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2017年11月8日水曜日

菅原道真(天満天神)とは?(まとめ)

人文研究見聞録:菅原道真(天満天神)とは?(まとめ)

菅原道真(すがわらのみちざね)とは、平安時代の貴族であり、学者、漢詩人、政治家などの側面を持つ人物として知られています。生前の官位は従二位・右大臣であり、没後、太政大臣の位が追贈されました。

忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて寛平の治(かんぴょうのち)を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで出世しましたが、時の左大臣、藤原時平の讒訴(ざんそ)によって、冤罪で大宰府に左遷され、帰京することもなく現地で没します。

死後、京の都では天変地異が多発したことから、朝廷に祟りを成したとされ、道真の怨霊を鎮めるべく「天満天神」として神格化され、以後、信仰の対象となりました。なお、現在は「学問の神」として親しまれています。



菅原道真公の概要

名前

・幼名: 阿呼(あこ) → 吉祥丸(きっしょうまる)
・表記: 菅原道真、菅原道眞
・読み: すがわらのみちざね、みちまさ、どうしん
・尊称: 菅公、菅丞相、天神、天神様
・神号: 天満大自在天神、日本太政威徳天、北野天満宮天神
・出自: 菅原氏(天穂日命の子孫で、大相撲の祖として知られる野見宿禰を先祖とする土師氏の子孫)


系譜(通説)

・父: 菅原是善
・母: 伴真成の娘(大伴狭手彦の6世孫)
・正室: 島田宣来子(島田忠臣の娘)
 ・子: 菅原高視(長男)、菅原衍子(宇多天皇女御)
・側室: 宮原頴人の娘
 ・子: 菅原旧風
・生母不明の子: 寧茂、景行、景鑑、淳茂、弘茂、兼茂、宣茂、淑茂、滋殖、尚子、寧子、俊子
 → そのほかにも子がいるという伝説がある


生誕地

・菅原院(京都府): 通説では菅原氏の邸宅である菅原院(現・菅原院天満宮神社)で誕生したとされる
 → そのほか、京都説、奈良説、滋賀説、島根説がある
 → 突如現れた神童で、後に是善の養子になったという伝説もいくつかある

【生誕地の諸説】

・京都説
 ・菅原院天満宮神社(京都市上京区:生誕伝承と共に産湯井が残される
 ・吉祥院天満宮(京都市南区):生誕伝承と共に胞衣塚が残される
・奈良説
 ・喜光寺(奈良市菅原町):生誕伝承が伝わる
 ・菅生寺(吉野郡吉野町):生誕伝承が伝わる
・滋賀説
 ・余呉湖(滋賀県長浜市):羽衣伝説の中に道真の生誕伝承が含まれる
・島根説
 ・菅原天満宮(島根県松江市):生誕伝承が伝わる


死没地

・安楽寺(福岡県):死後、安楽寺の門前で葬送の牛車が動かなくなったため、当地に葬られたとされる
 → 後に安楽寺天満宮が創建され、現在では「太宰府天満宮」となっている

死没地の異説

・鹿児島説
 ・菅原神社(藤川天神):道真の身に危険が迫り、当地まで逃れてきたという伝承と共に道真の墓もある


先祖

・始祖:天穂日命(アメノホヒ) 出雲国造の始祖
・先祖:野見宿禰(のみのすくね) 天穂日命の14世孫、第13代出雲国造、土師氏始祖
・氏族:土師氏

※出雲大社や大きな天満宮などで道真公と共に祀られている


道真公の経歴

幼少期

人文研究見聞録:菅原道真(天満天神)とは?(まとめ)

・845年(誕生):承和12年6月25日(845年8月1日)に誕生する
 ・京都の菅原院天満宮(かつての菅原家の屋敷)で生まれたとされる(学者の家柄)
 ・5歳の時、庭に咲く紅梅を見て初めての和歌を詠んだと云われる
・855年(11歳):初めての漢詩を作る

※道真は幼少より詩歌に才を見せたとされる


青年期

人文研究見聞録:菅原道真(天満天神)とは?(まとめ)

