鴨島趾展望地(柿本人麻呂終焉の地) [島根県]
2015/12/20
島根県益田市久城町にある鴨島趾展望地(かもしまあとてんぼうち)です。
島根県益田市には『万葉集』で知られる歌人・柿本人麻呂の終焉の地という「鴨島」があったと伝えられており、それは、かつて此処から望める高津・中須沖にあったと云われています。しかし、平安中期の万寿地震で水没したとされるため、現存はしていません。
そのため、現在は「久城が浜センター」の前に当時の伝承を伝える石碑が安置され、簡単な説明書が添えられています。
鴨島の伝承
益田市には「柿本人麻呂の終焉の地は日本海に浮かぶ鴨島であったが、平安時代に起こった万寿地震の影響で起こった大津波に呑まれて水没してしまった」という伝承が伝えられています。
そのため、当時 人麻呂公の霊を祀るために鴨島に創建されたという「人丸社」を受け継ぐ神社として、市内の高津町には「高津柿本神社」があり、地元で鴨島跡とされ「大瀬」と呼ばれる暗礁地帯の海中からは、明治34年(1901年)に漁師によって漢鏡や双盤が引き上げられたとされており、市内の中須町にある福王寺に保存されているそうです。
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なお、Wikipediaによれば、益田市の鴨島伝承について以下のように説明されています。
益田川河口から500mないし1km沖合にあったとされる。東西約2km・南北約300mで、本土とは砂州でつながった陸繋島であり、岩盤の上に砂が堆積しただけの低い砂丘の島であったと考えられている。また、鴨島の東には同規模の「鍋島」があり、さらに東の遠田沖には「柏島」があった。
伝承によれば「在りし日の鴨島は外浜と内浜にそれぞれ良港を持ち、日本海を行き交う船は必ず立ち寄るほど繁盛した島であった」という。また、島には「鴨山」と呼ばれる小高い地があって、柿本人麻呂はそこで没し、後の神亀年間に聖武天皇の勅命によって「人麻呂神社」とその別当寺「人丸寺」が建立されたとされる。他に「千福寺」「万福寺」の2寺があった。
しかし、万寿3年5月23日(1026年6月16日)の深夜に発生したとされる万寿地震によって、鴨島は一夜にして海中に没し、人麻呂神社・人丸寺・千福寺・万福寺の1社3寺と約500軒の民家は悉く流出し壊滅した。鍋島・柏島も同じくこの時に陥没したと伝えられている。
また、このとき流された人麻呂神社の神体であった神像が対岸の松崎に漂着したため、その地に改めて柿本神社と人丸寺が再建されたという。現在の高津柿本神社は、延宝9年(1681年)に風水害を懸念した津和野藩主亀井茲親によって松崎から現在地に移転されたものである。
現在、地元で「大瀬」と呼ぶ暗礁が鴨島の、「三瀬」と呼ぶ暗礁が鍋島の陥没した跡だとされている。「大瀬」は、浅いところで水深3mから6m、深いところで水深12mから13mで、短径300m面積20万㎡の楕円形をしており、波の荒れた日には「大瀬」の上に白波が立つのを見ることができる。
参考:鴨島 (島根県) - Wikipedia
伝承によれば「在りし日の鴨島は外浜と内浜にそれぞれ良港を持ち、日本海を行き交う船は必ず立ち寄るほど繁盛した島であった」という。また、島には「鴨山」と呼ばれる小高い地があって、柿本人麻呂はそこで没し、後の神亀年間に聖武天皇の勅命によって「人麻呂神社」とその別当寺「人丸寺」が建立されたとされる。他に「千福寺」「万福寺」の2寺があった。
しかし、万寿3年5月23日(1026年6月16日)の深夜に発生したとされる万寿地震によって、鴨島は一夜にして海中に没し、人麻呂神社・人丸寺・千福寺・万福寺の1社3寺と約500軒の民家は悉く流出し壊滅した。鍋島・柏島も同じくこの時に陥没したと伝えられている。
また、このとき流された人麻呂神社の神体であった神像が対岸の松崎に漂着したため、その地に改めて柿本神社と人丸寺が再建されたという。現在の高津柿本神社は、延宝9年(1681年)に風水害を懸念した津和野藩主亀井茲親によって松崎から現在地に移転されたものである。
現在、地元で「大瀬」と呼ぶ暗礁が鴨島の、「三瀬」と呼ぶ暗礁が鍋島の陥没した跡だとされている。「大瀬」は、浅いところで水深3mから6m、深いところで水深12mから13mで、短径300m面積20万㎡の楕円形をしており、波の荒れた日には「大瀬」の上に白波が立つのを見ることができる。
参考:鴨島 (島根県) - Wikipedia
鴨島の概要
鴨島趾展望地に貼ってある説明書には、鴨島の概要について以下のように記されています。
柿本人麿終焉の地 鴨島趾展望地の碑
柿本人麻呂(660年~720年、飛鳥時代の歌人)は『万葉集』に長歌19首、短歌75首が掲載されている大歌人であり、歌聖と仰がれた人物でありながら、その生涯はほとんどと言って良いほど分かっておらず、今なお多くの謎に包まれています。
その終焉の地も定かではなく、その有力な説とされているのが「益田説」です。
「益田説」では、柿本人麻呂は益田沖にあった鴨島で亡くなったとされています。そして、その鴨島は万寿3年の大地震と大津波で水没したといわれています。
