飛鳥寺(法興寺・元興寺・安居院) [奈良県]
2016/09/18
奈良県の明日香村にある飛鳥寺(あすかでら)です。
6~7世紀頃の創建とされる蘇我氏の氏寺であり、日本最初の本格的寺院であったとされます。
また、本尊は飛鳥大仏の名で知られる釈迦如来像であり、『日本書紀』にも鳥仏師の造立という記録があります。
寺院概要
縁起
案内板によれば、飛鳥寺は崇峻天皇元年(588年)に蘇我馬子(そがのうまこ)が発願し、推古天皇4年(596年)に創建に至ったとされる蘇我氏の氏寺であり、明日香村豊浦の豊浦寺(向原寺)と並んで日本最古の本格的仏教寺院であるとされています。
また、飛鳥寺の発願から創建に至るまでの過程は、『日本書紀』『元興寺縁起』および「露盤銘」「丈六光銘」の銘文などに記されています(内容は資料によって多少異なる)。
なお、案内板による飛鳥寺の説明は以下の通りです。
飛鳥寺略縁起
当寺は第32代崇峻天皇元年(588年)に蘇我馬子が発願し、第33代推古天皇4年(596年)に創建された日本最初の寺であり、寺名を"法興寺(ほうこうじ)・元興寺(がんこうじ)・飛鳥寺(あすかでら)"という。
昭和31年(1956年)の発掘調査により、創建時の寺は塔を中心に東西と北に それぞれ金堂を配する"日本最初の本格的寺院"で、その外側に回廊を巡らせ、さらに講堂を含む壮大な伽藍であったことが分かった。
本尊の飛鳥大仏(釈迦如来坐像)は、推古天皇17年(609年)に天皇が詔によって鞍作鳥(くらつくりのとり)に造らせた日本最古の仏像である。
旧伽藍は仁和3年(887年)と建久7年(1196年)に火災によって焼失し、室町以降は荒廃したが、寛永9年(1632年)と真言宗豊山派に属し、新西国三十三箇所霊場の第9番札所、聖徳太子霊跡の第11番札所となっている。
※案内板にある縁起を加筆修正しています。
当寺は第32代崇峻天皇元年(588年)に蘇我馬子が発願し、第33代推古天皇4年(596年)に創建された日本最初の寺であり、寺名を"法興寺(ほうこうじ)・元興寺(がんこうじ)・飛鳥寺(あすかでら)"という。
昭和31年(1956年)の発掘調査により、創建時の寺は塔を中心に東西と北に それぞれ金堂を配する"日本最初の本格的寺院"で、その外側に回廊を巡らせ、さらに講堂を含む壮大な伽藍であったことが分かった。
本尊の飛鳥大仏(釈迦如来坐像)は、推古天皇17年(609年)に天皇が詔によって鞍作鳥(くらつくりのとり)に造らせた日本最古の仏像である。
旧伽藍は仁和3年(887年)と建久7年(1196年)に火災によって焼失し、室町以降は荒廃したが、寛永9年(1632年)と真言宗豊山派に属し、新西国三十三箇所霊場の第9番札所、聖徳太子霊跡の第11番札所となっている。
※案内板にある縁起を加筆修正しています。
山門前の案内板による解説
現在の本堂は、古の中金堂(一塔三金堂)の位置に相当し、本尊・飛鳥大仏は1390余年の間 そのまま座しているのは奇跡の存在といえる。平安期までは繁栄していたが、中世の火災によって自然が崩壊したため、境内は1/20に縮小されたという。
聖徳太子は橘の藁小屋で生まれ、大陸の先生に先進国の学問を受け、その粋を取って国民を守るべき十七条憲法を示し、当寺の本尊・飛鳥大仏に誓ったといい、蘇我馬子が(物部守屋との)決戦の暁に強引に飛鳥寺の建造に着手したことは、必然的に飛鳥文化の扉を開く固い約束となったといえよう。
仏法最初という寺がいくつかあるが、その中でもシルクロードの終点といわれる寺の中で、飛鳥寺こそ この終着点であり、日本の起点になったことは まず疑いのない事実である。また、太子の師・恵慈、慧聡が都の本格的な寺である飛鳥寺に住んだことも感激すべき事実である。云々
