鵲森宮(森之宮神社) [大阪府]
2015/08/27
大阪府大阪市中央区にある鵲森宮(かささぎもりのみや)です。
大阪城付近に鎮座する通称 森之宮神社(もりのみやじんじゃ)と呼ばれる神社であり、"聖徳太子が自ら建立し、太子の父母を祀る唯一の神社である"と伝わっているそうです。
また、四天王寺の前身とされる「元四天王寺」を名乗っている神社の一つであり、境内には太子に関する資料が数多く掲示されています。そのため、聖徳太子について詳しく知りたい人には とてもオススメのスポットです。
神社概要
由緒
聖徳太子 |
『日本書紀』によれば、丁未の乱(古墳時代末期に行われた崇仏派と排仏派による宗教戦争)の際、崇仏派である蘇我氏の軍勢に参戦した聖徳太子は自ら四天王像を彫って「勝った暁には四天王を祀る寺を建立する」と誓って戦勝を祈願したとされます。
由緒書によれば、蘇我氏の軍勢が丁未の乱で勝利した際、聖徳太子は父の用明天皇と母の穴穂部間人皇后を祀り、後に四天王像を造って この森に元四天王寺を創建したとされています。
よって、当社は聖徳太子の父母を祀る唯一の神社であり、かつては楼門が建立されるほど豪華絢爛だったとされていますが、時代と共に規模が縮小され、現在は小社に収まっているんだそうです。
なお、由緒書では以下のように解説されています。
大阪が「押照や難波」と詠まれていた今から1400数年前、崇峻天皇2年(589年)7月、聖徳太子は物部守屋との戦いに必勝を祈願し、勝った暁には四天王像を造ることを誓われました。
そして、その戦いに勝利されて、まず父母の用明天皇と穴穂部間人皇后を神としてお祀りになり、その後、四天王像を造って この森に元四天王寺を創建されました。
御父・用明天皇崩御の後、追慕(ついぼ)の御孝心が深かったので、太子は自ら尊像を彫刻なさり、かつ、宮殿を造営なさって、そこは四方の崇敬いよいよ篤い神廟(神の霊をまつった所)となりました。
初め境内地も八町あったと云います。そして本殿、拝殿をはじめ楼門に至るまで華麗で、目を驚かすばかりだったようです。
それゆえ、古地図、古文献などにも多数記された由緒ある古社であり、さらに人皇31代用明天皇ならびに穴穂部間人皇后を祀る日本唯一の神社です。
しかしながら、時移り世が替わると御社の衰えも大層はなはだしく、今は小社に鎮守していますが、この宮所は実に1400年の星霜を経ています。
このように歴史が古く、由緒正しい社は日本広しといえど数少ないのです。
そして、その戦いに勝利されて、まず父母の用明天皇と穴穂部間人皇后を神としてお祀りになり、その後、四天王像を造って この森に元四天王寺を創建されました。
御父・用明天皇崩御の後、追慕(ついぼ)の御孝心が深かったので、太子は自ら尊像を彫刻なさり、かつ、宮殿を造営なさって、そこは四方の崇敬いよいよ篤い神廟(神の霊をまつった所)となりました。
初め境内地も八町あったと云います。そして本殿、拝殿をはじめ楼門に至るまで華麗で、目を驚かすばかりだったようです。
それゆえ、古地図、古文献などにも多数記された由緒ある古社であり、さらに人皇31代用明天皇ならびに穴穂部間人皇后を祀る日本唯一の神社です。
しかしながら、時移り世が替わると御社の衰えも大層はなはだしく、今は小社に鎮守していますが、この宮所は実に1400年の星霜を経ています。
このように歴史が古く、由緒正しい社は日本広しといえど数少ないのです。
祭神
鵲森宮の祭神は以下の通りです。
本社
・聖徳太子(しょうとくたいし):推古朝の摂政であり、日本の中央集権国家の礎を気付いた人物
・用明天皇(ようめいてんのう):第31代天皇であり、聖徳太子の父
・穴穂部間人皇后(あなほべのはしひとこうごう):用明天皇の皇后であり、聖徳太子の母
奧社
・天照大御神(アマテラス):太陽を神格化した神であり、伊勢内宮の主祭神として有名
・月読命(ツクヨミ):月を神格化した神であるとされるが、日本神話にはほとんど登場しない
・素盞嗚尊(スサノオ):アマテラスとツクヨミの兄弟神であり、出雲の祖神
・聖徳太子(しょうとくたいし):推古朝の摂政であり、日本の中央集権国家の礎を気付いた人物
