人文研究見聞録:肥前国風土記 現代語訳

『肥前国風土記』を現代語訳にしてみました。「肥前国」とは現在の 佐賀県・長崎県 辺りのことです。

風土の解説の他に土地の神々や土蜘蛛などの伝説も記されており、なかなか興味深い内容となっています。



はじめに


・以下の文章は、専門家ではない素人が現代語に翻訳したものです
・基本的には意訳です(分かりやすさを重視しているため、文章を添削をしています)
・■ は伝説部分を分かりやすくするために勝手に付けています
・分からない部分については、訳さずにそのまま載せています。
・誤訳や抜けがあるかも知れませんので、十分注意してください(随時修正します)

原文参考:大日本真秀國 風土記

肥前国風土記


総記


一、総記


肥前国(ひのみちのくちのくに)。郡は11ヵ所 (郷は70ヵ所 、里は187ヵ所 )、駅は18ヵ所 (小路)、烽は20ヵ所 (下国)、城は1ヵ所 、寺は2ヵ所(僧寺)。

■ 土蜘蛛(ウチサル・クビサル)の伝説(火の国の由来)


肥前の国は、もとは肥後の国と合せて一つの国であった。昔、磯城瑞籬宮御宇御間城天皇(崇神天皇)の御世、肥後国益城郡の朝来名の峰に打猿(ウチサル)と頸猿(クビサル)という二人の土蜘蛛がおり、これらは180人余りの軍勢を率いて天皇に服従しなかった。

そこで、天皇は肥君らの祖である健緒組(タケヲクミ)に征伐するよう勅命を下すと、健緒組はそれを承って土蜘蛛らを悉く滅ぼした。それから健緒組は国を巡って観察したが、日が暮れたので八代郡の白髪山で宿をとった。その夜、虚空に火が現れて自然に燃え上がり、それがだんだんと下ってきて山に火が付いたので、それを見て驚いた健緒組は不思議に思って復命した際に「勅命を受けて西夷を攻めましたところ、刀刃を濡らさずして首長どもは自ずと滅びました。ですが、後に威霊のようなものが現れ、それは火が下りてくるようでした。これは何でしょうか」と申し上げた。すると、天皇は「そのような事は聞いたことがない。火が下った国は火の国というべきだろう」と言った。これにより、健緒組は火の君 健緒紕(タケヲクミ)の姓名を賜り、この国を治めさせた。また、これによって この国は火の国と呼ばれるようになった。この後、この国は肥前と肥後に分けられることになった。

また、纏向日代宮御宇大足彦天皇(景行天皇)が球磨贈於(クマソ)を誅して筑紫国を巡狩した際、葦原の北方から船に乗って火の国に行幸した。しかし、海上で日没になり、暗くて何処に居るかも分からなくなった。そんな時、忽然と光り輝く火が現れ、それを遥か遠くに目撃した。そこで天皇は「真っ直ぐに火の方に向かえ」と命じると、やがて岸壁に辿り着くことができた。そこで天皇は「火の起こった場所はどこだ?これは何と呼ばれるのだ?この火はどのように起こされたのだ?」などと問うと、土地の人は「これは火の国八代郡の火の邑で起こりましたが、この火の主は知りません」と答えた。これを聞いた天皇と群臣たちは「この火は人の起こしたものでは無いが、これが火の国と呼ばれる由縁であることは分かった」と言ったという。

基肆郡


一、基肆略記


基肆郡(きのこほり)。郷は6ヵ所(里は17ヵ所)、駅は1ヵ所(小路)、城は1ヵ所。

昔、纏向日代宮御宇天皇(景行天皇)が巡狩した時、筑紫国御井郡高羅の仮宮から国内を遊覧し、霧に覆われた基肆の山を見て「この国を霧の国と呼ぼう」と勅した。これが後の人によって基肆国(きのくに)と呼ばれるようになった。今は郡名となっている。