※案内板にある解説を加筆修正しています。
現在の本堂は、古の中金堂(一塔三金堂)の位置に相当し、本尊・飛鳥大仏は1390余年の間 そのまま座しているのは奇跡の存在といえる。平安期までは繁栄していたが、中世の火災によって自然が崩壊したため、境内は1/20に縮小されたという。
聖徳太子は橘の藁小屋で生まれ、大陸の先生に先進国の学問を受け、その粋を取って国民を守るべき十七条憲法を示し、当寺の本尊・飛鳥大仏に誓ったといい、蘇我馬子が(物部守屋との)決戦の暁に強引に飛鳥寺の建造に着手したことは、必然的に飛鳥文化の扉を開く固い約束となったといえよう。
仏法最初という寺がいくつかあるが、その中でもシルクロードの終点といわれる寺の中で、飛鳥寺こそ この終着点であり、日本の起点になったことは まず疑いのない事実である。また、太子の師・恵慈、慧聡が都の本格的な寺である飛鳥寺に住んだことも感激すべき事実である。云々
※案内板にある解説を加筆修正しています。
本尊
・飛鳥大仏(あすかだいぶつ):609年に推古天皇の勅命により、鞍作止利が造った釈迦如来坐像とされる
→ 『日本書紀』によれば606年、『元興寺縁起』によれば609年に完成したとされる(後者が通説)
→ 銅像であり、重要文化財に指定されている
⇒ 高さ:約3メートル(275.2センチメートル)
⇒ 素材:銅15トン、黄金30キログラム
→ 本尊だが撮影可能である
⇒ 寺内では、住職による説明が受けられる
→ 『日本書紀』によれば606年、『元興寺縁起』によれば609年に完成したとされる(後者が通説)
→ 銅像であり、重要文化財に指定されている
⇒ 高さ:約3メートル(275.2センチメートル)
⇒ 素材:銅15トン、黄金30キログラム
→ 本尊だが撮影可能である
⇒ 寺内では、住職による説明が受けられる
関連知識
文献に載っている飛鳥寺の縁起
『日本書紀』と『元興寺縁起』に載っている飛鳥寺の縁起は以下の通りです。
『日本書紀』による飛鳥寺の縁起
・用明天皇2年(587年)、天皇は病に罹ったことから仏法に帰依すると詔し、これについて諸臣に協議させた
・天皇の帰依を巡り、反対派の物部大連・中臣連と賛成派の蘇我大臣(蘇我馬子)との間で争いが生じた
・この年、天皇の病が悪化したことを受けて、蘇我馬子が"出家して仏法を行い、寺と仏像を作る"と発願した
・この後、蘇我大臣は物部大連を滅ぼすために軍を起こし、物部大連一族の軍と衝突した(丁未の乱)
・戦で劣勢だったため、聖徳太子は四天王寺建立を誓い、蘇我馬子も寺を建てて仏法を広めると誓って戦勝を祈願した
・丁未の乱で物部大連を倒すと、聖徳太子は摂津国に四天王寺を建て、蘇我馬子は飛鳥に法興寺を建て始めた
・崇峻天皇元年(588年)、飛鳥衣縫造の祖の樹葉(このは)家を壊して法興寺を造り始めた
・崇峻天皇5年(592年)、法興寺の金堂と回廊が完成した
・推古天皇元年(593年)、仏舎利を法興寺の塔の心礎に安置し、翌日に塔の心柱を建てた
・推古天皇4年(596年)、法興寺が完成したため、蘇我馬子の子・善徳が寺司となり、慧慈・慧聡が居住した
・推古天皇14年(596年)、銅の丈六の仏像が完成したため、元興寺の金堂に安置した
※飛鳥寺にまつわる記事を抜粋しています
・用明天皇2年(587年)、天皇は病に罹ったことから仏法に帰依すると詔し、これについて諸臣に協議させた
・天皇の帰依を巡り、反対派の物部大連・中臣連と賛成派の蘇我大臣(蘇我馬子)との間で争いが生じた
・この年、天皇の病が悪化したことを受けて、蘇我馬子が"出家して仏法を行い、寺と仏像を作る"と発願した
