吉備津神社 [岡山県]
2020/10/11
岡山県岡山市にある吉備津神社(きびつじんじゃ)です。
岡山県の桃太郎伝説にちなむ神社で、祭神に大吉備津彦大神を祀っています。
神社概要
由緒
由緒書によれば、当社は主祭神に大吉備津彦大神を祀る山陽道屈指の大社で、仁徳天皇の御代に創建されたと伝えられています。平安時代の『延喜式』では「名神大社」という社格を与えられ、その他にも最高位を得て「一品吉備津宮」とも称され、古来より吉備国(備前・備中・備後・美作)の開拓の大祖神として崇敬を受け、殖産興業・交通安全の守護神、また延命長寿の霊験あらたかな神として朝野の篤い信仰を集めたとされています。
主祭神の大吉備津彦大神(五十狭芹彦命)は『記紀』にも登場する人物で、『日本書紀』によれば崇神天皇の御代に四道将軍の一人として西道(山陽道)に派遣され、備前・備中・備後・美作を平定して吉備国としたとあり、『古事記』によれば比古伊佐勢理比古命(大吉備津彦大神)は弟の若日子建吉備津彦命と協力して吉備国を平定したとあります。
当地にはさらに詳しい伝説も残っています。その伝説は「吉備の地にやってきた五十狭芹彦命は、鬼ノ城に棲んで近隣の里人を捕えて食っていた温羅という鬼と戦い、追い詰めたところで温羅から吉備冠者という名を献上されたことで吉備津彦と呼ばれるようになった。吉備津彦は温羅の首をはねて止めを刺したが何年も生き続けた。ある夜、吉備津彦の夢に温羅が現れて『我が妻に釜で神饌を炊かせれば、今までの悪行の償いとして釜を唸らせて世の吉凶を告げよう』といったので、吉備津彦がそのようにすると、温羅の首は静かになった。この行事は以降も続けられるようになり、今でも吉備津神社の「鳴釜神事」として伝えられている」というものです。
こうした伝説から、大吉備津彦大神は岡山県では桃太郎のモデルとされています。ちなみに、神社境内には御釜殿という鳴釜神事を行う場所や矢置岩という伝説にまつわる岩があります。また、周辺にも吉備津彦の墓とされる中山茶臼山古墳があったり、伝説にまつわる神社・遺跡などが点在しています。
なお、案内板による由緒は以下の通りです。
御由緒
『古事記』『日本書紀』によれば、御祭神・大吉備津彦命は第7代孝霊天皇の皇子と生まれ、第10代崇神天皇の御代、四道将軍の随一として吉備国に下られ、当時、当地方にて蛮行を重ね大和朝廷に対抗していた温羅(うら、百済の王子とも伝えられている)一族を平定し、平和と秩序を築き、この地に宮を営まれて吉備国の人々のために殖産を教え、仁政を行い、281歳という長寿を以ってこの地に薨去せられ、吉備の中山の山頂に葬られました。
社伝によると、第16代仁徳天皇が吉備族より上がった采女・黒媛を慕って吉備国に行幸された時に、これの歓待にあたった吉備族より吉備津彦命の業績を聴かれ、その徳を偲んで吉備国の祖神として崇め奉斎されたと伝えられています。その後、延喜式の定まるや名神大社に列し、やがて天慶3年(940年)には最高の一品(いっぽん)の神階を贈られて「一品吉備大明神」また「三備(備前・備中・備後)の一宮」と称せられ、都から遠く離れた僻地に在りながら朝野の尊崇がことのほか篤く、平安末期の『梁塵秘抄』を見ても、その御神威のほどをうかがうことができます。
中世以降、江戸時代中期まで他者の例にもれず、当社もまた神仏習合の永い歴史を過ごしてきましたが、明治の神仏分離令を待たず、江戸時代中期には分離し、現在に至っております。
産業の守護神として、長寿の守り神として、その御神徳を慕う人々は今も昔も変わることなく吉備国の祖神として尊崇のマコトを捧げ続けております。また、吉備国の人々に歴史とロマンを伝えてきた吉備津彦命の温羅退治の伝説神話が中世以降全国的に知れ渡っている「桃太郎」のルーツとして親しまれています。