長岡神社(郡の東にある)。

同じ天皇(景行天皇)が高羅の仮宮に還幸する際、酒殿の泉の辺りで食事を摂ると、天皇が身に付けていた鎧が異常な光明を放った。そこで、卜部に神意を占わせると、卜部の殖坂(ヱサカ)は「この地には神が居て、その鎧を欲しがっているようです」と答えたので、天皇は「そうであるならば、神社に奉納することにしよう。これは長き世の宝になるだろう」と言ったので、これによって永世社(ながよのやしろ)と呼ばれるようになった。これが後の人によって長岡社と改められた。また、その鎧は今は朽ちてしまっているが、兜の板は今の残っている。

酒殿泉(さかどののいづみ)。

この泉は秋の9月頃になると白くなり、味は酸っぱく臭気があるので飲用には向いていない。春の初旬には冷たく清らかになり、この時期には人が飲用できるようになる。これによって酒井泉と呼ばれるようになり、これが後の人によって酒殿泉と改められた。

姫社郷(ひめこそのさと)。

この郷には川があり、その名を山道川という。その水源は郡の北の山で、南に流れて御井大川(みいのおほがわ)に繋がっている。その昔、この川の西に荒ぶる神がおり、道を行き交う人々を襲ったので多くの死者が出た。その死者の数はそこを通る人の半数であったという。

そこで、祟の原因を占うと「筑前国の宗像郡の人である珂是古(カゼコ)に社を建てさせて吾を祀らせよ。そうすれば荒ぶる心を起こすこともなくなるだろう」と出たので、珂是古を探して社に神を祀らせた。その時、珂是古は幡(はた)を持ちながら「本当に私による祭祀を欲するのなら、この幡は風の吹くままに飛んでいき、その神の側に堕ちるだろう」と祈り、幡を掲げて風に放った。その時、幡は空を飛行していき、御原郡の姫社の辺りに堕ちた。また、再び飛んでいき、山道川の辺りの田村に堕ちたので、珂是古は神の居場所を知ることになった。

その夜、珂是古の夢に臥機(くつびき)や絡垛(たくり)といった機織道具が舞い遊びながら出てきて、これに押し潰されたので驚いたが、その神が織女神であると知った。それから社を建てて祀った。これ以来、道を行き交う人は殺されなくなったという。また、この姫社に因んで姫社郷という名が付いた。

養父郡


一、養父略記


養父郡(やぶのこほり)。

郷は4ヵ所(里は12ヵ所)、烽は1ヵ所。

昔、纏向日代宮御宇天皇(景行天皇)が巡狩した時、この郡の百姓が挙って集まると天皇の犬が吠えた。だが、その中に一人の産婦が犬を見つめると、犬は吠えるのを止めた。これによって犬声止国(いぬのこゑやむのくに)と名付けられたが、今はそれが訛って養父郡となった。

鳥樔郷(とすのさと)。郡の東にある。

昔、軽島明宮御宇誉田天皇(応神天皇)の御世、この郷に鳥屋を造り、様々な鳥を飼いならして朝廷に献上した。これによって鳥屋郷と呼ばれるようになり、これが後の人によって鳥樔郷と改められた。

曰理郷(わたりのさと)。郡の南にある。

昔、筑後国の御井川の瀬はとても広く、人畜が渡るのは困難であった。その頃に纏向日代宮御宇天皇(景行天皇)が巡狩の際に生葉山(いくはやま)を船山(ふなやま)とし、高羅山(かうらのやま)を梶山(かぢやま)として、船を造り備えさせ、その船を漕いで人々が川を渡れるようにした。これによって日理郷と名付けられた。

狭山郷(さやまのさと)。郡の南にある。

同天皇(景行天皇)が行幸した時、この山にある仮宮から周辺を望むと四方が分明(さやけ)に見えた(はっきりと見えた)。これによって分明村(さやけむら)と呼ばれるようになり、今は訛って狭山郷と呼ばれている。

