人文研究見聞録:熊野信仰とは?

日本には、古くから「熊野信仰(くまのしんこう)」という 熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社熊野那智大社)に対する信仰があります。

歴史書などでは、天皇が熊野に御幸したなどの記録が見え、「熊野詣(くまのもうで)」という言葉があるように、わりとよく知られているもののようです。

この度の熊野を訪れたきっかけから、熊野信仰について色々と調べてみたので、その成果をここにまとめておこうと思います。


熊野信仰の歴史


熊野信仰の起源は、熊野三山のそれぞれの神社に根差したルーツの異なる自然神信仰であったとされ、それらは縄文人に信仰された自然神信仰を基調とする原始神道であったとされています。

その後、弥生人の信仰である先祖神信仰が流入し、日本神話の神々が熊野三山のそれぞれ割り当てられそうです。

そして、自然神信仰と密教が習合した信仰である修験道が熊野に入り、修験道を介して神道と密教が一体となり、熊野信仰となったとされています。また、熊野は修験道における聖地とされています。

なお、奈良時代の熊野では既に神仏習合(神と仏を一体と捉える思想)が成立しており、平安時代には本地垂迹説(神は仏の化身であるという思想)が登場したことから、熊野では神に本地仏(化身とされる神の本となる仏)が割り当てられるようになったそうです。

そして、院政時代(平安末期~鎌倉初期)には熊野信仰は最盛を極め、「蟻の熊野詣(ありのくまのもうで)」という言葉の通り、蟻が行列を作るように多くの人々が列をなして熊野古道を歩いていたという熊野信仰の盛況振りが示されています。

なお、平安中期には皇族や貴族を始め、一般庶民にも浄土信仰(仏の支配する浄土世界に憧れる信仰)が広まり、その影響で熊野三山にも浄土が割り当てられるようになり、法皇や上皇を始め、多くの都人が熊野に参詣したそうです。

室町時代には上皇や貴族に代わって武士や庶民の参詣が盛んになり、江戸時代には伊勢詣と並び、数多くの庶民が参詣したとされています。

しかし、明治時代になると神仏分離令により廃仏毀釈(排仏運動)が起こるようになり、熊野参詣は下火になっていったようです。

ですが、現在も熊野の参詣道である「熊野街道」や「熊野古道」は残されているので、そこを通って熊野参詣をすることは可能です。

なお、熊野三山の神仏をまとめると、以下のようになります。

項目 熊野本宮大社 熊野速玉大社 熊野那智大社
古神道(依代) 熊野川 ごとびき石(神倉神社)  那智大滝
神道(先祖神) スサノオ イザナギ イザナミ
垂迹神 熊野家津御子大神  速玉之男大神 熊野牟須美大神 
本地仏 阿弥陀如来 薬師如来 千手観音
浄土 極楽浄土 浄瑠璃浄土 補陀落浄土

ちなみに、島根県の松江市には「熊野大社」という神社があり、そこは熊野三山の元津宮(起源)であるという古伝があるとされています。

また、那智大社の祭神とされるイザナミは、『古事記』では比婆山(島根県東部と広島県を跨ぐ山)で葬られたとされる一方、『日本書紀』の異伝では紀伊の熊野の有馬村(三重県熊野市有馬の花窟神社)に葬られたとされており、島根と紀伊のどちらにも埋葬の伝承が残されています。

なお、島根県の熊野大社の主祭神は「伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命」であり、これはスサノオの別名であるとされています。また、火の発祥の神社であるとされ、那智大社の火祭りに通じる共通点もあります。

那智の火祭りについてはこちらの記事を参照:【那智の火祭り】

熊野権現

熊野権現(くまのごんげん)とは、熊野三山に祀られる神のことであり、本地垂迹思想のもとで権現と呼ばれるようになりました。

熊野三山の主神となる神を指す場合は熊野三所権現と呼ばれ、熊野三所権現以外の計12柱の神々も含めて熊野十二所権現ともいいます。

熊野権現は日本全国の熊野神社に勧請されており、中でも沖縄の神社では、ほとんどが熊野権現を祀っているんだそうです。
matapon
著者: matapon Twitter
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。