平潟神社(智慶様) [新潟県]
2016/07/31
新潟県長岡市にある平潟神社(ひらかたじんじゃ)です。
諏訪大社の祭神・建御名方富命(タケミナカタ)を祀る神社であり、「平潟諏訪神社」とも表記されるそうです。
また、かつて存在した別当寺・智慶院の名から、「智慶様」とも呼ばれています。
神社概要
由緒
参拝のしおりによれば、当社は聖武天皇の御代である天平年間(奈良時代)であるとされ、古来より当地を"平潟"と称しており、当地の鎮守に諏訪大明神(建御名方富命)を奉斎し、"平潟殿"と崇めたことから社名が生じたとされています。
なお、天平8年(736年)に僧・行基(ぎょうき)が北陸を巡錫していたところ、当地で疫病が流行っていたことから、自作の普賢菩薩像を鎮守神として奉納し、疫病の退散を祈念したという記録も残っているそうです。
また、中世には上杉謙信及び上杉景勝の尊崇篤かったとされ、かつては長岡停車場付近に鎮座していたものの、慶長10年(1605年)に堀氏の築城計画の一環として現在地に移転したとされます。
また、江戸時代の元和4年(1618年)に堀氏が村松藩に移封し、越後長岡藩に牧野氏が入封した後には、当社は長岡藩の祈願所となり、元禄年中には藩命により古志郡高畑村の青木諏訪社が合祀され、信濃国の諏訪本社の取次と社とされたそうです。
そして、現在では「長岡の氏神様」として崇められ、年末年始や夏の大祭りには多数の参拝者で賑わうとされています。なお、かつては智慶院という当山派修験道の別当寺を持っていたことから、「智慶様(ちけんさま)」という俗称もあるようです。
祭神
平潟神社の祭神は以下の通りです。
主祭神
・建御名方富命(タケミナカタ):諏訪大神、諏訪大明神とも呼ばれ、諏訪大社の主祭神として有名
→ 当社では「武勇の神」「開拓の神」「水の守護神」として祀られる
⇒ これらのことから「生きとし生けるもののの命の親神」として崇められているという
→ 『古事記』によれば、大国主の子神であり、事代主神の弟神に当たるとされる
⇒ 当社の資料によれば、大国主命と沼河姫命の子神であり、八坂刀売命を后神とするとされる
・建御名方富命(タケミナカタ):諏訪大神、諏訪大明神とも呼ばれ、諏訪大社の主祭神として有名
→ 当社では「武勇の神」「開拓の神」「水の守護神」として祀られる
⇒ これらのことから「生きとし生けるもののの命の親神」として崇められているという
→ 『古事記』によれば、大国主の子神であり、事代主神の弟神に当たるとされる
⇒ 当社の資料によれば、大国主命と沼河姫命の子神であり、八坂刀売命を后神とするとされる
建御名方富命(タケミナカタ)について
タケミナカタは、諏訪大社の主祭神として有名な神であり、別名「諏訪大神(すわおおかみ)」「諏訪大明神(すわだいみょうじん)」「南方刀美神(ミナカタトミ)」などと呼ばれています。
『記紀』においては『古事記』にのみ登場しており、「葦原中国平定(国譲り神話)」の際に国譲りに反対してタケミカヅチと争ったものの、あっさりと負けてしまい、諏訪まで追い詰められた際に天津神に従い、当地に留まって外に出ないことを誓ったとされています。
しかし、「日本神話」におけるタケミナカタの情報は少なく、いくつかの文献で扱われてはいるものの、詳しい系譜や来歴などは よく分かっていません。なお、平潟神社の資料によれば、以下のように説明されています。
御祭神御事歴
建御名方富命(タケミナカタ)は諏訪大神(すわおおかみ)とも申し上げ、大国主命(オオクニヌシ)と奴奈川姫命(ヌナカワヒメ)の御子である。
太古の天孫降臨以前に、大国主命が出雲国で この大八州(日本列島)を統一して治めていた時、兄神の事代主命(コトシロヌシ)と共に父神を助けて政治を行い、特に軍務を受け以って大功を立てた。