三根郡


一、三根略記


三根郡(みねのこほり)。郷は6ヵ所、(里は17ヵ所)、駅は1ヵ所ある。

昔は神埼郡と合わせて一つの郡であった。しかし、海部直鳥(アマノアタイトリ)が郡の分割を願い出たので、神埼郡より分置して、そこの三根村から名を取って郡名とした。

物部郷(もののべのさと)。郡の南にある。

この郡の中には神社があり、そこに祀られる神の名を物部経津主之神(モノノベフツヌシノカミ)という。昔、小墾田宮御宇豊御食炊屋姫天皇(推古天皇)が来目皇子を将軍として新羅を征伐させた。その時、皇子は勅命に従って筑紫にやって来て、物部の若宮部を遣わせて この村に社を建て、その神を鎮め祀らせた。これによって物部という。

漢部郷(あやべのさと)。郡の北にある。

昔、来目皇子が新羅征伐に行った時、この村に忍海の漢人を連れてやって来て兵器を造らせた。これによって漢部の郷という。

米多郷(めたのさと)。郡の南にある。

この郷の中には井戸があり、その名を米多井(めたゐ)という。水の味は塩辛く、井戸の底には海藻が生えている。纏向日代宮御宇天皇(景行天皇)が巡狩した時、この井戸底の海藻を見て海藻生井(めたつゐ)と名付けた。それが今は訛って米多井と呼ばれるようになり、これを以って郷名となった。

神埼郡


一、神埼略記


神埼郡(かむざきのこほり)。郷は9ヵ所(里は26ヵ所)ある。駅は1ヵ所、烽は1ヵ所、寺1ヵ所ある(僧寺)。

昔、この郡には荒ぶる神がおり、道を行き交う人々を襲ったので多くの死者が出た。纏向日代宮御宇天皇(景行天皇)が巡狩した時に この神は平和になったので、それからは災禍が起こることは無くなった。これによって神埼郡と呼ばれている。

三根郷(みねのさと)。郡の西にある。

この郷には川があり、その水源は郡の北の山で、南に流れて海に入る。この川には年魚(あゆ)がいる。同天皇(景行天皇)が御幸した時、御船でこの川を経由して湖に到り、この村で宿をとった。その時に天皇は「昨晩はとても安らかに眠れたので、この村は天皇御寐安村(すめらみことのみねやすきむら)と言うが良い」と勅した。これによって御寐(みね)と呼ばれるようになり、今は「寐」という字を「根」に改めている。

船帆郷(ふなほのさと)。郡の西にある。

同天皇(景行天皇)が御幸した時、諸々の氏人らが挙って船に乗り、帆を掲げ三根川の津に集まった。これによって船帆郷と呼ばれるようになった。また、御船の沈石(いかり)が4つほど、その津の辺りに残っている。

この中の一つは高さ6尺(約1.8m)で直径5尺(約1.5m)である。もう一つは高さ8尺(約2.4m)で直径5尺(約1.5m)であり、子の無い婦女がこの2つの石の近くで祈れば必ず子を授かるといわれている。

もう一つは高さ4尺(約1.2m)で直径は5尺(約1.5m)、もう一つは高さ3尺(約0.9m)で直径4尺(約1.2m)であり、旱魃の時に2つの石の近くで雨乞いすれば必ず雨が降るといわれている。

蒲田郷(かまだのさと)。郡の西にある

同天皇(景行天皇)が行幸した時、この郷で宿をとった。食事を摂ろうとした時、そこには多くのハエがいてとてもうるさかった。そこで天皇が「ハエの声がとてもやかましい」と言ったので、これによって囂郷(かまのさと)と呼ばれるようになり、今は訛って蒲田郷となった。

琴木岡(こときのおか)。高さ2丈(約6m)・周囲50丈(約150m)で、郡の南にある。

この地は平原で元々は岡は無かった。大足彦天皇(景行天皇)は「この地には岡が必要である」と勅したので、郡臣たちがこの岡を造らせた。造り終えた時、岡に登って宴を行った。宴を終えた後に御琴を掲げると、それは樟になった。その大きさは高さ5丈(約15m)・周囲3丈(約9m)であった。これによって琴木岡と呼ばれている。

