善福寺(有馬町) [兵庫県]
2017/04/14
兵庫県神戸市の有馬温泉地区にある善福寺(ぜんぷくじ)です。
奈良時代に行基によって創建された寺院であり、本尊はインド伝来の阿弥陀如来像であるとされています。
寺院概要
縁起
由緒書によれば、神亀4年(727年)に僧・行基(ぎょうき)が有馬温泉に開創した"落葉山水月庵"に始まり、後の建久2年(1191年)に吉野の僧・仁西(にんさい)が温泉寺と共に再興したとされています。
安土桃山時代には豊臣秀吉や北政所(ねね)から寄進があり、善福寺住僧は湯山代官に任じられ、当寺は温泉寺や温泉の管理寺となったとされます。また、秀吉が山内で大茶会が開いたという由縁により、有馬大茶会の献茶会は善福寺で行われるそうです。
なお、由緒書による解説は以下の通りです。
善福寺由緒
善福寺は僧・行基(ぎょうき、天平勝宝元年・749年寂)が、有馬温泉の温泉寺を開いた時、「落葉山水月庵」として開創した法相宗の寺であった。後の建久2年(1191年)に吉野の僧・仁西(にんさい)が有馬温泉を再興した時、温泉寺と共に水月庵も再興された。
本尊は一光三尊阿弥陀如来(善福寺如来)である。印度の月蓋長者(がっかいちょうじゃ)が閻浮檀金(えんぶだごん)で鋳造した仏像。伝来して新羅王より聖徳太子に贈られた。後に、多田源氏の祖・源満仲(みなもとのみつなか)が、念持佛として祀らせ、多田院に安置させたものを、正慶2年(1333年)に善福寺本尊として施入した(善福寺縁起)。寺号を善福寺としたのは この頃と思われる。宝徳4年(1452年)の相国寺の僧・瑞渓周鳳(ずいけいしゅうほう)の「温泉行記」には、善福寺と記す。
“善福寺縁起には更に美女丸の事あり。満仲は三男・美女丸濫行ゆえ、家臣・藤原仲光に命じ 殺さしむ。仲光 忍びず、その子・幸寿丸を自害せしめ、その首を代わりに指し出す。美女丸 災難を逃れ、後に学問に励み、源信僧都の弟子となり、善光寺にて満仲と対面する。満仲は幸寿丸を討ちて美女丸に代えし事を聞き、仲光の忠心を限りなく感じ、悲分の死を悼み、その菩提として多田に小童寺を建つ。満仲の奥方 盲目となりしを幸寿丸を弔い、善光寺如来を信仰して目を開くという。”
この縁起の内容は、藤原仲光が帰郷して建立した奥州黒岩の正洞寺 開山の由緒話でもあり、関東・奥州の武士達の先祖話となり、美女丸物語が善光寺如来 信仰と結びつき、善光寺にもたらされて、合戦記、唱導文芸などとなり、曲舞「満仲」、幸若舞「満仲」、能「仲光」となって、中世の文芸・芸能の創出の源となった。
秀吉は有馬温泉を好み、入湯は十度を越えている。温泉寺の三院の一つ、蘭若院阿弥陀堂や、その本寺であった善福寺へは、秀吉や北政所(ねね)による所領安堵、寄進があり、善福寺住僧は湯山代官の一人であり、一の湯の燈明寺として温泉寺や温泉の管理寺であった。
曹洞宗に改めたのは、太清宗渭(たいせいそうい、秀吉の寵臣・薄田隼人の伯父)の本願により、海翁宗波 和尚が永平寺の末寺、宇治興聖寺の5世・万安英種(ばんなんえいしゅ)を勧請した17世紀初頭である。
明治の廃仏毀釈で阿弥陀堂が廃寺にされたので、什物の重文・聖徳太子南無仏像、阿弥陀堂釜、文書などは善福寺に属した。重文「南無仏太子像」は桧の寄木造りで、像高68.5センチ、童顔、上半身裸像金泥、下半身緋袴、玉眼で、胎内に運慶4代の「法印湛幸」と「湛賀」の銘があり、鎌倉時代である14世紀初めの作である。
聖徳太子は釈迦の化身で、2歳の時に東に向かって合唱して「南無仏」と唱えられたという(太子伝暦917年)、太子信仰に基づく像型である。阿弥陀堂釜は、秀吉が利休に命じ、天下一与次郎(辻与次郎)に阿弥陀堂の住持・澄西(文禄4年・1595年寂)の大頭に模して作らせた。秀吉好みの大振り荒肌の茶釜であり、大名、武将に好まれた阿弥陀堂釜の原型である。
現在の本堂は、宝暦7年(1757年)上棟で神戸市の歴史的建造物であり、樹齢200年を超える「糸桜」は一重の花びらの しだれ桜で、神戸市の銘木に指定されている。
善福寺は僧・行基(ぎょうき、天平勝宝元年・749年寂)が、有馬温泉の温泉寺を開いた時、「落葉山水月庵」として開創した法相宗の寺であった。後の建久2年(1191年)に吉野の僧・仁西(にんさい)が有馬温泉を再興した時、温泉寺と共に水月庵も再興された。
