なぜ、伊勢神宮にはスサノオが祀られていないのか?
2018/01/30
伊勢神宮は、国内最高峰の別格の神社として知られています。
外宮にはトヨウケノオオカミ、内宮には日の神・アマテラスが祀られており、その周辺には月の神・ツクヨミが祀られていますが、ヤマタノオロチを退治したことで知られるスサノオの名前を見かけることがありません。
神社や神について知識があれば「アマテラス、ツクヨミとくれば、スサノオも祀られているだろう」と思う人も多いと思います。しかし、意識して伊勢神宮の周辺を歩き回っても、スサノオの名前は全く見られないのです。
以前、SNSでこの件について質問を貰ったこともありますが、答えられませんでした。自分も同じ疑問を持っているので、今回は「なぜ、伊勢神宮にはスサノオが祀られていないのか?」というテーマで、調査・考察をしていきたいと思います。
伊勢神宮には本当にスサノオが祀られていないのか?
伊勢神宮の内宮・外宮の関連社を調べてみましたが、どうやらスサノオを祀っている神社は1社も無いようです。
なお、内宮摂社の粟皇子神社の祭神名は「須佐乃乎命御玉道主命(スサノオノミコトノ ミタマノ ミチヌシノ ミコト)」と、スサノオっぽい名前ですが、この神はスサノオとアマテラスの誓約によって生まれた女神であり、別名を淡海子神(アワミコノカミ)というそうです(つまり、スサノオの御子神ということになる)。
ちなみに、伊勢神宮の関連社の祭神には日本神話に登場する神々の名前も見られますが、同名でも全く別の神だったり、神話に登場する神の印象とは全く異なるいわれを持っていたりと、結構 謎が多いことが分かりました。
関連記事:【皇大神宮(内宮)】 【内宮の関連社(まとめ)】 【豊受大神宮(外宮)】 【外宮の関連社(まとめ)】
元伊勢の祭神を探ってみる
伊勢神宮の歴史を遡ると、元伊勢(もといせ)というキーワードが引っかかります。
元伊勢とは伊勢神宮が現在地に定まるまでに一時的に祀られていた場所のことであり、元々皇居の中で祀られていた皇祖神のアマテラスが第10代崇神天皇の時代に皇居の外に祀られることになり、奉祀を託された皇女が各地を巡って鎮座するにふさわしい場所を探して回ったとされています。
この元伊勢伝承地の中には、主祭神にスサノオを祀る神社が数社あるものの、由緒不明のものや、後世に祀られたもの、元伊勢伝承のある神社がスサノオを祀っていた神社の社地に遷座されたものなどで、伊勢神宮と具体的に結びつくような情報は見つかりませんでした。
関連記事:【元伊勢の場所・祭神(まとめ)】
日本神話から探ってみる
「日本神話」によれば、国産み・神産みを成したイザナギ・イザナミ※という神から、アマテラス・ツクヨミ・スサノオという尊い神が生まれたとされています。この尊い三神は「三貴子」と呼ばれ、アマテラスは高天原など、それぞれの神が各国の統治を命じられますが、スサノオだけは命令に背いたため、根の国に追放されることになります(内容にはバリエーションがある)。
その後、スサノオは根の国に行く前にアマテラスに会いに行きますが、アマテラスはスサノオが悪心を持ってやってきたと疑って身構え、悪心の無かったスサノオは誓約によってそれを証明して、高天原に受け入れられます。しかし、スサノオは高天原で横暴に振る舞い、これを恐れた日の神・アマテラスは岩戸の中に閉じこもってしまって世界は暗闇に包まれます。
神々は知恵を絞ってアマテラスを岩戸から引っ張り出し、世界に再び日の光を取り戻します。その後、スサノオは罰を受けて高天原から追放され、根の国を目指して出雲に天下ります。そこでヤマタノオロチが生贄を食らうという話を聞き、次の生贄であるクシナダヒメを妻とすることを条件にヤマタノオロチを退治し、出雲を建国して根の国に去ります。
上記はスサノオの登場する神話を要約した内容ですが、これ以降にスサノオは神話にほとんど登場しません。この先はスサノオの子(子孫)であるオオクニヌシの話になり、登場すると言っても『古事記』にあるオオクニヌシの一部に登場するのみです(根の国を訪れたオオクニヌシに試練を与えたという件)。
一方、アマテラスは天皇の時代になっても登場することが多い神です。また、伊勢神宮創建の契機となったのは第10代崇神天皇の時代のことであり、この時代にはスサノオは全く登場しません。つまり、神話においてはスサノオは伊勢神宮に全く関与していないということが言えます。
では、なぜツクヨミが内宮・外宮の付近に祀られているのか?これについては『日本書紀』に「日の神は霊異が強かったので、天に上げて天上のことを教え込むことにした。次に月の神が生まれ、日の神に次いで明るかったため、イザナギとイザナミは日に副えて天を治めることができると考えた。よって、日の神と同様に天に上げて教育した」とあることから、主祭神に対する副神として祀られているのではないかと考えられます。
なお、上記はあくまでも『記紀神話』の内容から考察したものですが、実際のところは分かりません。一説には「『記紀神話』は政治的意図のもとに編纂されており、アマテラスはヤマト王権の神で、スサノオはこれと敵対していた古代出雲の神であるから祀られていない」とも言われているようですが、これも具体的な証拠がないので信憑性に欠けると思います。
※三貴子は、『古事記』ではイザナギから、『日本書紀』ではイザナギ・イザナミから生まれたとされる
関連記事:【古事記による日本神話】 【日本書紀による日本神話】
伊勢市にスサノオを祀る神社はあるのか?