・用明天皇(ようめいてんのう):第31代天皇であり、聖徳太子の父
・穴穂部間人皇后(あなほべのはしひとこうごう):用明天皇の皇后であり、聖徳太子の母
奧社
・天照大御神(アマテラス):太陽を神格化した神であり、伊勢内宮の主祭神として有名
・月読命(ツクヨミ):月を神格化した神であるとされるが、日本神話にはほとんど登場しない
・素盞嗚尊(スサノオ):アマテラスとツクヨミの兄弟神であり、出雲の祖神
社名の由来
鵲森宮の社名の由来について、当社では以下のように説明しています。
鵲森宮の社名の起因
社名を鵲森宮(かささぎもりのみや)と云うのは、古くは難波の社(なにわのもり)と云っていた推古天皇の御代に、難波の吉士磐金(なにわのきしいわかね)と云う人が、朝鮮の新羅国より還って来て、鵲(俗に朝鮮鳥)を二羽献上しました。
そして、この森に飼はせなさったことから「鵲の森」と称え、遂に宮の名となり 略して「森之宮」または「森明神」とも云うようになりました。
鵲とは日本の烏(からす)によく似ており、全体が黒く、腹部の白い鳥であり、韓国や北中国に多く生息しています。
昭和17年5月帝国海軍水雷艇「鵲」より剥製の鵲を当社に献上してもらい現存しています。
社名を鵲森宮(かささぎもりのみや)と云うのは、古くは難波の社(なにわのもり)と云っていた推古天皇の御代に、難波の吉士磐金(なにわのきしいわかね)と云う人が、朝鮮の新羅国より還って来て、鵲(俗に朝鮮鳥)を二羽献上しました。
そして、この森に飼はせなさったことから「鵲の森」と称え、遂に宮の名となり 略して「森之宮」または「森明神」とも云うようになりました。
鵲とは日本の烏(からす)によく似ており、全体が黒く、腹部の白い鳥であり、韓国や北中国に多く生息しています。
昭和17年5月帝国海軍水雷艇「鵲」より剥製の鵲を当社に献上してもらい現存しています。
要約すると、推古朝の時代、新羅に渡った難波の吉士磐金(なにわのきしいわかね)が帰国した際に鵲(かささぎ)を二羽献上し、それを此の地の森に放し飼いにしたことに因んで「鵲森宮」という社名で呼ばれるようになったとされています。
このことは、『日本書紀』の推古6年4月の条にも「前年11月に新羅に遣わした難波吉士磐金(なにわのきし いはかね)が新羅から戻り、鵲(カササギ)を二羽献上し、それを難波杜に放す」と記されており、この記述と一致する伝承となっています。
元四天王寺
『日本書紀』には、四天王寺創建についての記載が二度登場しますが、当社は社伝によって四天王寺の前身である元・四天王寺を名乗っています(上記「由緒」を参照)。
これは『記紀』などの史料には詳しく記されていませんが、四天王寺が二ヶ所あったことを示唆する『日本書紀』の謎を埋める貴重な情報であると言えると思います。
元四天王寺についてはこちらを参照:【元四天王寺とは?】
間人皇后の伝承
聖徳太子の母・穴穂部間人皇后について『日本書紀』では詳しく触れられていないのですが、鵲森宮では間人皇后にまつわる興味深い伝承が紹介されています。
間人皇后(はしひとこうごう)
京都府北部の丹後半島に「間人(たいざ)」という変わった読みをする地名があります。この漢字にこんな読みはありません。
では、どうして「間人」を「たいざ」と読むようになったのでしょうか?それは第31代用明天皇の時代、天皇のお后で聖徳太子の生母・穴穂部間人皇后(あなほべのはしひとこうごう)に由来していると伝えられています。
6世紀末、仏教に対する考えの違いと皇位継承問題を巡って、蘇我氏と物部氏の間に争いが生じた時、皇后は乱を避けて、当時 大浜の里と呼ばれていた この地に滞在されました。当時はここに彼女の領地があったと云われています。
やがて争いが鎮まり、奈良の斑鳩の宮へ帰られる時、里人の手厚い持て成しに感謝して、
「大浜の里に 昔をとどめてし 間人(はしうど)村と世々に伝えん」
という歌を詠まれました。
しかし、皇后から戴いた御名を そのまま地名に使うことは恐れ多いとし、この大浜の里を「ご退座」されたことに因んで「はしうど」ではなく「たいざ」と読み伝えることになりました。
