玉造稲荷神社 [大阪府]
2015/08/28
大阪市中央区にある玉造稲荷神社(たまつくりいなりじんじゃ)です。
紀元前より存在するとされる稲荷社であり、伏見稲荷からの勧請ではない「元稲荷」と称しています。
また、鵲森宮と共に四天王寺の前身とされる「元四天王寺」を名乗っている神社でもあります。
そのほか、古代は難波玉作部の居住区であったことから、境内に勾玉に関する資料館があることでも知られています。
なお、一般的には芸能向上の御利益が有名で、芸能関係者の参詣が多いことで有名なんだそうです。
神社概要
由緒
社伝によれば、垂仁天皇18年(紀元前12年)に創建された古社であり、当時は比売社と称していたとされます。
『日本書紀』にある丁未の乱(古墳時代末期に行われた崇仏派と排仏派による宗教戦争)の際には、蘇我側に立った聖徳太子が この地に布陣して戦勝を祈願し、戦勝後当地に観音堂を建てたという伝承が残されているようです。
豊臣時代には豊臣大坂城の三の丸に位置し、その鎮守社として豊臣家から篤い崇敬を受けていたとされ、度重なる戦火によって荒廃した後も、その度に 豊臣家、徳川幕府の大坂城代、氏子らの寄進によって再建されたそうです。
そのため、豊臣・徳川時代を通して大坂城の鎮守とされ、そのときは豊津稲荷社と称していたとされています。また、江戸時代には伊勢参り(お蔭参り)の出発点とされたんだそうです。
近世には、昭和20年6月1日の大東亜戦争(第二次世界大戦)の戦禍を受けて破壊されますが、昭和29年に社殿が新たに造営され、戦後は新憲法のもと、現在の玉造稲荷神社となったとされています。
なお、由緒書では以下のように解説されています。
古代勾玉作りの難波玉作部(なにわたまつくりべ)が居住していた地で、現在の「玉造」の地名も これに由来致します。
当社の創祀は、垂仁天皇18年(B.C12年)にさかのぼるといわれる古社であります。
聖徳太子が物部氏と仏教の受容問題で争われた時、この玉作岡に陣を敷き、当神社に戦勝を祈願し、戦勝後 この地に観音堂を建立されたといわれております。
豊臣時代には大阪城の守護神として豊臣家の崇敬は特に厚く、境内の石鳥居も慶長8年(1603年)に秀頼公より寄進されたものであります。
10月の祝日には境内で太閤さん時代の「だんご茶会」が盛大に行われます。
江戸時代の伊勢参宮本街道との深いつながりも「暗越・奈良街道(くらがりごえならかいどう)」の要地にあったためであります。
当社の創祀は、垂仁天皇18年(B.C12年)にさかのぼるといわれる古社であります。
聖徳太子が物部氏と仏教の受容問題で争われた時、この玉作岡に陣を敷き、当神社に戦勝を祈願し、戦勝後 この地に観音堂を建立されたといわれております。
豊臣時代には大阪城の守護神として豊臣家の崇敬は特に厚く、境内の石鳥居も慶長8年(1603年)に秀頼公より寄進されたものであります。
10月の祝日には境内で太閤さん時代の「だんご茶会」が盛大に行われます。
江戸時代の伊勢参宮本街道との深いつながりも「暗越・奈良街道(くらがりごえならかいどう)」の要地にあったためであります。
祭神
玉造稲荷神社の祭神は以下の通りです。
主祭神
・宇迦之御魂大神(ウカノミタマ):衣食住を司る稲荷神であり、スサノオの子とされる
相殿神
・下照姫命(シタテルヒメ):大国主の子であり、アヂスキタカヒコネ(賀茂大御神)の妹に当たる
・稚日女命(ワカヒルメ):高天原で機織り中にスサノオに驚かされて事故死した神
→ 『ホツマツタヱ』によれば、三貴子の姉神に当たるヒルコの別名とされる
・月読命(ツクヨミ):スサノオの兄弟神であり、月を神格化した神とされる
・軻偶突智命(カグツチ):火を司る神であり、イザナミはカグツチを産む際に火傷して死んだとされる
関連知識
元稲荷(もといなり)
玉造稲荷神社の祭神は「古くから五幸稲荷大明神(ごこういなりだいみょうじん)として崇敬者に慕われており、伏見稲荷大社の分霊を直接祀らない稲荷社である」とされています。
また、江戸時代には創祀年代の古さから地元では「もといなり」と呼ばれていたそうです。