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「そもそも、伊勢にはスサノオを祀る神社があるのか?」というテーマで調べてみると、いくつかの神社が見つかりました。
いずれも伊勢神宮との直接的なつながりは見えませんが、この中には、伊勢の文化に浸透している神社、内宮の禰宜が参勤していた記録のある神社、元伊勢伝承のある神社など、なかなか面白い話を持っている神社があります。
とりあえず、ピックアップした神社を以下に載せておきます。
・松下社(伊勢市二見町):スサノオを祀る松下地区の氏神で、加木牛頭天王社・御船者・蘇民の森とも呼ばれる
→ 創建年代は不詳、『氏経日次記』にある文安六年(1449年)の記事が最古の記録とされる
→ いつしかスサノオと同神とされる牛頭天王が勧請され、やがて これに関わる「蘇民社」が祀られたと考えられている
→ 「蘇民社」では古くから「蘇民将来子孫」と書いた桃符を頒布しており、これを注連縄に吊るす習わしが今も残る
・上田神社(伊勢市):スサノオを祀る中村町の産土神であり、元は「八王子社」と称していた
→ 『皇大神宮年中行事』の建久3年(1192年)の記録に、内宮の禰宜が八王子祭に参勤した記録がある
・磯神社(伊勢市):垂仁天皇25年3月、倭姫命が巡幸の途中でアマテラスを奉ったことが創祀とされる
→ アマテラスが現在地(内宮)に遷座後、旧跡として保存されたが宮川の洪水で崩壊する
→ 旧跡の崩壊後、現在の『神名帳考証』に記載されている「八王子社」の社地に遷座した
→ 「七起こしの舞」というスサノオのヤマタノオロチ退治を模した獅子舞を特殊神事として行う
→ 創建年代は不詳、『氏経日次記』にある文安六年(1449年)の記事が最古の記録とされる
→ いつしかスサノオと同神とされる牛頭天王が勧請され、やがて これに関わる「蘇民社」が祀られたと考えられている
→ 「蘇民社」では古くから「蘇民将来子孫」と書いた桃符を頒布しており、これを注連縄に吊るす習わしが今も残る
・上田神社(伊勢市):スサノオを祀る中村町の産土神であり、元は「八王子社」と称していた
→ 『皇大神宮年中行事』の建久3年(1192年)の記録に、内宮の禰宜が八王子祭に参勤した記録がある
・磯神社(伊勢市):垂仁天皇25年3月、倭姫命が巡幸の途中でアマテラスを奉ったことが創祀とされる
→ アマテラスが現在地(内宮)に遷座後、旧跡として保存されたが宮川の洪水で崩壊する
→ 旧跡の崩壊後、現在の『神名帳考証』に記載されている「八王子社」の社地に遷座した
→ 「七起こしの舞」というスサノオのヤマタノオロチ退治を模した獅子舞を特殊神事として行う
伊勢で年中飾られる注連飾りのいわれとは?
