神功皇后とは?(まとめ)
2017/04/10
『記紀』をはじめとする日本の歴史書には、神功皇后(じんぐうこうごう)という人物が登場します。
一般的な知名度は低いようですが、仲哀天皇の皇后にして 八幡大神として祀られる応神天皇の母であることで知られており、文献には"強い霊力を持つ巫女として活躍したこと"や"軍を率いて三韓征伐を成した"などことが記されています。
また、神社祭神としても祀られていることが多いので、ここに特集しておきたいと思います。
概要
概説
神功皇后(じんぐうこうごう)とは、『記紀』に伝えられる第14代 仲哀天皇の皇后となった女性であり、名をオキナガタラシヒメノミコトと言います。
人物像については、『日本書紀』によれば "幼い頃から聡明で知恵があり、容貌も壮麗だった"とされ、また、"人間離れした霊威の持主であった"ということから、神を降ろして神託を伝える巫女の役割も担ったとされています。
経歴については、『記紀』によれば 夫の仲哀天皇が崩御すると自ら政事を執り、神託に従って大臣・武内宿禰と共に熊襲(筑紫の異勢力)や三韓(朝鮮の国々)を征伐したとされ、皇子(第15代 応神天皇)が即位するまでの間 摂政として政事を司ったとされています。
実在性については、wikipediaによれば 海外史料である『新唐書』や『宋史』に存在を示す記述があり、国内においては 明治以前は神功皇后を第15代の天皇とする史書が多数あったとされます。また、明治から戦前までは実在の人物として学校教育で教えられており、明治時代には切手や紙幣にも肖像が描かれていたことから、実在説が有力だったようです。
なお、現在では実在説と非実在説がありますが、一般的には神話上の人物として紹介されている例が多く見られます。
名前
神功皇后には複数の名称があります。
【通称】
・神功皇后(じんぐうこうごう):第14代仲哀天皇の皇后としての名称(諡号か?)
【古事記】
・息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)
・大帯比売命(おおたらしひめのみこと)
・大足姫命皇后(おおたらしひめのみこと)
【日本書紀】
・気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)
・息長帯比売(おきながたらしひめ)
・気長足姫(おきながたらしひめ)
・大帯姫(おおたらしひめ)
・聖母大菩薩(しょうもだいぼさつ)
※尊称は省略
【その他】
・聖母(しょうも):応神天皇の母としての呼称
・気長足姫尊(おきながのたらしひめのみこと):『旧事紀』における名称
・磐余稚櫻朝(いわれわかさくらのみかど):『古語拾遺』における名称
・息長帯媛天皇(おきながのたらしひみ):『竹内文書』における名称
・神功為王:『新唐書』における名称
・神功天皇(息長足姫天皇):『宋史』における名称
系譜
神功皇后の系譜は以下の通りです。
【両親】
・父:息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)
→ 迦邇米雷王の王子(第9代開化天皇の玄孫)
・母:葛城高額媛(かずらきのたかぬかひめ)
→ 新羅の王子・天日矛(アメノヒボコ)の子孫(渡来系氏族)
【兄弟姉妹】
・同母妹:虚空津比売命(そらつひめのみこと)
→ 息長宿禰王・葛城高額媛の第二子
・同母弟:息長日子王(おきながひこのみこ)
→ 息長宿禰王・葛城高額媛の第三子
・異母兄弟:大多牟坂王(おおたむさかのみこ)
→ 息長宿禰王・河俣稲依毘売の子
・妹:與止日女命(よどひめのみこと)
→ 與止日女神社の主祭神で神功皇后の妹と伝わる
