柿本人麻呂の伝説(まとめ)
2015/12/28
万葉歌人として有名な柿本人麻呂ですが、国史には登場しないため、その生涯は多くの謎に包まれています。
そんな人麻呂の謎に迫るべく、柿本人麻呂にまつわる伝説を集めてみました。
【目 次】
聖なる岩の伝承(人麿が鎌で刻んだ岩)
聖なる岩 |
島根県益田市戸田町には人麿神社(戸田柿本神社)があり、その地域には人麿が鎌で刻んだ岩があるという。
今から1300年以上前の昔、人麿神社の付近には「語家※」という家があり、その家の前に古い柿の木があった。その柿の木の元※に突然 7、8歳の頃の男児が現われた。
驚いた語家の人間が「どこから来たのだ?」と尋ねると、「私には家もなく、父、母も居ません。知っているのは和歌の道だけです。」と答えたという。そして、語家に引き取られた男児は、育っていくうちに山や田や草刈りなどに連れ出された。
ある日、近くの山に行った時のこと、山の中腹の竹やぶの中に大きな岩があった。男児は岩の上に登ると、手に持っていた鎌の先で一生懸命に歌のような字を刻み始めたという。
今でも鎌の傷痕がある大きな岩が残っているが、岩に文字を刻んでいた男児は、後に歌人となった柿本人麿だった。人麿は幼少の頃から歌を作ることを好んだといわれ、戸田ではそれを民話として語り継いでいるという。
・参考サイト:益田の民話「人麿が鎌で刻んだ岩」
※語家:戸田柿本神社の社家である綾部家が語家に当たるとされている
※柿の元:人麻呂には「柿の股から現れた神童である」という伝説があるが、恐らくこの民話が元になっていると思われる
人麻呂と柿
柿(筆柿) |
柿本神社のある島根県の石見地方では、柿の種には人丸さん(柿本人麻呂)が宿るため、種も枝も燃やしてはいけないという。
また、兵庫県明石の柿本神社の柿は人麻呂が植えたものと云われ、その実を懐中すれば安産の御守りとなり、火事の類焼を除けるために「焼亡は 柿の木まで 来たれども あかひとなれば そこで人丸」といった歌を門口に貼るという。これは「人丸」に「火止まる」をかけて「防火の神」とし、「人産まる」として「安産の神」ともされている。
なお、柿を燃やしてはならないという禁忌は、一般的には「荒神様」が嫌うからだとされている。
鬼人を追い払った人丸(八幡人丸神社の社伝)
人丸が讒訴(ざんそ)※されて播州の明石に流された折、慶雲4年(708年)に異国より鬼人が渡って来た。
そこで和歌の徳を以って防ぐべしとして人丸に勅命が下り、左遷が取り消されて明石から多々良宮に着き、一首の和歌を以って異敵を海底に沈めたという。
その後、故郷を忘れまいと多々良浜を出て西海に漂って長門国大津郡奥入江に着岸し、風景を愛して3年の月日を過ごした朝夕の眺望に「向津の 奥の入江の ささなみに のりかくあまの 袖はぬれつつ」と詠んだ。
そして、年老いて石州の高角にて終焉を迎えた。それは聖武天皇の御代、神亀元年3月8日のことだったという。
また、奥入江の地が「新別名」と名付けられた頃、入江十町を隔てた右に連石があり、そこには海苔も生えないという。また、左の河原の水末に連歌という入江があり、そこは人丸が常に口ずさんだ場所と伝えられ、今も草一茎も生えないという。
※讒訴:虚言によって陥れられること。人麻呂が讒訴されて流刑になったという公式な記録は無いが、流刑説は数多く唱えられている
明石の柿本神社の盲杖桜
盲杖桜 |
昔、柿本神社に筑紫から盲人が参篭して、目が明くように祈った。
そして、七日目の満願の日に「ほのぼのと まこと明しの 神ならば ひと目は見せよ 人麻呂の塚」という歌を詠むと、一瞬だけ目が開いたが、すぐに閉じてしまった。