祭神
吉備津神社の祭神は以下の通りです。
主祭神
・大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと):第7代孝霊天皇の皇子で、四道将軍の1人として西道に派遣された
→ 別名:[古事記] 大吉備津日子命、比古伊佐勢理毘古命 [日本書紀] 彦五十狭芹彦命、吉備津彦命
→ 岡山県の桃太郎のモデルになったといわれる人物(キビツヒコ、イサセリヒコとも呼ばれる)
相殿神
・吉備津彦命(キビツヒコ):稚武吉備津彦命のこと(大吉備津彦命の弟または子)
・孝霊天皇(こうれいてんのう):第7代天皇で、大吉備津彦命の父
・孝元天皇(こうげんてんのう):第8代天皇で、大吉備津彦命の兄弟
・開化天皇(かいかてんのう):第9代天皇で、孝元天皇の子
・崇神天皇(すじんてんのう):第10代天皇で、開化天皇の子
・彦刺肩別命(ヒコサシカタワケ):大吉備津彦命の兄
・天足彦国押人命(アマタラシヒコクニオシヒト):第5代孝昭天皇の子
・大倭迹々日百襲比売命(オオヤマトトトヒモモソヒメ):大吉備津彦命の姉
・大倭迹々日稚屋比売命(オオヤマトトトヒワカヤヒメ):大吉備津彦命の妹
・金山彦大神(カナヤマヒコ):鉱山を司り、鉱業・鍛冶など金属に関する技工の守護神とされる
・大山咋大神(オオヤマヅミ):「日本神話」に登場する神で、山を司る神とされる
境内社
吉備津神社の境内社は以下の通りです。
・本宮社:孝霊天皇(大吉備津彦命の父)を祀る
・新宮社(合祀):吉備武彦命(若日子建吉備津日子命の子)を祀る
・内宮社(合祀):百田弓矢比売命(大吉備津彦命の妃)を祀る
・三社宮
・春日宮:祭神不詳(おそらく春日神)
・大神宮:祭神不詳(おそらく伊勢神宮の神)
・八幡宮:祭神不詳(おそらく八幡神)
・岩山宮:建日方別命(吉備国の地主神)を祀る
・えびす社:商売繁盛・家業繁栄の神を祀る(夷・大黒を祀るとも)
・一童社:学問・芸能の神を祀る(祭神不詳)
・滝祭神社:祭神不詳
・宇賀神社:吉備国最古の稲荷神を祀る(祭神不詳)
・祖霊社
・新宮社(合祀):吉備武彦命(若日子建吉備津日子命の子)を祀る
・内宮社(合祀):百田弓矢比売命(大吉備津彦命の妃)を祀る
・三社宮
・春日宮:祭神不詳(おそらく春日神)
・大神宮:祭神不詳(おそらく伊勢神宮の神)
・八幡宮:祭神不詳(おそらく八幡神)
・岩山宮:建日方別命(吉備国の地主神)を祀る
・えびす社:商売繁盛・家業繁栄の神を祀る(夷・大黒を祀るとも)
・一童社:学問・芸能の神を祀る(祭神不詳)
・滝祭神社:祭神不詳
・宇賀神社:吉備国最古の稲荷神を祀る(祭神不詳)
・祖霊社
関連知識
吉備津彦命の温羅退治
岡山県には、当社祭神の吉備津彦命が温羅という鬼を退治したという伝説があり、この伝説が桃太郎のモデルとなったとも言われています。その内容は以下の通りです。
第11代垂仁天皇の時代、異国より空を飛んで吉備の国にやってきた者がいた。その者は名は温羅(ウラ)といい、身長は1丈4尺(約4.2メートル)で、両目は虎や狼のように爛々と輝き、頭には赤みがかった髪が茫々と生えた異様な姿であった。性質は極めて凶悪で、火を吹いて山を焼き、人並み外れた腕力で岩を穿ち、人間や猿を捕えて喰ったという。温羅は新山にに居城を築き、西国から都へ送られる船を襲って貢物や婦女子を略奪したり、気に入らぬ者を捕えて大釜で煮て食べたりしていたことから、人々は温羅を「鬼神」と呼び、居城を「鬼ノ城(きのじょう)」と呼んで大変恐れた。