・859年(15歳):15歳で元服をし、文章生(もんじょうせい)を目指して勉学に励む
・862年(18歳):大学寮で文章生となる

※学問だけでなく、弓にて百発百中の腕前を披露するなど、文武に傑出した人物であったとされる


壮年期

人文研究見聞録:菅原道真(天満天神)とは?(まとめ)

・867年(23歳):文章得業生となり、正六位下を授かって下野権少掾(関東、下野国司)となる
・870年(26歳):正六位上に昇叙する
・871年(27歳):玄蕃助に転任し、少内記に任ぜられる。
・874年(30歳):従五位下に昇叙し、兵部少輔、民部少輔に任ぜられる
・877年(33歳):式部少輔に任ぜられ、大学頭・文章博士を兼任する
 ・文章博士(もんじょうはかせ)とは、大学寮紀伝道の教官であり、現在で言う東大の学長に当たる
・879年(35歳):従五位上に昇叙する
・883年(39歳):加賀権守・治部権大輔を兼任する
・886年(42歳):文章博士を解任、讃岐守(四国、讃岐国司)に任ぜられ、讃岐国へ赴任する
・888年(44歳):阿衡事件(政治紛争)に際して藤原基経に意見書を送り、事件を収める
・890年(46歳):讃岐守の任期満了により帰京する
 ・これまでは家格に応じた職に就いていた道真は、宇多天皇の信任を受け、以後要職を歴任することとなる
・891年(47歳):蔵人頭に補任、式部少輔・左中弁を兼任する
 ・蔵人頭(くろうどのとう)とは、天皇の秘書官長にあたる役職である)
・892年(48歳):従四位下に昇叙し、左京大夫を兼任する
・893年(49歳):参議に補任、式部大輔・左大弁・勘解由長官・春宮亮を兼任する
・894年(50歳):遣唐大使に補任、遣唐使の停止を進言する。侍従を兼任する
 ・唐から導入した時代遅れの政策に問題点が多いため、日本独自の政策を実施することを目指したとされる
・895年(51歳):近江守を兼任。従三位に昇叙し、権中納言に転任。春宮権大夫を兼任する
・896年(52歳):民部卿を兼任
・897年(53歳):権大納言に転任し、右近衛大将を兼任。正三位に昇叙し、中宮大夫を兼任する
 ・この年、宇多天皇は醍醐天皇に譲位した
 ・この際、道真を引き続き重用するよう強く醍醐天皇に求め、藤原時平と道真にのみ官奏執奏の特権を許した
 ・この頃、道真の主張する中央集権的な財政に、朝廷への権力の集中を嫌う藤原氏などの有力貴族の反発が表面化する


晩年期

人文研究見聞録:菅原道真(天満天神)とは?(まとめ)

・899年(55歳):右大臣に転任し、右大将を兼任する
・900年(56歳):文章博士・三善清行によって辞職を勧められるが、道真はこれを容れなかった
 ・この年、醍醐天皇に漢詩文集「菅家文草」、「菅相公集」、「菅家集」を献上する
・901年(57歳):従二位に昇叙するが、藤原時平の讒訴により、罪人として九州・大宰府に左遷される(昌泰の変)
 ・讒訴(ざんそ)とは、いわゆる虚偽の告発のことを指す
  ・斉世親王を皇位に就け、醍醐天皇から簒奪(さんだつ)を謀ったという内容
 ・道真の左遷以降、藤原時平によって行われた政治改革(延喜の治)は、道真の改革の焼移しだったと云われている
 ・京を去る際に「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」と詠んだとされる
・903年(59歳):大宰府にて薨去
 ・遺骸は大宰府の安楽寺付近に葬られたとされる

※大宰府での生活は非常に厳しいものであったとする伝承もある


死後

人文研究見聞録:菅原道真(天満天神)とは?(まとめ)