→ 『肥前国風土記』の「神名帳頭注」に"神功皇后の妹で與止姫神(またの名を豊姫・淀姫)"とあるらしい
【配偶者・子女】
・夫:足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)
→ 第14代 仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)
→ 日本武尊(ヤマトタケル)の第二皇子(日本武尊・両道入姫命の子)
・子:品夜和気命(ほむやわけのみこと)
→ 『古事記』において神功皇后の御子とされる(『日本書紀』では弟媛の子)
・子:誉田別命(ほむたわけのみこと)
→ 第15代 応神天皇(おうじんてんのう)
→ 八幡大神として全国各地の八幡宮(八幡神社)で祀られる
経歴
史料における神功皇后の経歴は以下の通りです。
古事記
・皇后就任
・オキナガタラシヒメ(神功皇后)は第14代仲哀天皇の皇后となり、ホムヤワケ・オホトモワケという皇子を儲けた
・神懸って"三韓を征伐せよ"との神託を下す
・筑紫の香椎宮にて神功皇后が神懸かった(天皇は琴を弾く役、建内宿禰は神託を聞く役となった)
・神懸った皇后は朝鮮に侵攻するよう神託を下したが、天皇は神が嘘をついていると疑って琴を弾くのを止めた
・神が激怒して天皇を否定すると、建内宿禰のとりなしで天皇はしぶしぶ琴を弾き始めたが、やがて崩御してしまった
・仲哀天皇の崩御
・天皇が崩御すると、国中から"ぬさ(神への供物)"を集め、罪穢れを祓う儀式を行った
・神懸って"懐妊中の御子を皇太子にせよ"との神託を下す
・皇后は再び神懸って朝鮮に侵攻するように促し、腹にいる御子を天皇にするように神託を下した
・建内宿禰が腹にいる御子の性別を訊ねると、神は"男である"と答えた
・建内宿禰が神の名を訊ねると、神は"ソコツツノヲ・ナカツツノヲ・ウワツツノヲ(住吉三神)"だと答えた
・住吉三神はアマテラスの意志によって朝鮮に侵攻するよう命じ、海を渡る方法を教えた
・三韓征伐
・皇后が神託のとおりに軍を起こして海を渡ると、追い風が吹いて船を勢いよく進めた
・朝鮮半島の新羅に着く頃には船を立てる波が津波となり、新羅の半分を飲み込んだ
・これによって新羅の国王は降伏し、馬飼いとして倭国に仕えることを誓った
・この後、百済を渡航の役所とし、新羅の国王の城の門前に杖を突き立てて"住吉三神の荒御魂"を祀った
・ホムタワケ(応神天皇)を出産する
・皇后は朝鮮の侵攻中に産気づいたので、腹に石を巻いて産気を鎮めた
・筑紫に着いたときに御子を出産し、これに因んで出産した地を宇美(うみ)と名付けた
・カゴサカノミコ・オシクマノミコの謀反
・皇后は大和に帰国した後の謀反を警戒し、棺を乗せた喪船を用意して"御子は崩御した"と伝えた
・御子の異母兄に当たるカゴサカノミコ・オシクマノミコは、皇后を待ち伏せして亡き者にしようと企んだ
・二人は戦勝を占うため"誓約狩(うけいがり)"を行ったが、カゴサカノミコは猪に喰われてしまった
・オシクマノミコは軍を起こして皇后と争ったが、山城まで追いつめられた時点で膠着状態となった
・皇后の軍は嘘の降伏宣言をしてオシクマノミコを騙し討ちにすると、オシクマノミコは追い詰められて遂に自決した
・神と御子の名前を交換する
・建内宿禰はホムタワケを連れて禊をするため、近江・若狭を経て敦賀に仮宮を建てた
・このとき、建内宿禰の夢に敦賀の神である伊奢沙和気大神(イザサワケ)が出てきた
・イザサワケは"私と御子の名前を取り替えたいと思う"と言うと、建内宿禰に恐れ多いとして承諾した
・イザサワケは"翌朝に浜に来れば、名を替えたシルシとして贈物を与えよう"と言った
・翌朝 浜に行くと鼻に傷のあるイルカがおり、御子は"私は神より御食膳(みけつ)の魚を賜った"と言った
