橘寺 [奈良県]
2015/03/26
奈良県の明日香村にある橘寺(たちばなでら)です。
推古天皇の勅命によって聖徳太子が創建した寺院とされており、聖徳太子建立七大寺の1つに数えられています。
なお、付近で聖徳太子が生まれたと伝えられることから、聖徳太子誕生の地としても有名です。
また、境内には飛鳥の謎の石造物である二面石が安置されています。
寺院概要
縁起
寺伝によれば、当寺は厩戸皇子(聖徳太子)の生誕地であり、太子が当地で勝鬘経を三日間にわたって講讃した際、庭に蓮の花が積もり、南の山に千の仏頭が現れて光明を放ち、太子の冠から日月星の光が発せられたことから、驚いた推古天皇によって寺を建立するよう命じられ、当地にあった欽明天皇の別宮である橘の宮(たちばなのみや)を改築して橘樹寺(たちばなのきてら)としたことに始まるとされます。
また、橘寺の創建年代は不明とされますが、『聖徳太子伝暦』によれば聖徳太子建立七大寺の一つとされ、『日本書紀』の天武天皇条に「橘寺の尼房で火災があり、十房を焼いた」という記録があるとされています。
なお、パンフレットには橘寺の歴史について以下のように記されています。
橘寺の創建と変遷
当寺は、聖徳太子様のお生まれになった所で、当時ここには、橘の宮という欽明天皇(きんめいてんのう)の別宮があった。
太子は、その第四皇子の橘豊日命(たちばなとよひのみこと、後の31代用明天皇)と穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)を父母とされて、西暦572年、この地にお生まれになり、幼名を厩戸皇子(うまやどのみこ)、豊聡耳皇子(とよさとみみのみこ)などと申し上げた。太子は大変深く仏法をご信仰になり、自ら仏典の講義をされ、注釈を加えられたのが三経義疏(さんきょうぎしょ、『法華経』・『勝鬘経』・『維摩経』の三経の注釈書)で、現在も保存されている。
33代推古天皇14年秋7月(西暦606)に、天皇の仰せにより、勝鬘経(しょうまんきょう)を三日間にわたりご講讃になった。その時、大きな蓮の花が庭に1mも降り積もり(蓮華塚)、南の山に千の仏頭が現れ光明を放ち(仏頭山)、太子の冠から日月星の光が輝き(三光石)、不思議な出来事が起こったので、天皇は驚かれて、この地にお寺を建てるように太子に命ぜられた。
そこで御殿を改造して造られたのが橘樹寺(たちばなのきてら)で、聖徳太子建立七ヵ大寺の一つに数えられた。当初は東西八丁(870m)南北六丁(650m)の寺地に、金堂、講堂、五重塔を始め、66棟の堂舎が立ち並んでいた。天武天皇9年(西暦681)尼房失火の為十房焼いた記録があり(日本書紀)、当時尼寺であったと思われる。
光明皇后(聖武天皇の后)より丈六の釈迦三尊、淳和天皇(じゅんなてんのう)が薬師三尊をご寄贈になり、不断法華転読および法華八講が修法せしめられた。法隆寺の金堂日記の中に「橘寺より小仏49体、承暦2年(西暦1078)10月8日迎え奉った」と記されており、玉虫厨子を移したのもこのころと思われる。
近衛天皇(このえてんのう) 久安4年(西暦1148)5月15日雷火のため五重塔焼失。60年後鎌倉時代文治年間三重塔再建、「元興寺より四方仏を迎え奉った」などの記録もある。
後柏原天皇(ごかしわばらてんのう)永正3年(西暦1506)、多武峯の兵により焼かれ全く昔日の面影を無くしてしまい、江戸時代には正堂、念仏堂共に大破し僧舎1棟のみと記されている。
現在の堂は、元治元年(西暦1864)多くの人々の力により再建実現したものである。昔は法相宗であったが、江戸中期より天台宗になり比叡山延暦寺の直末で仏頭山上宮皇院橘寺、別名「菩提寺」とも言われている。
