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2015年3月26日木曜日

田道間守の伝説(橘の起源説話)

人文研究見聞録:田道間守の伝説(橘の起源説話)

柑橘類の一種である橘(タチバナ)は、奈良県の明日香村にある橘寺の寺名の由来となったとされます。

なお、この橘は不老長寿の秘薬であったとされ、『記紀』では田道間守によって常世国から持ち帰られたとされています。

そこで、この橘の起源説話である「田道間守の伝説」についてまとめてみたいと思います。

橘寺についてはこちらを参照:【橘寺】


概要

田道間守とは?

人文研究見聞録:田道間守の伝説(橘の起源説話)
タジマモリ

田道間守(たじまもり、たぢまもり)とは、『日本書紀』の垂仁天皇条に登場する人物であり、朝鮮半島の新羅国から渡来してきた天日槍(アメノヒボコ)の後裔の清彦の子であるとされています(『古事記』では多遅摩比那良岐(但馬日楢杵)の子)。

伝説では天皇の勅命により、常世国に渡って不老長寿の秘薬である非時香果(トキジクノカグノコノミ)を探し出し、天皇に献上しようとしたものの、その時には既に天皇が崩御していたため、嘆き悲しんで御陵の前で追死したとされます。

また、非時香果(橘)の実は現在の橘寺(奈良県明日香村)の寺域に蒔かれことから、地名および寺名が「」となったとされています。なお、橘寺のパンフレットによる説明は以下の通りです。

田道間守(たじまもり)

日本書紀によると、11代垂仁天皇(すいにんてんのう)の時、勅命を受けて常世(とこよ)の国(中国雲南省か?)へ不老長寿の薬を求めに行った田道間守が、10年の長い間苦労してようやく秘薬を捜し求め、持ち帰ったところ、天皇は既にお亡くなりになっていた。

このとき彼が持ち帰ったものを「非時香果(トキジクノカグノコノミ)」といい、この実を当地(橘寺)に蒔くとやがて芽を出したのが橘(ミカンの原種)で、それからこの地を橘と呼ぶようになったと伝えられている。

また彼は、黒砂糖をも持ち帰り橘と共に薬として用いていたので、後に蜜柑・薬・菓子の祖神として崇めら祭られるようになった。菓子屋に橘屋の屋号が多く用いられるのは、この縁によるものである。

橘とは?

人文研究見聞録:田道間守の伝説(橘の起源説話)
タチバナ

橘(タチバナ)とは、日本に古くから野生していた日本固有の柑橘類(ミカンなど)の一種であり、本州の和歌山県、三重県、山口県、四国、九州の海岸に近い山地に稀に自生しているとされます。

『記紀』においては、垂仁天皇の御代に田道間守(たじまもり)が常世国から持ち帰った非時香果(トキジクノカグノコノミ)が橘(タチバナ)に当たるとされ、不老長寿の秘薬であったとも解釈されています(下記を参照)。

文献の記述

『古事記』によるタジマモリ

『古事記』によるタジマモリの記述は以下の通りです。

垂仁天皇は、三宅連の祖先の多遅摩毛理(タジマモリ)を常世国に派遣して、"ときじくのかくの木の実"を探させた。

多遅摩毛理は遂に常世国へと到り、木の実を取って持ち帰ったが、そのとき既に天皇は崩御していた。そこで、多遅摩毛理は半分の苗を皇后に献上し、残り半分の苗を天皇の墓の入口に供えた。

そして、木の実を持って大きな声で泣き叫び、「縵四縵(カゲヨカゲ)・矛四矛(ホコヨホコ)を分けて大后に献り、常世国の"ときじくのかくの木の実"を持って来ました」と申し上げると、そのまま泣き叫びながら死んでしまった。

"ときじくのかくの木の実"とは今で言うところの橘(タチバナ)である。 垂仁天皇は153歳で亡くなった。墓は菅原の御立野の中にある。

『日本書紀』によるタジマモリ

『日本書紀』によるタジマモリの記述は以下の通りです。

垂仁天皇90年春2月1日、天皇は田道間守(タジマノモリ)を常世国(トコヨノクニ)へ派遣して、非時香菓(トキジクノカクノミ)を探させた。現在の橘(タチバナ)というのはこれである。

垂仁天皇99年秋7月1日、天皇は纒向宮(マキムクノミヤ)で崩御した。そのとき140歳であった。この後、冬12月10日に菅原伏見陵(スガワラノフシミノミササギ)に葬られた。

天皇が崩御した翌年の春3月12日、田道間守は常世国に到着し、非時香菓を得た。田道間守は八竿八縵(葉をとった8枝・葉のついた8枝)にして持ち帰ったが、帰国したときには既に天皇は崩御していた。

