、これを契機に法然の門弟となって浄土教の教えを受けたとされます。

これ以降、浄土宗の宗祖とされる法然を師と仰ぎ、継承した浄土教の教えを高めて布教することに尽力したそうです。

ですが、元久2年(1205年)に興福寺の衆徒により、朝廷に法然の提唱する専修念仏の禁止を求める『興福寺奏状』が提出され、加えて後鳥羽上皇が熊野詣に出かけている際、院の女房たちが法然門下の遵西・住蓮が開いた念仏法会に参加し、これによって出家して尼僧となってしまう事件が起こります。

このため、院の女房たちは遵西・住蓮と密通したという噂が流れ、これが上皇の怒りを買って、専修念仏の停止(ちょうじ)、西意善綽房・性願房・住蓮房・安楽房遵西の死罪、法然・親鸞を含む7名の弟子が流罪が命じられる「承元の法難(じょうげんのほうなん)」が起こることになったとされています。

これによって親鸞は越後国の国府への配流となり、以後しばらくは越後国での軟禁を強いられたそうです。その後、建暦元年(1211年)に入洛の許可が下りたものの、その翌年に師の法然が亡くなったため、京には戻らずに越後国および東国(関東)で浄土教の布教活動に尽力したとされます。

そして、晩年には京に戻って著作活動に励み、弘長2年(1262年)に実弟の尋有が院主を務める善法院にて、89歳で入滅したと伝えられています。

聖人清水の様子

人文研究見聞録:親鸞聖人清水 [新潟県]
石碑
人文研究見聞録:親鸞聖人清水 [新潟県]
井戸

聖人清水は、彌彦神社の南の「聖人坂」と呼ばれる小道に位置しています。

小道の脇に「親鸞聖人清水」という石碑が立っており、ここから中に入ると井戸を拝むことができます。

周辺には石碑や案内板が点在しており、案内板に紹介される井戸からは未だに水が湧き出ている様子が伺えます。

詳しい場所については「弥彦観光マップ」を参考にしてみてください。

料金: 無料
住所: 新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦(マップ
営業: 終日開放
交通: 弥彦駅(徒歩12分)
matapon
著者: matapon Twitter
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。