・これによって神は御食津大神(ミケツオオカミ)と名付けられた(現在は気比大神という)
・この後、御子が大和に帰国すると、皇后から"スクナミの酒"を献上された
・神功皇后の薨去
・皇后は100歳で薨去し、狹城の楯列(さきのたたなみ)の御陵に埋葬された
日本書紀
・仲哀天皇2年:皇后就任
・オキナガタラシヒメ(神功皇后)は仲哀天皇の即位2年に皇后となった
・皇后は幼い頃から聡明で知恵があり、容貌も壮麗だった
・皇后の父は娘を怪しく思っていた(人間離れした霊威の持主だと思っていた)
・仲哀天皇9年2月:仲哀天皇の崩御
・天皇は神に従わなかったことで早々に崩御してしまった
・異伝にて、住吉三神の神託に従わなかったことで崩御した旨が記される(『古事記』に類似するが詳細は異なる)
・皇后は天皇が崩御したことに心を痛め、神の意志によって財宝の国(朝鮮)への侵攻を決定した
・(仲哀天皇9年)4月1日:神懸って神名を求める
・皇后は斎宮に入って自ら神主となった(武内宿禰は琴を弾く役、中臣烏賊津使主は神託を聞く役となった)
・天皇に神託を下した神の名を問うと、七日七夜の後に返答があった(以下、神名)
・撞賢木嚴之御魂天疎向津媛命(ツキサカキイツノミタマアマサカルムカツヒメノミコト)
・尾田の吾田節の淡郡にいる神(不明だが、ワカヒルメという説がある)
・天事代於虚事代玉籤入姫嚴之事代主神(アメニコトシロシラニコトシロタマクシイリビコノイツノコトシルノカミ)
・表筒男(ウワツツノオ)・中筒男(ナカツツノオ)・底筒男神(ソコツツノオ)
・(仲哀天皇9年)4月:筑紫の敵を討つ
・鴨別(吉備臣の祖先)に熊襲国の征討を命じた(後に熊襲は自ら服属した)
・20日、皇后自ら出陣して羽白熊鷲(翼を持つ人)を討伐した
・25日、田油津媛(土蜘蛛の首長)を討伐した
・(仲哀天皇9年):三韓征伐の吉兆を得る
・皇后は三韓征伐の神託の実行時期を占うべく、誓約(「こうなるなら、こうなる」という形の占い)を行った
・肥前国にて誓約をすると、吉兆のシルシとして鮎が釣れた
・神田を造成して水を引こうと祈ると、落雷が岩を砕いて水を通した
・橿日浦にて誓約をすると、吉兆のシルシとして海水で洗った髪が自然と二つに分かれた
・誓約の結果 吉兆を得たため、皇后は軍を起こして三韓征伐の実行を決めた
・(仲哀天皇9年)9月10日:三韓征伐の準備をする
・諸国に兵士・兵器・船舶を集めるよう命じた
・兵士が集まらなかったため、大三輪社を建てて刀矛を奉った(後に兵士は自然と集まった)
・偵察を出して朝鮮半島の位置を確認させた
・出陣の吉日を占い、皇后自ら斧・鉞を持って"戦の掟"を命じた
・神は"和魂に皇后の身を守らせ、荒魂に船を導かせよう"という神託を下した
・このとき皇后は臨月を迎えていたため、腰に石を挟んで"帰国した日に御子が生まれる"よう祈った
・(仲哀天皇9年)10月3日:三韓征伐
・皇后の軍は和珥津より朝鮮半島に向けて出発した
・このとき、カゼノカミが風を起こし、ウミノカミが波を上げ、海中の大魚が浮かんで船の進行を助けた
・大波に乗った船は あっという間に新羅に到着し、そのまま新羅国の中程までに乗り上げた
・新羅の王は倭国と争っても勝てないと悟り、すぐにシロハタを上げて自ら服属した
・新羅の王は、図籍(土地の図面と戸籍)を提出して倭国の飼部になると誓い、朝貢の約束をした
・皇后は矛を新羅の王宮の門前に立てて、後世のシルシとした
・この後、新羅の王は倭国に人質と金銀財宝を献上した
・新羅の様子を見た高麗・百済も、倭国と争っても勝てないと悟って降伏を決めた
・以後、ニシノトナリ(西の異民族)と称して朝貢を絶えず行うことを誓った