後に后神の八坂刀売命(ヤサカトメ)と共に一族を率いて信州に渡り、この地を開拓した。当地の民は この事業について深く感謝し、この徳を後世に伝えるために、社殿を造営して祭祀を行うようになった。
なお、平潟神社においては「武勇の神」「開拓の神」と崇められ、また「水の御守護神」ということから「生きとし生けるもののの命の親神」として信仰を集めている。
また、建御名方富命の御神徳は「農耕・機織の道」をはじめ、「林業・治水・商業・土木・建築・交通・運輸」「あらゆる殖産興業」「学業」であり、これらの大御稜威(おおみいつ)を垂れさせ給う大神である。
※多少加筆修正しています(参考:平潟神社資料、御参拝のしおり)
建御名方富命(タケミナカタ)は諏訪大神(すわおおかみ)とも申し上げ、大国主命(オオクニヌシ)と奴奈川姫命(ヌナカワヒメ)の御子である。
太古の天孫降臨以前に、大国主命が出雲国で この大八州(日本列島)を統一して治めていた時、兄神の事代主命(コトシロヌシ)と共に父神を助けて政治を行い、特に軍務を受け以って大功を立てた。
後に后神の八坂刀売命(ヤサカトメ)と共に一族を率いて信州に渡り、この地を開拓した。当地の民は この事業について深く感謝し、この徳を後世に伝えるために、社殿を造営して祭祀を行うようになった。
なお、平潟神社においては「武勇の神」「開拓の神」と崇められ、また「水の御守護神」ということから「生きとし生けるもののの命の親神」として信仰を集めている。
また、建御名方富命の御神徳は「農耕・機織の道」をはじめ、「林業・治水・商業・土木・建築・交通・運輸」「あらゆる殖産興業」「学業」であり、これらの大御稜威(おおみいつ)を垂れさせ給う大神である。
※多少加筆修正しています(参考:平潟神社資料、御参拝のしおり)
末社
平潟神社の末社です。
明治30年(1897年)に建立され、昭和20年(1945年)の第二次世界大戦の折に戦災によって焼失したものの、その翌年に社殿が奉納されて再建に至ったとされています。なお、各社の由緒および祭神は以下の通りです。
【由緒】
・気比貴神社:昔は城内に鎮座していたが、明治2年(1869年)に藩主により遷座
・稲荷神社:元和御入部の時に藩中・武三右ェ門により遷座
・天満宮:長岡草間茂一郎の先祖により伝像
・その他:昭和47年(1972年)に金刀比羅神社・厳島神社・松尾神社・淡島神社・大国主神社・蒼曾神社を合祀
【祭神】
・淡島様(スクナヒコナ):淡島神社祭神
・龍神様
・金刀比羅様(オオモノヌシ):金刀比羅神社祭神
・稲荷様(ウカノミタマ):稲荷神社祭神
・天満天神様(菅原道真公):天満宮祭神
・気比貴神社:昔は城内に鎮座していたが、明治2年(1869年)に藩主により遷座
・稲荷神社:元和御入部の時に藩中・武三右ェ門により遷座
・天満宮:長岡草間茂一郎の先祖により伝像
・その他:昭和47年(1972年)に金刀比羅神社・厳島神社・松尾神社・淡島神社・大国主神社・蒼曾神社を合祀
【祭神】
・淡島様(スクナヒコナ):淡島神社祭神
・龍神様
・金刀比羅様(オオモノヌシ):金刀比羅神社祭神
・稲荷様(ウカノミタマ):稲荷神社祭神
・天満天神様(菅原道真公):天満宮祭神
境内の見どころ
鳥居
平潟神社の鳥居です。
社殿
平潟神社の社殿です。
神輿
平潟神社の神輿です。
末社
平潟神社の末社です。
内部には人形が奉納されており、天井には格子絵が描かれています。
なお、人形についての詳しい説明はありませんでした(淡島神社関連でしょうか?)。
忠烈靖魂碑
平潟神社にある忠烈靖魂碑です。
日清・日露戦争の忠霊碑であると思われます。
スポンサーリンク
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
スポンサーリンク
コメント
0 件のコメント :
コメントを投稿