宮処郷(みやこのさと)。郡の西南にある。

同天皇(景行天皇)が行幸した時、この村に仮宮を造らせた。これによって宮処郷という。

佐嘉郡


一、佐嘉略記


佐嘉郡(さかのこほり)。郷は6ヵ所、(里は19ヵ所)ある。駅は1ヵ所、寺は1ヵ所ある。

昔、この村には1株の樟が生えており、それは幹と枝がとても高く、たくさんの葉が生い茂っていた。朝日によって出来た木陰は杵島郡の蒲川の山を覆い、夕日によって出来た木陰は養父郡の草横の山を覆った。

日本武尊(ヤマトタケル)が巡幸した時、この生い茂る樟を見て「この国は栄国(さかのくに)と言うべきだ」と言ったので、これによって栄郡と呼ぶようになり、これが後に佐嘉郡と改められた。

これには別の説もある。この郡の西には川があり、その川の名を佐嘉川と言った。この川には年魚(アユ)が棲んでいた。その水源は郡の北の山であり、南に流れて海に入っている。

■ 土蜘蛛のオオヤマダメ・サヤマダメ


この川の川上には荒ぶる神がおり、道を行き交う人々の半数を生かし、半数を殺した。そこで県主らの祖である大荒田(オオアラタ)が占って鎮める方法を問うた。

その時に土蜘蛛の大山田女(オオヤマダメ)と狭山田女(サヤマダメ)という2人の女が「下田村の土を取り、それで人形と馬形を作って この神を祀れば、必ず和らぐことでしょう」と言ったので、大荒田はこれに従って神々を祀ると、神は歓んで和やかになった。

そこで、大荒田は「彼女らは実に賢い。これを以って賢女(さかしめ)を国の名としたい」と言った。これによって賢女郡と名付けられ、今は訛って佐嘉郡となった。

■ 石神伝説


また、この川上には石神があり、名を世田姫(よたひめ)という。海神である鰐(ワニ)が毎年流れに逆らって川に上り、この神の所に来る。その時には海底の小魚がたくさん従ってやって来る。人がその魚を畏怖すれば災いは起きないが、人が捕って食えば死ぬことがある。この魚たちは2,3日は留まるが、また海に還っていくという。

小城郡


一、小城略記


小城郡(をきのこほり)。郷は7ヵ所(里は20ヵ所)ある。駅1ヵ所、烽は1ヵ所ある。

■ 土蜘蛛の伝説


昔、この村には土蜘蛛がおり、堡(をき=砦)を造って隠れ住み、天皇に従おうとしなかった。そこで、日本武尊(ヤマトタケル)が巡幸した時に皆 悉く誅殺した。これによって小城郡と名付けられた。

松浦郡(まつらのこほり)。郷は1ヵ所(里は26ヵ所)ある。駅は5ヵ所、烽は8ヵ所ある。

昔、気長足姫尊(神功皇后)が新羅を征伐しようとこの郡にやって来て、玉島の小川の畔で御供を供えた。そして、皇后は針を曲げて釣鉤とし、米粒を餌にし、裳の糸を釣糸にして、川中の石に登って「朕は新羅を征伐して彼らの財宝を得たいと思っている。その事が成功して凱旋できるのならば、細鱗之魚(あゆのうお)よ、朕の釣鉤を呑み込め」と言って釣鉤を投げた。

すると、その通りに魚を得られたので、皇后は「とても希見(めづらしき)物だ」と言った。これに因んで希見国(めづらしのくに)と呼ばれるようになった。これが今は訛って松浦郡といわれている。このため、この国の婦女は初夏4月になると針を以って多くの年魚(アユ)を釣るが、男が釣りをしても獲れないという。

二、松浦佐用姫伝説


鏡渡(かがみのわたり)。郡の北にある。

昔、檜隈盧入野宮御宇武少広国押楯天皇(宣化天皇)の御世、大伴狭手彦連(オオトモノサデヒコムラジ)を遣わせて任那国を鎮め、さらに百済国を救った。この大伴狭手彦連が勅命を受けてやって来た時に この村に到り、篠原村の弟日女子(オトヒメコ)と結婚した(日下部君らの祖である)。弟日女子はとても美しい女性であった。狭手彦は弟日女子と別れる日に鏡を与えた。弟日女子は悲しみの涙をこらえて栗川を渡ったが、その際に鏡の紐が切れて川に沈んでしまった。これによって鏡渡と名付けられた。