これについては、豊臣秀吉が稲荷の信仰者であったことや、伏見の住民を この玉造の地に住ませた関係で稲荷神と崇められたと考えられているそうです。
なお、玉造稲荷神社と同じく「元・四天王寺」と名乗る鵲森宮(森之宮神社)にも、境内に五幸稲荷社が鎮座しており「五幸稲荷社は、火難・水難・盗難飢餓・産難を除く、宇賀御霊命(うかのみたま)を祀る日本唯一の稲荷社です。」と説明されています。
両社とも「五幸稲荷」という名が共通しており、伏見稲荷とは異なる稲荷神であるとしていることが特徴です。
また、同じ大阪市内にある河掘稲生神社(こぼれいなりじんじゃ)にも第12代景行天皇の御代に「稲生(いなり)の神」を祀ったことに始まるとされていることから、もしかすると大阪には伏見稲荷以前の稲荷信仰があったのかもしれません。
「もといなり」についてはこちらの記事で詳しく考察しています:【稲荷信仰とは?】
元四天王寺
日本の正史である『日本書紀』には、なぜか四天王寺創建の記述が二度登場します。
これについては諸説あるのですが、現在の四天王寺の前身となる「元四天王寺」が存在していたという説があり、その元四天王寺こそ玉造稲荷神社であるという伝承があるようです。
その伝承は以下の通りです。
聖徳太子が仏教受容問題で物部守屋公と争われた際、この玉作岡に陣を敷き「我に勝を与えるならこの栗の白木の箸に枝葉を生じさせ給え」と祈願されたところ、後に枝葉が生じ、この戦いも無事に終わったと云われており、戦後には太子自ら観音堂を当地へ建立したと伝わっています。
この伝承は『日本書紀』の中に記される「丁未の乱」の記述と酷似しており、また聖徳太子の伝記である『聖徳太子伝暦』の中にも「戦が終わった後、太子は四天王との誓いを守って玉造の岸に上って初めて四天王寺を建立した」と記されています。
このことから、玉造稲荷神社が「元四天王寺」であるという可能性は濃厚です。
しかし、森之宮にある鵲森宮にも「元四天王寺」であるという伝承が残されていることから、「元四天王寺」とされる施設は大阪市内に二ヶ所存在しているとされており、その真偽も未だに明らかになっていないようです。
元四天王寺についてはこちらの記事を参照:【元四天王寺とは】
玉造とは?
玉造(たまつくり)とは、古代「勾玉」などを作っていた「玉造部(たまつくりべ)」の居住地であったことに因んで付けられた地名であるとされています。玉造稲荷神社の「玉造」も、この地名に因んで付けられているようです。
また、境内入口にある石碑には以下のように記されています。
難波の高台の内に位する玉造稲荷神社の所在地は、古代には玉作岡として玉造部に所属する曲玉造りの集団居住地であった。
故に大阪において、最も古く由緒あるところであるというべきである。
この高台に仁徳天皇は高津宮を営み我が国最初の都城を造られたが、孝徳天皇の長柄豊碕宮、天武天皇から聖武天皇にいたる難波宮がこれに続き、今なお その遺跡は厳然として残っている。云々
故に大阪において、最も古く由緒あるところであるというべきである。
この高台に仁徳天皇は高津宮を営み我が国最初の都城を造られたが、孝徳天皇の長柄豊碕宮、天武天皇から聖武天皇にいたる難波宮がこれに続き、今なお その遺跡は厳然として残っている。云々
ちなみに「玉造」の名の付く地名は大阪府の他に、千葉県と島根県に存在しています。
境内社
新山稲荷神社・万慶稲荷神社
玉造稲荷神社の新山稲荷神社(しんやまいなりじんじゃ)と万慶稲荷神社(まんけんいなりじんじゃ)です。
両社とも宇迦之御魂大神(ウカノミタマ)を祀っています。
新山稲荷神社(左)は、寛政11年(1799年)に当時の大坂城代・松平輝和(まつだいらてるかず)の城代屋敷内に祀られていた社であり、明治40年になって当社に合祀したとされています。
万慶稲荷神社(右)は、徳川時代の大坂城内の各屋敷に祀られていた多くの稲荷神を当社の境内に集め、享保年間に合祀したとされています。
胞衣塚大明神
玉造稲荷神社の胞衣塚大明神(よなづかだいみょうじん)です。
豊臣秀頼の胞衣を祀る社であり、当初は大坂城三の丸に当たる現在地に胞衣が埋められ、その後は豊臣家を慕う当地の人々により密かに祀られていたとされています。
「子の悩み」や「子供の夜泣き」に霊験あらたかとされているそうです。
