人文研究見聞録:豊後国風土記 現代語訳

『豊後国風土記』を現代語訳にしてみました。「豊後国」とは現在の 大分県 辺りのことです。

風土の解説の他に土地の風土や地名由来の他に、土地の神々や土蜘蛛などの伝説も記されており、なかなか興味深い内容となっています。



はじめに


・以下の文章は、専門家ではない素人が現代語に翻訳したものです
・基本的には意訳です(分かりやすさを重視しているため、文章を添削をしています)
・■ は伝説部分を分かりやすくするために勝手に付けています
・分からない部分については、訳さずにそのまま載せています。
・誤訳や抜けがあるかも知れませんので、十分注意してください(随時修正します)

原文参考:大日本真秀國 風土記

豊後国風土記


総記


一、総記


豊後国(とよくにのみちのしりのくに)。郡は8ヵ所(郷は40ヵ所、里は111ヵ所)ある。駅は9ヵ所(並小路)、烽は5ヵ所(並下国)、寺は2ヵ所ある(僧寺と尼寺)。

豊後の国は、元は豊前の国と一つの国であった。

■ 餅や芋になった白い鳥(豊国の由来)


纏向日代宮御宇大足彦天皇(景行天皇)は、豊国直等らの祖である菟名手(ウナデ)に詔して豊国を治めさせた。

菟名手が豊前国の仲津郡の中臣村に行った時、日が暮れたのでこの村で宿をとった。その翌朝、北から白い鳥が飛んできて村に集まったので、菟名手はすぐに下僕に追わせた。すると、その鳥は餅になった。それから片時の間に、さらに数千株の芋草となった。また、花や葉も生い茂った。

これを見た菟名手は、不思議に思いつつも歓んで「化生する芋など未だかつて見たことがない。これは誠に至徳(みめぐみ)の盛(さかり)であり、乾坤(あめつち)の瑞(たまもの)に違いない」と言い、朝廷に上って事の次第を報告した。すると、天皇は歓喜して「天(あめ)の瑞物(みずもの)、地(つち)の豊草(とよくさ)である。汝が治める国は豊国と呼ぶべし」と勅して、重ねて豊国直という姓を与えた。これによって豊国という。

後に分かれて2つの国になり、これを以って豊後国という名になった。

日田郡


一、日田略記


日田郡(ひたのこほり)。郡は5ヵ所(里は14ヵ所、駅は1ヵ所)ある。

■ 久津媛の伝説


昔、纏向日代宮御宇大足彦天皇(景行天皇)が球磨贈於(クマソ)を征伐して凱旋した時、筑後国の生葉の仮宮から御幸してこの郡に到った。此処には神がおり、その名を久津媛(ヒサヅヒメ)という。この神が人に化けて天皇を出迎え、この土地の状況を報告した。これによって久津媛之郡(ひさづひめのこほり)と名付けられたが、今は訛って日田郡となっている。

石井郷(いしいのさと)。郡の南にある。

■ 土蜘蛛の堡


昔、この村には土蜘蛛の堡(をき=砦)があり、それは石を使わず、土を以って築かれていた。これによって無石堡(いしなしのをき)と名付けられたが、これが後の人の誤りによって石井郷と呼ばれるようになった。

この郷の中には川があり、その名を阿蘇川(あそがわ)という。その水源は肥後国阿蘇郡の少国之峰(をくにのみね)にあり、そこから流れてこの郷に到り、それから球珠川(くすがわ)と合流して一つの川になる。その川の名を日田川(ひだがわ)と言う。ここにはたくさんの年魚(アユ)が棲んでいる。その先は筑前・筑後などの国を通り過ぎて西の海に入る。

鏡坂(かがみさか)。郡の西にある。

昔、纏向日代宮御宇大足彦天皇(景行天皇)が この坂の上に登り、土地の地形を見て「この国の形は鏡面(かがみのおも)に似ている」と言った。これによって鏡坂という。これがその由来である。

靫編郷(ゆぎあみのさと)。郡の東南にある。

昔、磯城嶋宮御宇天国排開広庭天皇(欽明天皇)の御世、日下部君らの祖である邑阿自(オホアジ)が靫部として仕えた。その邑阿自は この村に来て家を造って住んでいた。これによって靫負村(ゆぎおひのむら)と名付けられ、後の人によって靫編郷と改められた。

村の中には川があり、その名を球珠川(くすがわ)という。その水源は球珠郡の南東の山であり、そこから流れて石井郷に到り、それから阿蘇川と合流して一つの川となる。今、日田川といわれているのがこれである。

五馬山(いつまやま)。郡の南にある。

■ 五馬媛(イツマヒメ)