このことはやがて都にも伝わり、朝廷は温羅討伐のために名のある武将を吉備に送り込んだが、神出鬼没で変幻自在の温羅の前に武将たちはことごとく敗れ去った。そこで、白羽の矢が立ったのが武勇に優れた五十狭斧彦命(イサセリヒコ)であった。吉備に入ったイサセリヒコは大群を率いて吉備の中山に陣を敷き、片岡山に石盾を築いて戦の準備を整えた。
遂に戦が始まると、イサセリヒコは鬼ノ城に矢を放って攻撃したが、ことごとく温羅が投げた岩に阻まれて全く届くことはなかった。戦は長引いたが、ある日 イサセリヒコの夢に住吉大明神が現れて「2本の矢で温羅を射て」との神託を下した。イサセリヒコが神託の通りに2本の矢を温羅に放つと、1本目は岩に落とされたものの、2本目は温羅の左目に命中した。このとき、温羅の目から血潮が吹き出し、その血は今の血吸川から下流の赤浜まで真っ赤に染めたという。
これに怯んだ温羅は雉(キジ)に変化して山中へと逃げ出したが、イサセリヒコは鷹(タカ)に変化して追跡した。すると、温羅は鯉(コイ)に変化して血吸川に潜って逃げたが、イサセリヒコも鵜(ウ)に変化して食らいつき、遂に温羅を捕らえることに成功した。追い詰められた温羅はイサセリヒコに降参し、人々に呼ばせていた「吉備冠者」の名をイサセリヒコに献上した。このため、イサセリヒコは以降は吉備津彦(キビツヒコ)と呼ばれるようになった。
戦に勝利したキビツヒコは、温羅の首をはねてとどめを刺すと その首を串に刺して首村(こうべむら)に晒した。しかし、不思議なことに温羅は首だけになった後も何年も生き続け、大声を上げてうなり続けた。そこで、キビツヒコは家来の犬飼健命(イヌカイタケル)に命じて、首を犬に喰わせたが、髑髏になってからも唸るのを止めることはなかった。そのため、今度は土を掘って土中深くに髑髏を埋めさせたのだが、それから13年経っても唸り声は続いたという。
そんなある夜、キビツヒコの夢枕に温羅が立ち「我が妻、阿曽郷の祝の娘である阿曽姫(あそひめ)に釜で神饌(みひ)を炊かせよ。そうすれば、これまでの悪行の償いとして、この釜をうならせて世の吉凶を告げよう。釜は幸福が訪れるのなら豊かに鳴り響き、災が訪れるなら荒々しく鳴り響くだろう」と告げた。キビツヒコは温羅の願いを聞き入れて告げられた通りにすると、温羅の首は唸るのを止めたという。また、この行事は以降もその年の吉凶を占うべく毎年続けられ、今では吉備津神社の鳴釜神事として伝えられている。
こうした温羅を退治したキビツヒコは吉備中山の麓に茅葺宮(かやぶきのみや)を建てて住み、吉備津の統治にあたった。そして、281歳という長寿を全うして今の中山茶臼山古墳に葬られた。一方、温羅は艮御崎神(うしとらみさき)として吉備津神社の脇に封じられたという。
このことはやがて都にも伝わり、朝廷は温羅討伐のために名のある武将を吉備に送り込んだが、神出鬼没で変幻自在の温羅の前に武将たちはことごとく敗れ去った。そこで、白羽の矢が立ったのが武勇に優れた五十狭斧彦命(イサセリヒコ)であった。吉備に入ったイサセリヒコは大群を率いて吉備の中山に陣を敷き、片岡山に石盾を築いて戦の準備を整えた。
遂に戦が始まると、イサセリヒコは鬼ノ城に矢を放って攻撃したが、ことごとく温羅が投げた岩に阻まれて全く届くことはなかった。戦は長引いたが、ある日 イサセリヒコの夢に住吉大明神が現れて「2本の矢で温羅を射て」との神託を下した。イサセリヒコが神託の通りに2本の矢を温羅に放つと、1本目は岩に落とされたものの、2本目は温羅の左目に命中した。このとき、温羅の目から血潮が吹き出し、その血は今の血吸川から下流の赤浜まで真っ赤に染めたという。