・この後、蘇我大臣は物部大連を滅ぼすために軍を起こし、物部大連一族の軍と衝突した(丁未の乱)
・戦で劣勢だったため、聖徳太子は四天王寺建立を誓い、蘇我馬子も寺を建てて仏法を広めると誓って戦勝を祈願した
・丁未の乱で物部大連を倒すと、聖徳太子は摂津国に四天王寺を建て、蘇我馬子は飛鳥に法興寺を建て始めた
・崇峻天皇元年(588年)、飛鳥衣縫造の祖の樹葉(このは)家を壊して法興寺を造り始めた
・崇峻天皇5年(592年)、法興寺の金堂と回廊が完成した
・推古天皇元年(593年)、仏舎利を法興寺の塔の心礎に安置し、翌日に塔の心柱を建てた
・推古天皇4年(596年)、法興寺が完成したため、蘇我馬子の子・善徳が寺司となり、慧慈・慧聡が居住した
・推古天皇14年(596年)、銅の丈六の仏像が完成したため、元興寺の金堂に安置した
※飛鳥寺にまつわる記事を抜粋しています
『元興寺縁起』による飛鳥寺の縁起
・欽明天皇戊午年(538年)、百済の聖明王より仏像・仏具・仏典が献上され、大倭国(日本)に仏法が伝えられた
・諸臣が仏法に反対する中、蘇我稲目のみが賛成したことにより、牟久原の後宮(向原寺)が礼拝所となった
・仏法が伝えられた翌年より、疫病や災害が多発したことから仏法は禁じられた
・稲目は仏法の禁止に表向き従ったが、勅許を受けて密かに仏神への礼拝を続けた
・稲目は死の間際、孫に当たる池辺皇子(用明天皇)・大々王(推古天皇)に仏法を守るべしとの遺言を残して没した
・敏達天皇辛丑年(581年)、池辺皇子・大々王の計らいによって牟久原殿の楷井に桜井道場が設けられた
・蘇我馬子(稲目の子)は、占いで国内の災いが仏神の心であることを知り、仏法を広めようとした
・当時、播磨国の按師首達等の娘3人が仏法を学んでおり、出家を願ったことから尼僧にして桜井道場に住まわせた
・用明天皇丁未年(587年)、尼僧が仏法の本戒を受けたいと願ったので、仏法に倣って法師寺と僧を設けることにした
・用明天皇の勅命により、馬屋門皇子(聖徳太子)と蘇我馬子が法師寺を造る場所を見定めた
・用明天皇は百済に使者を出し、法師らと寺を造る工人を求めた
・崇峻天皇戊申年(588年)、百済より6人の僧と4人の工人が派遣され、金堂の模型が献上された
・この年、聡耳皇子(聖徳太子)と蘇我馬子は工人らに法師寺の寺木を組ませた
・推古天皇癸丑年(593年)、天皇は聖徳太子に豊浦宮を寺にして小治田に遷宮する旨を伝えた
・この年、金堂や礼仏堂などが完成したことにより、豊浦宮が寺となって豊浦寺と名付けられた
・推古天皇丙辰年11月(596年)、元興寺(飛鳥寺)が建てられた(元興寺の名は元は桜井道場を指すとされる)
・完成後に聖徳太子・推古天皇によって発願が述べられると、地震・雷・大雨が起こって国内が悉く浄化されたという
・この際、仏法に反対していた中臣連・物部連らも三宝を敬い、大倭国の神と共に仏神を尊重することを誓ったとされる
※内容を抜粋しています。詳しくは参考サイトを参照してください
参考サイト:元興寺伽藍縁起并流記資財帳(訳文)
・欽明天皇戊午年(538年)、百済の聖明王より仏像・仏具・仏典が献上され、大倭国(日本)に仏法が伝えられた
・諸臣が仏法に反対する中、蘇我稲目のみが賛成したことにより、牟久原の後宮(向原寺)が礼拝所となった
・仏法が伝えられた翌年より、疫病や災害が多発したことから仏法は禁じられた
・稲目は仏法の禁止に表向き従ったが、勅許を受けて密かに仏神への礼拝を続けた
・稲目は死の間際、孫に当たる池辺皇子(用明天皇)・大々王(推古天皇)に仏法を守るべしとの遺言を残して没した
