人文研究見聞録:京都神田明神 [京都府]

京都市下京区にある京都 神田明神(きょうとかんだみょうじん)です。

四条通の路地の一角にある神社であり、東京都にある神田明神の祭神を祀っています。

なお、かつて将門公の首が晒された場所とされ、史跡としても知られています。

平将門についてはこちらの記事を参照:【平将門とは?】


神社概要

由緒

伝承によれば、天慶3年(940年)の「天慶の乱」で戦没した平将門公の首が京に運ばれて晒された場所であり、後に市聖と崇められていた高僧・空也上人によって鎮魂が為され、供養のために建てられた小祠であると伝えられています。

そのため、いつしか「空也供養の道場」と呼ばれるようになり、これが「クウヤクヨウ…」と転訛して「コウヤク」となり、細い路地に位置することから「膏薬の辻子(こうやくのずし)」という地名になったとも云われているそうです。

また、江戸時代に刊行された地誌には「天慶3年に平将門の首を晒したところであり、それよりこの地に家を建てると祟りがある」「空也上人は将門の亡霊をここに供養し、石を建てて印とした」という内容が書かれているとされています。

なお、現在は膏薬辻子(四条通の細路地)の一角にひっそりと祀られており、由緒書には以下のように説明されています。

京都神田明神

平将門公は桓武天皇五代の後裔で、東国において武士の先駆者「兵(つわもの)」として名を馳せた人物です。

この地は「天慶の乱」に敗れた将門公の首級(しるし)が京都に運ばれ、晒されたと伝わる場所です。古来より、この地に小祠が祀られておりましたが、このたび将門公を祀る東京の神田明神より御祭神をお迎えしました。

皇居のほとり、大手町の「将門塚」は、京の都で晒された首級が胴体を求めて関東に飛び、力尽きて落ちた場所として今なお都心の霊所として、将門公の「強きを挫き、弱きを助くる」精神を慕い、参拝が絶えません。

東京に鎮座する「神田明神」は、大己貴命、少彦名命とともに、平将門命を祀る神社です。天平2年(730年)に大手町・将門塚周辺に創建され、その後、延慶2年(1309年)に将門公が合祀されました。

元和2年(1616年)に江戸幕府により、江戸城(現・皇居)から見て表鬼門守護の地へ遷座しました。そして、江戸幕府より「江戸総鎮守」の称号をいただき、徳川将軍をはじめ、江戸の町人たちによって崇敬されてまいりました。

神田明神の大祭である「神田祭」は、「天下祭」「御用祭」とも称され、江戸城内において徳川将軍の上覧を仰ぎました。明治7年には明治天皇陛下も親しく御参拝されました。現在は「祇園祭」とともに日本三大祭の一つに数えられ、二年に一度、五月中旬に行われ、200基に及ぶ神輿担ぎが賑やかに行われております。

祭神

京都神田明神の祭神は以下の通りです(神田明神と同じ)。

主祭神

・平将門命(たいらのまさかど):平安中期の豪族(「天慶の乱」で敗走後、当地に晒し首となった)
・大己貴命(オオナムチ):国造りの神で大国主の別名
・少彦名命(スクナヒコナ):国造りの神

関連知識

『拾遺都名所図会』による説明

人文研究見聞録:京都神田明神 [京都府]

江戸時代に発行された京都の地誌である『拾遺都名所図会』によれば、

「新町通の西、四条の南、膏辻子(こうやくのずし)にあり。天慶3年、俵藤太秀郷らが将門を滅し、頚(くび)をここに晒した。後世、この地に家を建てれば祟(たたり)があった、

故に神として祀って神田明神と崇(あが)めた。その頃、空也上人が寺を建てて"空也供養の道場"と呼ばれ、今その音声が訛って膏辻子(こうやくのずし)と呼ばれるようになった。

空也上人は将門の亡霊を ここに供養し、石を建てて印とした。今、高さ三尺ほどの瓜のような石が社内にあり、これを神体としている。また石塔の台石は、隣家の下に圧されているということである。」

と説明されています。なお、原文については以下の通りです。

【拾遺都名所図会 平将門社(たいらのまさかどのやしろ)】

新町通の西、四条の南、膏辻子にあり。天慶3年 俵藤太秀郷等 将門を滅し、頚を此所に梟しとなり。

後世 此地に家を建てれば祟あり、故に神に祝ひて神田明神と崇む。其頃 空也上人 寺を建て空也供養の道場と呼ぶ、今音声通じ謬りて膏辻子と呼ぶ。

空也上人 将門の亡霊を ここに供養し石を建て印とす、今高さ三尺許の瓜のごときなる石社内にあり、これを神体とす。又 石塔の台石 隣家の下に圧れありとなん。

参考サイト:拾遺都名所図会データべース(平将門社)

首の伝説

人文研究見聞録:京都神田明神 [京都府]

かつて京都で晒された将門公の首は胴を求めて飛んでいったという伝説があるため、京都に首塚はありません。また、その伝承にもいくつかのバリエーションがあるため、首の行方にまつわる伝承地は本州にいくつかあります。