・905年(死後2年):味酒安行(うまさけのやすゆき)が安楽寺の境内に廟を建立し、天原山廟院安楽寺と号した
・909年(死後6年):藤原時平が39歳の若さで死去
・919年(死後16年):醍醐天皇の勅命により、左大臣・藤原仲平が大宰府の道真の墓所に社殿を建立した
 ・安楽寺天満宮の創祀であり、後に「大宰府天満宮」となった
・923年(死後20年):醍醐天皇の皇子・保明親王(時平の甥)が薨去する
 ・右大臣に復位し、正二位を追贈され、左遷詔書が焼却される
・925年(死後22年):皇太孫であった慶頼王(時平の外孫)が卒去する
・930年(死後27年):内裏に落雷が落ちて清涼殿が焼け、讒訴に関わった藤原清貫に直撃したという(清涼殿落雷事件)
 ・藤原清貫への落雷の直撃を目の当たりにした醍醐天皇は体調を崩すようになり、3ヵ月後に崩御した
 ・道真の怨霊が雷を操ったと云われるようになり、道真が雷神になったという伝説が流布する契機にもなった
・942年(死後39年):託宣を契機に、朝廷によって道真を祀る社殿が建立された
 ・後に藤原師輔(時平の甥)によって屋敷が寄贈され、壮大な社殿に造り直されて「北野天満宮」となった
・987年(死後84年):一条天皇より「北野天満宮天神」の称が贈られる
・993年(死後90年):正一位、左大臣、後に太政大臣を追贈される

※死後、京を天変地異が襲ったことで知られ、後に天慶の乱を起こした平将門にも関わる伝説が残されている


道真公の伝説

道真公の怨霊伝説

人文研究見聞録:菅原道真(天満天神)とは?(まとめ)

菅原道真の死後、都では藤原時平の近親者の死や天変地異が相次いだとされ、これらは多くの文献に記録されています。なお、六国史である『日本略記』には「世をあげて言う、道真公のうらみのせいである」と記載されているようです。

なお、それらをまとめると以下のようになります。

道真公の怨霊によるものとされる異変

・菅原道真の死後、昌泰の変の関係者が、相次いで病死した
 ・909年、藤原時平が39歳の若さで病死(その子らも、若くして死去)
 ・923年、時平の甥・保明親王が死去
 ・925年、時平の孫・慶頼王が病死
 ・この頃、京の都で魑魅魍魎(ちみもうりょう)が蔓延るようになったとも
・930年、朝議中の清涼殿が落雷を受け、朝廷要人に多くの死傷者が出た(清涼殿落雷事件)
 ・その際、昌泰の変に関与したとされる藤原清貫に落雷が直撃したと云われる(清貫は即死)
 ・藤原清貫への落雷直撃を目撃した醍醐天皇は、体調を崩して3ヶ月後に崩御した


天神信仰

人文研究見聞録:菅原道真(天満天神)とは?(まとめ)

怨霊伝説にあるような異変が多発したことから、当時の朝廷は道真の祟りであると恐れ、道真の罪を許すと共に贈位を行い、道真の左遷に伴って流刑にされた道真の子らも、流罪を解かれ帰京を許されたそうです。

また、平安期には、天災や疫病の発生を「非業の死を遂げた者の怨霊の仕業」と捉える、「御霊信仰(ごりょうしんこう)」の背景があったため、道真公の死後に起こった天変地異もこれに関連付けられています。

なお、落雷における災害から道真公の怨霊は「」と結び付けられ、怨霊の祟りを鎮めるため、藤原氏の手によって「火雷天神」が祀られていた京都の北野に「北野天満宮」が建立されました。

以降、百年ほど大災害が起きるたび、道真公の祟りとして恐れられ、道真公を「天神様」として信仰する「天神信仰」が全国に広まることになったそうです。

その後、時の経過とともに災害の記憶は人々の間で風化し、道真が生前優れた学者・詩人であったことから、後世には「学問の神」として知られるようになったとされています。

御霊信仰についてはこちらの記事を参照:【御霊信仰とは?】


平将門公との関係

人文研究見聞録:菅原道真(天満天神)とは?(まとめ)

道真公と同じく日本三大怨霊として有名な平将門公は、『将門記』によれば 道真公の霊魂が顕現したとされる「八幡神の使いと称する巫女」の託宣によって「親皇」の位を授かり、後に「天慶の乱」に至ったとされています。

また、明治期に発行された『平将門故蹟考』によれば「菅原道真は延喜三年死す、将門此の歳に生る故に菅公の再生という評あり」とあり、将門公は道真公の生まれ変わりであるとする評価もあったようです。