・敏達天皇辛丑年(581年)、池辺皇子・大々王の計らいによって牟久原殿の楷井に桜井道場が設けられた
・蘇我馬子(稲目の子)は、占いで国内の災いが仏神の心であることを知り、仏法を広めようとした
・当時、播磨国の按師首達等の娘3人が仏法を学んでおり、出家を願ったことから尼僧にして桜井道場に住まわせた
・用明天皇丁未年(587年)、尼僧が仏法の本戒を受けたいと願ったので、仏法に倣って法師寺と僧を設けることにした
・用明天皇の勅命により、馬屋門皇子(聖徳太子)と蘇我馬子が法師寺を造る場所を見定めた
・用明天皇は百済に使者を出し、法師らと寺を造る工人を求めた
・崇峻天皇戊申年(588年)、百済より6人の僧と4人の工人が派遣され、金堂の模型が献上された
・この年、聡耳皇子(聖徳太子)と蘇我馬子は工人らに法師寺の寺木を組ませた
・推古天皇癸丑年(593年)、天皇は聖徳太子に豊浦宮を寺にして小治田に遷宮する旨を伝えた
・この年、金堂や礼仏堂などが完成したことにより、豊浦宮が寺となって豊浦寺と名付けられた
・推古天皇丙辰年11月(596年)、元興寺(飛鳥寺)が建てられた(元興寺の名は元は桜井道場を指すとされる)
・完成後に聖徳太子・推古天皇によって発願が述べられると、地震・雷・大雨が起こって国内が悉く浄化されたという
・この際、仏法に反対していた中臣連・物部連らも三宝を敬い、大倭国の神と共に仏神を尊重することを誓ったとされる
※内容を抜粋しています。詳しくは参考サイトを参照してください
参考サイト:元興寺伽藍縁起并流記資財帳(訳文)
鞍作鳥(止利仏師)とは?
鞍作止利(くらつくりのとり)とは、鳥仏師(とりぶっし)とも呼ばれる飛鳥時代の渡来系の仏師であり、"飛鳥寺の飛鳥大仏"や"法隆寺の釈迦三尊像"など飛鳥時代を代表する仏像を造ったことで知られています。
飛鳥時代で唯一名前の残っている仏師であるため、飛鳥時代に造立された仏像で作者が分かっているものは、全て鳥仏師の作とされるそうです。なお、『日本書紀』には以下のような記述があります。
『日本書紀』における鳥仏師
・推古天皇13年(605年)、天皇は誓願を発した際、鞍作鳥に一丈六尺の金銅仏と繍仏を各1体ずつ制作することを命じた
・推古天皇14年(606年)、仏像が完成し、一丈六尺の金銅仏を元興寺の金堂に安置することになった
→ 仏像が金堂の戸よりも高くて入らなかったが、鞍作鳥の知恵によって戸を壊さずに仏像を入れることができた
→ この功績により、鞍作鳥は大仁の冠位と、近江国坂田に水田20町を与えられたという
・推古天皇13年(605年)、天皇は誓願を発した際、鞍作鳥に一丈六尺の金銅仏と繍仏を各1体ずつ制作することを命じた
・推古天皇14年(606年)、仏像が完成し、一丈六尺の金銅仏を元興寺の金堂に安置することになった
→ 仏像が金堂の戸よりも高くて入らなかったが、鞍作鳥の知恵によって戸を壊さずに仏像を入れることができた
→ この功績により、鞍作鳥は大仁の冠位と、近江国坂田に水田20町を与えられたという
境内・寺内の見どころ
山門
飛鳥寺の山門です。
本堂
飛鳥寺の本堂です。
江戸末期の文政8年(1825年)に、大坂の篤志家の援助で再建されたものとされています。
飛鳥大仏
飛鳥寺の本尊である飛鳥大仏(釈迦如来坐像)です。
本尊としては珍しく撮影自由であり、仏像前では定期的に解説が行われています。
なお、釈迦如来像としてはデザインが珍しく、以下のような特徴があるとされます。
飛鳥大仏の特徴
・顔が半面で異なる
・開眼像(通常は半目像)
・通常の像より首が長い
・インド風であり、ギリシアの影響を受けたとされる
