人文研究見聞録:神功皇后の伝説(まとめ)

神功皇后(じんぐうこうごう)にまつわる伝説をまとめました。

『記紀』に記される伝説のほか、地方に残る伝承を特集しています(随時追加予定)。

神功皇后の概要についてはこちら:【神功皇后とは?】



仲哀天皇の崩御(古事記版)


人文研究見聞録:神功皇后の伝説(まとめ)

仲哀天皇が筑紫の香椎宮にて熊襲討伐を計画していたとき、皇后の息長帯比売命(神功皇后)が神懸った。そこで天皇は琴を弾き、大臣の建内宿禰は神託を受ける沙庭(サニワ)となった。

を降ろした皇后は「西にある国には、金銀などの目の輝くような珍しい宝物が沢山ある。我が その国を与えよう」と言うと、天皇は「高いところから西方を見たが、海があるだけで国など見えなかった」と言って神託を疑い、琴を弾くのを止めて黙ってしまった。

すると、はひどく怒って「この天下は汝の治める国ではない。汝など黄泉国(死者の国)へ行ってしまえ」と言った。そのとき、大臣が「恐れ多いことです。陛下よ、琴を弾いてください」と助言すると、天皇は しぶしぶ琴を弾き始めた。

しかし、しばらくすると琴の音が聞こえなくなったので、明かりを灯してみると天皇は崩御していた。大臣は驚き、天皇の遺体を殯宮(もがりのみや)に移した。そして国中から"ぬさ(神への供物、幣帛)"を集め、殯宮に生剥・逆剥・畦離・溝埋・屎戸、また不倫・結婚の類の罪を集めて大祓を行った。

この後、大臣が再び神託を求めると先日と同様の言葉を受け、は「この国の全ては(皇后の)腹の中の御子が治めるものである」と言った。そこで大臣は「我が神よ、恐れ多いことです。その腹に宿る御子は男でしょうか、女でしょうか?」と訊ねると、は「男の御子である」と答えた。

また、大臣は「今、言葉を与えてくださっている神の名を教えてください」と訊ねると、神は「これは天照大神(アマテラス)の意志である。我々は底筒男(ソコツツノヲ)・中筒男(ナカツツノヲ)・上筒男(ウハツツノヲ)の神だ」と答えた。

そして、「今から その国(朝鮮半島)を求めるならば、天神地祇のほか山・河・海や その他の神々に"ぬさ"を奉納し、我の魂を船に乗せ、真木を焚いた灰を瓢に入れ、箸と皿をたくさん作り、悉く海に散らし浮かべて渡るが良い」と教えた。そこで皇后の教えた通りに軍勢と船を用意して、西の国に向けて海を渡った。

※日本書紀(本文):"仲哀天皇は神の教えに従わなかったため、早々に崩御した"との要約文がある
※日本書紀(異伝):上記に類似した説話があるが内容が異なる(天皇の死因も、病気や矢傷など曖昧に記される)


羽白熊鷲(ハシロクマワシ)


人文研究見聞録:神功皇后の伝説(まとめ)

荷持田村(のとりたのふれ)に羽白熊鷲(ハシロクマワシ)という者がいた。その人となりは強健であり、身体に翼があって よく空を飛翔した。また、熊鷲は天皇の命令には従わず、常に人民から略奪をした。

(仲哀天皇9年)3月17日、神功皇后熊鷲を討伐するために橿日宮から松峽宮に移った。すると、たちまち旋風が起こって皇后の御笠を落とした。これにより、当時の人々は その地を御笠(みかさ)と呼ぶようになった。

(仲哀天皇9年)3月20日、皇后は層増岐野にて兵を挙げ、羽白熊鷲を討ち取った。そのとき、左右(側で仕える人)は「熊鷲を討ち取ったことで、私の心は安らかになりました」と言った。これにより、この地を安(やす)と呼ぶようになった。