このため、田道間守は嘆き悲しんで このように申し上げた。

「天朝(ミカド)から命令を受け、遠くの絶域(ハルカナルクニ)に行き、万里の波を越え、遥かに遠くの川を渡りました。この常世国は神仙(ヒジリ)の秘区(カクレタルクニ)です。俗(タダヒト)のいる所ではありませんでした。

ここ(倭国)と常世国を行き来する間に自然と10年が経ちました。一人で高い波を凌いで、本土まで帰ってこれると思っていませんでしたが、聖帝(ヒジリノミカド)の神霊(ミタマノフユ)のおかげで、どうにか帰ってくることが出来ました。

ところが、天皇は既に亡くなっていましたので、復命も叶いません。臣(私)は生きていて何の益があるでしょうか」

こうして、田道間守はすぐに天皇の陵に向かい、泣き叫んで自害した。それを聞いた群卿(マヘツキミ)は涙を流したという。また田道間守(タジマノモリ)は三宅連の始祖である。

『ホツマツタヱ』によるタジマモリ

『ホツマツタヱ』によるタジマモリの記述は以下の通りです。

垂仁90年2月1日、君はタジマモリを召して「タジマモリよ、橘を求めにトコヨに渡るがよい。我が思うに その木はクニトコタチの御代の木である」と詔した。

垂仁99年7月初日、君が崩御した。その齢は137歳であった。

垂仁100年3月、タジマモリが、トキシクカグツ24籠、橘の木4本、株4本を持ち帰ってきた。しかし、これを届ける前に君が罷ってしまったので、タジマモリは土産の半数を若宮(ヲシロワケ)へ、残り半数を君の御陵に捧げて申し上げた。

「私はこれ(橘)を得るために遥か遠くのトコヨに行きましたが、そこは尊(君)が隠れた場所には及びません。

トコヨまでの道すがら、風土に馴染むのに10年を経ましたが、これは君を思ってこそ凌ぎを得て帰ることが出来ました。

皇がクシヒル(貴霊)によってお帰りになった今、既に代わってしまった世で、臣として生きて何が為せましょうか」

タジマモリは御陵の前でこのように告げると、追い罷ってしまった。タジマモリの訃報に諸人は涙して、橘4本を殿前に植え、株4本を菅原(御陵)に植えた。

備考

徐福伝説

人文研究見聞録:田道間守の伝説(橘の起源説話)

中国の秦朝(始皇帝の時代)に存在した徐福(じょふく)に関する文献には、タジマモリと類似する説話があります。

斉の徐福らは、始皇帝に上書(意見書を提出)して「海中に蓬莱・方丈・瀛洲の三神山があって、仙人が住んでいます。斎戒して男女の子供を私に与え、探しに行かせてください」と求めた。すると、始皇帝は徐福に童子童女を数千人を与えて船出させ、仙人を捜索させた。

始皇帝は天下を統一すると神仙の道にのめり込み、徐福・韓終らの一派に多くの男女の子供を与え、船を出して仙薬を採らせに行かせたが、そのまま逃げて戻らなかったため、天下の人々が恨んだ。

(始皇帝は)再び徐福に船出して神仙を求めさせると、徐福は戻ってこのような嘘をついた。

「私は海中の大神に会い、"そなたは西皇の使者か"と言うので、私が"そうです"と答えると、海神は"そなたは何を求めているのか"と言うので、私は "不老長寿の薬をいただきたいと存じます"と答えました。

すると、海神は"そなたの秦王の礼は丁重でない故、見ることはできても手に入れることはできぬ"と答えて、私を従えて東南の方蓬莱山に行き、そこで霊芝でできた宮殿や、銅の色で龍の形をした使者がいて、光が天を照らしているのを見ました。

そこで私は再び拝礼し、"どのようなものを献上すればよろしいのでしょうか"と尋ねると、海神は"名声ある男子と童女にもろもろの作業にあたらせれば、手に入れることができる"と言いました」

これに始皇帝は大変喜んで、男女の子供三千人に五穀を植え方や諸々の作業を教え込んで付いて行かせた。

ところが、徐福は平原や広い沼地を手に入れると、そこに留まって王となり、戻って来ることはなかった。そこで庶民は痛み悲しみ、反乱を起こそうとした者は十人中六人にもなった。

(始皇帝は)再び尉佗に五嶺を越え百越を攻めさせたが、尉佗は中国が疲弊しきっているのを知って、そこに留まって王となり、戻って来ず、上書させて「夫のない女三万人を求め、兵卒の衣類の繕い役にしたい」と求めた。

これに始皇帝は「一万五千人なら良い」と許しましたので、庶民の心は始皇帝から離れて散々になり、反乱しようとする者は十人中七人に至った。

※『史記』『漢書』の内容に基づく(参考サイト:古代神話は史実を反映している?

徐福については こちらを参照:【徐福とは?】

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