昭和48年、哲学者・梅原猛氏が『水底の歌』で「人麻呂水刑死説」を発表し、全国に一大センセーションが巻き起こり、昭和52年には梅原氏を団長とする調査団が鴨島跡の海底調査を実施、また、平成5年に再び海底調査を実施し、地震と津波により水没したことが科学的に認められたため、ほぼ史実であると明らかになりました。
しかし、この史実と人麻呂の死地との関係性は、いずれも伝承の中にあり、県内諸処の説も複雑に絡み合って、未だ伝説の域を出るに至っておりません。なお、人麻呂の終焉の地については、他に「鴨山説(浜田市)」「神山説(江津市)」「湯抱説(邑智郡)」などがあり、いずれも鴨島伝説として伝えられています。
「益田説」の鴨島の位置は、益田川河口より約1kmの沖合にある「大瀬」と呼ばれる浅瀬であり、大きさは南北約600m、東西400m、水深4m~10mの海蝕台状の高まりとなっています。
柿本人麻呂(660年~720年、飛鳥時代の歌人)は『万葉集』に長歌19首、短歌75首が掲載されている大歌人であり、歌聖と仰がれた人物でありながら、その生涯はほとんどと言って良いほど分かっておらず、今なお多くの謎に包まれています。
その終焉の地も定かではなく、その有力な説とされているのが「益田説」です。
「益田説」では、柿本人麻呂は益田沖にあった鴨島で亡くなったとされています。そして、その鴨島は万寿3年の大地震と大津波で水没したといわれています。
昭和48年、哲学者・梅原猛氏が『水底の歌』で「人麻呂水刑死説」を発表し、全国に一大センセーションが巻き起こり、昭和52年には梅原氏を団長とする調査団が鴨島跡の海底調査を実施、また、平成5年に再び海底調査を実施し、地震と津波により水没したことが科学的に認められたため、ほぼ史実であると明らかになりました。
しかし、この史実と人麻呂の死地との関係性は、いずれも伝承の中にあり、県内諸処の説も複雑に絡み合って、未だ伝説の域を出るに至っておりません。なお、人麻呂の終焉の地については、他に「鴨山説(浜田市)」「神山説(江津市)」「湯抱説(邑智郡)」などがあり、いずれも鴨島伝説として伝えられています。
「益田説」の鴨島の位置は、益田川河口より約1kmの沖合にある「大瀬」と呼ばれる浅瀬であり、大きさは南北約600m、東西400m、水深4m~10mの海蝕台状の高まりとなっています。
Wikipediaによれば、昭和52年(1977年)の梅原猛による調査では「大瀬が島ないし半島であり、その後急速に水没したと推測できる」、平成5年(1994年)の松井孝典による調査では「鴨島の存在が大前提となる万寿の地震と津波は確かにあったと言え、伝承が正しかったと科学的にいえるのではないか」という調査結果が得られたとされています。
柿本人麻呂について
柿本人麻呂 |
柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)とは、飛鳥~奈良時代の宮廷歌人であり、和歌集『万葉集』における代表的な歌人として、後世には歌聖(かせい)と呼ばれ称えられています。
しかし、正史には名前が登場しないため、その人物像については詳しくは分かっていない謎多き人物です。江戸時代には、国学者によって草壁皇子の舎人として仕えたと推定されています。
通説では、天武朝に歌人として仕え、天皇を神格化するために和歌を詠んでいたと考えられているようです(持統天皇の御代に活躍したとみられている)。
ただし、人麻呂公の生没については諸説あり、高津柿本神社の社伝によれば「第5代孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命の後胤の小野氏族の一派である柿本族出身であり、石見国の小野郷で生まれて青年時代に都に上り、天武・持統・文武天皇に宮廷歌人として仕えた。大宝年中(701~704年)に石見守として赴任して製紙業を広め、神亀元年(724年)に辞世の歌を残して鴨島に没した」と云われています。
高津柿本神社についてはこちらの記事を参照:【高津柿本神社】
料金: 無料
住所: 島根県益田市久城町1199-1(久城が浜センター前)
営業: 終日開放
交通: 益田駅(徒歩46分)、石見交通バス久城線「久城」下車
公式サイト: http://www.city.masuda.lg.jp/soshiki/26/detail-270.html
住所: 島根県益田市久城町1199-1(久城が浜センター前)
営業: 終日開放
交通: 益田駅(徒歩46分)、石見交通バス久城線「久城」下車
公式サイト: http://www.city.masuda.lg.jp/soshiki/26/detail-270.html
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「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
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