当寺は、聖徳太子様のお生まれになった所で、当時ここには、橘の宮という欽明天皇(きんめいてんのう)の別宮があった。
太子は、その第四皇子の橘豊日命(たちばなとよひのみこと、後の31代用明天皇)と穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)を父母とされて、西暦572年、この地にお生まれになり、幼名を厩戸皇子(うまやどのみこ)、豊聡耳皇子(とよさとみみのみこ)などと申し上げた。太子は大変深く仏法をご信仰になり、自ら仏典の講義をされ、注釈を加えられたのが三経義疏(さんきょうぎしょ、『法華経』・『勝鬘経』・『維摩経』の三経の注釈書)で、現在も保存されている。
33代推古天皇14年秋7月(西暦606)に、天皇の仰せにより、勝鬘経(しょうまんきょう)を三日間にわたりご講讃になった。その時、大きな蓮の花が庭に1mも降り積もり(蓮華塚)、南の山に千の仏頭が現れ光明を放ち(仏頭山)、太子の冠から日月星の光が輝き(三光石)、不思議な出来事が起こったので、天皇は驚かれて、この地にお寺を建てるように太子に命ぜられた。
そこで御殿を改造して造られたのが橘樹寺(たちばなのきてら)で、聖徳太子建立七ヵ大寺の一つに数えられた。当初は東西八丁(870m)南北六丁(650m)の寺地に、金堂、講堂、五重塔を始め、66棟の堂舎が立ち並んでいた。天武天皇9年(西暦681)尼房失火の為十房焼いた記録があり(日本書紀)、当時尼寺であったと思われる。
光明皇后(聖武天皇の后)より丈六の釈迦三尊、淳和天皇(じゅんなてんのう)が薬師三尊をご寄贈になり、不断法華転読および法華八講が修法せしめられた。法隆寺の金堂日記の中に「橘寺より小仏49体、承暦2年(西暦1078)10月8日迎え奉った」と記されており、玉虫厨子を移したのもこのころと思われる。
近衛天皇(このえてんのう) 久安4年(西暦1148)5月15日雷火のため五重塔焼失。60年後鎌倉時代文治年間三重塔再建、「元興寺より四方仏を迎え奉った」などの記録もある。
後柏原天皇(ごかしわばらてんのう)永正3年(西暦1506)、多武峯の兵により焼かれ全く昔日の面影を無くしてしまい、江戸時代には正堂、念仏堂共に大破し僧舎1棟のみと記されている。
現在の堂は、元治元年(西暦1864)多くの人々の力により再建実現したものである。昔は法相宗であったが、江戸中期より天台宗になり比叡山延暦寺の直末で仏頭山上宮皇院橘寺、別名「菩提寺」とも言われている。
本尊
本堂(太子堂)
・聖徳太子坐像(しょうとくたいしざぞう):聖徳太子の像であり、35歳の時の姿とされる
観音堂
・如意輪観音坐像(にょいりんかんのんざぞう):観音菩薩の変化身の一つであり、六観音の一尊とされる
・聖徳太子坐像(しょうとくたいしざぞう):聖徳太子の像であり、35歳の時の姿とされる
観音堂
・如意輪観音坐像(にょいりんかんのんざぞう):観音菩薩の変化身の一つであり、六観音の一尊とされる
聖徳太子について
聖徳太子(しょうとくたいし)とは、第31代用明天皇と穴穂部間人皇女の皇子であり、厩戸で生まれたことから廐戸皇子(うまやどのみこ)と名付けられたとされます(他に多くの別名があり、聖徳太子の呼称も奈良期の『懐風藻』が初出とされる)。
『日本書紀』によれば、太子は非常に優れた人物であったとされ、崇仏派の蘇我氏の排仏派の物部氏との間で生じた丁未の乱(仏教の是非をめぐる戦争)の際には蘇我氏に付き、四天王に戦勝を祈願して物部氏を打倒したと記されています。
また、推古天皇の御代には皇太子となり、摂政として国政を執ったとされ、"遣隋使の派遣"を行ったことや、"冠位十二階"・"十七条憲法"を定めたことで知られています。なお、『日本書紀』には太子の誕生について以下のように記されています。