これに怯んだ温羅は雉(キジ)に変化して山中へと逃げ出したが、イサセリヒコは鷹(タカ)に変化して追跡した。すると、温羅は鯉(コイ)に変化して血吸川に潜って逃げたが、イサセリヒコも鵜(ウ)に変化して食らいつき、遂に温羅を捕らえることに成功した。追い詰められた温羅はイサセリヒコに降参し、人々に呼ばせていた「吉備冠者」の名をイサセリヒコに献上した。このため、イサセリヒコは以降は吉備津彦(キビツヒコ)と呼ばれるようになった。
戦に勝利したキビツヒコは、温羅の首をはねてとどめを刺すと その首を串に刺して首村(こうべむら)に晒した。しかし、不思議なことに温羅は首だけになった後も何年も生き続け、大声を上げてうなり続けた。そこで、キビツヒコは家来の犬飼健命(イヌカイタケル)に命じて、首を犬に喰わせたが、髑髏になってからも唸るのを止めることはなかった。そのため、今度は土を掘って土中深くに髑髏を埋めさせたのだが、それから13年経っても唸り声は続いたという。
そんなある夜、キビツヒコの夢枕に温羅が立ち「我が妻、阿曽郷の祝の娘である阿曽姫(あそひめ)に釜で神饌(みひ)を炊かせよ。そうすれば、これまでの悪行の償いとして、この釜をうならせて世の吉凶を告げよう。釜は幸福が訪れるのなら豊かに鳴り響き、災が訪れるなら荒々しく鳴り響くだろう」と告げた。キビツヒコは温羅の願いを聞き入れて告げられた通りにすると、温羅の首は唸るのを止めたという。また、この行事は以降もその年の吉凶を占うべく毎年続けられ、今では吉備津神社の鳴釜神事として伝えられている。
こうした温羅を退治したキビツヒコは吉備中山の麓に茅葺宮(かやぶきのみや)を建てて住み、吉備津の統治にあたった。そして、281歳という長寿を全うして今の中山茶臼山古墳に葬られた。一方、温羅は艮御崎神(うしとらみさき)として吉備津神社の脇に封じられたという。
詳しくは「岡山県の桃太郎伝説」を参照
矢置岩
吉備津神社の入口あたりに矢置岩(やおきいわ)という岩が安置されています。
この岩は「吉備津彦命の温羅退治」にまつわるもので、伝説によれば吉備津彦命が温羅と互いに矢を射って戦った際に、この岩の上に矢を置いたといわれ、この伝説にちなんで古くは箭祭(やまつり)という神事が行われていたそうです。
箭祭はいつしか途絶えてしまったようですが、今は箭祭を継承した「矢立の神事」という神事が毎年1月3日に行われています。なお、案内板による説明は以下の通りです。
矢置岩の由来
社伝によれば「当社の西北8キロの新山に温羅という鬼神がおり、凶暴で庶民を苦しめた。大吉備津彦命は"吉備の中山"に陣取り、鬼神と互いに弓矢を射ると両方の矢は空中で衝突して落ちた。そこに矢喰宮(岡山市北区高塚に現存)があり、中山主神が鬼神の矢を空中で奪取した。当社本殿に祀られている矢取明神がその神である。吉備津彦命はその矢をこの岩の上に置いたことにより矢置岩と呼ばれるようになった」という。
また、旧記によれば「中古より箭祭(やまつり)という神事があった。その祭りは、願主は櫻羽矢または白羽の矢を献じ、神官はその矢を岩上に立てて交通安全を祈る。後々、その矢を御藏矢神社に納める例になっていた」とある。この神事はいつしか中絶してしまったが、昭和25年に岡山県弓道連盟の奉仕によって復活され、毎年正月3日にここに矢立の神事を斎行することになったのである。
鳴釜神事
吉備津神社には鳴釜神事(なるかましんじ)という特殊神事があります。この神事は上記の「吉備津彦命の温羅退治」に由来するもので、加熱した釜から響く音によって物事の吉凶を占うという神事になります。
具体的には、このような感じなのだそうです。
・神事は吉備津神社の御釜殿にて、神官と阿曽女によって行われる
→ 阿曽女は温羅の妻役で、代々 鬼ノ城の麓にある阿曽の郷の娘が奉仕している