(仲哀天皇9年)3月25日、皇后は山門県に移って土蜘蛛の田油津媛(タブラツヒメ)を誅殺した。このとき、田油津媛の兄の夏羽(ナツハ)が軍を起こして皇軍を迎え撃とうとしたが、妹が誅殺されたことを知って逃げだした。


三韓征伐(日本書紀版)


人文研究見聞録:神功皇后の伝説(まとめ)

(仲哀天皇9年)4月3日、神功皇后は北の火前国の松浦県に到着して玉嶋里の小河の畔で食事をした。

そのとき、皇后は針を曲げて釣針を造って衣服から釣り糸を取り、米粒を餌として小河の石の上から釣針を投げ、「私が西の財宝の国(朝鮮半島)を得られるのならば、河の魚は釣針を飲め」と祈った。

そして、竿をあげると細鱗魚(鮎)が釣れたので、皇后は「これは珍しい」と言った。そのため、当時の人々は この場所を梅豆羅國(めずらのくに)と呼んだ。

皇后から験(しるし)を得られたことから、神祇を祀って自ら西の財宝の国を討ち取ろうと決意した。そこで神田を作り、儺の河水で神田を潤そうと水路を掘った。しかし、迹驚岡まで掘ると大磐が水路を塞いで水を通すことができなかった。

このため、皇后は大臣の武内宿禰に剣鏡を奉らせ、神祇に水路に水が通るように祈を捧げた。すると、急に雷が鳴り出して大磐を砕き、水が通るようになった。これ以来、当時の人々は この水路を裂田溝(さくたのうなで)と呼んだ。

後日、皇后は橿日浦にて髪を解き、海に向かって「神祇の教え通り、皇祖の霊を頼って海を渡り、自ら西の財宝の国を討とうと思います。もし、験(しるし)が得られるならば、海水で髪を濯ぐと自然と二つに分かれるでしょう」と言い、海に入って髪を濯ぐと自然と二つに分かれたため、皇后はすぐに髪を結って鬟(みずら)とした。

そして、皇后は群臣を集めて「軍を起こして諸衆を動かすことは国の大事である。安全とも危険とも言えず、敗れることもあるだろう。だが、今は征伐するべき土地があるため、群臣に軍を授けよう。もし、事が成らなければ 群臣は罪を負え。この傷はとても深いものになるだろう。また、私は幼い婦女であるゆえ、しばらく男の姿を借りて雄々しく戦おう。上からは神祇の霊威を被り、下からは群臣の助けを借り、兵甲(つわもの)を興して高波を渡り、船を整えて財宝の国を求めよう。もし、事が成功すれば 群臣と共に功があったということである。事が失敗すれば 私が一人に罪がある。既に私の決意は固まっている。共に協議せよ」と言った。

これに対し、群臣らは皆で「皇后よ、天下のために国家安寧の計略を立てましょう。また、臣下には罪を負わせません。慎み、詔(みことのり)を承ります」と答えた。

(仲哀天皇9年)9月10日、皇后は諸国に船と兵甲(つわもの)を集めるよう命じたが、兵士が集まりが悪かった。皇后は これを神の意志であると捉えて、すぐに大三輪社を建てて刀矛(たちほこ)を奉ると、兵士は自然に集まった。

次に吾瓮海人烏摩呂(アヘノアマオマロ)という者を西の海に送って財宝の国の有無を視察させると、この者は「国は見えませんでした」と報告した。また、磯鹿海人の草(クサ)という者を派遣して視察させると、数日後に帰ってきて「西北に山があり、帯雲が横に延びていたので国が有ると思います」と報告した。この報告により、吉日を占って出発する日を決定した。

軍が整うと、皇后は自ら斧と鉞を取って「鐘を鳴らしても節度が無くなるほどに旗を乱せば兵士は整わぬ。また、財を貪り、多くを欲せば、私利私欲に走り全てを敵に取られてしまうだろう。敵が少なくても侮ってはならぬ。また、敵が多くても怖気付いてはならぬ。婦女に暴力を振るって犯してはならぬ。また、自ら服従してきた者は殺してはならぬ。戦に勝てば必ず報奨を与えよう。ただし、戦に背を向けて逃げれば罪を与えよう」と言った。

