人文研究見聞録:宝光院 [新潟県]

新潟県西蒲原郡弥彦村にある宝光院(ほうこういん)です。

鎌倉時代に創建された真言宗の寺院であり、本尊に大日如来を祀っているとされています。

なお、境内の裏には「婆々杉」という古木があり、この杉には弥彦の悪鬼にまつわる伝説が語り継がれています。


縁起

鎌倉初期の建久6年(1196年)、源頼朝(みなもとのよりとも)の発願によって僧・禅朝が開基し、本尊に大日如来を祀ったことに始まるとされます。

なお、創建当初は龍池寺と称していたとされ、弥彦神社の別当である神宮寺が繁栄するに連れて次第に衰退し、やがて末寺の宝光院だけを残して廃寺となったそうです。

また、明治期には神仏分離令の影響で起こった廃仏毀釈運動によって衰退したとされ、その後は現在地に移されて再興したとされています。

本尊

・大日如来(だいにちにょらい):真言密教の教主であり、宇宙の実相を体現する根本仏とされる
 → 元神宮寺の本尊・阿弥陀如来像とされる

婆々杉

人文研究見聞録:宝光院 [新潟県]

宝光院の境内裏にある婆々杉(ばばすぎ)です。

推定樹齢1000年、樹高40m、幹周10mの古木であり、現在は新潟県の天然記念物に指定されています。

なお、この婆々杉には以下のような謂れがあるそうです。

妙多羅天女と婆々杉

彌彦神社の北の宝光院の阿弥陀堂に安置される妙多羅天女像(みょうたらてんにょぞう)には、このような謂れがある。

この妙多羅天女は、彌彦神社の鍛匠(鍛冶職の家柄)の黒津弥三郎の祖母であったという。なお、黒津家は彌彦大神の来臨に随従して紀州熊野から当地に移り、代々鍛匠として神社に奉仕した古い家柄であった。

白河院の御代である承暦3年(1079年)のこと、彌彦神社の造営の際に上棟式の日取りについて鍛匠と工匠の間で争いが起こった。その結果、弥彦庄司・吉川宗方によって、工匠は第1日、鍛匠は第2日に奉仕すべしとの決定が下された。

これを知った黒津弥三郎の祖母は工匠を怨み、その怨念が悪鬼に変じて吉川宗方や工匠に祟りを為した。また、悪鬼となった祖母は留まることを知らず、さらに方々を飛び歩いて悪行を重ねたという。

その後、悪鬼は弥三郎が狩りから帰ってくるところを待ちうけて、その獲物を奪おうとすると右腕を切り落とされてしまった。また、悪鬼は家に帰って弥三郎の長男・弥次郎をさらおうとしたところ、弥三郎に発見されて未遂に終わった。

このことから、姿を消した祖母はさらに物々しいの姿となり、雲を呼び、風を起こして、天高く飛び去った。なお、これ以後は、佐渡の金北山、蒲原の古津、加賀の白山、越中の立山、信州の浅間山など、諸国を自由に飛んで悪行の限りを尽くし、「弥彦の鬼婆」と呼ばれて人々に恐れられたという。

それから80年の歳月を経た保元元年(1156年)のこと、当時の弥彦で評判高い高僧の典海大僧正が、山の麓の大杉の根方に横たわっている老婆を見つけた。典海は老婆の異様な形態を怪しく思って話しかけると、それは弥三郎の祖母であるということが分かった。

これに驚いた典海大僧正は、老婆に善心を取り戻させるべく説教を始め、さらに「秘密の印璽」と「妙多羅天女」の称号を与えることにした。すると、この説教を受け入れた老婆は「今からは神仏の道を護る天女となり、以後は世の悪人を戒め、善人を守り、幼い子らを守り育てることに尽力しよう」との大誓願を立て、神通力を発揮して誓願の通りに働いたという。

その後、妙多羅天女は大杉の根元を居に定め、悪人と称された者たちが死ぬと、その死体や衣類を奪って大杉の枝に掛け、世人の見せしめにしたと云われ、この大杉も「婆々杉」と呼ばれるようになったと云う。

また、弥彦山の山頂付近には老婆の仮住居の跡と云われる「婆々欅(ばばけやき)」や、老婆が この世を去ったと云われる「宮多羅(みやたら)」という地もあり、婆々欅は弥彦の農民が雨乞祈願するときには必ず鉈目を入れたと云われている。

参考:地名の云われに関する伝説

料金: 無料
住所: 新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦2860-2(マップ
営業: 終日開放
交通: 弥彦駅(徒歩15分)
matapon
著者: matapon Twitter
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。