なお「胞衣」は通常「えな」と読まれますが大阪では「よな」と読まれるため、それに因んで「よなづか…」とされています。
厳島神社
玉造稲荷神社の厳島神社(いつくしまじんじゃ)です。
市杵嶋姫神(イチキシマヒメ)を祀っています。
境内の白龍池に白龍観音が出現したことをきっかけに弁才天を祀った社であり、明治時代の神仏分離令により、祭神を市杵嶋姫神としたとされています。
雨乞いの神として信仰され、また病気平癒にも霊験あらたかとされているそうです。
境内の見どころ
鳥居
玉造稲荷神社の鳥居です。
注連石
玉造稲荷神社の注連石(しめいし)です。
拝殿
玉造稲荷神社の拝殿です。
白龍池
玉造稲荷神社の白龍池(はくりゅういけ)です。
この池は、白龍観音が出現したところで「雨乞いに霊験あり」と伝えられているそうです。
なお元々は、この社の傍に聖徳太子が造った十一面観音を祀る観音堂があったとされています。
神紋
玉造稲荷神社の神紋です。
勾玉が向き合った形になっています(玉造に因んでいるのでしょうか?)。
利休井
玉造稲荷神社の利休井(りきゅうい)です。
豊臣秀吉に仕えた千利休(せんのりきゅう)の屋敷にあった井戸であると考えられており、伝承によれば古くより「玉造清水」と呼ばれる良質の水脈を使い、上町台地に茶の湯文化を育んだとされています。
伊勢迄歩講起点碑
玉造稲荷神社の伊勢迄歩講起点碑(いせまであるこうのきてんひ)です。
この神社は江戸時代には伊勢参りの出発点とされたと伝えられており、それに因んで建てられた石碑なんだそうです。
豊臣秀頼公奉納鳥居
玉造稲荷神社の豊臣秀頼公奉納鳥居(とよとみひでよりこうほうのうとりい)です。
この鳥居は慶長8年(1603年)に豊臣秀頼公より奉納され、大阪での石製鳥居としては四天王寺の西の鳥居と共に古いものと云われているそうです。
なお、阪神・淡路大震災により鳥居の下半分が壊れため、現在は上半分のみが境内に安置されています。
豊臣秀頼公像
玉造稲荷神社の豊臣秀頼公像です。
この神社は豊臣時代には大坂城の鎮守神として祀られており、特に豊臣秀頼公および淀殿らの崇敬が篤かったとされています。
なで子持曲玉石
玉造稲荷神社の なで子持曲玉石(なでこもちまがたまいし)です。
この石を撫でながら祈願すると願いが成就するとされ、特に子孫繁栄、子授け、芸能向上、事業振興に霊験があるとされています。
恋キツネ絵馬
玉造稲荷神社の恋キツネ絵馬です。
キツネが向き合ってハート形を成している絵馬であり、恋愛成就、夫婦円満に御利益があるとされています。
難波・玉造資料館
玉造稲荷神社境内にある難波・玉造資料館です。
この資料館は、社伝による創祀2000年祭・奉祝記念として開館された曲玉(勾玉)の資料館であり、館内では、神社に伝わる古代玉遺物、勾玉の歴史、玉作り工程、全国各地より採掘した原石と玉類、境内出土の中国古代銭、日本と韓国の古代土器などが見られるそうです。
なお、拝観希望の場合は1週間前の事前予約が必要とされています(有料です)。
白光大神
玉造稲荷神社付近にある白光大神です。
境外の道路の一角に鎮座する御神木であり、樹の根元には白い鳥居と小さな社が建てられています。
また、社の中には白蛇が祀られているとされているようです。
料金: 無料
住所: 大阪府大阪市中央区玉造2-3-8(マップ)
営業: 終日開放
交通: 森ノ宮駅(徒歩8分)、玉造駅(徒歩9分)
公式サイト: http://www.inari.or.jp/shamusho/index.html
住所: 大阪府大阪市中央区玉造2-3-8(マップ)
営業: 終日開放
交通: 森ノ宮駅(徒歩8分)、玉造駅(徒歩9分)
公式サイト: http://www.inari.or.jp/shamusho/index.html
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「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
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