すると、からも「和魂(ニギミタマ)は王身(皇后の身)に従って命を守ろう。荒魂(アラミタマ)は先立って師船を導こう」という神託が下った。このため、すぐに神に礼拝して依網吾彦男垂見(ヨサミノアビコオタルミ)を神主とした。

また、このとき皇后は臨月を迎えていたので、すぐに石を腰に挟んで「御子は事を終えて帰国した日に生まれるべし」と祈った。この石は伊都縣の道にある。

こうして、皇軍は先立つ荒魂の導きに従い、王船は和魂を鎮守とした。

(仲哀天皇9年)10月3日、皇軍は和珥津から出発した。そのとき、飛廉(カゼノカミ)が風を起こし、陽侯(ウミノカミ)が波を上げ、海中の大魚は悉く浮かんできて船を助けた。

このため、王船の帆は大きな追風に吹かれて舵の苦労なく波のままに進み、すぐに新羅(しらぎ)に到着した。また、波に乗った王船が新羅の国の中程にまで達すると、新羅の人々は皇后に天神地祇の助けがあると理解した。

これに新羅の王は怖気づき、諸衆を集めて「新羅の建国以来、海水が国に上るなど聞いたことがない。天運尽きて国が海になるというのか…」と、言い終える前に船師(ふないくさ)が海に満ち、旗が日に当たって輝き、太鼓と笛の音が鳴り響いて山川の全てが震えた。

新羅の王は一度 気を失った後に 目を覚まして「私は東方に神の国があると聞いたことがある。日本(やまと)といい、そこには聖王(ひじりのきみ)がいて天皇(すめらみこと)と呼ばれるという。この軍は必ず日本の神兵(みいくさ)だ。兵を挙げても防ぐことなどできるわけがない」と言った。

そして、すぐに素旆(しろはた)を上げて自ら服属し、降伏を表す白い組紐で両手を縛って土下座し、国の地図と戸籍を差し出し、頭を地面に叩きつけて「これより以後、乾坤(あめつち)のように末永く従い、飼部(馬飼)となります。そして、春秋には馬梳や馬鞭を献上します。また、毎年 男女の労働者を献上します」と降伏を誓った。

また、新羅の王が「太陽は東から昇ることはあっても西から昇ることは無い。また、川を遡った石が星辰(北極星)にはなりえないのと同じく、春秋の朝貢を怠って馬梳と馬鞭の貢物を止めてしまえば天神地祇は一緒になって我々を討つでしょう」と言った。

このとき、ある者が「新羅の王を誅殺しよう」と言うと、皇后は「神の教えを受けて財宝の国を得ようとしたとき、私は"自ら服従する者は殺すな"と号令した。そして今、財宝の国を得て新羅の王も自ら降伏したのだから、殺す理由などあろうものか」と言った。

そして、新羅の王を縛っている綱を解いて飼部とし、新羅の重宝の府庫(たからのくら)を抑えて、地図と戸籍を手に入れた。ここで皇后は、新羅の王宮の門の前に矛を立てて後世の印とした。

新羅の王の波沙寐錦(ハサムキム)は、微叱己知波珍干岐(ミシコチハトリカンキ)を人質とし、金・銀・彩色や様々な絹織物)を船に乗せて献上し、これ以後も常に日本に朝貢するようになった。

また、高麗(こま)百済(くだら)の両国の王は、新羅が地図と戸籍を差し出して日本に降伏したと聞き、密かに軍勢の様子を伺ってみたが すぐに勝てないと理解し、自ら軍営の外までやって来て地面に頭を叩きつけて「これより以後、永遠に西蕃(にしのとなり)と称して朝貢(を絶えず行います」と誓った。

これにより、新羅・高麗・百済は官家屯倉(天皇の直轄領)となった。これが三韓(みつからのくに)である。こうして三韓征伐を終えた皇后は、晴れて新羅から凱旋した。


麛坂皇子・忍熊皇子の反乱(日本書紀版)