「ひと目は」の文句が悪かったのだと思い、再び七日間籠って「ほのぼのと まこと明しの 神ならば われにも見せよ 人麻呂の塚」と詠み直すと、今度は間違いなくはっきりと目が開いたという。
そこで、不要となった杖を社前に突き刺して帰って行った。この杖は桜の枝で作られており、やがてその杖から根が生え、芽が吹いて花が咲いた。そのため、この桜を「盲杖桜」という。
白鷺と人丸神(上ヶ山の人丸神社の伝承)
山口市仁保上郷にある上ヶ山の人丸神社には、興味深い伝承がある。
享保の頃、観迫山の麓に住む忠エ門が裏山で薪拾っていると、白鷺が何羽も柿の木に止まってじっと自分を見つめていたのに気付いた。忠エ門は信心深く、毎夜神棚に灯明をあげるのを日課としていたが、白鷺を見たその夜はひとりでに灯明が灯っていた。
こうした奇妙なことが数日続いたため、不思議に思って寺の住職に相談したところ「白鷺は人丸神の召姫であるからここに祠を造って祀れ」と言われた。
そこで早速 柿の木の下に祠を造り、石見高津から人丸神を勧請して祀ったところ、翌日から白鷺も見られず、神棚の灯明も灯らなくなったという。
人丸と筆柿(萩の柿本人丸大明神の伝承)
江戸中期の明和8年(1771年)のこと、ひとつの部落が全滅するほどの酷い疫病が流行った。
そこで、石見国の高津から人丸様を堂ヶ市というところに勧請し、村人たちはなんとか疫病を鎮めようと足しげく人丸様に参って熱心にお祈りをした。それだけでなく、薬草の知識や薬の作り方も習って病気を治すように努めた。
そして、神社の境内に小さな柿の木を植え、年かのちに実を付けるようになったが、その実が筆の穂先に似ていることから、いつしか筆柿と呼ばれるようになったという。
人丸の柿の木(田屋河内神社の人丸社の伝承)
人丸社の御神体である人丸さまは、昔、高津から空高く飛んで来られたものであるという。
また、近くに植えられた柿の木には次のような伝承がある。
・蕎麦を蒔く準備に雑草を切り払い火をつけたが、柿の木の所に行くと火が消える
・大木の伐採の折、蕎麦師の足に当たって多量の出血をしたが、医者に着く頃には既に傷が癒えていたという
・山の田に水が足りない時、人丸を信仰すれば水を与えて貰えるという信仰がある
・近隣には癩(ハンセン病)があるのに、人丸を信仰するこの部落には昔から感染者が居ない
・病気平癒のため、他所からしばしば参詣して、柿の実を請けて持ち帰る習慣があるという
・大木の伐採の折、蕎麦師の足に当たって多量の出血をしたが、医者に着く頃には既に傷が癒えていたという
・山の田に水が足りない時、人丸を信仰すれば水を与えて貰えるという信仰がある
・近隣には癩(ハンセン病)があるのに、人丸を信仰するこの部落には昔から感染者が居ない
・病気平癒のため、他所からしばしば参詣して、柿の実を請けて持ち帰る習慣があるという
いろは歌の都市伝説
|
|
「いろはにほへと…」で知られる「いろは歌」には、ある暗号が隠されているという。
それは、いろは歌を7文字で区切って改行して並べ、その右端を順に読むと「とかなくてしす」となる。これは「咎無くて死す」と解釈され、無実の罪に処された いろは歌の作者が遺恨を込めた暗号であると云われている。なお、これは古くは江戸時代に発見され、大正時代には議論されていたという。
この作者には諸説あるが、その一人に柿本人麻呂という説がある。それによれば、いろは歌の「の」を中心に見ると「かきのもとひとまろ」という名が浮かびあがるというものである。これは梅原猛の『水底の歌』および井沢元彦の『猿丸幻視行』で推理された説であり、詳細は本の中に書いてあるため説明は割愛する。
スポンサーリンク
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
スポンサーリンク
コメント
0 件のコメント :
コメントを投稿