・三韓征伐を終えると、皇后は新羅から帰国した
・帰国後、穴門の山田邑に軍を導いた住吉三神の荒御魂を祀った
・異伝にて、新羅に置いた大使が新羅王の妻らに殺害されたことから、新羅を滅ぼそうとした旨が記される
・(仲哀天皇9年)12月14日:応神天皇の誕生
・筑紫で譽田天皇(応神天皇)が誕生し、その地を宇瀰(ウミ)と名付けた
・(仲哀天皇10年)2月:カゴサカノミコ・オシクマノミコの謀反
・天皇の皇子のカゴサカノミコ・オシクマノミコは、皇后の帰国に合わせて謀反を企んでいた
・二人は戦勝を占うため、"謀反が成功するなら良い獣を得られる"とする祈狩(ウケイガリ)を行った
・カゴサカノミコは、そこに現れた赤い猪に喰われてしまった
・オシクマノミコは、怖気づいた兵をまとめて住吉に駐屯した
・一方、皇后はオシクマノミコが待ち伏せしていることを知って、海路を通って紀伊から難波に向かった
・このとき、船が海で回って先に進めなくなったため、務古水門(ムコノミナト)に帰って方法を占った
・天照大神は"我が荒魂を広田国に祀れ"と教えた(廣田神社に当たる)
・稚日女尊は"吾を活田長峽國に祀れ"と教えた(生田神社に当たる)
・事代主尊は"吾を長田国に祀れ"と教えた(長田神社に当たる)
・住吉三神は"吾の和魂を大津の渟中倉の長峽に祀れ"と教えた(住吉大社に当たる)
・皇后が神々を祀らせると、船は平和に海を進むことが出来た
・皇后が紀伊国からオシクマノミコを攻めようとすると、昼間でも暗くなる常夜(トコヤミ)が続いた
・その地の老父に曰く"二つの社の神主を同じ場所に葬ったこと"が原因とされた
・そこで棺を造って墓を分けると日の光が戻った
・(仲哀天皇10年)3月5日:オシクマノミコの討伐
・武内宿禰・武振熊に兵を率いさせてオシクマノミコを討たせた
・武内宿禰は騙し討ちを仕掛けて、オシクマノミコを撃破した
・(仲哀天皇10年)10月2日:神功皇后摂政元年
・群臣らは皇后を尊んで皇太后とし、このときより摂政元年と定めた
・神功皇后摂政2年11月8日:仲哀天皇の埋葬
・仲哀天皇を河内国の長野陵に葬った
・神功皇后摂政3年1月3日:譽田別皇子(応神天皇)の立太子
・譽田別皇子を皇太子にし、磐余に都を造った(これを若桜宮という)
・神功皇后摂政5年3月7日:新羅に人質を返して、俘囚を連れ帰る(『三国史記』にも同様の記述がある)
・新羅王は3人の使者を倭国に派遣して朝貢した
・使者らは倭国に人質として渡していたミシコチホツカンを返してもらうために皇太后を欺いた
・皇太后はミシコチホツカンの帰国を許したが、倭国からもカツラギノソツヒコを派遣した
・新羅の使者はカツラギノソツヒコを欺いてミシコチホツカンを本土に逃した
・欺かれたことを知ったカツラギノソツヒコは使者らを捕えて焼き殺した
・カツラギノソツヒコは俘囚(捕虜)を連れ帰り、捕虜らは後に桑原・佐糜・高宮・忍海の邑の始祖となった
・神功皇后摂政13年2月8日:皇太子が敦賀の気比大神を参拝する
・武内宿禰に命じて、皇太子を角鹿(敦賀)の笥飯大神(気比大神)に参詣させた
・神功皇后摂政13年2月17日:大殿で宴を行う
・皇太子が敦賀から帰ると、皇太后は皇太子と共に大殿で宴を開いた
・神功皇后摂政39~43年:『魏志(三国志)』の引用(神功皇后を卑弥呼と結びつけている)
・『魏志』によれば、明帝景初3年に倭の女王が大夫の難斗米を派遣して朝献した云々(摂政39年)
・『魏志』によれば、正始元年に建忠校尉梯携らを倭国に派遣して、詔書印綬を奉った(摂政40年)
・『魏志』によれば、正始4年に倭王は使者の大夫・伊聲者掖耶約ら8人を派遣して、物品を献上した(摂政43年)
・神功皇后摂政46年3月1日:百済と国交を結ぶ