そのため、道真公は将門公と霊的な繋がりを持っているとも云われています。

平将門についてはこちらの記事を参照:【平将門とは?】


その他の伝説・逸話

人文研究見聞録:菅原道真(天満天神)とは?(まとめ)

道真公の伝説をジャンル別に分けて紹介します。

【生誕】

・道真は是善邸南庭に5・6歳の幼児の姿で現れ「私には父母がいないのでそなたを父にしたい」と言ったため、後に是善の養子となった(北野天神縁起)
・吉祥院天満宮は道真の生誕の地と伝えられ、18歳まで当地で過ごしたという(吉祥院天満宮)
・是善が出雲にある先祖の野見宿禰の墓参りをした際、案内してくれた現地の娘を大層寵愛したとされ、そこで生まれたのが道真だという(菅原天満宮・松江市)
・奈良市の菅原町は道真の母の故郷であるとされ、道真も当地で誕生したという(喜光寺・奈良市)
・吉野の菅生寺は、道真が生まれ育った場所であるが故に菅生寺と称するという(菅生寺・吉野郡)
・道真は菊石姫とともに天女から産まれ、天女が天に帰ってしまったことから母恋しさに法華経のような泣き声で泣いていたところ、菅山寺の僧・尊元阿闍梨が引き取り養育し、後に菅原是善の養子となったという(余呉湖の羽衣伝説)
・長男次男を幼くして相次いで亡くした是善は、臣下の島田忠臣に命じ、豊受大神宮の神官・度会春彦を通じて豊受大御神に祈願すると道真が誕生したとされ、その縁で春彦は白太夫として道真の守役となったという


【人物像】

・わずか5歳で和歌を詠んだという
・わずか11歳で漢詩を作ったという
・学問だけでなく、武芸(弓道)にも優れ、若い頃は都良香邸で矢を射れば百発百中だったという
・当時は普通の貴族であり、妾(めかけ)も沢山おり、遊女遊びもしている
・子はおよそ23人に上り、長男高視が産まれる以前の文章得業生の頃には既に子があったという


【交友関係】

・在原業平とは親交が深く、当時遊女(あそびめ)らで賑わった京都大山崎を、たびたび訪れている
・紀長谷雄とは旧知の仲で、試験を受ける際に道真に勉学を師事したとされ、また、道真は死の直前に大宰府での詩をまとめた「菅家後集」を長谷雄に贈ったという
・師であり義父である島田忠臣とは生涯に亘って交流があり、忠臣死去の際、道真は「今後再びあのように詩人の実を備えた人物は現れまい」と嘆き悲しんだという
・天台宗の僧・相応和尚とも親交があり、大宰府に向う際に淀川にて、自ら彫ったという小像と鏡一面を渡し、後のことを和尚に託したとされ、道真の薨去後、和尚は小像・鏡を郷里の長浜市にある来生寺、その隣の北野社にそれぞれ祀ったという
・道真は、13世天台座主法性坊・尊意に教学を師事したとされる
・道真が讃岐守に就いていた頃、側に仕えていたお藤という女性と恋仲になり、愛妾にしたという
・讃岐の鴨部極楽寺の僧・明印法師と親交を深めており、詩歌や寄付を受けていたとされ、道真が一時帰京した際にはわざわざ京まで逢いにいったという


