人文研究見聞録:陰陽道とは?(日本の陰陽道の概要と歴史まとめ)

陰陽道は、日本で独自の発展を遂げた「日本固有の呪術・学問の体系」とされています。

しかし、明治時代に禁じられたため、現在ではフィクション作品ぐらいしか目にすることはありません。

ですが、陰陽道は実在しており、歴史を知る上では重要な要素であると言えると思います。

そこで、ここに陰陽道に関する概要・歴史・秘術・信仰などについて まとめておきたいと思います。



日本の陰陽道の概要

陰陽道とは?


人文研究見聞録:陰陽道とは?(日本の陰陽道の概要と歴史まとめ)

陰陽道(おんみょうどう)とは、古代中国の自然哲学思想、陰陽五行説を起源とし、それを日本で独自に発展させた呪術や占術の技術体系を指すとされています。

発祥は仏教と道教が伝来した5~6世紀(古墳~飛鳥期)と考えられており、中国の陰陽五行説の概念を軸に天文学・暦学・易学などの自然哲学を付随させ、さらに神道・道教・仏教など様々な宗教の影響を受けて、日本独自の思想・呪術体系として発展していったとされます。

また、それを専門とする者を陰陽師(おんみょうじ)と呼び、7世紀後半(飛鳥後期)には天武天皇によって陰陽寮(おんみょうりょう)が設置されたことから、国家に属する機関として組織化され、陰陽師は官人(国家公務員)として陰陽道に基づく占いや、天文観測、時刻・暦の管理などを行ったとされています。

そして、平安期には悪霊退散のためにさらに発展し、安倍晴明の時代には最盛を極めたとされますが、政権が武家に移ってからは徐々に衰退し、明治期には時の陰陽頭・土御門晴雄の死去を以って陰陽寮は廃止され、加えて天社神道禁止令によって陰陽道が禁止されたことから、現在では公的に廃絶されたことになっています。

ただし、現在でも福井県のおおい町(旧・名田庄村)では神道に取り込まれた形で残っており、高知県香美市(旧・物部村)には民間で発展した「いざなぎ流」という土着の陰陽道が今でも存在しています。

陰陽師についてはこちらの記事を参照:【陰陽師とは?】


陰陽五行説とは?


人文研究見聞録:陰陽道とは?(日本の陰陽道の概要と歴史まとめ)

陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)とは、古代中国の春秋戦国時代頃に発生した「陰陽思想」と「五行思想」が結び付いて生まれた思想のことを指すとされています。日本には5~6世紀(飛鳥時代)に仏教、儒教、暦法などとともに伝わり、後に陰陽道の基本軸となったと云われています。

※陰陽五行思想、陰陽五行論などとも呼ばれる

陰陽思想


陰陽思想(いんようしそう)とは、全ての事象は それだけが単独で存在するのではなく、「」と「」という「相反する形」で存在し、かつ、相反しつつも一方が無ければ、もう一方も存在し得ず、また それぞれが生成消滅を繰り返して成り立っていう思想を指します。

※陰陽思想、陰陽論、陰陽説などとも呼ばれる

五行思想


五行思想(ごぎょうしそう)とは、万物は木・火・土・金・水5種類の元素から成っており、この5種類の元素は互いに影響し、その生滅盛衰によって天地万物が変化し、循環するというという思想を指します。

※五行説とも呼ばれ、西洋の四大元素説(四元素説)と比較される思想とされる


日本の陰陽道の歴史

飛鳥~奈良時代(前史を含む)