伊勢の町を歩いていると、所々で違和感を覚える光景に出くわします。
その違和感の正体は「注連飾り(しめかざり)」です。おはらい町なんかを歩いているとよくわかるのですが、いつ行っても注連飾りが飾られています。注連飾りを家に飾るのは正月というイメージが強く、多くの場所では正月以外に見ることはないのですが、どうやら伊勢では年中飾られているようです。
上記で挙げた松下社の情報から、この注連飾りについて調べてみると、スサノオに関する以下のような説話が見つかりました。
蘇民将来子孫家門のいわれ
夫婦岩で知られる二見浦の近くにはこんもりと茂る松下社の森がある。昔からスサノオを祀る松下社の辺りは、伊勢神宮に深いゆかりがあり、御茅(みかや)を献納する里でもあった。
これは、かつて この森に住んでいた蘇民(そみん)と巨旦(こたん)という兄弟の物語である。
昔々、スサノオはアマテラスの怒りに触れて神々の住む高天原を追放されて北の海に住んでいた。スサノオが成年になったとき、温暖な南の海に住む神の娘を娶とりたいと思って、南の国に旅に出ることにした。
山や川を越えて各地を旅して歩いたスサノオは、やがて伊勢の地に到着した。この時には すでに日が沈みかけ、疲れもだいぶ溜まっていた。丁度「みわたの国」に差し掛かった時には日はどっぷりと暮れていたので、旅の疲れを癒やすために宿を貸してくれる者を探すことにした。
スサノオが歩いていると、薄暗がりの中にこんもりとした森が見え、その中に灯火も見える。そこで近づいてみると、立派な門構えの屋敷が見えてきた。この屋敷には、里一番の長者である巨旦将来(こたんしょうらい)が住んでおり、門の周りには太い松や檜が茂り、多くの家や倉が立ち並んでいる様子も見える。さらに進むと、やがて大きな母屋が見えてきた。
スサノオは母屋の門を叩いて、家主に宿を貸してくれるよう声をかけた。すると、豪華な造りの家の奥から巨旦が顔を出し、家の中から眩しく漏れる灯火が、深く一礼するスサノオのやつれた姿を照らしだした。
巨旦は、スサノオの貧相な身なりを見るなり「なんと汚らしい。そんなに汚れた格好をしている者を我が家に泊めることはできぬ。さあ、出て行ってくれ」と追い返した。しかし、スサノオが頭を下げて丁寧に頼み続けていると、巨旦は森の向こうに住む蘇民に頼むよう教えて、さっさと戸を閉めてしまった。
スサノオは、仕方なく教えられた通りに蘇民将来(そみんしょうらい)の家を訪ねて歩くことにした。
スサノオが暗闇の中を歩いていると森の外れに小さな灯りが見え、それを手がかりに進むと やがて粗末な造りの小屋が見えてきた。周りには茅や芒が高々と茂っており、なんともみすぼらしく見える。
スサノオは小屋の戸を叩き、宿を貸してくれるよう頼むと、小屋から出てきた蘇民は「それは お困りでしょう。遠い所から遥々おいで下さいました。こんな所でよろしければ、どうぞお泊まり下さい」と快く迎え入れ、スサノオのために藁を敷いて寝床をつくり、蘇民の妻も粟飯を蒸してスサノオをもてなした。
スサノオは蘇民夫婦の温かいもてなし大変喜んで粟飯を食べ、気持ちよく床に就いて旅の疲れを癒やした。
その夜半、スサノオは「あわさ」という北の国から恐ろしい悪疫が襲ってくることを察し、蘇民を起こして このことを伝え、蘇民に茅(ちがや)を刈り集めさせた。スサノオは その茅で輪を編むと「これを茅垣(ちがき)にして囲んでおけば、心配はいらぬ。悪疫も逃げ去っていくだろう」と言い、茅の輪を家の周りに張りめぐらせて、また床に就いた。
翌朝、その日は晴天で天気が良かったが、里の外に出ているものは誰一人いなかった。どうやら、どこの家も悪疫にやられて病に倒れてしまったらしい。蘇民は驚いたが「我が家だけが助かったとは、なんとも有難いことよ」とスサノオが作った茅の輪の不思議な力に救われたことに感謝した。
スサノオは、旅立つ前に蘇民に「慈悲深い蘇民よ。我はスサノオである。これからどんな疫病が流行っても『蘇民将来子孫家門(そみんしょうらいしそんけのもん)』と書いて門口に掲げておけば、その災いから免れるであろう」と言い残し、旅立って行った。
これ以来、蘇民の家は代々栄えるようになり、いつの頃からか伊勢の地方では新年の注連縄(しめなわ)に魔除けとして「蘇民将来の符」を吊るすようになった。この門符はスサノオを祀る松下社で頒布されており、松下社の森は「蘇民の森」と呼ばれるようになったという。
参考サイト:ええじゃないか伊勢の旅(魔除けの門符)
この話のように、伊勢の注連飾りはスサノオにまつわる物のようです。
また、この説話は『備後国風土記逸文』や『祇園牛頭天王縁起』にも同じような内容で載せられており、夏場に行われる「茅の輪くぐり」は、この蘇民将来の説話に基づく習わしであるといわれています。
なお、伊勢の注連飾りには「蘇民将来子孫家門」の他にも「笑門」や「千客萬来」と書かれていることがあります。「千客萬来」は呼んで字の如くですが、「笑門」は「蘇民将来子孫家門」が略された「将門」になったときに、平将門公に通じるということで忌まれて「笑門」となったそうです。
関連記事:【牛頭天王とは?】 【蘇民将来とは?】
まとめ
今回調べた限りでは、伊勢神宮にスサノオが祀られていない確信的な理由は分かりませんでした。
しかし、伊勢におけるスサノオは「魔除けの注連飾り」という形で、伊勢の周辺の文化に浸透していることが分かりました。
よって、スサノオは伊勢神宮には祀られていないものの、伊勢には三貴子が揃っていると言えるのではないでしょうか?
なお、スサノオは全国的に祀られている神なのですが、その詳細についてはよく分かっていません。
信仰の形態にも「出雲の信仰」「熊野信仰」「祇園信仰」「津島信仰」「氷川信仰」など、様々なものがあります。
その辺を押さえていないので詳しいことは言えませんが、新しいことが分かったら追記してみたいと思います。
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「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
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