昔、この山には土蜘蛛がおり、その名を五馬媛(イツマヒメ)と言った。これによって五馬山という。

飛鳥浄御原宮御宇天皇(天武天皇)の御世の戊寅の年に大きな地震があり、山も岡も裂けて崩れてしまった。その時に この山の一つの谷間が崩れ落ち、あちこちから温泉が湧き出した。

湯気は盛んで熱く、飯を炊くのに使えば早く炊きあがる。ただし、1ヵ所の湯は穴が井戸に似ている。その穴の口径は1丈(約3m)余りで、深いのか浅いのかは分からない。湯の色は紺色のようで、常に流れているわけではない。人の声を聞くと、驚き怒って泥を吹き上げること1丈(約3m)余りである。今は慍湯(いかりゆ)と呼ばれている。

球珠郡


一、球珠略記


球珠郡(くすのこほり)。郷は3ヵ所(里は9ヵ所)ある。駅は1ヵ所ある。

昔、この村には大きな樟(くすのき)があった。これによって球珠郡と呼ばれている。

直入郡


一、直入略記

直入郡(なほりのこほり)。郡は4ヵ所(里は11ヵ所)ある。駅は1ヵ所ある。

昔、郡の東の桑木村(くはきのむら)には桑が生えていた。その高さは極めて高く、枝も幹も真っ直ぐで美しかったので、俗に直桑村(なほくはのむら)と呼ばれた。これを後の人が直入郡と改めたのがこれである。

柏原郷(かしはばらのさと)。郡の南にある。

昔、この郷には柏樹がたくさん生えていた。これによって柏原郷と呼ばれている。

禰疑野(ねぎの)。柏原郷の南にある。

■ 土蜘蛛の打猿(ウチサル)・八田(ヤタ)・国摩侶(クニマロ)


昔、纏向日代宮御宇大足彦天皇(景行天皇)が行幸した時、この野には打猿(ウチサル)・八田(ヤタ)・国摩侶(クニマロ)といった3人の土蜘蛛がいた。天皇は自ら賊を討伐しようと思い、この野にやって来て あまねく兵たちを労った。これによって禰疑野と呼ばれるようになり、それがこれである。

蹶石野(ふみいしの)。柏原郷の中にある。

■ 景行天皇の誓約


同天皇(景行天皇)が土蜘蛛を討伐しようと柏峡大野(かしはをのおほの)に御幸した。この野には石があり、その長さは6尺(約1.8m)で、幅は3尺(約0.9m)で、厚さは1尺5寸(約45cm)であった。

天皇は、この石の前で誓約して「朕がこの賊を滅ぼすことができるなら、この石を踏めば柏の葉のように舞い上がるだろう」と言って踏みつけると、柏の葉のように舞い上がった。これによって蹶石野と呼ばれるようになった。

球覃郷(くたみのさと)。郡の北にある。

この村には泉がある。同天皇(景行天皇)が御幸した時、膳の者(料理人)が天皇の飲水を泉で汲もうとしたところ、そこに蛇靇(オカミ)がいた。そこで天皇は「必ず臭くなるので、汲んだ水は使ってはならない」と命じた。これにより臭泉(くさいづみ)と名付けられ、これが村の名前にもなった。今は訛って球覃郷と呼ばれている。

宮処野(みやこの)。朽網郷(くたみのさと)にある野である。

同天皇(景行天皇)が土蜘蛛を征伐に向かった時、この野に仮宮を建てた。これを以って宮処野という。

救覃峰(くたみのみね)。郡の北にある。

この峰の山頂には恒に火が燃えている。麓には数多の川があり、その名を神河(かみのかわ)という。また二つの湯河(ゆのかわ)があり、それは流れて神河に合流する。

大野郡


一、大野略記


大野郡(おほのこほり)。郡は4ヵ所(里は11ヵ所)ある。駅は2ヵ所、烽は1ヵ所ある。

この郡の管内は悉く原野である。これによって大野郡と名付けられた。

海石榴市(つばいち)・血田(ちだ)。並んで郡の南にある。

■ 鼠石窟の土蜘蛛(海石榴市・血田の由来)


昔、纏向日代宮御宇天皇(景行天皇)が球覃の仮宮に住んでいた。そこで鼠石窟(ねずみのいわや)に住む土蜘蛛を討伐しようと、群臣たちに命じて海石榴(つばき)の樹を伐らせ、それで槌を作って武器とし、勇猛な兵に授けた。

それから、兵たちは槌で山に穴を開け、草を押し倒して土蜘蛛を襲い、悉く誅殺した。すると、土蜘蛛たちの血がくるぶしに達するまで流れ出た。その槌を作った場所を海石榴市と言い、血が流れた場所を血田という。