褶振峰(ひれふりのみね)。郡の東にある。烽の名は褶振烽という。

大伴狭手彦連(オオトモノサデヒコムラジ)が船で任那に渡る時、弟日姫子(オトヒメコ)がこの峰に登り、褶(ひれ)を振って神を招いた。これにより褶振峰と名付けられた。

それから弟日姫子は狭手彦と別れて5日が経った後、ある人が夜毎にやって来るようになり、弟日姫子と一緒に寝て、暁になると早々と帰っていった。その人の容姿は狭手彦に似ていたが、弟日姫子は怪しんで黙っていられずに、密かに麻糸をその人の裾に縫い付けた。

それから麻糸をたどって行くと、やがて峰の頂上にある沼の畔に辿り着いた。そこには寝ている蛇がおり、その身体は人で沼底に沈んでいて、蛇の頭だけが沼岸に出て横たわっていた。すると、その蛇は忽然と人の姿になって「篠原の 弟姫子そ 小一宵も 率寢てむ時や 家に下さむ(篠原の弟日姫子よ、ただ一晩でも一緒に寝たら、家に帰そう)」と詠った。

その時、弟日姫子の侍女が走って親族に告げると、親族は大勢の人を連れて峰に登ったが、そこには既に蛇と弟日姫子の姿は無かった。それから沼底を見ると、そこには人の屍だけがあった。そこで人々は「あれはきっと弟日女子の骨だろう」と言って、この峰の南に行き、そこに墓を造って葬ってやった。その墓は今もある。

三、郷里駅家


賀周里(かすのさと)。郡の西北にある。

■ 海松橿媛(ミルカシヒメ)


昔、この里に土蜘蛛がおり、その名を海松橿媛(ミルカシヒメ)と言った。纏向日代宮御宇天皇(景行天皇)がこの国を巡った時、従者の大屋田子(オオヤタコ、日下部君ら祖)を遣わせて誅滅させた。その時に霞で四方が見えなくなっていたので、これによって霞里(かすみのさと)と呼ばれるようになり、今は訛って賀周里といわれている。

逢鹿駅(あふかのうまや)。郡の西北にある。

昔、気長足姫尊(神功皇后)が新羅を征伐しようと御幸した時、この道で鹿と遭遇した。これによって遇鹿駅という名が付いた。この駅の東の海では、鮑・螺・鯛・海藻・海松などが採れる。

登望駅(とものうまや)。郡の西北にある。

昔、気長足姫尊(神功皇后)が此処に留まった時に男装したところ、身に付けていた鞆(とも)がこの村に落ちた。これによって鞆駅(とものうまや)と呼ばれるようになった。この駅の東西の海では、鮑・螺・鯛などの様々な魚・海藻・海松などが採れる。

大家島(おほやのしま)。郡の西にある。

■ 土蜘蛛の大身(オオミ)


昔、纏向日代宮御宇天皇(景行天皇)が巡幸した時、この村には土蜘蛛がおり、その名を大身(オオミ)と言った。大身は天皇の命令を拒み、背いて降伏することも無かったので、天皇は勅命を下して誅滅させた。これ以来、白水郎(あま=漁民)らが この島に家を造って住み着くようになった。これによって大家郷(おほやのさと)と呼ばれるようになった。この島の南には岩窟があり、そこには鍾乳洞や木蘭がある。また、周りの海では、鮑・螺・鯛などの様々な魚・海藻・海松などがたくさん採れる。

値嘉郷(ちかのさと)。郡の西南の海中にある。烽は3ヵ所ある。

■ 土蜘蛛の大耳(オホミミ)・垂耳(タリミミ)


昔、同天皇(景行天皇)が巡幸した時、志式島(ししきのしま)の仮宮から西海を見ると、海上の島から多数の煙が立ち上っており、その煙が辺りを覆っている様子が見えた。

そこで、天皇は阿曇連百足(アヅミノムラジモモタリ)を遣わせて偵察させると、そこには80余りの島があり、そのうち2島にはそれぞれに人が住んでいた。第一の島を小近(をちか)と言い、そこには土蜘蛛の大耳(オホミミ)が住んでいた。第二の島を大近(おほちか)と言い、そこには土蜘蛛の垂耳(タリミミ)が住んでいた。その他の島には人は住んでいなかった。