人文研究見聞録:神功皇后の伝説(まとめ)

(仲哀天皇10年)2月、新羅を討った神功皇后は群臣らを率いて穴門豊浦宮に移り、仲哀天皇の喪(もがり)を終えると、海路から京(大和)へ向かった。

そのとき、麛坂皇子(カゴサカノミコ)・忍熊皇子(オシクマノミコ)は、"父・仲哀天皇の崩御・皇后による三韓征伐・皇子(後の応神天皇)の誕生"を知り、密かに謀って「今、皇后には皇子がおり、群臣共も皆 従えている。この後 幼い主(天皇)を立てることだろう。兄である我々が なぜ弟に従わなければならぬのか」と相談した。

そこで、播磨の赤石(明石)に陵(天皇の墓所)を造るふりをして、石材のある淡路島から赤石まで 船を繋いで道を造った。そのとき、麛坂皇子忍熊皇子皇后を迎え撃つため、倉見別(クラミワケ)五十狹茅宿禰(イサチノスクネ)を将軍として東国の兵を起こした。

また、麛坂皇子忍熊皇子は戦勝を占う祈狩(うけいがり)を行うために菟餓野に出向き、桟敷に上って「もし、事が成功するならば、必ず良い獣(しし)を得るだろう」と祈った。すると、赤猪が現れて麛坂皇子を食い殺してしまい、兵士達は皆 怖気付いてしまった。しかし、忍熊皇子倉見別を呼んで「この怪(しるし)は"此処で敵を待つべきではない"ことを示すものだ」と言い、すぐに軍営を引いて住吉に移した。

そのとき、皇后忍熊皇子が軍を起こしたことを知り、武内宿禰(タケノウチノスクネ)皇子を保護するよう命じ、南海から紀伊水門に向かわせた。

一方、皇后の船は直に難波へと向ったが、海上で回って先に進むことができなかった。

そこで務古水門に戻って原因を占うと、天照大神(アマテラス)より「我が荒魂は広田国に居るべきだ」という神託が下ったため、葉山媛(ハヤマヒメ)に命じて祀らせた。

また、稚日女尊(ワカヒルメ)より「我は活田長峽國に居る」という神託が下ったため、海上五十狹茅(ウナガミノイサチ)に命じて祀らせた。

また、事代主尊(コトシロヌシ)より「我を長田国に祀れ」という神託が下ったため、長媛(ナガヒメ)に命じて祀らせた。

また、表筒男(ウワツツノオ)・中筒男(ナカツツノオ)・底筒男(ソコツツノオ)より、「我が和魂は大津の渟中倉の長峽に居り、行き交う船を見ている」という神託が下ったため、皇后は教えられた通りに鎮め祀った。

すると、皇后の船は海上を先に進むことができるようになった。

忍熊皇子が菟道(宇治)に軍営を設けたころ、皇后は紀伊国の日高で皇子と合流した。そこで群臣と話し合って忍熊皇子と戦うことに決め、小竹宮(しののみや)に移った。

このとき、昼なのに夜のように暗い日々が長く続いており、当時の人々は"これは常夜(とこやみ)である"と噂していた。

そこで皇后豊耳(トヨミミ)に「この怪(しるし)は どういう意味だ?」 と問うと、現地の老父が「聞く話によれば、このような怪を阿豆那比之罪(あずないのつみ、二人の神官を合葬する罪)と言います」と答えた。

そこで詳しく問うと、老父は「二つの社に祝者(神官)を共に合わせて葬っているからでしょう」と答えた。また、別の者が「小竹祝(シノノハフリ)天野祝(アマノハフリ)は とても仲が良く、小竹祝が病死した時に 天野祝がとても悲しんで屍(遺体)の傍に伏して自決したので共に葬ったのです」と言った。