網磯野(あみしの)。郡の西南にある。

■ 土蜘蛛の小竹鹿奥(シノカオキ)・小竹鹿臣(シノカオミ)


同天皇(景行天皇)が御幸した時、此処に土蜘蛛がおり、その名を小竹鹿奥(シノカオキ)・小竹鹿臣(シノカオミ)といった。この二人の土蜘蛛は、天皇に食事を献上しようと狩りをしたが、その声がとてもやかましかった。そこで天皇は「大囂(あなみす=うるさい)」と言った。これによって大囂野(あみなすの)と呼ばれるようになったが、今は訛って網磯野と呼ばれている。

海部郡


一、海部略記


海部郡(あまのこほり)。郡は4ヵ所(里は12ヵ所)ある。駅は1ヵ所、烽は2ヵ所ある。

この郡の百姓は、海辺の白水郎(あま=漁民)である。これによって海部郡と呼ばれている。

丹生郷(にふのさと)。郡の西にある。

昔、当時の人が この山の砂を朱沙と間違えて採取していた(または代わりにした)。これによって丹生郷という。

佐尉郷(さゐのさと)。郡の東にある。

この郷の元の名は酒井(さかゐ)といった。今は訛って佐尉郷と呼ばれている。

穂門郷(ほとのさと)。郡の南にある。

昔、纏向日代宮御宇天皇(景行天皇)が この門に御船を停泊させた際、海底に海藻がたくさん生えており、それは長くて美しかった。そこで天皇は「最勝海藻(ほつめ=最も優れた海藻)を取れ」と言い、それを献上させた。これによって最勝海藻門(ほつめのと)と呼ばれるようになった。今は訛って穂門郷と呼ばれている。

大分郡


一、大分略記


大分郡(おほきだのこほり)。郷は9ヵ所(里は25ヵ所)ある。駅は1ヵ所、烽は1ヵ所、寺は2ヵ所ある(一つは僧寺、一つは尼寺)。

昔、纏向日代宮御宇天皇(景行天皇)が豊前国の京都(みやこ)の仮宮から この郡に行幸し、土地の地形を遊覧して「この郡は広くて大きいから、碩田国(おほきだのくに)と名付けるべし」と言った。今は大分といわれているが、その由縁はこれである。

大分河(おほきだがわ)。郡の南にある。

この川の水源は、直入郡の朽網の峰(くたみのみね)であり、東に流れ落ちて この郡を経過し、最後は東の海に入る。これによって大分川と名付けられた。この川には年魚(アユ)がたくさん棲んでいる。

酒水(さかみづ)。郡の西にある。

この水の水源は、郡から出て西にある柏野の磐の中であり、そこから南に流れ落ちる。その色は普通の水のようで、味は少し酸っぱい。疥癬(はたけ)をいやすのに用いられる。

速見郡


一、速見略記


速見郡(はやみのこほり)。郷は5ヵ所(里は13ヵ所)ある。駅は2ヵ所、烽は1ヵ所ある。

■ 5人の土蜘蛛(アヲ・シロ・ウチサル・ヤタ・クニマロ)の伝説(速見郡の由来)


昔、纏向日代宮御宇天皇(景行天皇)が球磨贈於(クマソ)を征伐しようと筑紫に向かった。そこで周防国の佐婆津(さばつ)から船出して海部郡の宮浦に到った時、この村には速津媛(ハヤツヒメ)という女がおり、この者は村の長であった。

速津媛は自ら出向いて天皇を迎えると「この山には鼠磐窟(ねずみのいわや)という大きな磐窟があり、そこには2人の土蜘蛛が住んでいます。その名を青(アヲ)・白(シロ)と言います。また、直入郡の禰疑野には3人の土蜘蛛がいます。その名を打猿(ウチサル)・八田(ヤタ)・国摩侶(クニマロ)と言います。この5人の人となりは並んで強暴で、また多くの仲間がおります。そして皆 誹って『天皇になど従うものか』と言っており、もし服従を強いるならば、兵を起こして抵抗するでしょう」と教えた。

そこで天皇は兵を遣わせると、兵たちは要害を遮って土蜘蛛たちを悉く誅滅した。これによって速津媛国(はやつひめのくに)と名付けられたが、後の人によって速見郡と改められた。

赤湯泉(あかゆのいづみ)。郡の西北にある。

この温泉の穴は、郡の西北の竈門山(かまどやま)にある。その周囲は15丈(約45m)ばかりである。湯の色は赤く泥土がある。この泥土は家の柱を塗るのに用いられる。この泥は外に流れ出ると色が変わって清水に変わり、東に向かって下り流れる。これによって赤湯泉と呼ばれるようになった。

