戸田柿本神社(柿本人麻呂の生誕地) [島根県]
2015/12/21
島根県益田市戸田町にある戸田柿本神社(とだかきのもとじんじゃ)です。
飛鳥時代の歌人・柿本人麻呂の生誕地と伝えられる場所であり、人麻呂公の死後に建てられた神社とされています。
宝物として人麻呂公の幼少期について記された文献が多数あり、口伝だけではなく物証が残っていることが珍しいです。
なお、神社の付近には「柿本人麿御廟所(墓所)」や「柿本人麿伝承岩」が存在します。
また、益田市には柿本人麻呂の終焉地と伝わる鴨島の人丸社の後身「高津柿本神社」もあります。
高津柿本神社についてはこちらの記事を参照:【高津柿本神社】
神社概要
由緒
社伝によれば、当地の「語家(綾部家)」の出身である柿本人麿が、老年を過ごした高角鴨山で神亀元年甲子3月18日に逝去したことから、死後に戸田村に社を建てて人麿の霊を祀ったことに始まるとされています。
また、江戸時代には津和野藩主・亀井氏に篤く崇敬され、現在の社殿は文政5年(1823年)に第9代藩主・亀井茲尚(かめいこれなお)によって寄進されたものと云われています。
なお、『戸田柿本神社由緒』によれば、社家である綾部家は大和に住んでいた頃から柿本氏に仕え、柿本氏が石見に下ったとき陪従して美濃郡小野に定住し、代々「語家」として柿本氏に仕えたとされています(現在で49代目とされる)。
また、「柿本氏は孝昭天皇の御子を祖とする家柄で、同族の春日族、小野族、櫛代族の一部(分流)と共に石見の地に下向した」とも伝えられているそうです(孝昭天皇の後胤という点で高津柿本神社の社伝と一致する)。
境内に由緒書があったため、参考までに内容を転載しておきます。
戸田柿本神社由緒記
祭神は正一位 柿本朝臣人麿であります。人麿公は今からおよそ1300年前、天武・持統・文武の三天皇に仕え、宮廷歌人として令名が高く、『万葉集』に数多くの長歌、短歌を遺しています。そのうち「妻と別れて京に上り来る歌」「臨死(みまか)らんとする時、自ら傷みて作る歌」は石見の国と人麿との深い由縁を物語っています。
わけても『万葉集』の「石見の海 打歌の山の 木の際り わが振る袖を 妹見つらむか」の「打歌の山」が、古くから益田市中垣町の大道山とされ、その北西の戸田町は生誕地、北東の高津町は死没地と伝えられています。
柿本社の宮司 綾部家は四十九代続いている旧家ですが「その庭前の柿の木もとに、祭神は七才の童児となって孝徳天皇即位9年に天降った」と古記にあります。同家には人麿のお墓が現存しています。
社殿は神亀年代に創建され、学問、産業、疫病除厄の神様で、津和野亀井藩主をはじめ、古来地方民の尊崇厚いところであります。
建造物
・本殿:権現造り、文政5年4月再建
・拝殿:妻破風、木造り、明治29年再建
・神楽殿:明治35年増築
宝物類
・御神体:柿本人麿木彫座像(そのほか人麿御童子像、付帯像計七体は益田市指定)
・宝物:『柿本従三位人麿記』『人麿旧記』『柿本集』『筆柿古木の根』など多数
祭礼
・例大祭:4月18日
・新年祭:春季
・八朔祭:9月1日
・新穀感謝祭:秋季
祭神は正一位 柿本朝臣人麿であります。人麿公は今からおよそ1300年前、天武・持統・文武の三天皇に仕え、宮廷歌人として令名が高く、『万葉集』に数多くの長歌、短歌を遺しています。そのうち「妻と別れて京に上り来る歌」「臨死(みまか)らんとする時、自ら傷みて作る歌」は石見の国と人麿との深い由縁を物語っています。
わけても『万葉集』の「石見の海 打歌の山の 木の際り わが振る袖を 妹見つらむか」の「打歌の山」が、古くから益田市中垣町の大道山とされ、その北西の戸田町は生誕地、北東の高津町は死没地と伝えられています。
柿本社の宮司 綾部家は四十九代続いている旧家ですが「その庭前の柿の木もとに、祭神は七才の童児となって孝徳天皇即位9年に天降った」と古記にあります。同家には人麿のお墓が現存しています。
社殿は神亀年代に創建され、学問、産業、疫病除厄の神様で、津和野亀井藩主をはじめ、古来地方民の尊崇厚いところであります。
建造物
・本殿:権現造り、文政5年4月再建
・拝殿:妻破風、木造り、明治29年再建
・神楽殿:明治35年増築
宝物類
・御神体:柿本人麿木彫座像(そのほか人麿御童子像、付帯像計七体は益田市指定)
