大神山神社 [鳥取県]
2019/01/11
鳥取県米子市にある大神山神社(おおがみやまじんじゃ)です。
平安時代の『延喜式』に名を残す格式高い古社であり、主祭神に大穴牟遅神を祀っています。
神社概要
由緒
公式サイトによれば、当社は大神山(大山)に鎮まる大己貴命(オオナムチ)を祀った神社であり、創建年代は不明なものの、古くから信仰を集めてきた大山の頂上を拝めるよう中腹に遥拝所(磐座・磐境など)が設けられたことに始まるとされます。
ちなみに主祭神のオオナムチは大山を根拠地として国土経営の計画を立てたと伝えられており、『神祗志料』には「オオナムチはスセリヒメ、スクナヒコナと共に大神山に座し、国土を見下ろしながら国造りの相談をした」などとあるそうです。
また、ウィキペディアによれば、当社の奥宮は大山に登った修験者が簡易的な遥拝所を設けたことに始まるとされ、平安時代に大山が修験道場として著名になった際、積雪によって冬場の祭事に支障が出るため、麓に冬宮を設置して冬場はここで祭事を行うようになったと説明されています。そのため、奥宮は麓の冬宮に対して夏宮と呼ばれているそうです。
仏教が広まって以降は、神仏習合の思想から大智明権現と称してオオナムチと共に地蔵菩薩を祀るようになり、付近に多くの寺院が建てられて、平安~鎌倉時代には三院百八十坊僧兵三千となるまで栄えたとされます。また、麓にあった冬宮も冬場の神事が厳しく、手狭になったことから福万原(米子市福万)に移転されたそうです。
しかし、戦国時代になると戦禍や社会的変化によって衰退していき、天正年間(1573~1593年)に領主・吉川広家によって大本坊(米子市尾高)の地に社殿が築かれたものの、社域が広大で かつ 吉川氏が岩国に移されてしまったため、維持が困難になって荒廃していったとされます。そんなとき、氏子の豪農・郡八兵衛に神託が下ったことから、承応2年(1653年)に現在地に遷座して これを冬宮としたのが今の大神山神社(本社)なんだそうです。
明治以降は神仏分離令によって仏教施設と分けられることになり、冬宮は明治4年(1871年)に国幣小社に列せられ大神山神社 本社に、夏宮は明治8年(1875年)に大神山神社 奥宮になって純粋な神社となったとされます。なお、かつて共に祀られていた地蔵菩薩は大日堂に移されて現在の大山寺になったとされています。
祭神
大神山神社の祭神は以下の通りです。
【主祭神】
・大穴牟遅神(オオナムチ):オオクニヌシの名で知られる出雲大社の主祭神
→ 「日本神話」ではスクナヒコナと共に諸国を巡って国造りを成したとされる
⇒ このため、各国の『風土記』にも登場する機会が多い
→ 奥宮では大己貴神という表記
【相殿神】
・大山津見神(オオヤマヅミ):「日本神話」に登場する神で、山を司る神とされる
・須佐之男神(スサノオ):三貴子の一柱で出雲の祖神(天照大神の弟神に当たる)
・少名毘古那神(スクナヒコナ):オオナムチと共に国造りを成した神とされる
・大穴牟遅神(オオナムチ):オオクニヌシの名で知られる出雲大社の主祭神
→ 「日本神話」ではスクナヒコナと共に諸国を巡って国造りを成したとされる
⇒ このため、各国の『風土記』にも登場する機会が多い
→ 奥宮では大己貴神という表記
【相殿神】
・大山津見神(オオヤマヅミ):「日本神話」に登場する神で、山を司る神とされる
・須佐之男神(スサノオ):三貴子の一柱で出雲の祖神(天照大神の弟神に当たる)
・少名毘古那神(スクナヒコナ):オオナムチと共に国造りを成した神とされる
境内社
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大神山神社の境内社は以下の通りです。
・朝宮社
・龍神社
・龍神社
境内の見どころ
鳥居
大神山神社の鳥居です。
手水舎
大神山神社の手水舎です。
社務所
大神山神社の社務所です。
神門
大神山神社の神門です。
狛犬
大神山神社の狛犬です。
拝殿
大神山神社の拝殿です。
扁額
大神山神社の扁額です。
この書は最後の鳥取藩主である池田慶徳のものとされています。
本殿
大神山神社の本殿です。
奥宮遥拝所
大神山神社の奥宮遥拝所です。
絵馬
大神山神社の絵馬です。
大山と烏天狗が描かれています。
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「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
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