・御釜殿には、湯を沸かした釜があり、その上にセイロが乗せてある
・神事が始まると、神札をカマドの前に祀り、神官が祝詞をあげる
・祝詞をあげている際に、セイロの中で器に入れた玄米を振る
・しばらくすると、釜から鬼の唸るような轟音が響き、祝詞を奏上し終わる頃に止む
・この釜から出る轟音の大小・長短によって、物事の吉凶禍福を判断する
→ この吉凶の判断は、神事を受けた本人が自分自身でする
→ 阿曽女は温羅の妻役で、代々 鬼ノ城の麓にある阿曽の郷の娘が奉仕している
・御釜殿には、湯を沸かした釜があり、その上にセイロが乗せてある
・神事が始まると、神札をカマドの前に祀り、神官が祝詞をあげる
・祝詞をあげている際に、セイロの中で器に入れた玄米を振る
・しばらくすると、釜から鬼の唸るような轟音が響き、祝詞を奏上し終わる頃に止む
・この釜から出る轟音の大小・長短によって、物事の吉凶禍福を判断する
→ この吉凶の判断は、神事を受けた本人が自分自身でする
案内板によれば、鳴釜神事は9:00~14:00まで受け付けており、見学は15:00までできるそうです。また、毎週金曜日および5月,10月の第2日曜日、12/28は定休となっているようです(詳しくは神社HPを参照)。
この神事の歴史は古く、文献としては室町時代の『多聞院日記』にある記録が最古とされます。その他にも江戸時代の怪異小説『雨月物語』にて「吉備津の釜」という作品の題材にもなっています。
ちなみに、鳴釜(釜鳴)という神事は当社独自というわけではなく、宮中や諸社でも行われていたという記録があり、その内容は当社と同様に火で炊いた釜から発せられる音から物事の吉凶などを占うというものだとされています。
境内の見どころ
参道鳥居
吉備津神社の参道鳥居です。
参道(松並木)
吉備津神社の参道です。
吉備津駅から吉備津神社方面に向かうと、神社まで美しい松並木が並んでいます。
矢置岩
吉備津神社の矢置岩です。
神社の手水舎の横にある巨大な磐座となっています。
北随神門(重要文化財)
吉備津神社の北随神門です。
室町時代の延文2年(1357年)の再建で、当社の社殿の中では最古のものとなっています。
南北の随神門には、吉備津彦命に従って吉備国の平定に活躍した神々が祀られているそうです。
授与所
吉備津神社の授与所です。
神楽面
吉備津神社の授与所には、備中神楽面が飾ってあります。
拝殿(国宝)
吉備津神社の拝殿です。
本殿(国宝)
吉備津神社の本殿です。
室町時代の応永32年(1425年)の再建で、建築様式は比翼入母屋造となっています。
この比翼入母屋造は当社のみの様式なので吉備津造とも呼ばれているそうです。
いにしえみくじ
吉備津神社のいにしえみくじです。
祈願トンネル
吉備津神社の一童社前には祈願トンネルという絵馬舎があります。
回廊(県指定重要文化財)
吉備津神社の回廊です。
天応7年(1579年)の再建で、全長360メートルにもなる回廊となっています。
乳の絵馬
吉備津神社の本宮社前には乳の絵馬があります。
一説に本宮社は安産・子育のご利益があるため、このような乳の絵馬が奉納してといわれています。
しかし、よくみると写真の絵馬は乳神様で有名な総社市の軽部神社のもののようです。
御釜殿
吉備津神社の御釜殿です。
上記で紹介した特殊神事「鳴釜神事」が行われます。
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「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
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