・宝物:『柿本従三位人麿記』『人麿旧記』『柿本集』『筆柿古木の根』など多数
祭礼
・例大祭:4月18日
・新年祭:春季
・八朔祭:9月1日
・新穀感謝祭:秋季
祭神
柿本人麻呂 |
戸田柿本神社の祭神は以下の通りです。
主祭神
柿本人麿朝臣(かきのもとひとまろ):飛鳥~奈良時代の宮廷歌人で、歌聖とも称される
→ 史書には具体名が登場しないため、主に『万葉集』に載せられた和歌から人物像が推測されている
⇒ 哲学者・梅原猛の『水底の歌』では、石見国の「鴨嶋」に流罪となったと推測されている
→ 社伝によれば、第5代孝昭天皇の後胤の柿本氏出身とされる(下記に詳しく記載)
⇒ 春日族、小野族、櫛代族の一部は同族とも
→ 神徳は「和歌」「安産」「防火」とされている
柿本人麿朝臣(かきのもとひとまろ):飛鳥~奈良時代の宮廷歌人で、歌聖とも称される
→ 史書には具体名が登場しないため、主に『万葉集』に載せられた和歌から人物像が推測されている
⇒ 哲学者・梅原猛の『水底の歌』では、石見国の「鴨嶋」に流罪となったと推測されている
→ 社伝によれば、第5代孝昭天皇の後胤の柿本氏出身とされる(下記に詳しく記載)
⇒ 春日族、小野族、櫛代族の一部は同族とも
→ 神徳は「和歌」「安産」「防火」とされている
人丸信仰
柿本人麻呂の別名「人丸(火止まる)」より |
歌人・柿本人麻呂公は「歌聖」と称されることから「和歌の神」として有名ですが、人麻呂公の別称「人丸」に引っかけて「人生まる」として「安産の神」、「火止まる」として「火難防除の神」という信仰があり、戸田柿本神社では特に後者の信仰が篤く「火伏せ御札」が霊験あらたかとして知られているそうです。
なお、 山口県山口市木町にある「人丸神社」には「その昔、集落で火事が頻発したときに高津柿本神社を勧請したところ、火災がなくなった」という謂れが残っているそうです。
境内に詳しい説明書があったので、ここに紹介しておきます。
火伏せ御札について
火伏せとは「火災を防ぐこと」、特に「火災を防ぐ神仏の神通力」のことを言います。
島根県益田市戸田町には柿本朝臣人麿生誕の伝説を語り継ぐ戸田柿本神社があり、この土地では古くから この神社を「火伏せの神」として信仰する風習がありました。柿本は「火気の元」に、人麿は「火止まる」に通じることがその理由です。
この良き風習を現代に生かすべく、この度、戸田柿本神社の御札と四枚の火伏せ御札を一組にして、御祓いに御札を差し替えることで、人麿(火止まる)さんの御加護を新しく請うためです。戸田柿本神社の火伏せ御札をご家庭やご商売の安心安全のためにお役立て頂ければ幸いです。
御神言「用心用心 火気の元 神通力で 火止まる 火止まる」
火伏せとは「火災を防ぐこと」、特に「火災を防ぐ神仏の神通力」のことを言います。
島根県益田市戸田町には柿本朝臣人麿生誕の伝説を語り継ぐ戸田柿本神社があり、この土地では古くから この神社を「火伏せの神」として信仰する風習がありました。柿本は「火気の元」に、人麿は「火止まる」に通じることがその理由です。
この良き風習を現代に生かすべく、この度、戸田柿本神社の御札と四枚の火伏せ御札を一組にして、御祓いに御札を差し替えることで、人麿(火止まる)さんの御加護を新しく請うためです。戸田柿本神社の火伏せ御札をご家庭やご商売の安心安全のためにお役立て頂ければ幸いです。
御神言「用心用心 火気の元 神通力で 火止まる 火止まる」
人丸信仰についてはこちらの記事を参照:【人丸信仰とは?】
戸田柿本神社に伝わる柿本人麻呂の来歴
歌人・柿本人麻呂の生涯は謎に包まれているため、その具体的な来歴については推測の域を脱していませんが、戸田柿本神社には人麻呂公の出生に関する文献が残っており、生誕から幼少期までの具体的な記録が残されているとされています。
それについて、以下に簡単にまとめてみたいと思います。
誕生
社家・綾部家に古くから伝わる『戸田柿本神社由緒』には「柿本某、語家の女を嬖幸(へいこう)して一男を挙げられ、其児幼にして父を喪えるを以って、語家これを養育したりき。これ柿本朝臣人麻呂なり」と記されているそうです。
そのため、人麻呂公は「柿本氏某と綾部家の女の間に生まれた」とされています。
幼少期