・倭国の使者としてシマノスクネを卓淳國(朝鮮の国)に派遣した
・そこで卓淳王から"百済人が倭国を詣でたいが、道がわからず困っているらしい"と伝えられた
・シマノスクネは、従者のニハヤと卓淳人を百済に派遣して百済王を慰労した
・百済王は感激してニハヤに絹・弓・鉄材などを与え、蔵の中の珍しい宝物を見せた
・百済王は"朝貢に向かおうと思っているが道がわからず困っている"とニハヤに伝えた
・ニハヤが報告すると、シマノスクネは卓淳國から帰国した(百済との国交を結んだ)
・神功皇后摂政47年4月:新羅と百済の確執
・新羅と百済から朝貢があり、皇太后と皇太子はとても喜んだ
・しかし、新羅の貢物が豪華だったのに対し、百済の貢物は質素であった
・不思議に思った皇太子が百済の使者に尋ねると"新羅人に襲われて貢物を取られてしまった"と答えた
・皇太后と皇太子が新羅の使者を責め、事の真相を突き止めるために新羅・百済に使者を送ることにした
・そこで、天神に祈って使者に相応しい人物を問うと"チクマナガヒコを派遣するべし"との神託を得た
・チクマナガヒコを新羅に派遣して疑惑を責めると、新羅が百済の貢物を奪ったことが分かった
・神功皇后摂政49年3月:新羅と朝鮮諸国を攻め取り、百済と盟約を結ぶ
・倭国はアラタワケ・カガワケを将軍とし、百済と共に新羅を攻めようとした
・その際、新羅の付近の卓淳國を拠点とし、精鋭を集めて新羅を撃ち破った
・また、比自?・南加羅・?国・安羅・多羅・卓淳・加羅の朝鮮七ヵ国を平定した
・さらに西に廻って南蛮の忱彌多禮を討ち取って百済に与えた
・百済王と王子が軍を率いて会いに来た
・この際、比利・辟中・布彌支・半古の4つの邑が自ら降伏した
・ここで倭国と百済の将軍らは百済王・王子と会えたことを互いに喜び、厚い礼を以って別れた
・その後、チクマナガヒコと百済王は百済に向かい、辟支山にて盟約を結んだ
・神功皇后摂政50年:将軍らが帰国する
・2月、アラタワケらが帰国した
・5月、チクマナガヒコが百済の使者と共に帰国した
・皇太后が百済の使者に頻繁に"倭国を訪れる理由"を尋ねると「倭国の恩恵に誠意を示すため」と答えた
・また、百済の使者は"万世に渡って朝貢すること"を誓い、歓んだ皇太后は多沙城を与えて駅とした
・神功皇后摂政51年3月:百済との親交を深める
・百済王が使者を派遣して朝貢した
・皇太后は皇太子と武内宿禰に「百済との親交は天の賜物である、今後も厚い礼を持って迎えよ」と語った
・チクマナガヒコを百済に派遣した
・この際、皇太后から預かったウツクシビを百済王に伝えると、百済王・王子は深く感謝した
・神功皇后摂政52年9月10日:百済から七枝刀などを献上される
・チクマナガヒコが百済の使者と共に帰国した
・百済は七枝刀・七子鏡・種々の重宝を献上した
・また、倭国に毎年朝貢することを伝え、親交を深めた
・神功皇后摂政55~56年:百済王の交代
・摂政55年、百済の肖古王(ショウコオウ)が逝去した
・摂政56年、百済王子の貴須(クルス)が王となった
・神功皇后摂政62年:新羅を攻める
・新羅が朝貢しなかったため、カツラギノソツヒコを派遣して新羅を討った
・『百済記』からの引用文が記される
・神功皇后摂政64~65年:百済王の交代
・摂政64年、百済の貴須王が亡くなり、王子の枕流(トムル)が王となった
・摂政65年、百済の枕流王が亡くなり、年少だった王子に代わって叔父の辰斯(シンシ)が王となった
・神功皇后摂政66年:『晋起居注(中国の史料)』の引用
・『晋起居注』によれば、武帝泰初2年10月に倭の女王は何度も訳(オサ)して貢献したとされる
・神功皇后摂政69年4月17日:神功皇后の崩御
・皇太后は稚櫻宮にて崩御した(このとき、100歳であった)
