人文研究見聞録:苅萱堂 [和歌山県]

和歌山県伊都郡高野町にある高野山の刈萱堂(かるかやどう)です。

金剛峯寺と奥の院の中間に位置する高野山密厳院の地蔵堂であり、東海近畿地蔵霊場の第34番札所とされています。

本尊には地蔵菩薩を祀っており、この地蔵尊は古くから「引導地蔵」と呼ばれてきたんだそうです。

なお、この刈萱堂は説経節『苅萱』における「苅萱道心と石童丸の哀話」の舞台としても知られています。

そのため、堂内には説話に関する展示物が数多く掲げられています。


苅萱道心と石童丸の哀話

人文研究見聞録:苅萱堂 [和歌山県]

平安末期、筑前国の若き領主であった加藤左衛門尉繁氏(かとうさえもんしげうじ)は、妻の桂子(かつらこ)と共に平穏に暮らしていましたが、父・旧友朽木尚光(くちきなおみつ)の遺児・千里(ちさと)の不幸な境遇に同情し、自分の館に引きとって側室としました。

繁氏の二人の夫人は普段は仲良く平静を装っていましたが、桂子は若く美しい千里を憎んでいました。

ある夜、桂子と千里が囲碁を打っているところを繁氏が障子越しに見たところ、二人の髪が逆立ち、蛇となって絡み合って戦っているように見えました。その後、桂子の千里に対する憎しみが露わとなり、遂には千里の殺害を企てるまでに至りました。

家来の計らいで侍女が身代わりとなり、千里は死を免れましたが、加藤家の屋敷から逃れることを余儀なくされました。また、このことから繁氏は人の世の無常を感じ、出家することを決意しました。

そして、領地や妻子を捨てて京都に上り、まずは法然上人(ほうねんしょうにん)の弟子になりました。その後、妻子が尋ねて来ることを恐れ、女人禁制の高野山に登って蓮華谷に萱の屋根の質素な庵(小屋)を結び、苅萱道心(かるかやどうしん)と号して修行の道に入りました。

一方、千里は身重の体で播磨国の太山寺の観海上人のもとに身を寄せ、そこで男児を出産し、父の幼名を取って石童丸(いしどうまる)と名付けました。

石童丸が14歳になったとき、高野山に刈萱道心という僧がいるという噂が聞こえてきました。その僧こそ繁氏に違いないと確信した千里は、石童丸をつれて高野山へと向かいました。

二人は高野山の麓にある学文路(かむろ)に着いて宿を取ると、宿の主人から高野山は女人禁制で女性は入山することができないと聞かされたため、千里は高野山に入ることを断念し、石童丸に父の特徴を教えて一人で高野山へと向かわせました。

石童丸は山道を登って高野山へと入り、その道中で父を訪ね歩きました。そして、奥之院の無明橋(御廟橋)に来たときに花筒を持った一人の僧侶と出遭い、石童丸はその僧に父のことを尋ねました。

そのとき、その僧の顔色が一瞬変わりました。なぜなら僧こそ刈萱道心その人だったからです。しかし、刈萱道心は俗世の縁を断ち切って出家した身であるため、父と名乗ることはできませんでした。

そこで、刈萱道心は石童丸に繁氏という人は去年の秋に亡くなったという偽りを伝え、近くに墓を指し示しました。すると、石童丸は墓の前で泣き崩れたました。そして、刈萱道心は石童丸に早く母のもとに帰るよう諭すと、石童丸は仕方なく高野山を下っていきました。

学文路の宿に着くと、長旅で無理をしたためか母の千里は急病を患って既に亡くなっていました。

身寄りを失った石童丸は母を学文路に葬り、再び高野山へと上りました。そして、刈萱道心を尋ねて弟子となり、信照坊道念と名乗って、二人は30年以上師弟として刈萱堂で修行をしました。しかし、刈萱道心は生涯父子であることを伝えることは無かったといいます。

料金: 無料
住所: 和歌山県伊都郡高野町高野山(マップ
営業: 8:30~17:00
交通: 高野山駅ほか、南海りんかんバス「刈萱堂前」下車

公式サイト: http://www.koyasan.or.jp/
matapon
著者: matapon Twitter
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。