甘樫坐神社 [奈良県]
2016/09/07
奈良県高市郡明日香村にある甘樫坐神社(あまかしにますじんじゃ)です。
甘樫丘の麓に鎮座しており、年代は不明なものの、武内宿禰の創建と伝えられることから相当古い神社であると思われます。
また、毎年4月には「盟神探湯神事」という古代の呪術的裁判に倣った神事が行われているそうです。
神社概要
由緒
武内宿禰(たけうちのすくね)によって創建されたと伝えられる古社であり、毎年4月に境内にある立石の前に釜を据え、煮え湯の中に手を突っ込んで真偽を判断するという「盟神探湯神事(くがたちしんじ)」が行われるとされます。
なお、文献における当社の記録については、『日本三代実録』の貞観元年(859年)正月27日条に「従五位下甘樫神に従五位上の神階を授ける」という記述があり、『延喜式神名帳』には「大和国高市郡 甘樫坐神社四座」と記載されているそうです。
祭神
甘樫坐神社の祭神は以下の通りです。
主祭神
・推古天皇(すいこてんのう):第33代天皇。女帝であり、聖徳太子を摂政とした
→ 江戸時代以降の祭神と推定される
相殿
・八幡宮(はちまんぐう)
・春日大明神(かすがだいみょうじん):春日大社の神
・天照皇大神(アマテラス):伊勢神宮(内宮)の神
・八咫烏神(ヤタガラス)
・住吉大明神(すみよしだいみょうじん):住吉大社の神
・熊野権現(くまのごんげん):熊野三山の神
『延喜式』『五郡神社記』(本来の祭神)
・八十禍津日神(ヤソマガツヒ):イザナギの禍から化成した神
・大禍津日神(オオマガツヒ):同上
・神直日神(カムナオビ):同上
・大直日神(オオナオビ):同上
・推古天皇(すいこてんのう):第33代天皇。女帝であり、聖徳太子を摂政とした
→ 江戸時代以降の祭神と推定される
相殿
・八幡宮(はちまんぐう)
・春日大明神(かすがだいみょうじん):春日大社の神
・天照皇大神(アマテラス):伊勢神宮(内宮)の神
・八咫烏神(ヤタガラス)
・住吉大明神(すみよしだいみょうじん):住吉大社の神
・熊野権現(くまのごんげん):熊野三山の神
『延喜式』『五郡神社記』(本来の祭神)
・八十禍津日神(ヤソマガツヒ):イザナギの禍から化成した神
・大禍津日神(オオマガツヒ):同上
・神直日神(カムナオビ):同上
・大直日神(オオナオビ):同上
盟神探湯とは?
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盟神探湯(くかたち、くかだち、くがたち)とは、古代の日本で行われていた呪術的な裁判の一種です。
主な方法は、対象者に問題の真偽を問う旨を誓わせ後、釜で沸かした熱湯の中に手を入れさせるというものであり、それが真であれば火傷せず、偽であるならば大火傷を負うといったものとされています。
この記録は『日本書紀』の中に記されており、以下のような説話が記されています。
武内宿禰の探湯(応神天皇の時代)
応神天皇9年夏4月、武内宿禰(たけうちのすくね)を筑紫に派遣して百姓を観察させていたときのこと、弟の甘美内宿禰(うましうちのすくね)が兄を陥れようと「武内宿禰は三韓国を従えて天下を得ようと筑紫で密かに計画しています」 と天皇に虚偽の報告をした。
これを聞いた天皇が すぐに使者を派遣して武内宿禰を殺そうすると、武内宿禰は「私は元より叛くつもりはありません。今まで忠心を尽くして君に仕えてきたのに、どうして無罪で死ななければならないのでしょうか」と嘆いた。
そのとき、壱岐直の祖先の真根子(まねこ)という者がおり、その容姿は武内宿禰にとても似ていた。この真根子は、武内宿禰が無罪で処刑されることを惜しいと思い、その心が清らかであることを訴えて、似ている自分が武内宿禰の代わりに自決した。
これを悲しんだ武内宿禰は、密かに筑紫を出て南海を廻って紀水門に停泊し、天皇に自分が無罪であることを伝えた。すると、天皇は武内宿禰と甘美内宿禰の双方を責め問うたが、二人は各々が抗弁して争うため、その是非を定めるのは困難だった。
