人文研究見聞録:下御霊神社

京都府京都市中京区にある下御霊神社(しもごりょうじんじゃ)です。

平安時代に冤罪を被って亡くなった貴人の怨霊を「御霊(ごりょう)」として当時から祀っている神社であり、古来より京都御所の産土神として崇敬されていたと云われています。

なお、下御霊神社という社名は上京区にある上御霊神社に対応するものとされています。


由緒

創祀については、国史の『日本三代実録』にある貞観5年(863)に平安京の神泉苑にて執り行われた文献上最古の御霊会(怨霊の鎮魂のための儀礼)に端を発するとされますが、実際の所は全く不明とされ、恐らくこの頃に始まると考えられているようです。

また、社伝によれば、最初は愛宕郡出雲郷の下出雲寺(廃寺)の境内に鎮座していたと伝わっており、後に新町出水の西に移り、天正18年(1590)に現在地に鎮座したとされています。

御霊会について

平安時代には災害や疫病といった災厄は非業の死を遂げた死者の怨霊による祟りであると考えられ、そうした祟りを防ぐために怨霊を鎮め祀ることで その祟りから免れる御霊会(ごりょうえ)という鎮魂の儀礼が行われたとされています。

『日本三代実録』によれば、貞観5年(863年)5月20日、天皇の勅命によって平安京の神泉苑にて御霊会が行われ、そこには王侯卿士みなが列席し、霊座六前に祭壇を設けて花果を供えて恭しく祭祀を行い、『金光明経』や『般若心経』といった仏教経典の読経とともに、歌舞音曲や民衆参加の踊りなども行われたとされています。
 
また、この御霊とは、崇道天皇、伊豫親王、藤原夫人、及び観察使、橘逸勢、文屋宮田麻呂の事であるとされ、冤罪のまま亡くなった魂は祟りとなり、それによって疫病が頻発し、多くの者が亡くなりました。それを当時の人々は御霊が原因であると考えたため、京畿より始まった御霊会は地方まで広がり、夏天秋節ごとに御霊会が恒例で行われるようになったとされています。

なお、怨霊を鎮め慰めることによって「御霊」を鎮護の神とする「御霊信仰」という信仰も、平安期から流行していったとされています。

詳しくはこちらの記事を参照:【御霊信仰とは?】

祭神

下御霊神社の祭神は以下の通りです。

主祭神

・吉備聖霊(きびのしょうりょう):吉備真備という説があるが、神社では六座の御霊の和魂としている
・崇道天皇(すどうてんのう):桓武天皇の皇太子、早良親王(さわらしんのう)
・伊豫親王(いよしんのう) :桓武天皇の皇子
・藤原大夫人(ふじわらのだいふじん):桓武天皇夫人、伊豫親王の母、藤原吉子
・藤大夫(とうだいぶ):藤原廣嗣(ふじわらひろつぐ)
・橘大夫(きつだいぶ):橘逸勢(たちばなはやなり)
・文大夫(ぶんだいぶ):文屋宮田麻呂(ぶんやみやたまろ)
・火雷天神(からいのてんじん):菅原道真公という説があるが、神社では六座の御霊の荒魂としている

相殿

・霊元天皇(れいげんてんのう):第112代天皇

境内社

下御霊神社の境内社および祭神は以下の通りです。

・神明社:天照大御神、豊受大神
・八幡社:八幡大神
・春日社:春日大神
・猿田彦社:猿田彦大神、山崎闇斎、柿本人麻呂
・稲荷社:稲荷大神
・天満宮社:北野大神
・宗像社:田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命
・五社相殿社:日吉大神、愛宕大神、大将軍八神、高知穂神、斎部神

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料金: 参拝無料
住所: 京都府京都市上京区新烏丸通丸太町下る信富町324
営業: 終日開放(社務所 9:00~17:00)、無休
交通: 丸太町駅(徒歩7分)

公式サイト: http://shimogoryo.main.jp/index.php?FrontPage
matapon
著者: matapon Twitter
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。