・10月15日、狹城盾列陵に葬り、気長足姫尊(オキナガタラシヒメノミコト)の名を贈った
その他
・『旧事紀』:神功皇后の略歴が記される(外交については海外史料を参照するよう示される)
・『古語拾遺』:新羅を討ったことにより、三韓が朝貢を始めたことが記される
その他
信仰
神功皇后は、神社の祭神として全国的に広く祀られており、その代表的な例として 自らが創建したとされる大阪府の住吉大社や、歴史的に所縁のある福岡県の香椎宮、筥崎宮、宇美八幡宮などが挙げられます。
また、皇后の産んだ皇子である応神天皇が八幡神として信仰を集めるようになると、皇后も八幡三神の1柱として祀られるようになり、八幡三神の内の比売神を神功皇后に当てる説もあります。
その他にも、歴史的に所縁のある地においては、史書に記されていない独自の伝承に基づく史跡や遺物もあり、この独自の伝承に基づく信仰もあるようです。ちなみに、関西においては兵庫県と大阪府、九州においては福岡県や長崎県などに所縁の地が多いみたいです。
神徳については、『記紀』に記された経歴に基いて安産の神・武勇の神として祀られている例が多く、その他にも勝運・厄除・病魔退散などの神とされる例もあるとされています。
伝説
神功皇后にまつわる伝説は以下の通りです。
史書にある伝説
・仲哀天皇の崩御:仲哀天皇は神託に従わなかったことによって崩御したとされる
・神功皇后による熊襲討伐:筑紫にて熊襲、羽白熊鷲、土蜘蛛を討伐した
・神功皇后による三韓征伐:神託によって朝鮮半島の新羅を攻め、次いで高麗・百済も従えた
・麛坂皇子・忍熊皇子の反乱:三韓征伐の後、皇位簒奪のために挙兵した?坂皇子・忍熊皇子を鎮圧した
地方に残る伝説
・住吉大社(大阪府大阪市):『日本書紀』において、神功皇后が住吉三神の神託を受けて創建した
・百舌鳥八幡宮(大阪府堺市):三韓征伐の後、神功皇后が当地に留まって天下万民を護ろうと請願を立てたと伝わる
・廣田神社(兵庫県西宮市):『日本書紀』において、神功皇后が天照大神の神託を受けて創建させた
・生田神社(兵庫県神戸市):『日本書紀』において、神功皇后が稚日女尊の神託を受けて創建させた
・長田神社(兵庫県神戸市):『日本書紀』において、神功皇后が事代主神の神託を受けて創建させた
・生田裔神八社(兵庫県神戸市):神功皇后が長田・生田・広田・住吉の4社を創建後に巡拝したという伝説のある8社
・弓弦羽神社(兵庫県神戸市):忍熊皇子の反乱の際、当地に弓矢・甲冑を納めて熊野大神に戦勝を祈願したと伝わる
・甲山(兵庫県西宮市):神功皇后が国家鎮護のため、山に如意宝珠・金甲冑・弓箭・宝剣・衣服等を埋めたと伝えられる
・六甲山石宝殿(兵庫県西宮市):神功皇后が三韓から持ち帰った"神の石"や"黄金の鶏"を埋めたと伝えられる
・三島神社(兵庫県相生市):三韓征伐の折、神託によって赤地向鼻(相生字甲崎)に三島大神を分霊を祀ったとされる
・小竹八幡神社(和歌山県御坊市):忍熊皇子の反乱の際、常夜になったという伝説にまつわる神社
・志賀海神社(福岡県福岡市):当社を奉斎してきた安曇族の祖・安曇磯良が、神功皇后の三韓征伐を助けたと伝わる
・警固神社(福岡県福岡市):三韓征伐の後、神功皇后の船団を護って勝利に導いた警固大神を福崎に祀ったことに始まる
・宮地嶽神社(福岡県福津市):神功皇后が三韓征伐の前に宮地岳の頂上に祭壇を設けて天神地祇を祀ったことに始まる
・皿倉山(福岡県北九州市):多くの神功皇后伝説が残る山として知られ、山の名前も神功皇后の伝説に由来する
・和布刈神社(福岡県北九州市):神功皇后が三韓征伐の凱旋時に、安曇磯良の奇魂・幸魂を速門に鎮めたことに始まる