社家・綾部家に伝わる『柿本神社日記』には「かたらひ(語家)の許へ七十ばかりの老翁日毎に来り、人麿に書を授け、また互に歌をよみ、詩を作り、或いは弓馬の術を教え、日傾けば何処ともなく帰り去りける」と記されているそうです。
そのため、人麻呂公は「幼少期より学問に励み、加えて弓馬の術を身に着けていた」と解釈できます。
なお、神社周辺の山には、人麻呂公の足跡を残した「人麿の足型石」と、人麻呂公が座って歌を詠んだという「聖なる岩(柿本人麿伝承岩)」が残っており、近在の人々は古来より「人麻呂公が幼少期から人間離れした神童だった」という証拠として伝承してきたと云われています。
出仕~国府役人
公式サイトによれば、人麻呂公が大和朝廷に仕えたのは30歳前後だったと推定され、それについては「大和朝廷の古記録に『天武10年、草壁太子阿騎野の冬猟に人麻呂供奉す』とあることが証明している」と説明されています。
また、柿本氏が正史に登場するのは、柿本猨(さる)が従五位の下を授けられた天武十年(681年)に始まるとされることから、大和が柿本氏の本貫地と捉えて「歌に秀でた同族の人麻呂公を大和の柿本氏が都に呼び寄せて、宮廷に推挙した」とも推測されています。
なお、人麻呂公の歌で時代がはっきりしているものが「持統天皇3年(689年)の草壁皇子の死を悼んで詠んだ歌」であることから、当時は草壁皇子の近臣として仕えていたことが分かっており、これ以来、人麻呂公は約20年間に渡って歌を詠み続けたとされています(『柿本朝臣人麻呂歌集』には365首が集録されており、万葉歌人の中で最も多くの歌を残している)。
そして、「石見のや 高角山の木の際より わが振る袖を 妹見つらむか」という歌から「宮廷歌人だった人麻呂公は、官吏として石見に下向した」と考えられているようです(斎藤茂吉の説より)。ちなみに、歌にある「妹」は人麻呂公の妻・依羅娘子(よさみのおとめ)を指しており、石見国の都濃津(江津市)の出身と云われています。
※出仕~国府役人の来歴を記した文献は挙げられていないため、概ね推測であると言える
晩年~逝去
晩年については詳しく分かっていませんが、梅原猛の説から「政敵である藤原不比等と対立し、政争に負けて石見国の鴨山(鴨島)に流刑になった(ここで処刑されたとも)」と推測されています。
人麻呂公の死後は「国家によって鴨島に人丸社が創建され、一方、語家(綾部家)によって屋敷の一角に御廟所が設けられた」と考えられており、戸田柿本神社の付近には現在も「柿本人麿御廟所」が現存しています。
境内の見どころ
鳥居
戸田柿本神社の鳥居です。
朱塗りの両部鳥居となっています。
手水舎
戸田柿本神社の手水舎です。
蛇口が天狗か龍の様な生物の顔になっています。
拝殿
戸田柿本神社の拝殿です。
参拝の作法が特殊であり「二拝 → 祓詞 → 神社拝詞 → 二拝二拍手一礼」となっています。
祓詞と神社拝詞 |
石碑
戸田柿本神社の石碑です。
内容は不明ですが、恐らく人麻呂公について書かれているものと思われます。
神木
戸田柿本神社の御神木です。
太めの注連縄が掛けられています。
鬼瓦
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戸田柿本神社には、いくつかの鬼瓦が安置されています。
なお、瓦は石見特有の赤褐色の石州瓦となっています。
料金: 無料
住所: 島根県益田市戸田町イ-856番地(Googleマップ)
営業: 終日開放
交通: 戸田小浜駅(徒歩16分)、石見交通バス「植松」下車(徒歩12分)
公式サイト: http://www.hitomaro.com/
住所: 島根県益田市戸田町イ-856番地(Googleマップ)
営業: 終日開放
交通: 戸田小浜駅(徒歩16分)、石見交通バス「植松」下車(徒歩12分)
公式サイト: http://www.hitomaro.com/
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「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
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