【逸話・伝説】

・仁和4年(888年)、讃岐の国で大旱魃が起こり、讃岐守に就いていた道真がこれを憂いて城山で身を清め七日七晩祭文を読上げたところ、見事雨に恵まれたという(そのときに民衆が喜び踊り狂ったものが滝宮の念仏踊の起源とされる)
・瀬戸内海の女木島には、おとぎ話の『桃太郎』は道真が讃岐守に就いていた時に、当地に伝わる昔話をもとに作り上げ、それを各地に伝えたという伝説がある
・『竹取物語』の作者が道真ではないかという説もある
・寛平7年(895年)、法華経や金光明経を手写し伊香具神社へ納経したという
・菅原道真は、信州の松原湖に逃げて来たことがあり、ここで家臣が連れていた鶏が鳴き出し、里人に発見されてしまったことから、この家臣の家では代々鶏を飼ってはいけないとされている
・大宰府へ左遷の道中、監視役として左衛門少尉善友と朝臣益友が付けられ、官符に道真は「藤原吉野の例に倣い『員外帥』待遇にせよ」と明記されていたため、道中には馬や食が給付されず、官吏の赴任としての待遇は与えられなかったという
・大宰府での生活は厳しいもので、「大宰員外帥」と呼ばれる名ばかりの役職に就けられ、大宰府の人員として数えられず、大宰府本庁にも入られず、給与はもちろん従者も与えられなかったという
・大宰府で住居として宛がわれたのは、大宰府政庁南の、荒れ放題で放置されていた廃屋(榎社)で、侘しい暮らしを強いられていたという
・道真の死後、筑紫の安楽寺の門前で葬送の牛車が動かなくなったため、当地に葬られたとされる(太宰府天満宮・福岡県)
・左遷の道中、道真は追手に命を狙われたため、追手を逃れて薩摩の荘之津に着船し、ジョウス(城須)という老夫婦の家に留まって休憩していた時、老夫婦が三杯の茶を振舞ったことで、追手の目から逃れることができたという(藤川天神・鹿児島県)
・道真は追ってから逃れて鹿児島県に着き、菅原神社の鎮座地で没したとされる(藤川天神・鹿児島県)
・延喜元年(901年)、道真がとりわけ愛でてきた梅の木が、一夜のうちに主人の暮らす大宰府まで飛んで行き、その地に降り立ったという飛梅伝説がある
・北野天満宮の影向松には、初雪が降ると天神さま(道真公)が降臨し、雪見を愛でながら詩を詠まれるという伝説がある
・道真は死後に平将門の前に巫女の姿で現れ、八幡大菩薩の名のもとに「新皇」の位を授けたという(『将門記』)


【神仏・妖怪】

・元慶8年(884年)、叔母である覚寿尼のいる道明寺に4~7月まで滞在し、夏水井の水を汲み青白磁円硯に寄った際に五部の大乗経を写したところ、天照大神、八幡神、春日大明神が現れて大乗経を埋納する地を示したととされ、そこに埋納すると「もくげんじゅ」という不思議な木が生えてきたという
・寛平2年(890年)、奈良県の與喜山で仕事をしていた樵夫の小屋に何者かが「これを祀れ」と木像を投げこんだとされ、その頃、長谷寺に道真が参詣に来ていたので「木像は道真公の御作ではないか」と思って大切に祀ったという(現在は與喜天満神社に祀られている)
・寛平8年(896年)2月10日、勅命により道真が長谷寺縁起文を執筆していたところ、夢に3体の蔵王権現が現れ、「この山は神仏の加護厚く功徳成就の地である」と告げられたという
・延喜元年(901年)、道真が筑後川で暗殺されそうになった際、「三千坊」という河童の大将が道真を救おうとして手を斬り落とされ落命した、もしくは道真の馬を川へ引きずり込もうとした三千坊の手を道真が斬り落とした、という伝承があり、その河童の手がミイラとして残されている(北野天満宮・福岡県)
・大宰府左遷の折、道真は兵主部(ひょうすべ)という妖怪を助け、その返礼として「我々兵主部は道真の一族には害を与えない」という約束を交わしたという伝説がある
・その昔、葦の生い茂るある沼周辺で大鯰が顔を出して通行人の邪魔をしており、道真が これを太刀で頭、胴、尾と三つに斬り退治したとされ、その遺体がそれぞれ鯰石となり、後に雨を降らす雨乞いの石として地元の人々に大切にされたという
・延喜2年(902年)、正月7日に道真自ら悪魔祓いの神事をしたところ、無数の蜂が参拝者を次々と襲う事件がおきたが、そのとき鷽鳥が飛来して蜂を食いつくし、人々の危難を救ったという(鷽替え神事の由来とされる)
・晩年に道真は無実を天に訴えるため、身の潔白を祭文に書き、七日七夜天拝山の山頂の岩の上で祭文を読上げ、天に祈り続けると、祭文は空高く舞上り、帝釈天を過ぎ梵天まで達しとされ、天から『天満大自在天神』と書かれた尊号が届いたという