・太刀八幡宮(福岡県朝倉市):神功皇后が熊襲討伐の折に当地で兵器を鍛えたと伝えられ、御剣を納めた太刀塚がある
・羽白熊鷲の墓(福岡県朝倉市):『日本書紀』に登場し、神功皇后に討伐された羽白熊鷲(空を飛べた者)の墓とされる
・風浪宮(福岡県大川市):神功皇后が三韓の帰途に見た白鷺を、少童命の化身として安曇磯良に祀らせたことに始まる
・鷹尾神社(福岡県柳川市):土蜘蛛の田油津姫の討伐伝説にまつわる地であり、境内に神功皇后腰掛石がある
・弓頭神社(福岡県三潴郡):神功皇后の三韓征伐の折、弓大将として新羅役に参戦した国乳別皇子が祀られる
・大分八幡宮(福岡県飯塚市):当地は神功皇后が三韓征伐の帰途に一時的に留まった場所であると伝わる
・宇佐神宮(大分県宇佐市):名物の宇佐飴は、神功皇后が皇子(応神天皇)を育てる際に母乳の代わりに与えたと伝わる
・爾自神社(長崎県壱岐市):神功皇后が三韓征伐の折に追風が吹くように祈願すると、祈りが通じて割れた東風石がある
・赤瀬鼻(長崎県壱岐市):神功皇后が三韓征伐の帰途に皇子を出産し、その時の産血が瀬に染みて赤くなったと伝わる
・湯ノ本温泉(長崎県壱岐市):神功皇后が応神天皇の産湯を使ったという伝説がある(子宝の湯として有名)
・聖母宮(長崎県壱岐市):神功皇后が三韓征伐の折に建てた行宮に始まり、凱旋時に101,500の首を埋めたと伝わる
伝説にまつわる遺物など
・七支刀:石上神宮に伝わる七本の刃を持つ鉄剣で、『日本書紀』神功皇后条に百済から献上されたとある
・月延石:神功皇后が出産を遅らせるために腹を冷やしたとされる石(月讀神社・月読神社・鎮懐石八幡宮に奉納された)
・貫通石:安産の御守で、『古事記』にある"神功皇后が新羅から得た石を枕元に置くと安産であった"という伝説に因む
詳しくはこちらの記事を参照:【神功皇后の伝説】
諸説
神功皇后にまつわる諸説は以下の通りです。
卑弥呼説
『日本書紀』の神功皇后条には、中国史料である『魏志倭人伝』の内容が引用されている部分があり、その引用文に記される"倭の女王"が"卑弥呼(ひみこ)"を指すことから、神功皇后が卑弥呼と同一視できるように編集されています。このことから、江戸時代までは卑弥呼が神功皇后であると考えられていたそうです。
しかし、現在では国内と海外の史料を照らし合わせると両者が存在した時代が異なるという意見などから、卑弥呼説への反論もあるとされます。ただ、決定的な根拠が無いため、完全に否定することはできないそうです。
ちなみに、日本史において"卑弥呼は邪馬台国の女王"として有名ですが、卑弥呼は日本の正史である『日本書紀』には具体的に登場しておらず、人物像が神功皇后と類似するものの、『魏志倭人伝』における倭国の様子が『日本書紀』の内容と合致しないことなどから比定される人物には諸説あり、その正体について未だに不明とされています。
備考
切手と紙幣の肖像
神功皇后は明治時代の紙幣と切手の肖像になっています。この肖像の原版はイタリア人彫刻家のエドアルド・キヨッソーネが印刷局の職員の日本女性をモデルとしたため、西洋人風のデザインになったそうです。
・紙幣:明治14年(1881年)に発行された改造紙幣の一円券・五円券・十円券の肖像となっている
・切手:明治41年(1908年)に発行された5円切手・10円切手の肖像となっている(1924年以降にデザイン変更)
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「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
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