そこで百足は大耳らを捕えて報告すると、天皇は「誅殺せよ」との勅命を下した。その時に大耳らは頭を下げて「我々の罪は実に極刑に値します。これは万回殺されても足りない罪です。しかし、もし恩情によって生かして下さるのならば、御贄を作って奉り、御膳を恒に献上しましょう」と申し上げ、すぐに木の皮を取って、長鮑・鞭鮑・短鮑・陰鮑・羽割鮑などの料理を作り、それを見本として献上した。すると、天皇は恩赦を与えて放してやり、そこで「この島は遠いが、まるで近いようにも見える。よって近島(ちかしま)と呼ぶが良い」と言った。これによって値嘉(ちか)という。

この島には、ビンロウ・モクレン・クチナシ・イタビ・ツヅラ・ナヨタケ・シノ・フユ・ハス・ヒユなどがあり、海には鮑・螺・鯛や鯖などの様々な魚・海藻・海松・雑海菜がある。また、白水郎(あま=漁民)は富んでいて牛馬を持っている。

付近には100余りの島々があり、それとは別に80余りの島々が近くにある。また、西には船着場が2ヵ所あり、一つは相子田停(あいこたのとまり)と言い、もう一つは川原浦(かはらのうら)と言って、10余りの船を停めることができる。遣唐使は相子田停を船の発着場としており、ここから美彌良久之埼(みねらくのさき)に到る(川原浦の西の崎がこれである)。さらに此処から船を出して西に向かうのである。この島の白水郎(漁民)は隼人に似て、恒に馬上から弓を射る事を好み、その言葉も俗の人々とは異なる。

杵嶋郡


一、杵嶋略記


杵島郡(きしまのこほり)。郷は4ヵ所(里は13ヵ所)ある。駅は1ヵ所ある。

昔、纏向日代宮御宇天皇(景行天皇)が巡幸した時、この郡にある磐田杵之村(いはたきのむら)に御船を停泊させた。その時、従って来た船の牂戨(かし)の穴から自然と冷水が湧いたという。

また、別の話に船が停泊したところが島になったので、それを見た天皇は郡臣らに「この郡は牂戨島郡(かししまのこほり)と呼ぶべきだ」と言ったという。それが今は訛って杵島郡となった。郡の西には温泉が湧き出しているが、岸壁が極めて険しいため、人が行くことは滅多に無い。

嬢子山(をみなやま)。郡の東北にある。

■ 土蜘蛛の八十女(ヤソヲミナ)


同天皇(景行天皇)が行幸した時、この山の山頂に八十女(ヤソヲミナ)という土蜘蛛がいた。八十女は天皇の命令を拒み、背いて降伏することも無かった。そこで、天皇は兵に奇襲させて滅ぼしたという。これによって嬢子山と呼ばれるようになった。

藤津郡


一、藤津略記


藤津郡(ふぢつのこほり)。郷は4ヵ所(里は9ヵ所)ある。駅は1ヵ所、烽は1ヵ所ある。

昔、日本武尊(ヤマトタケル)が行幸した時、この津に到ると西の山に日が落ちたので御船を停泊させた。その翌朝に遊覧し、船の艫綱を大きな藤に繋げた。これによって藤津郡と呼ばれるようになった。

能美郷(のみのさと)。郡の東にある。

■ 土蜘蛛三兄弟(オホシロ、ナカシロ、ヲシロ)


昔、纏向日代宮御宇天皇(景行天皇)が行幸した時、この里に土蜘蛛三兄弟がおり、兄の名は大白(オホシロ)、次の名は中白(ナカシロ)、弟の名は少白(ヲシロ)と言った。

この者共は、砦を築いて隠れ住み、天皇に背いて降伏することは無かった。そこで、天皇は紀直らの祖である穉日子(ワカヒコ)を遣わせて誅滅させようとすると、三兄弟はただ叩頭(のみ=頭を地面に擦りつけること)をして、己の罪を述べて共々に命乞いをした。これによって能美郷と呼ばれるようになった。

