ツヌガアラシト像 [福井県]
2018/02/13
福井県敦賀市にある都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)の像です。
敦賀駅前にあり、敦賀の地名にもなった当地ゆかりの人物として像が建てられています。
概要
敦賀駅前には都怒我阿羅斯等の像があります。
この像は『日本書紀』に登場する都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)という人物の像で、『日本書紀』には このツヌガアラシトが気比の浦にやってきたことから当地が「角鹿(つぬが)」と名付けられたとされています。
また、案内板によれば、ツヌガアラシトの額に角があったことから当地が「角額(つのぬか)」と呼ばれ、それが縮まって「角鹿(つのが)」となり、奈良時代に「敦賀(つるが)」と改められたそうです。
こうした由緒から、敦賀にゆかりの深い人物として像が建てられています。
なお、案内板の内容は以下の通りです。
【伝説による都怒我阿羅斯等】
日本書記の巻第六の項に「一に曰く崇神天皇の世に額に角有ひたる人 一の船に乗りて越国の筍飯浦(けひのうら)に泊れり 故(かれ)其處(そこ)をなずけて角鹿(つぬが)と曰ふ…。」の記事がみえている。
任那(みまな)国の王子 都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)はひたいに大きな角のようなものがあったとか 又 異人を浜辺にみた人々が恐れてその偉大さをたたえて口にしたものとか あるいは王子の正装の冠とか武装して上陸したのであれば 冑(かぶと)ではなかろうか…。など古代人によせる後人の思いはさまざまである。
この都怒我阿羅斯等の像を有識者各位の説を参考にして、敦賀ライオンズクラブが建立した。
都怒我阿羅斯等の額には角があったことから角額(つのぬか)と呼び、これが縮まって角鹿(つのが)となり、その後 元明天皇の和銅6年に敦賀(つるが)という字に改められたという。
日本書記の巻第六の項に「一に曰く崇神天皇の世に額に角有ひたる人 一の船に乗りて越国の筍飯浦(けひのうら)に泊れり 故(かれ)其處(そこ)をなずけて角鹿(つぬが)と曰ふ…。」の記事がみえている。
任那(みまな)国の王子 都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)はひたいに大きな角のようなものがあったとか 又 異人を浜辺にみた人々が恐れてその偉大さをたたえて口にしたものとか あるいは王子の正装の冠とか武装して上陸したのであれば 冑(かぶと)ではなかろうか…。など古代人によせる後人の思いはさまざまである。
この都怒我阿羅斯等の像を有識者各位の説を参考にして、敦賀ライオンズクラブが建立した。
都怒我阿羅斯等の額には角があったことから角額(つのぬか)と呼び、これが縮まって角鹿(つのが)となり、その後 元明天皇の和銅6年に敦賀(つるが)という字に改められたという。
ツヌガアラシトとは?
都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)とは『日本書紀』に登場する人物で、古代朝鮮の意富加羅国の王子とされています。
『日本書紀』によれば、崇神天皇の御代に 天皇に仕えるために日本にやって来たとされますが、その時 すでに崇神天皇が崩御していたため、次代の垂仁天皇に3年仕え、帰った後に自分の国を任那国(みまなのくに)と改めたとされます。
また、「額には角があった」ということや、この特徴から「角鹿(つぬが)」という地名が起こったことなども書かれています。ちなみに「額には角があった」などの妖怪じみた特徴を持つ人物は『日本書紀』には結構登場しており、この他に「尾がある人(井光)」や「翼がある人(羽白熊鷲)」などが挙げられます。
なお、ウィキペディアによれば ツヌガアラシトは『日本書紀』以外の文献にも登場しているようです。自分が知っている限りでは『ホツマツタヱ』に登場しており、この文献には「崇神天皇に5年仕えて国に帰り、任那国を建国した」「任那国が新羅国と戦争になった時に援軍を出した」などの『日本書紀』とは微妙に異なる説話が記されています(参照リンク)。
ツヌガアラシトの伝説
『日本書紀』にあるツヌガアラシトの伝説は以下の通りです。
【日本書紀のツヌガアラシト(その一)】
ある書によれば、崇神天皇の御代に"額に角のある人"が一隻の舟に乗って越国の笥飯浦(けひのうら)にやってきたので、その地を角鹿(つぬが)と名付けたという。
その"額に角がある人"にどこの国の人か尋ねると「意富加羅國(おおからのくに)の王子で、名は都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)、またの名を于斯岐阿利叱智于岐(ウシキアリシチカンキ)という。
人づてに日本国に聖皇がいると聞いたので、帰化しようと思ってやってきたのだが、穴門(長門国)に着いた時に伊都々比古(イツツヒコ)という者が、私の臣に『私がこの国の王である。私をおいて二つの王はいない。なので他所には行くな』と言ったのだが、臣が見たところ絶対に王ではないということなので引き返すことにした。
だが、道が分からないのであちこちの嶋浦に向かい、北の海を回り、出雲国を経てここまで来たのだ」 と言った。
しかし、この時には崇神天皇が崩御していたので、ツヌガアラシトは日本に留まって垂仁天皇に仕えることにした。
それから三年が経った時、天皇がツヌガアラシトに国に帰りたかと問うと帰りたいというので、天皇は「お前が道に迷わずにもっと早く日本に来ていたら、先代の天皇に仕えられていただろう。よって、お前の本国の名前は御間城天皇(崇神天皇)から名前を取って改めると良い」と言い、赤織の絹を与えて本土に帰らせた。