『日本書紀』による聖徳太子の誕生
推古天皇は、厩戸豐聡耳皇子(聖徳太子)を皇太子に立て、政務を総理し、行政の権限を悉く任せられた。
皇太子は用明天皇の第二子で、母は皇后の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)という。母が廐(うまや)の戸にぶつかった時に健やかに生まれられた。生まれた後 すぐに話すことができ、聖(ひじり)のように優れた知識を持っておられた。
成人した後は、一度に十人の訴えを聞いても それぞれを正しく判別し、未来の出来事を予め知ることができた。また、仏教を高麗の僧・慧慈(ゑじ)に習い、儒教を博士・覚哿(かくか)に学んで全てを習得された。
父の天皇は皇子を大変寵愛しており、宮(池辺双槻宮)の南の上殿(かみつみや)に住まれたので、上宮廐戸豐聡耳太子(かみつみやのうまやとのとよとみみのひつぎのみこ)と申し上げる。
推古天皇は、厩戸豐聡耳皇子(聖徳太子)を皇太子に立て、政務を総理し、行政の権限を悉く任せられた。
皇太子は用明天皇の第二子で、母は皇后の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)という。母が廐(うまや)の戸にぶつかった時に健やかに生まれられた。生まれた後 すぐに話すことができ、聖(ひじり)のように優れた知識を持っておられた。
成人した後は、一度に十人の訴えを聞いても それぞれを正しく判別し、未来の出来事を予め知ることができた。また、仏教を高麗の僧・慧慈(ゑじ)に習い、儒教を博士・覚哿(かくか)に学んで全てを習得された。
父の天皇は皇子を大変寵愛しており、宮(池辺双槻宮)の南の上殿(かみつみや)に住まれたので、上宮廐戸豐聡耳太子(かみつみやのうまやとのとよとみみのひつぎのみこ)と申し上げる。
聖徳太子について詳しくはこちらを参照:【聖徳太子とは?(史実上の人物像)】【聖徳太子とは?(伝説の人物像)】
寺名について
橘寺という名前は、第11代垂仁天皇の御代に、天皇から常世国に行って不老不死の果物を取ってくるよう勅命を受けた田道間守(タヂマモリ)が、常世国から持ち帰ってきた"橘の実"を当地に植えたという伝説に由来するとされています。
田道間守についてはこちらをどうぞ:【田道間守の伝説】
橘寺の伽藍配置について
発掘調査の結果、橘寺の伽藍配置は四天王寺式伽藍配置(してんのうじしきがらんはいち)であり、当時の寺院には珍しく東向きで建てられていたことが分かったそうです。なお、四天王寺式伽藍配置とは、中門、塔、金堂、講堂が一直線に並ぶ伽藍配置を指し、聖徳太子が建てたと伝わる寺院には多い方式であるとされます。
また、一説によれば、聖徳太子は古代中国の風水思想に影響を受けていたとされ、四天王寺は四神相応に基づいた配置になっているともいわれており、聖徳太子建立七大寺の内、四天王寺、法隆寺、中宮寺、橘寺がこれに当て嵌まると考えられています(創建当初の伽藍配置)。
なお、橘寺の案内板では以下のように説明されています。
橘 寺
発掘調査によって、伽藍(がらん、寺院の建物)は四天王寺式伽藍配置であるが、当時の寺院は、南向きのものが多い中、この寺院はめずらしく東向きで、中門・塔・金堂・講堂が一直線に東から西へ並んでいたことが確認された。中でも、塔心礎(とうしんそ)の柱穴は、心柱の三方に添木を当てる特殊な形式で法隆寺若草伽藍の心礎と似ている。
寺院の創建年代は定かではないが、聖徳太子伝暦によれば太子がこの寺で、勝鬘経(しょうまんきょう)を講ぜられたとき、瑞祥(すいしょう)があって、それによって仏堂を建立したとある。太子建立の七ヶ寺の一つと伝えられている。発掘調査で出土した瓦の文様から、7世紀前半には小規模な堂(金堂?)が建てられ、7世紀後半に大規模な整備がなされたことがわかる。