託羅郷(たらのさと)。郡の南にあり、海を臨むことができる。

同天皇(景行天皇)が行幸した時、此処に到って郷を見渡してみると、海産物が豊かである様子が見えた。そこで、天皇は「地勢を見るに平地は少ないが、食物は豊かで満ち足りているので、豊足村(たらひのむら)と呼ぶべきだ」と言った。今はそれが訛って託羅郷といわれている。

塩田川(しほたがわ)。郡の北にある・

この川の水源は、郡の西南にある託羅の峰より東に流れ出て海に入っている。満潮の時には流れが逆流し、その勢いは激しく、水位は高くなる。これによって潮高満川(しほたかみつがわ)と呼ばれるようになった。それが今は訛って塩田川といわれている。水源には淵があり、その深さは2丈(約6m)で、岸壁は険しく周囲は垣根のようになっており、此処には年魚(アユ)がたくさんいる。また、東の畔には温泉が湧いており、人の病によく効く。

彼杵郡


一、彼杵略記


彼杵郡(そのきのこほり)。郷は4ヵ所(里は7ヵ所)ある。駅は2ヵ所、烽は3ヵ所ある。

■ 速来村の土蜘蛛


昔、纏向日代宮御宇天皇(景行天皇)が球磨噌唹(クマソ)を誅滅して凱旋し、豊前国の宇佐の海浜の仮宮に居た時のこと。天皇は従者の神代直(カミシロノアタヒ)をこの郡に遣わせて、速来村(はやきのむら)に居た土蜘蛛を捕えさせた。

■ 三色の玉


その時に速来津姫(ハヤキツヒメ)という人が現れて「私の弟である健津三間(タケツミマ)が健村の里に住んでいるが、彼は石上神(イソノカミ)の木蓮子玉(いたびだま)という美しい玉を持っており、これを愛でるあまりに厳重に保管して誰にも見せようとしない」と言うので、神代直が詳しく尋ねると、健津三間は山を超えて逃げ、郡より北にある落石岑(おちいしのみね)まで走り去ったということだった。

そこで、神代直はすぐに健津三間を追って捕獲すると、先の事柄ついて問い詰めた。これに健津三間は「その玉には2色あり、その一つは石上神の木蓮子玉で、もう一つは白珠(しらたま)と言います。これは䃤(しゅ)・砆(ふく)と比べられるほど珍しいものなので、願わくば献上したいと思います」と答えた。

また、速来津姫は「川岸の村に住む篦簗(ノヤナ)という者も美しい玉を持っているが、それを極めて愛でているので、きっと天皇に従おうとしないだろう」と言うので、神代直は箆簗を捕えて先の事柄を問い詰めた。これに箆簗は「確かに玉を持っております。これは天皇に献上したいと思いますので、敢えて惜しむことはしません」と答えた。

この後、神代直は この三色の玉を持ち帰って天皇に献上した。その時、天皇は「この国は具足玉(そなひだまのくに)と呼ぶのが良いだろう」と言った。今はそれが訛って彼杵郡となっている。

浮穴郷(うきあなのさと)。郡の北にある。

■ 浮穴沫媛(ウキアナワヒメ)


同天皇(景行天皇)が宇佐の浜の仮宮に居る時、神代直(カミシロノアタヒ)に「朕は今まであまねく諸国を巡り、そのほとんどを平定して統治してきた。未だに朕の統治を受け入れない者どもは居るだろうか」と問うと、神代直は「あの煙の立っている村は統治を受け入れていないようです」と答えた。

そこで、天皇は この村に神代直を遣わせると、そこには浮穴沫媛(ウキアナワヒメ)という土蜘蛛がいた。この者は天皇に従わないとても無礼な者だったので、すぐに誅殺した。これによって浮穴郷と呼ばれるようになった。

周賀郷(すかのさと)。郡の西南にある。

■ 欝比表麻呂(ウツヒオマロ)