・5~6世紀頃、外来の思想や宗教と共に「陰陽五行説」が伝来する
 ・陰陽五行説は、遅くとも512年(五経博士が来日)、554年(易博士が来日)の時点までに伝来したとされる
・推古天皇10年(602年)、百から僧・観勒(かんろく)が来朝し、暦本・天文地理書・遁甲方術書を献上した
 ・そこで聖徳太子をはじめとする官僚らに陰陽五行説を含む諸学を講じたとされる
  ・以後、その思想が日本の国政に大きな影響を与えるようになったという(後に元嘉暦が官暦として採用されるなど)
・陰陽五行説に中国の占術・天文学や神道・仏教・道教などの要素を取り入れた結果、日本固有の「陰陽道」が誕生する
 ・ただし、「陰陽道」という語はまだなかったとされる(平安期から「陰陽道」と称されるようになったとも)
 ・聖徳太子の思想や太子創建の社寺には、陰陽道とみられる痕跡が随所にみられるとも
  ・四天王寺の立地は、古代中国の風水に由来する四神相応の地に建っているとする説がある
  ・聖徳太子は仏教を推進した他、神社も多数創建しており、かつ、七星剣など所持品に道教思想も見られる
 ・秦河勝(聖徳太子の側近)は陰陽道の知識に長けていたとも云われる
  ・秦河勝邸は四神相応に守られた土地に建てられていたため、後に邸宅跡に平安京が造営された
・推古天皇12年(604年)、聖徳太子が「十七条憲法」「冠位十二階」を制定する
 ・これらには、陰陽五行思想の影響が見られると云われている
  ・「17」という数字は、陰数の最高数「8」と陽数の最高数「9」を足したものであるとも
・天武天皇4年(675年)、天武天皇によって陰陽寮が設置され、陰陽師が官職となる
 ・当時の陰陽師は、占筮、地相、天体観測、占星、暦(官暦)の作成、吉日凶日の判断、漏刻のみを職掌としたとされる
 ・同年設置された官人の病院である「外薬寮(典薬寮)」には、「呪禁師(じゅごんし)」を配置したという
・飛鳥末期~奈良期にかけて、道教、密教、陰陽道を修めた僧が現れ、修験道がにわかに体系化されて行ったとされる
 ・修験道の開祖・役小角(634~701年)は、これらの術を以って鬼神や神までも使役したという伝説がある
・養老元年(717年)、吉備真備が阿倍仲麻呂・玄昉らと共に入唐した
 ・吉備真備・阿倍仲麻呂は、唐で陰陽道を学び、既存の陰陽道を発展させたとも云われる
・養老2年(718年)、養老律令において、中務省の内局である小寮としての「陰陽寮」が設置された
 ・天文博士・陰陽博士・陰陽師・暦博士・漏刻博士が常置され、公的に式占を司ることになった
・官人の宮廷陰陽師に対し、陰陽道を身に付けた僧である法師陰陽師が現れる
 ・宮廷陰陽師が知識・技術を自由にできなかった一方、法師陰陽師は既存の陰陽道を独自に発展させたとされる
  ・役小角に始まる修験道もこの一つとされ、呪術、妖術、仙術をも身につけるようになったと云われる
  ・法師陰陽師の一部には、民衆に教えを説く者や、貴族と癒着して占いや呪殺を請け負う者も現れたという
・天平7年(735年)、吉備真備が帰朝する
 ・吉備真備が唐から持ち帰った知識や思想は、当時の陰陽道の発展に影響を与えたとも云われる
 ・伝説によれば、唐に留まった阿倍仲麻呂の代わりに『金烏玉兎集』を持ち帰り、阿倍氏の子孫に伝えたとされる
・延暦4年(785年)、藤原種継暗殺事件が起こり、冤罪で幽閉された早良親王が非業の死を遂げる
 ・その後、桓武天皇の身辺の被災や弔事が頻発したため、天皇は怨霊に怯えるようになったとされる


平安時代


・延暦13年(794年)、桓武天皇が長岡京から平安京に遷都する
 ・この頃より、朝廷を中心に怨霊を鎮める「御霊信仰」が広まったとされる
 ・陰陽師に悪霊退散の技術が求められるようになり、これを以って公的に陰陽師が呪術を会得することになった
  ・これを契機に、古神道に加え、星辰信仰や霊符呪術のような道教色の強い呪術が注目されていったとされる
・平安期以降、既存の陰陽道にさらに多くの知識・技術を取り入れて、呪術、占術が発展したとされる
 ・道教の方術や呪術、祭礼のほか、風水説、呪禁道、神道(古神道)に関する知識や呪術も取り入れた
 ・8世紀末より、密教の呪法、占術、占星術(宿曜道)に加え、修験道の影響も受けたとされる
・平安中期、賀茂忠行・賀茂保憲および安倍晴明が登場し、卓越した才能を発揮した
 ・賀茂忠行・賀茂保憲は、陰陽道・天文道・暦道いずれも究めたとされる
・賀茂忠行・保憲の弟子の安倍晴明は、陰陽道の占術に卓越した才能を示し、宮廷社会から非常に信頼を受けた
 ・晴明の出自はよく分かっておらず、出自や青年期については様々な伝説で語られている(以下伝説)
  ・晴明は阿倍仲麻呂の子孫に当たり、吉備真備が唐から持ち帰った『金烏玉兎集』を手に入れて陰陽道を究めたとも
  ・晴明は白狐の子であり、狐の宝物を得て 様々な術を身に付けたとも
  ・晴明の師には伯道上人という唐の仙人がいるとされる
・忠行・保憲は晴明に天文道、保憲の子光栄に暦道を伝え、二家はそれを家内で世襲秘伝秘術化した
 ・以来 安倍氏と賀茂氏が二大宗家として陰陽寮を独占支配するようになった
 ・一方、民間でも地方で非官人の陰陽師が台頭するようになったという(道摩法師が有名)