これにより、その祝者の墓を開いてみると二人の屍が出てきたので、棺を新しく造って別々の場所に埋葬した。すると、すぐに日光が照りはじめ、昼と夜が元に戻った。

(仲哀天皇10年)3月5日、皇后武内宿禰武振熊(タケフルクマ)に数万の兵士を与えて忍熊皇子を討つように命じた。

武内宿禰たちは精鋭兵を選んで山背へ向かい、菟道に軍営を設けた。忍熊皇子は これを迎え撃つために熊之凝(クマノコリ)を先鋒として声高く歌を詠んだ。

【和歌】

彼方の あらら松原 松原に 渡り行きて 槻弓に まり矢を副へ 貴人は 貴人どちや 親友はも 親友どち いざ戦はな 我は

たまきはる 内の朝臣が 腹内は 小石あれや いざ戦はな 我は

【意訳】

遠方の疎林の松原に進んでいって、槻弓に鏑矢をつがえ、貴人は貴人同士、親友は親友同士、さあ戦おう、我々は

武内朝臣の腹の中には、小石が詰まっているはずはない、さあ戦おう、我々は

武内宿禰は、兵士全員に椎結(かみあげ、降伏の意味を持つ髪の結い方)するように伝えて「それぞれの儲弦(うさゆずる、予備の弓弦)を髪の中に隠し、木刀(こだち)を身に付けておけ」 と命じた。

準備が整うと、武内宿禰忍熊皇子を騙して「私は天下を貪るつもりなどなく、幼い皇子を抱いて君主に従おうとしているだけだ。なぜ戦わなくてならない。願わくば共に弓弦を断ち、兵(つわもの、兵士・武器)を捨てて和睦しようではないか。そうすれば、君主の傍に座し、安らかに政務に従事できるではないか」と言い、兵士全員に"弓弦を切り、刀を解いて、河に投げ入れろ"と命じた。すると、忍熊皇子武内宿禰の言葉を信じて、自分の兵士全員に武装を解いて河に投げ込むよう命じた。

ここで武内宿禰は、兵士に"椎結に隠した儲弦(予備の弓弦)を張り、真刀を帯びよ"と命じて進軍させた。これに対し、忍熊皇子は将軍の倉見別五十狹茅宿禰に「私は騙された。予備の兵器が無いため、今は戦えない」と言って、兵を退かせるよう命じた。武内宿禰は精鋭兵に命じて追撃させると、ちょうど逢坂(おおさか)で追付いて撃破したので、その地を逢坂(あうさか)と名付けた。

また、敗走した多くの兵士は狹々浪の栗林に追い詰められて斬られたため、その血が栗林に溢れた。これを憎んで今でも栗林の木の実を御所に献上することはない。

逃げ隠れる場所を失った忍熊皇子は、五十狹茅宿禰を呼び寄せて歌を詠んだ。

【和歌】

いざ吾君 五十狹茅宿禰 たまきはる 内の朝臣が 頭槌の 痛手負はずは 鳰鳥の 潜せな

【意訳】

さあ、わが君、五十狹茅宿禰よ、武内宿禰の、手痛い攻撃を身に受けずに、鳰鳥のように水に潜って死のう

そして、二人で瀬田(瀬田川)に身を投げて死んでしまった。このとき、武内宿禰も歌を詠んだ。

【和歌】

淡海の海 瀬田の済に 潜く鳥 目にし見えねば 憤ろしも

【意訳】

瀬田の渡りに潜った鳥が見えなくなれば、心が晴れぬ

この後、二人の屍を捜索したが見つからず、さらに日数が過ぎてから菟道川にて発見された。そこで、武内宿禰は歌を詠んだ。

【和歌】

淡海の海 瀬田の済に 潜く鳥 田上過ぎて 菟道に捕へつ

【意訳】

瀬田の渡りに潜った鳥は、田上を過ぎて、菟道で捕えた


地方に残る伝説


人文研究見聞録:神功皇后の伝説(まとめ)

【大阪府】

住吉大社(大阪府大阪市):『日本書紀』において、神功皇后が住吉三神の神託を受けて創建した
百舌鳥八幡宮(大阪府堺市):三韓征伐の後、神功皇后が当地に留まって天下万民を護ろうと請願を立てたと伝わる