今、間人(たいざ)に行きますと、皇后と聖徳太子の像が立岩の傍に立っていますし、丘の宮という地名も残っています。
この「間人(たいざ)」の地名の伝説を裏付けるように、平城京跡出土木簡に「丹後国竹野(たかの)群間人郷土師部乙山中男作物海藻六斤」と書かれています。つまり、当時すでに「間人」という地名が存在したことが確実になりました。
そして「土師部」が「はしひと」と読めることにも何か謎を秘めているように思われます。また、「鵲森宮」にお祀りしている聖徳太子の母君の名が遠く丹後半島の「間人(たいざ)」の地に今も残っていることには、感謝深いものがあります。
京都府北部の丹後半島に「間人(たいざ)」という変わった読みをする地名があります。この漢字にこんな読みはありません。
では、どうして「間人」を「たいざ」と読むようになったのでしょうか?それは第31代用明天皇の時代、天皇のお后で聖徳太子の生母・穴穂部間人皇后(あなほべのはしひとこうごう)に由来していると伝えられています。
6世紀末、仏教に対する考えの違いと皇位継承問題を巡って、蘇我氏と物部氏の間に争いが生じた時、皇后は乱を避けて、当時 大浜の里と呼ばれていた この地に滞在されました。当時はここに彼女の領地があったと云われています。
やがて争いが鎮まり、奈良の斑鳩の宮へ帰られる時、里人の手厚い持て成しに感謝して、
「大浜の里に 昔をとどめてし 間人(はしうど)村と世々に伝えん」
という歌を詠まれました。
しかし、皇后から戴いた御名を そのまま地名に使うことは恐れ多いとし、この大浜の里を「ご退座」されたことに因んで「はしうど」ではなく「たいざ」と読み伝えることになりました。
今、間人(たいざ)に行きますと、皇后と聖徳太子の像が立岩の傍に立っていますし、丘の宮という地名も残っています。
この「間人(たいざ)」の地名の伝説を裏付けるように、平城京跡出土木簡に「丹後国竹野(たかの)群間人郷土師部乙山中男作物海藻六斤」と書かれています。つまり、当時すでに「間人」という地名が存在したことが確実になりました。
そして「土師部」が「はしひと」と読めることにも何か謎を秘めているように思われます。また、「鵲森宮」にお祀りしている聖徳太子の母君の名が遠く丹後半島の「間人(たいざ)」の地に今も残っていることには、感謝深いものがあります。
要約すると、用明天皇の時代に「仏教に対する方針」と「皇位継承に関する問題」を巡って蘇我氏と物部氏の間で争いが生じた際、聖徳太子の母・穴穂部間人皇后は、その争いから逃れるために丹後半島の大浜の里に逃れており、争いが治まって斑鳩に戻られる際に里人に感謝のしるしとして地名に「間人」の名を与えたということのようです。
蘇我氏と物部氏の間に争いが生じたことは『日本書紀』にも記されていますが、間人皇后が丹後半島に逃れたことは記されておらず、これは地域に残る伝承として伝えられてきた貴重な情報であると言えるでしょう。
なお、新耳袋の著者として知られる作家・中山市朗氏の『捜聖記』によると、間人皇后は蘇我氏から逃れるために丹後半島に滞在したとされているらしく、系譜上、蘇我氏の血統とされる間人皇后の出自にも謎が含まれているとされています。間人皇后は本当に蘇我氏の血統だったのでしょうか?(これについては後々触れていきたいと思います)。
五幸稲荷社
鵲森宮の境内に鎮座する五幸稲荷社(ごこういなりしゃ)です。
由緒書によれば、「火難・水難・盗難飢餓・産難を除く、宇賀御霊命(ウカノミタマ)を祀る日本唯一の稲荷社」であるとされています。
由緒
五幸稲荷社の由緒書には以下のように記されています。
五幸稲荷社は、火難・水難・盗難飢餓・産難を除く、宇賀御霊命(うかのみたま)を祀る日本唯一の稲荷社です。
平成の遷座で猿田彦命、大己貴命、熊鷹大明神、烏丸明神、天神、八幡大明神、忌部社(手置帆負命・彦狭知命)、真目宮(布留魂命)などを合祀してあります。
平成の遷座で猿田彦命、大己貴命、熊鷹大明神、烏丸明神、天神、八幡大明神、忌部社(手置帆負命・彦狭知命)、真目宮(布留魂命)などを合祀してあります。