玖倍理湯井(くべりゆのゐ)。郡の西にある。

この湯の井は、郡の西の河直山(かわなほやま)の東の岸にある。その口径は1丈(約3m)余りである。湯の色は黒く、泥は常に流れていない。人が密かに井の辺りに近づいて大声を上げると、驚き鳴いて2丈(約6m)余りの湯が湧き上がる。その湯気は盛んに湧き出ており、熱くて近づくことができない。また、周りの草木は悉く枯れている。これによって慍湯井(いかりのゆゐ)と呼ばれており、俗に玖倍理湯井といわれている。

袖富郷(ゆふのさと)。郡の西にある。

この郷の中には、栲樹(たくのき)がたくさん生えており、常にその皮を取って木綿(ゆふ)を造っている。これによって袖富郷と呼ばれている。

袖富峰(ゆふのみね)。袖富郷の東北にある。

この峰の山頂には石室がある。その深さは10丈(約30m)余りで、高さは8丈4尺(約25m)で、幅は3丈(約9m)余りである。常に凍った水があり、夏を過ぎても溶けることはない。袖富郷は この峰の近くにある。これによって袖富郷と呼ばれている。

頸峰(くびのみね)。袖富峰の西南にある。

この峰の下には水田がある。元の名は宅田(やけだ)という。この田に植えた苗は、常に鹿に食われてしまう。そこで田の主は、柵を造って様子を窺っていると、そこに鹿がやって来て柵に頸を入れて苗を食った。

その時に田の主は鹿を捕えて頸を斬ろうとすると、鹿は「我は今から誓いを立てるので、どうか殺さないでほしい。もし許してもらえるのであれば、我が子孫には苗を食べないように告げよう」と言ったので、田の主はとても不思議に思って鹿を許してやった。これ以来、苗は食われることはなくなり、稲は実りを得られるようになった。これによって頸田と呼ばれるようになり、兼ねて峰の名にもなった。

田野(たの)。郡の西南にある。

この野はとても広くて、よく肥えている。開墾するのに便がよく、この土地と比べられるところは無い。

■ 白鳥伝説


昔、郡内の百姓が この野に住んで多くの水田を開いた。すると、有り余るほど収穫できたので、畝に置いたままにしており、その上に自分たちの富に思い上がって、餅を作って弓矢の的にして遊んでいた。その時、餅が白い鳥に変化して、南に飛び立った。すると、その年の間に百姓は死に絶え、水田は造られることなく遂に荒れ果ててしまった。それ以来、この土地は水田に適さなくなった。今は田野といわれているが、これがその由縁である。

国埼郡


一、国埼略記


国埼郡(くにさきのこほり)。郷は6ヵ所(里は16ヵ所)ある。

昔、纏向日代宮御宇天皇(景行天皇)が御船に乗って周防国の佐婆津から海を渡ってやって来た時、遥かにこの国を望んで「ここから見えているものは、もしかして国の埼ではないか」と言った。これによって国埼郡という。

伊美郷(いみのさと)。郡の北にある。

同天皇(景行天皇)がこの村に居た時に「この国の道は遥かに遠く、山谷に阻まれていて深く、往来するのも稀である。やっと国を見ることができた」と言った。これによって国見村(くにみのむら)と呼ばれるようになり、今はそれが訛って伊美郷と呼ばれるようになった。

豊後国風土記 逸文


餅的・白鳥ト成ル


年始に人ごとに餅を賞玩(味わい褒める)が、どんな意味があるのだろうか。餅は福物であるので祝事に用いられる。

昔、豊後国の球珠郡に広野のある場所があり、そこに大分郡の住人がやって来て、家を造り、田を作って住み着いた。そこの住人は家が著しく富んで栄えたので、酒を飲みつつ遊んでいた。そこで、とりあえず弓を射って遊ぼうとしたが、的になるようなものが無かったので、餅を括り付けて、それを的にして射って遊んでいた。すると、その餅が白い鳥に成って飛び去ってしまい、それから後は次第に衰えて、遂に滅亡してしまった。

この後に広野に成ったが、天平年中に速見郡に住む訓邇(クニ)という者が、そんなにも良く賑わった場所を廃れさせるのも惜しいと思って、また此処に渡って田を作ったが、その苗は悉く枯れてしまったので、驚き恐れて、その田を捨てたと云われている。餅は福源(さちのみなもと)であるから福神が去った故に衰えたのだろう。
matapon
著者: matapon Twitter
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。