ツヌガアラシトの本国が「彌摩那國(みまなのくに)」というのは、この由縁からである。
なお、ツヌガアラシトは貰った赤絹を自分の国の郡府(くら)に納めていたのだが、それを知った新羅人が兵を起こして赤絹を全て奪ってしまった。これが二国の怨恨の始まりである。
ある書によれば、崇神天皇の御代に"額に角のある人"が一隻の舟に乗って越国の笥飯浦(けひのうら)にやってきたので、その地を角鹿(つぬが)と名付けたという。
その"額に角がある人"にどこの国の人か尋ねると「意富加羅國(おおからのくに)の王子で、名は都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)、またの名を于斯岐阿利叱智于岐(ウシキアリシチカンキ)という。
人づてに日本国に聖皇がいると聞いたので、帰化しようと思ってやってきたのだが、穴門(長門国)に着いた時に伊都々比古(イツツヒコ)という者が、私の臣に『私がこの国の王である。私をおいて二つの王はいない。なので他所には行くな』と言ったのだが、臣が見たところ絶対に王ではないということなので引き返すことにした。
だが、道が分からないのであちこちの嶋浦に向かい、北の海を回り、出雲国を経てここまで来たのだ」 と言った。
しかし、この時には崇神天皇が崩御していたので、ツヌガアラシトは日本に留まって垂仁天皇に仕えることにした。
それから三年が経った時、天皇がツヌガアラシトに国に帰りたかと問うと帰りたいというので、天皇は「お前が道に迷わずにもっと早く日本に来ていたら、先代の天皇に仕えられていただろう。よって、お前の本国の名前は御間城天皇(崇神天皇)から名前を取って改めると良い」と言い、赤織の絹を与えて本土に帰らせた。
ツヌガアラシトの本国が「彌摩那國(みまなのくに)」というのは、この由縁からである。
なお、ツヌガアラシトは貰った赤絹を自分の国の郡府(くら)に納めていたのだが、それを知った新羅人が兵を起こして赤絹を全て奪ってしまった。これが二国の怨恨の始まりである。
【日本書紀のツヌガアラシト(そのニ)】
ある書によれば、ツヌガアラシトが国にいた時に黄牛に農具を負わせて田舎を歩いていると、いつの間にか黄牛がいなくなってしまった。すぐに牛を追って探したところ、牛の足跡はある郡家(役所)の中に続いていた。
そのとき、そこにいた一人の老人が「探している牛はこの郡家の中に入ったぞ。だが、郡公(役人)たちは『牛が背負っている農具から察するに殺して食べてしまってもよかろう。もし、持ち主が返せと言ったら物で弁償すればいい』と言って、牛を殺して食べてしまった。もし、役人に『牛の代わりに何が欲しいか?』と聞かれたら、財宝は望まずに『代わりに郡内で祀っている神が欲しい』と言うがよい」と言った。
しばらくすると、郡公(役人)が来て「牛の代わりに何が欲しいか?」と聞いてきたので、ツヌガアラシトは老人が言う通りに「郡内で祀っている神が欲しい」と答えた。
なお、その村で祀っている神は「白い石」であり、牛の代わりに白い石で弁償してもらった。
ツヌガアラシトが白い石を寝室に置いていると、白い石は美麗な童女(おとめ)になったので、大いに喜んで交わおうとしたが 、童女に近寄るとたちまち姿を消えてしまった。
驚いたツヌガアラシトが「童女よ、どこに行ってしまったのだ?」と問うと「東方に向かいます」と返答があったので、すぐに追いかけて遂には海を越えて日本国に入った。
なお、童女は難波に行って比賣語曾社の神となり、また豐國々前郡の比賣語曾社の神にもなって、この二箇所で祀らるようになったという。
ある書によれば、ツヌガアラシトが国にいた時に黄牛に農具を負わせて田舎を歩いていると、いつの間にか黄牛がいなくなってしまった。すぐに牛を追って探したところ、牛の足跡はある郡家(役所)の中に続いていた。
そのとき、そこにいた一人の老人が「探している牛はこの郡家の中に入ったぞ。だが、郡公(役人)たちは『牛が背負っている農具から察するに殺して食べてしまってもよかろう。もし、持ち主が返せと言ったら物で弁償すればいい』と言って、牛を殺して食べてしまった。もし、役人に『牛の代わりに何が欲しいか?』と聞かれたら、財宝は望まずに『代わりに郡内で祀っている神が欲しい』と言うがよい」と言った。
しばらくすると、郡公(役人)が来て「牛の代わりに何が欲しいか?」と聞いてきたので、ツヌガアラシトは老人が言う通りに「郡内で祀っている神が欲しい」と答えた。
なお、その村で祀っている神は「白い石」であり、牛の代わりに白い石で弁償してもらった。
ツヌガアラシトが白い石を寝室に置いていると、白い石は美麗な童女(おとめ)になったので、大いに喜んで交わおうとしたが 、童女に近寄るとたちまち姿を消えてしまった。
驚いたツヌガアラシトが「童女よ、どこに行ってしまったのだ?」と問うと「東方に向かいます」と返答があったので、すぐに追いかけて遂には海を越えて日本国に入った。
なお、童女は難波に行って比賣語曾社の神となり、また豐國々前郡の比賣語曾社の神にもなって、この二箇所で祀らるようになったという。
ツヌガ君
敦賀市公認のゆるキャラに「ツヌガ君」というキャラクターがいますが、このモデルになっているのがツヌガアラシトなんだそうです。ちなみに好物は敦賀名物という設定になっています。
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「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
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