そこで、天皇は神祇に頼んで探湯(クカタチ)をするように詔し、武内宿禰と甘美内宿禰の二人を磯城川の畔に呼び出して、探湯をさせると武内宿禰が勝利した。そのとき、武内宿禰が横刀を取って甘美内宿禰を殺そうとしたが、天皇は許してやるように詔し、紀直らの祖に与えて奴隷とした。
応神天皇9年夏4月、武内宿禰(たけうちのすくね)を筑紫に派遣して百姓を観察させていたときのこと、弟の甘美内宿禰(うましうちのすくね)が兄を陥れようと「武内宿禰は三韓国を従えて天下を得ようと筑紫で密かに計画しています」 と天皇に虚偽の報告をした。
これを聞いた天皇が すぐに使者を派遣して武内宿禰を殺そうすると、武内宿禰は「私は元より叛くつもりはありません。今まで忠心を尽くして君に仕えてきたのに、どうして無罪で死ななければならないのでしょうか」と嘆いた。
そのとき、壱岐直の祖先の真根子(まねこ)という者がおり、その容姿は武内宿禰にとても似ていた。この真根子は、武内宿禰が無罪で処刑されることを惜しいと思い、その心が清らかであることを訴えて、似ている自分が武内宿禰の代わりに自決した。
これを悲しんだ武内宿禰は、密かに筑紫を出て南海を廻って紀水門に停泊し、天皇に自分が無罪であることを伝えた。すると、天皇は武内宿禰と甘美内宿禰の双方を責め問うたが、二人は各々が抗弁して争うため、その是非を定めるのは困難だった。
そこで、天皇は神祇に頼んで探湯(クカタチ)をするように詔し、武内宿禰と甘美内宿禰の二人を磯城川の畔に呼び出して、探湯をさせると武内宿禰が勝利した。そのとき、武内宿禰が横刀を取って甘美内宿禰を殺そうとしたが、天皇は許してやるように詔し、紀直らの祖に与えて奴隷とした。
姓名を定める盟神探湯(允恭天皇の時代)
允恭天皇4年秋9月9日、天皇は「(天皇家は)古から国を治めてきたが、人民は土地を得て、姓名が混乱することもなかった。朕が天皇の位を引き継いで4年となったが、今は上の者と下の者が争うため百姓は安心できない。このままでは自分の姓(カバネ)を失い、故意に位の高い氏を自分のものとしてしまうだろう。この混乱は偽りが原因であろう。これを正すために群臣は話あって報告せよ」と詔した。
すると、群臣は皆で「陛下よ。偽りを指摘し、曲がった者を正して氏姓を改めれば、私らは死ぬかもしれません」と断る旨を申し上げたが、天皇は許さなかった。
9月28日、天皇は「群卿(臣下)・百寮(役人・官僚)と諸国の国造は皆が"帝皇の裔だ"や"不思議な力を持って天から降った"などと言うがそれは違う。三才(天地人)が現れ、別れて以来、多くの月日が経った。それで一つの氏から子孫が枝分かれして色んな氏族となり、万姓となったのだ。このため、真実は分かり辛くなった。そこで、諸々の氏姓の者は沐浴齊戒し、各々が盟神探湯(クカタチ)をして真実を明瞭にせよ」と詔した。
このため、味橿丘の辞禍戸岬に探湯瓮(湯を炊く釜)を据え、諸々の者達を連れてきて「真実を得ているものは傷付くことは無く、偽りがあれば必ず傷を負うだろう」と言い聞かせた。
この盟神探湯(クカタチ)とは、泥を釜に入れて沸かし、素手でかき混ぜて湯の泥を探る。もしくは、斧を火の色になるまで焼き、これを掌に置くというものである。
諸々の者達は各々が木綿のタスキを掛けて探湯(クカタチ)をしたが、真の姓名の者は自然と傷を負わず、真の姓名で無い者は皆、傷を負った。このため、姓名の由来を偽っていた者は怖気付き、探湯をせずに退いてしまった。これにより、以降は氏姓を偽る者は居なくなったという。
允恭天皇4年秋9月9日、天皇は「(天皇家は)古から国を治めてきたが、人民は土地を得て、姓名が混乱することもなかった。朕が天皇の位を引き継いで4年となったが、今は上の者と下の者が争うため百姓は安心できない。このままでは自分の姓(カバネ)を失い、故意に位の高い氏を自分のものとしてしまうだろう。この混乱は偽りが原因であろう。これを正すために群臣は話あって報告せよ」と詔した。