昔、気長足姫尊(神功皇后)が新羅征伐のために行幸した時、御船をこの郷の東北の海に繋ぐと、舳艫を繋ぐ牂戨(かし)が磯と化した。それは高さ20丈(約60m)余り、周囲は10丈(約30m)余りで、磯との距離は海を隔てて10町(約109m)余りであった。また、その磯は高くて険しく、草木は生えていなかった。

また、御船に従った船は風に漂って沈んでしまった。その時、欝比表麻呂(ウツヒオマロ)という土蜘蛛が、その船を救った。これによって救郷(すくひのさと)と呼ばれるようになり、今は訛って周賀郷となった。

速来門(はやきのと)。郡の西北にある。

この門に潮が来る様子は、東に潮が落ちれば西に湧き登り、湧く音は雷音のように響き渡る。これによって速来門と呼ばれるようになった。また、そこにはよく茂る木があり、根は地に着いているが、枝は海に沈んでいる。ここの海藻は早く生えるので、朝廷への貢物にしている。

高来郡


一、高来略記


高来郡(たかくのこほり)。郷は9ヵ所(里は21ヵ所)あり。駅は4ヵ所、烽は5ヵ所ある。

昔、纏向日代宮御宇天皇(景行天皇)が肥後国玉名郡の長渚浜の仮宮に居た時、この郡の山を見て「この山の形は離島の様になっている。陸続きの山なのか、別々の島なのか、朕は知りたいと思う」と勅して、それを確かめるために神大野宿禰(ミワノオホノノスクネ)を遣わせると、やがてこの郡に到った。

その時、ここの住人が出迎えて「私は この山の神で高来津座(タカツククラ)という。天皇の使いが来ると聞いて御迎えにやって来た」と言った。これによって高来郡と呼ばれている。

土歯池(つぢはのいけ)。俗に比遅波(ひじは)と言われ、郡の西北にある。

この池は東の海辺にあり、そこには高い岸がある。その岸は、高さ100丈(約300m)余り、長さは300丈(約900m)余りで、西海の波で常に洗われている。土地の人々は土歯池と呼んでいる。

池の堤は、長さ600丈(約1.8km)余り、広さ50丈(約150m)余り、高さ2丈(約6m)余り、池の内側は縦横20町(約218m)余りである。潮が来ると、常に堤を越えて入ってくる。ここには蓮や菱がたくさん生えており、秋の7,8月には蓮の根がとても甘くなるが、秋の9月になると、香りも味も変わってしまうので食べるには適さない。

峰湯泉(みねのゆのいづみ)。郡の南にある。

この温泉は、源泉が郡の南にある高来峰の西南の峰にあり、そこから東に流れ出ている。湯の量は多く流れる勢いはとても強い。温度も他の湯とは異なっており、冷水と混ぜることで湯浴みできるようになる。湯の味は酸っぱく、硫黄・白土(石灰)・和松ができている。その松の葉は細く、小豆のような実ができており、食べることもできる。

肥前國風土記逸文


鏡渡袖振峰


肥前国風土記には、このようにある。

昔、武小廣国押楯天皇(宣化天皇)の御世、大友狭手彦連(オホトモノサデヒコノムラジ)が勅命を受けて、任那国を鎮め、兼ねて百済国を救おうとして この村にやって来た。そこで篠原村の弟日姫子と結婚した。この姫の容貌はとても美しかったという。

二人が別れる日、狭手彦は鏡を弟日姫子に与えると、弟日姫子は悲しみを抱きつつ栗川を渡った。そこで貰った鏡を懐に抱きながら川に沈んでしまった。これによって鏡渡(かがみのわたり)と呼ばれるようになった。また、狭手彦が船で出航する際に、弟日姫子は この峰に登って袖を持って振り招いた。このため袖振峰(そでふるたけ)というようになった。云々

與止姫神


風土記には、このようにある。

人皇30代 欽明25年甲申冬11月朔日甲子、肥前国の佐嘉郡に與止姫神(ヨドヒメ)が鎮座された。別名の一つに豊姫(ユタヒメ)があり、また一つに淀姫(ヨドヒメ)というものもある。

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著者: matapon Twitter
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。