首の伝説(言伝)

将門の首は京都に運ばれて七条河原に晒されたが、何ヶ月経っても眼を見開き、歯ぎしりしているかのようだった。

ある時、歌人の藤六左近がそれを見て一首詠むと、将門の首は笑いだし、突然地面が轟き、稲妻が鳴り始めた。そして、首が「躯(からだ)つけて一戦(いく)させん。俺の胴はどこだ」と言い、その声は毎夜響いたという。

その後、ある夜に首が白光を放ち、胴体を求めて東方へ飛んでいったと伝えられている。

首の伝説(平治物語)

むかし、将門の首が獄門に晒されたとき、藤六という歌人が「将門は 米かみよりぞ きられける 俵藤太が はかりことにて」と詠むと、将門の首は笑いだしたという。

2月に討たれた首を4月に運んで獄門に懸けたが、5月3日に笑ったというのが恐ろしい。

首の伝説(太平記)

京都で晒された将門の首は何ヶ月たっても腐らず、生きているかのように目を見開き、夜な夜な「斬られた私の五体はどこにあるのか。ここに来い。首をつないでもう一戦しよう」と叫び続けた。

ある時、歌人の藤六左近がそれを見て「将門は こめかみよりぞ 斬られける 俵藤太が はかりごとにて」と歌を詠むと、将門はカラカラと笑い、たちまち朽ち果てたという。

将門塚の伝説(東京都)

将門の首級は京都に送られて獄門に架けられたが、その3日後に白光を放って東方に飛び去り、武蔵国豊島郡芝崎に落ちた。そのとき大地は鳴動し、太陽も光を失って暗夜のようになったという。

その後、村人は恐怖して塚を築いて埋葬した。それが現在の将門塚の起源である。

築土神社の伝説(東京都)

天慶3年(940年)の「天慶の乱」で討ち取られた平将門は平安京で晒し首となった。

その「平将門の首」を首桶に納めて密かに持ち去り、武蔵国豊島郡上平河村津久戸(現・千代田区大手町周辺)の観音堂に祀って「津久戸明神(つくどみょうじん)」としたのが、現在の築土神社の始まりである。

御首神社の伝説(岐阜県)

「天慶の乱」で藤原秀郷・平貞盛等に討たれた将門の首は京都に運ばれて晒し首となったが、将門は故郷に戻ろうと獄門を抜け出して関東に向かって飛び立った。

この異変を知った美濃の国南宮神社では、再び乱が起こることを恐れて祈願したところ、神社に鎮座する隼人神が神矢を放って将門の首を射落とした(大垣市の矢道町という地名はこの伝承に由来する)。

そして、この首が落ちた荒尾の地に将門公を神として崇め祀り、その首が再び東国に戻らないようにその怒りを鎮め霊を慰めるために御首神社が建てられたという。

十九首塚の伝説(静岡県)

平将門の首を獲った藤原秀郷が、状況報告のために 将門とその一族の首や念持仏を持って掛川の里に来た。

そのとき、ちょうど都から下向した勅使と出会ったが、勅使 は「それらの首を都に近付けてはならぬ」と言ったため、この地に葬ることになった。

そして、十九の首を別々に埋めて塚を築き、手厚く供養を行って「十九首塚」と称した。その時に天慶3年(940年)8月15日だったという。

周辺の見どころ

社頭

人文研究見聞録:京都神田明神 [京都府]

京都神田明神の社頭です。

以前 参拝したときはガラスが閉められていましたが、今回のときは開いていました。

開放される時間については分かりませんが、開いていることもあるようです。

カエルの像

人文研究見聞録:京都神田明神 [京都府]

京都神田明神の社頭にはカエルの像があります。

東京の将門塚にも「無事かえる」という意味でカエルの像が奉納されていますが、同様の意味でしょうか?

鳥居と社殿

人文研究見聞録:京都神田明神 [京都府]

京都神田明神の鳥居と社殿です。

この他にも、各種資料などが展示・掲載されています。

織物

人文研究見聞録:京都神田明神 [京都府]

京都神田明神にある織物です。

将門公やその子孫が家紋や陣幕に用いたとされる「繋ぎ馬」が描かれています。

石(御神体?)

人文研究見聞録:京都神田明神 [京都府]

京都神田明神の社殿の傍にはが祀られています。

『拾遺都名所図会』の説明にある御神体とされた石でしょうか?

閉められている場合

人文研究見聞録:京都神田明神 [京都府]

京都神田明神のガラス戸が閉められている場合の様子です。

以前 訪れた際はこのような状態であり、ガラス戸の外から参拝する形になっていました。

料金: 無料
住所: 京都府京都市下京区新釜座町下京区新釜座町(マップ
営業: 終日開放
交通: 烏丸駅(徒歩5分)、四条駅(徒歩5分)

公式サイト: http://www.kandamyoujin.or.jp/event/detail.html?id=29&m=00
matapon
著者: matapon Twitter
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。