祭神
五幸稲荷社の祭神は以下の通りです。
主祭神
・宇賀魂神(ウカノミタマ):稲荷神
→ 当社では「火難・水難・盗難飢餓・産難を除く、日本唯一の稲荷社」としている
合祀神
・猿田彦命(サルタヒコ):道開きの神であり、道祖神と習合される神
→ 伏見稲荷の佐田彦大神と同一視する説もある
・大己貴命(オオナムチ):出雲を治めた大国主大神
→ 伏見稲荷で祀られる稲荷神の一柱・田中大神と同神とする説がある
→ 龍蛇神であったという説もある
・熊鷹大明神(クマタカダイミョウジン):四国の阿波国(徳島県)で祀られる狸の神
→ 四国では稲荷社?で祀られる例もみられる
・烏丸大明神(カラスマルダイミョウジン):鋳物師の始祖神、鍋宮大明神とも
・天神(テンジン):菅原道真公を指すと思われる
→ 天神には天津神という意味も含まれている
・八幡大明神(ハチマンダイミョウジン):武運の神であり、誉田別命(ホンダワケ)こと応神天皇を指す
・手置帆負命(タオキホオヒ):讃岐忌部氏の祖神
→ 天岩戸の際に瑞殿(みずのみあらか)という御殿を造営したとされる
・彦狭知命(ヒコサジリ):紀伊忌部氏の祖神
→ 天岩戸の際に瑞殿(みずのみあらか)という御殿を造営したとされる
・布留魂命(フルノミタマ):物部氏の祖神・饒速日尊が持つ十種神宝に宿る神霊とされる
→ 石上神宮で祀られている
・宇賀魂神(ウカノミタマ):稲荷神
→ 当社では「火難・水難・盗難飢餓・産難を除く、日本唯一の稲荷社」としている
合祀神
・猿田彦命(サルタヒコ):道開きの神であり、道祖神と習合される神
→ 伏見稲荷の佐田彦大神と同一視する説もある
・大己貴命(オオナムチ):出雲を治めた大国主大神
→ 伏見稲荷で祀られる稲荷神の一柱・田中大神と同神とする説がある
→ 龍蛇神であったという説もある
・熊鷹大明神(クマタカダイミョウジン):四国の阿波国(徳島県)で祀られる狸の神
→ 四国では稲荷社?で祀られる例もみられる
・烏丸大明神(カラスマルダイミョウジン):鋳物師の始祖神、鍋宮大明神とも
・天神(テンジン):菅原道真公を指すと思われる
→ 天神には天津神という意味も含まれている
・八幡大明神(ハチマンダイミョウジン):武運の神であり、誉田別命(ホンダワケ)こと応神天皇を指す
・手置帆負命(タオキホオヒ):讃岐忌部氏の祖神
→ 天岩戸の際に瑞殿(みずのみあらか)という御殿を造営したとされる
・彦狭知命(ヒコサジリ):紀伊忌部氏の祖神
→ 天岩戸の際に瑞殿(みずのみあらか)という御殿を造営したとされる
・布留魂命(フルノミタマ):物部氏の祖神・饒速日尊が持つ十種神宝に宿る神霊とされる
→ 石上神宮で祀られている
五幸稲荷社の謎
五幸稲荷社の由緒書には「火難・水難・盗難飢餓・産難を除く、宇賀御霊命(うかのみたま)を祀る日本唯一の稲荷社です」という意味深で謎深い記述があります。
これは稲荷神社の総本社である伏見稲荷とは関係無いということなのでしょうか?また、伏見稲荷創建以前より既に存在していたのでしょうか?創建年代については全く記されていないため、その詳細については謎です。
忌部氏について
五幸稲荷社には忌部氏(いんべし)の神々が祀られています。
由緒書では合祀神と説明されており、当地が玉造(勾玉を造る部族の居住区)に近いことが関係しているのではないかと思われます。
ちなみに島根県松江市にも玉造という土地があり、その周辺でも忌部系の神々を祀る神社や、忌部氏にまつわると思われる地名が見られます。
境内の見どころ
鳥居
鵲森宮の鳥居です。
拝殿
鵲森宮の拝殿です。
神紋
鵲森宮の神紋です。
資料
鵲森宮には聖徳太子にまつわる数多くの資料が展示されています。
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「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
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