【兵庫県】

廣田神社(兵庫県西宮市):『日本書紀』において、神功皇后が天照大神の神託を受けて創建させた
生田神社(兵庫県神戸市):『日本書紀』において、神功皇后が稚日女尊の神託を受けて創建させた
・長田神社(兵庫県神戸市):『日本書紀』において、神功皇后が事代主神の神託を受けて創建させた
・生田裔神八社(兵庫県神戸市):神功皇后が長田・生田・広田・住吉の4社を創建後に巡拝したという伝説のある8社
・弓弦羽神社(兵庫県神戸市):忍熊皇子の反乱の際、当地に弓矢・甲冑を納めて熊野大神に戦勝を祈願したと伝わる
・甲山(兵庫県西宮市):神功皇后が国家鎮護のため、山に如意宝珠・金甲冑・弓箭・宝剣・衣服等を埋めたと伝えられる
六甲山石宝殿(兵庫県西宮市):神功皇后が三韓から持ち帰った"神の石"や"黄金の鶏"を埋めたと伝えられる
・三島神社(兵庫県相生市):三韓征伐の折、神託によって赤地向鼻(相生字甲崎)に三島大神を分霊を祀ったとされる

【和歌山県】

・小竹八幡神社(和歌山県御坊市):忍熊皇子の反乱の際、常夜になったという伝説にまつわる神社

【福岡県】

・志賀海神社(福岡県福岡市):当社を奉斎してきた安曇族の祖・安曇磯良が、神功皇后の三韓征伐を助けたと伝わる
・警固神社(福岡県福岡市):三韓征伐の後、神功皇后の船団を護って勝利に導いた警固大神を福崎に祀ったことに始まる
・宮地嶽神社(福岡県福津市):神功皇后が三韓征伐の前に宮地岳の頂上に祭壇を設けて天神地祇を祀ったことに始まる
・皿倉山(福岡県北九州市):多くの神功皇后伝説が残る山として知られ、山の名前も神功皇后の伝説に由来する
・和布刈神社(福岡県北九州市):神功皇后が三韓征伐の凱旋時に、安曇磯良の奇魂・幸魂を速門に鎮めたことに始まる
・太刀八幡宮(福岡県朝倉市):神功皇后が熊襲討伐の折に当地で兵器を鍛えたと伝えられ、御剣を納めた太刀塚がある
・羽白熊鷲の墓(福岡県朝倉市):『日本書紀』に登場し、神功皇后に討伐された羽白熊鷲(空を飛べた者)の墓とされる
・風浪宮(福岡県大川市):神功皇后が三韓の帰途に見た白鷺を、少童命の化身として安曇磯良に祀らせたことに始まる
・鷹尾神社(福岡県柳川市):土蜘蛛の田油津姫の討伐伝説にまつわる地であり、境内に神功皇后腰掛石がある
・弓頭神社(福岡県三潴郡):神功皇后の三韓征伐の折、弓大将として新羅役に参戦した国乳別皇子が祀られる
・大分八幡宮(福岡県飯塚市):当地は神功皇后が三韓征伐の帰途に一時的に留まった場所であると伝わる

【大分県】

・宇佐神宮(大分県宇佐市):名物の宇佐飴は、神功皇后が皇子(応神天皇)を育てる際に母乳の代わりに与えたと伝わる

【長崎県】

・爾自神社(長崎県壱岐市):神功皇后が三韓征伐の折に追風が吹くように祈願すると、祈りが通じて割れた東風石がある
・赤瀬鼻(長崎県壱岐市):神功皇后が三韓征伐の帰途に皇子を出産し、その時の産血が瀬に染みて赤くなったと伝わる
・湯ノ本温泉(長崎県壱岐市):神功皇后が応神天皇の産湯を使ったという伝説がある(子宝の湯として有名)
・聖母宮(長崎県壱岐市):神功皇后が三韓征伐の折に建てた行宮に始まり、凱旋時に101,500の首を埋めたと伝わる

matapon
著者: matapon Twitter
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。