人文研究見聞録:神武天皇陵 [奈良県]

奈良県橿原市にある神武天皇陵(じんむてんのうりょう)です。

初代 神武天皇の御陵に治定されている古墳であり、付近には橿原神宮綏靖天皇陵が位置しています。


史跡概要

概説

人文研究見聞録:神武天皇陵 [奈良県]

神武天皇陵(じんむてんのうりょう)は、初代 神武天皇の御陵である畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)に治定されている円丘であり、考古学名は四条ミサンザイ古墳であるとされます。

場所については、畝傍山の北東の麓、橿原神宮の北側に位置しており、大きさについては、全長は約100m四方、周濠幅は約16mであるとされています。

歴史

神武天皇陵の歴史は以下の通りです(ウィキペディア参考)。

・『古事記』によれば「神武天皇は137歳で亡くなり、畝傍山の北方の白檮の尾上に葬られた」とされる
・『日本書紀』によれば「神武天皇は127歳で亡くなり、畝傍山の東北の陵に葬られた」とされる
・『日本書紀』によれば「壬申の乱の際に大海人皇子(後の天武天皇)が使者を送って挙兵を報告した」とされる
 ・天武朝には陵寺として大窪寺が建てられたと考えられている
・『延喜式』によれば「平安初期の神武天皇陵は東西1町、南2町(約100m×100m)の広さであった」とされる
・貞元2年(977年)には神武天皇ゆかりの当地に国源寺が建てられたが、中世には所在不明となった
・江戸初期には神武天皇陵を探し出そうという動きが起こり、元禄時代に陵墓の調査が行われた
 ・以後、歴代の天皇の墓を決めて修理する事業が行われたとされる
 ・この事業の中で、畝傍山の東北の福塚(塚山)という小さな円墳が神武天皇陵に治定された(現・綏靖天皇陵)
 ・しかし、福塚よりも畝傍山に少し近い「ミサンザイ」ではないかという説など異説が唱えられるようになった
・文久3年(1863年)に「ミサンザイ」が神武陵であると決まり、幕府が金を出して修復した
 ・明治初年、国源寺は神武天皇陵の神域となった場所から大窪寺の跡地へと移転したとされる

神武天皇とは?

人文研究見聞録:神武天皇陵 [奈良県]

神武天皇(じんむてんのう)とは「日本神話」に登場する人物であり、初代天皇として皇統の礎を築いたとされます。

『記紀』によれば、天孫・瓊々杵尊(ニニギ)の孫である盧茲草葺不合尊(ウガヤフキエエズ)の子であり、九州から大和への東征を果たした後、橿原を都と定めて橿原宮にて即位し、日本の初代天皇となったとされています。

ちなみに、神武天皇の即位した日が現在の「建国記念の日」の由来となっています。

なお、『記紀』における東征の動機は「天下を治めるのに相応しい場所を都とするため」となっていますが、『ホツマツタヱ』という文献では、大和地方を治めていたニギハヤヒの臣下であるナガスネヒコが主君のために「代嗣文」なる宝物を盗み出したが原因であるとされています。

参考リンク:神武東征とは?(まとめ)ホツマツタヱ29文 タケヒト ヤマト打ちの文

周辺の様子

入口

人文研究見聞録:神武天皇陵 [奈良県]

神武天皇陵の入口です。

入口を示す石碑が立てられており、石橋が架かっています。

参道

人文研究見聞録:神武天皇陵 [奈良県]

神武天皇陵の参道です。

天皇陵の中でも、特別に長い距離があります。

手水鉢

人文研究見聞録:神武天皇陵 [奈良県]

神武天皇陵の手水鉢です。

天皇陵の中でも、特別に豪華なものになっています。

鳥居

人文研究見聞録:神武天皇陵 [奈良県]

神武天皇陵の鳥居です。

鳥居の柱には扉が付いています。

陵入口(鳥居の先)

人文研究見聞録:神武天皇陵 [奈良県]

神武天皇陵の陵入口です。

料金: 無料
住所: 奈良県橿原市大久保町(マップ
営業: 8:30~17:00
交通: 畝傍御陵前駅(徒歩11分)

公式サイト: http://www.kunaicho.go.jp/ryobo/guide/001/
matapon
著者: matapon Twitter
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。