【地名・名物】

・大阪市東淀川区の「淡路」「菅原」という地名は、道真が大宰府に左遷される際、当時、淀川下流の中洲だった当地を淡路島と勘違いして上陸したという伝説に由来するとされる
・梅ヶ枝餅は、道真が大宰府に左遷され悄然としていた時に老婆が道真に餅を供し、後に道真の好物になったという
・梅ヶ枝餅は、道真が左遷直後に軟禁状態で食事もままならなかった折、老婆が格子越に梅の枝の先に餅を刺して差し入れたという伝承に由来する


備考

五円紙幣

人文研究見聞録:菅原道真(天満天神)とは?(まとめ)
1次5円札(丁号券)
人文研究見聞録:菅原道真(天満天神)とは?(まとめ)
2次5円札(い号券)
人文研究見聞録:菅原道真(天満天神)とは?(まとめ)
3次5円札(ろ号券)

菅原道真は、昭和期の五円紙幣の肖像になっています。

・1次5円札(丁号券):昭和5年(1930年)3月1日~昭和21年(1946年)3月2日
・2次5円札(い号券):昭和17年(1942年)1月6日~昭和21年(1946年)3月2日
・3次5円札(ろ号券):昭和18年(1943年)12月15日~昭和21年(1946年)3月2日


日本三大天神

人文研究見聞録:菅原道真(天満天神)とは?(まとめ)
北野天満宮
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太宰府天満宮
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防府天満宮

全国各地にある天満宮には、日本三大天神とされるものがいくつかあります。

北野天満宮(京都府京都市上京区)天満宮の総本社とされる
太宰府天満宮(福岡県太宰府市)天満宮の総本社とされ、道真墓所とされる
防府天満宮(山口県防府市)日本最初に創建された天神様を名乗る
大阪天満宮(大阪府大阪市北区)浪華菅廟、天満天神とも
・大生郷天満宮(茨城県常総市):道真の遺骨を祀る
・小平潟天満宮(福島県耶麻郡):日本三大天神とする説がある


天満宮と牛

人文研究見聞録:菅原道真(天満天神)とは?(まとめ)

太宰府天満宮の案内板によれば、道真公は遺言として「遺骸を牛舎に乗せて人に引かせず、牛の赴くところに留めよ」と言ったとされ、その通りに牛が止まった場所に葬られたとされています。この他にも道真公には牛にまつわる逸話が多数あり、具体的には以下の様なものがあります。

・承和12年(845年)乙牛6月25日(丑年)に道真公は生誕した
・貞観元年(859年)己卯月2月乙、元服の夜に白牛が角を挫いて死ぬ夢を見た道真公はを画き、酒を供えて尊拝した
・寛平5年(893年)癸丑9月、茸狩りの宴の際に道真公の前に敬う様子の小牛が現れたので、喜んで館に連れ帰った
・道真公が太宰府に向かう途中で時平の刺客に襲われた際、都で育てたが飛び出て刺客の腹を突き刺して助けたという
・道真公の神号「天満大自在天神」における「大自在天神」は、仏教において白牛に乗るとされている
・道真公の神号「日本太政威徳天」は密教の大威徳明王に由来し、に騎乗する姿で表現されている
・天満宮でおなじみの臥牛像に諸病平癒の力があると考えられたのは、道真公が牛車を引くを可愛がったことに由来する


天満宮と鷽

人文研究見聞録:菅原道真(天満天神)とは?(まとめ)

大宰府天満宮を始めとする天満宮では毎年の正月頃に「鷽替え神事(うそかえしんじ)」という神事が行われます。この神事は「去年の悪しき(凶事)は嘘(鷽)となり、吉(よき)に取り(鳥)替えん」として、神社から授かった木彫りの鷽を参拝者同士で取替えて幸せを願うものとされ、天満宮において幸せを運ぶ鳥とされています。

また、天満宮の守り鳥とも言われており、その根拠として以下の様な逸話があるそうです。

・道真公が蜂の大群に襲われた時、の群れが蜂を食べて救った
・天満宮建築のときに材木に虫食いが発生した際、が虫を退治した
・漢字の「」の字が「学(學)」の字に似ているため、学問の神とされる道真公に結び付けられた


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