すると、群臣は皆で「陛下よ。偽りを指摘し、曲がった者を正して氏姓を改めれば、私らは死ぬかもしれません」と断る旨を申し上げたが、天皇は許さなかった。
9月28日、天皇は「群卿(臣下)・百寮(役人・官僚)と諸国の国造は皆が"帝皇の裔だ"や"不思議な力を持って天から降った"などと言うがそれは違う。三才(天地人)が現れ、別れて以来、多くの月日が経った。それで一つの氏から子孫が枝分かれして色んな氏族となり、万姓となったのだ。このため、真実は分かり辛くなった。そこで、諸々の氏姓の者は沐浴齊戒し、各々が盟神探湯(クカタチ)をして真実を明瞭にせよ」と詔した。
このため、味橿丘の辞禍戸岬に探湯瓮(湯を炊く釜)を据え、諸々の者達を連れてきて「真実を得ているものは傷付くことは無く、偽りがあれば必ず傷を負うだろう」と言い聞かせた。
この盟神探湯(クカタチ)とは、泥を釜に入れて沸かし、素手でかき混ぜて湯の泥を探る。もしくは、斧を火の色になるまで焼き、これを掌に置くというものである。
諸々の者達は各々が木綿のタスキを掛けて探湯(クカタチ)をしたが、真の姓名の者は自然と傷を負わず、真の姓名で無い者は皆、傷を負った。このため、姓名の由来を偽っていた者は怖気付き、探湯をせずに退いてしまった。これにより、以降は氏姓を偽る者は居なくなったという。
甘樫丘(味橿丘)について
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甘樫丘(あまかしのおか)とは、明日香村にある標高148mの小高い丘陵のことであり、現在では国営飛鳥歴史公園甘樫丘地区に指定されています。また、頂上の南北に展望台が設置されており、飛鳥集落・大和三山・藤原京跡などを望むことができます。
なお、古くは誓盟の神(甘樫坐神社)が鎮座し、允恭天皇の御代に盟神探湯が行われたということや、皇極天皇の御代に蘇我蝦夷・入鹿の親子が丘の麓に邸宅を新造したという記録が『日本書紀』に記されています。
境内の見どころ
社殿
甘樫坐神社の社殿です。
立石
甘樫坐神社の立石です。
謎の石とされますが、毎年4月の「盟神探湯神事」では この石の前に釜が据えられて「盟神探湯」が行われるそうです。
なお、案内板では盟神探湯について以下のように説明されています。
盟神探湯(くがたち)
盟神探湯は裁判の一種として考えられ、煮え湯の入った釜に手を入れ「正しき者にはヤケドなし、偽りし者はヤケドあり」という極めて荒い裁判の方法です。『日本書紀』によれば、允恭天皇4年(415年)に氏姓制度の混乱を正すため、甘橿の神の前に諸氏を会して盟神探湯を行ったと伝えています。
現在では毎年4月、境内にある「立石」の前に釜を据え、嘘・偽りを正し、爽やかに暮らしたいという願いを込め、豊浦・雷大字が氏子となって「盟神探湯神事」として その形を保存・継承しています。
「立石」と呼ばれる謎の石は この豊浦のほか、村内の岡・上居・立部・小原などにも残っています。
盟神探湯は裁判の一種として考えられ、煮え湯の入った釜に手を入れ「正しき者にはヤケドなし、偽りし者はヤケドあり」という極めて荒い裁判の方法です。『日本書紀』によれば、允恭天皇4年(415年)に氏姓制度の混乱を正すため、甘橿の神の前に諸氏を会して盟神探湯を行ったと伝えています。
現在では毎年4月、境内にある「立石」の前に釜を据え、嘘・偽りを正し、爽やかに暮らしたいという願いを込め、豊浦・雷大字が氏子となって「盟神探湯神事」として その形を保存・継承しています。
「立石」と呼ばれる謎の石は この豊浦のほか、村内の岡・上居・立部・小原などにも残っています。
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「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
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