本尊は一光三尊阿弥陀如来(善福寺如来)である。印度の月蓋長者(がっかいちょうじゃ)が閻浮檀金(えんぶだごん)で鋳造した仏像。伝来して新羅王より聖徳太子に贈られた。後に、多田源氏の祖・源満仲(みなもとのみつなか)が、念持佛として祀らせ、多田院に安置させたものを、正慶2年(1333年)に善福寺本尊として施入した(善福寺縁起)。寺号を善福寺としたのは この頃と思われる。宝徳4年(1452年)の相国寺の僧・瑞渓周鳳(ずいけいしゅうほう)の「温泉行記」には、善福寺と記す。
“善福寺縁起には更に美女丸の事あり。満仲は三男・美女丸濫行ゆえ、家臣・藤原仲光に命じ 殺さしむ。仲光 忍びず、その子・幸寿丸を自害せしめ、その首を代わりに指し出す。美女丸 災難を逃れ、後に学問に励み、源信僧都の弟子となり、善光寺にて満仲と対面する。満仲は幸寿丸を討ちて美女丸に代えし事を聞き、仲光の忠心を限りなく感じ、悲分の死を悼み、その菩提として多田に小童寺を建つ。満仲の奥方 盲目となりしを幸寿丸を弔い、善光寺如来を信仰して目を開くという。”
この縁起の内容は、藤原仲光が帰郷して建立した奥州黒岩の正洞寺 開山の由緒話でもあり、関東・奥州の武士達の先祖話となり、美女丸物語が善光寺如来 信仰と結びつき、善光寺にもたらされて、合戦記、唱導文芸などとなり、曲舞「満仲」、幸若舞「満仲」、能「仲光」となって、中世の文芸・芸能の創出の源となった。
秀吉は有馬温泉を好み、入湯は十度を越えている。温泉寺の三院の一つ、蘭若院阿弥陀堂や、その本寺であった善福寺へは、秀吉や北政所(ねね)による所領安堵、寄進があり、善福寺住僧は湯山代官の一人であり、一の湯の燈明寺として温泉寺や温泉の管理寺であった。
曹洞宗に改めたのは、太清宗渭(たいせいそうい、秀吉の寵臣・薄田隼人の伯父)の本願により、海翁宗波 和尚が永平寺の末寺、宇治興聖寺の5世・万安英種(ばんなんえいしゅ)を勧請した17世紀初頭である。
明治の廃仏毀釈で阿弥陀堂が廃寺にされたので、什物の重文・聖徳太子南無仏像、阿弥陀堂釜、文書などは善福寺に属した。重文「南無仏太子像」は桧の寄木造りで、像高68.5センチ、童顔、上半身裸像金泥、下半身緋袴、玉眼で、胎内に運慶4代の「法印湛幸」と「湛賀」の銘があり、鎌倉時代である14世紀初めの作である。
聖徳太子は釈迦の化身で、2歳の時に東に向かって合唱して「南無仏」と唱えられたという(太子伝暦917年)、太子信仰に基づく像型である。阿弥陀堂釜は、秀吉が利休に命じ、天下一与次郎(辻与次郎)に阿弥陀堂の住持・澄西(文禄4年・1595年寂)の大頭に模して作らせた。秀吉好みの大振り荒肌の茶釜であり、大名、武将に好まれた阿弥陀堂釜の原型である。
現在の本堂は、宝暦7年(1757年)上棟で神戸市の歴史的建造物であり、樹齢200年を超える「糸桜」は一重の花びらの しだれ桜で、神戸市の銘木に指定されている。
本尊
・阿弥陀如来(あみだにょらい):西方の極楽浄土の教主で、生あるもの全てを救う仏とされる
→ 当寺の本尊は善福寺如来と呼ばれ、インドの月蓋長者によって閻浮檀金(赤黄色の良質な金)で鋳造されたと伝わる
→ インドから新羅に渡ったものが、新羅王から聖徳太子に贈られたと伝わる
⇒ 後に源満仲の念持佛となり、多田院に安置されていたものが当寺の本尊になったとされる
→ 当寺の本尊は善福寺如来と呼ばれ、インドの月蓋長者によって閻浮檀金(赤黄色の良質な金)で鋳造されたと伝わる
→ インドから新羅に渡ったものが、新羅王から聖徳太子に贈られたと伝わる
⇒ 後に源満仲の念持佛となり、多田院に安置されていたものが当寺の本尊になったとされる
境内の見どころ
山門
善福寺の山門です。
本堂
善福寺の本堂です。
利休居士供養塔
善福寺にある利休居士供養塔です。
料金: 無料
住所: 兵庫県神戸市北区有馬町1645(マップ)
営業: 終日開放
交通: 有馬温泉駅(徒歩5分)
公式サイト: http://www.arima-onsen.com/facility_info117.html
住所: 兵庫県神戸市北区有馬町1645(マップ)
営業: 終日開放
交通: 有馬温泉駅(徒歩5分)
公式サイト: http://www.arima-onsen.com/facility_info117.html
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「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
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