発掘調査によって、伽藍(がらん、寺院の建物)は四天王寺式伽藍配置であるが、当時の寺院は、南向きのものが多い中、この寺院はめずらしく東向きで、中門・塔・金堂・講堂が一直線に東から西へ並んでいたことが確認された。中でも、塔心礎(とうしんそ)の柱穴は、心柱の三方に添木を当てる特殊な形式で法隆寺若草伽藍の心礎と似ている。
寺院の創建年代は定かではないが、聖徳太子伝暦によれば太子がこの寺で、勝鬘経(しょうまんきょう)を講ぜられたとき、瑞祥(すいしょう)があって、それによって仏堂を建立したとある。太子建立の七ヶ寺の一つと伝えられている。発掘調査で出土した瓦の文様から、7世紀前半には小規模な堂(金堂?)が建てられ、7世紀後半に大規模な整備がなされたことがわかる。
境内の見どころ
山門
橘寺の山門です。
護摩堂
橘寺の護摩堂です。
本堂(太子堂)
橘寺の本堂(太子堂)です。
本尊として、聖徳太子坐像(しょうとくたいしざぞう)が安置されています。
観音堂
橘寺の観音堂です。
本尊として、如意輪観音坐像(にょいりんかんのんざぞう)が安置されています。
蓮華塚(畝割塚)
橘寺の蓮華塚(れんげづか)です。
聖徳太子による勝鬘経講讃の際、降り積もった蓮の花を埋めたところであるとされています。
黒駒像
橘寺の黒駒像(くろこまぞう)です。
聖徳太子の愛馬の黒駒の像であり、天高く飛び上がり空を駆けたとされています。
詳しくはこちらの記事を参照:【甲斐の黒駒(まとめ)】
二面石
橘寺の二面石(にめんせき)です。
飛鳥の石像物の一つであり、人の心の善悪二相を表わしたものといわれています。
詳しくはこちらの記事を参照:【二面石】
五重塔跡
橘寺の五重塔跡です。
落雷で焼失したとされる五重塔の跡であり、心礎の形が珍しいとされています。
なお、案内板では以下のように説明されています。
本坊の門の前に土壇がある。五重塔跡で中心には大きい珍しい形をした心礎があり、直径90cm、深さ10cmの柱の入る孔、その円孔の三方に半円形の孔(そえ柱孔)が掘ってあり、現存すれば約38m余りの五重塔が建っていたことになる。
三光石
橘寺の三光石(さんこうせき)です。
聖徳太子による勝鬘経講讃の際、日・月・星の光を放ったとされています。
詳しくはこちらの記事を参照:【三光石】
阿字池
橘寺の阿字池(あじいけ)です。
梵字の「阿(ア)」を形取った池であり、聖徳太子が作られたと伝えられています。
往生院の天井画
橘寺の往生院の天井は格子天井となっており、院内では天井画を見ることができます。
料金: 一般 350円、中高生 300円、小学生 150円
住所: 奈良県高市郡明日香村橘532(マップ)
営業: 9:00~17:00(受付16:30まで)
交通: 岡寺駅(徒歩29分、バスまたはレンタサイクル推奨)
備考:聖倉殿(宝物館)の公開は春・秋の特定期間のみ
公式サイト:http://tachibanadera-asuka.jimdo.com/
住所: 奈良県高市郡明日香村橘532(マップ)
営業: 9:00~17:00(受付16:30まで)
交通: 岡寺駅(徒歩29分、バスまたはレンタサイクル推奨)
備考:聖倉殿(宝物館)の公開は春・秋の特定期間のみ
公式サイト:http://tachibanadera-asuka.jimdo.com/
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「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
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