・当時より、全く動いてないとされる(少し斜めを向いている)
・当時は釈迦三尊像だったとされる(脇侍は現存していない)
・鎌倉時代に寺院が全焼した時、飛鳥大仏だけは残った(明日香村の村民が保護)
・いくつか傷がある(類焼もしくは保護時に傷付いたとされる)
・後世の補修を受けており、オリジナルと後補の部分については諸説ある
・顔が半面で異なる
・開眼像(通常は半目像)
・通常の像より首が長い
・インド風であり、ギリシアの影響を受けたとされる
・当時より、全く動いてないとされる(少し斜めを向いている)
・当時は釈迦三尊像だったとされる(脇侍は現存していない)
・鎌倉時代に寺院が全焼した時、飛鳥大仏だけは残った(明日香村の村民が保護)
・いくつか傷がある(類焼もしくは保護時に傷付いたとされる)
・後世の補修を受けており、オリジナルと後補の部分については諸説ある
聖徳太子孝養像
飛鳥寺にある聖徳太子孝養像(しょうとくたいしきょうようぞう)です。
聖徳太子が16歳の頃の姿であり、父・用明天皇の病気回復を祈願をしている像とされています。
阿弥陀如来坐像
飛鳥寺にある阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう)です。
像の写実的表現は、藤原の特色を伝えているとされます。
思惟殿
飛鳥寺の思惟殿(しゆいでん)です。
中に聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)が祀られています。
地蔵堂(飛鳥寺地蔵尊)
飛鳥寺の地蔵堂です。
中に地蔵菩薩(じぞうぼさつ)が祀られています。
塔心礎跡
飛鳥寺の塔心礎跡(とうしんそあと)です。
碑の地下3メートルに位置しており、案内板によれば以下のような歴史があるとされます。
塔心礎位置
・推古元年(593年)正月15日、舎利を心礎に納める
・翌日、心柱を心礎の上に建てる
・推古4年(596年)、塔が完成する
・建久7年(1196年)、落雷のために焼失
・心礎は一辺2.4メートルで、その中央に一辺1.6メートルの方形が彫られている
・焼失後の舎利は一度掘り出され、舎利容器と共に木簡に入れられて再び地中に収められたとされる
・心礎の周辺からは管玉・小玉・鈴・馬鈴などが発掘され、出土物から塔の建立時期は古墳時代後期と推定される
・推古元年(593年)正月15日、舎利を心礎に納める
・翌日、心柱を心礎の上に建てる
・推古4年(596年)、塔が完成する
・建久7年(1196年)、落雷のために焼失
・心礎は一辺2.4メートルで、その中央に一辺1.6メートルの方形が彫られている
・焼失後の舎利は一度掘り出され、舎利容器と共に木簡に入れられて再び地中に収められたとされる
・心礎の周辺からは管玉・小玉・鈴・馬鈴などが発掘され、出土物から塔の建立時期は古墳時代後期と推定される
万葉池
飛鳥寺の万葉池(まんよういけ)です。
郵便ポスト
飛鳥寺の境内には郵便ポストがあります。
飛鳥の蘇
飛鳥寺の前の土産屋では、古代のチーズとされる飛鳥の蘇(あすかのそ)が販売されています。
詳しくはこちらの記事を参照:【飛鳥の蘇】
蘇我入鹿の首塚
飛鳥寺の西門の先には、乙巳の変で倒された蘇我入鹿の首塚があります。
詳しくはこちらの記事を参照:【蘇我入鹿の首塚】
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「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
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