鎌倉時代~明治時代


・鎌倉時代になっても陰陽道は重用される傾向にあった
 ・政治の実権は幕府に移ったものの、当初は摂関家と幕府の両方と結び付いて活躍したとされる
  ・鎌倉に下って幕府に直接奉仕する鎌倉陰陽師(武家陰陽師)も出てきたとされる
 ・軍事において忍者が重用されるようになったため、陰陽師から忍者に鞍替えした者もいるとされる
  ・そもそも、忍(志能備)の祖とされる大伴細人は陰陽道に長けた人物だったとされる
  ・忍術と陰陽道は密接な関係があり、陰陽道と修験道の要素を取り入れたものとされる
・室町時代になると、安倍氏が陰陽寮の長官である陰陽頭を世襲し、賀茂氏は次官の陰陽助になった
 ・民間における陰陽道の浸透が進展し、占い師、祈祷師として民間陰陽師が活躍するようになった
・戦国時代になると、賀茂氏の本家であった勘解由小路家が断絶し、暦道の支配権も安倍氏に移った
 ・戦乱の影響によって衰退していったとされる
 ・豊臣政権になり、秀次が謀反の罪に問われて切腹すると、謀反に陰陽師が関わっているという噂が流れた
  ・事件に関わったとされる土御門久脩は流刑となり、陰陽師の大弾圧も行われた
 ・大弾圧以後、国家機密とされていた陰陽道が一気に民間に流出し、全国で数多くの民間陰陽師が活躍した
  ・民間に流出した陰陽道は、各地の民衆信仰や民俗儀礼と融合してそれぞれ独自の変遷を遂げたという
・江戸時代になると、幕府は土御門家と賀茂氏の分家幸徳井家を再興して諸国陰陽師を支配・統制させようとした
 ・17世紀末、土御門家は民間の陰陽師に免状を与える権利を獲得して全国の陰陽道の支配権を確立した
 ・民間では暦や方角の吉凶を占う民間信仰として広まり、やがて日本社会に定着した
  ・民間で陰陽道を使う者は「声聞師」と呼ばれ、士農工商に該当しない身分の低い賎民として扱われた
  ・詐欺師も多く、後の占い禁止に繋がる原因となった
・明治維新以後、政府は日本の近代化を推進するため、迷信の類を禁止する方針を示した
 ・明治2年(1869年)、時の陰陽頭・土御門晴雄が死去し、それを契機に翌年 陰陽寮が廃止された
 ・明治5年(1872年)、天社神道禁止令が発布され、陰陽道は公的に禁止された(事実上の廃絶)


陰陽道の秘術

占術


・易占(えきせん):『易経』に基づく占筮(せんぜい)
 → 筮竹(ぜいちく)と呼ばれる細い竹ひごのようなものを立てて行う占い
・式占(しきせん):「式盤」あるいは「栻(ちょく)」と呼ばれる器具を使った占い
 → 式盤は「宇宙の相関図が縮小されたもの」と考えられたとされる
 → 代表的な式占である「六壬式(六壬神課)」「太乙式(太乙神数)」「遁甲式(奇門遁甲)」を「三式」という
・相地(そうち):地相の吉凶を判断する風水術
 → 陰陽師が遷都候補地の下見検分をし、「四神相応の地」であるかどうかを判断したとされる
・天文占(てんもんせん):天体現象や気象現象から「天の姿」や「天のことわり」を知り、その吉凶判断を行う
 → 基本的には天文博士の職掌とされる
・暦占(れきせん):暦と占う対象(人物・事柄など)を照らし合わせて吉凶や方角を占った
 → 暦を作成するのは陰陽寮の暦博士だった


呪術


・犬神(いぬがみ):犬を使用した呪術
 → 飢餓状態の犬の首を斬り、それを辻道に埋め、人々が頭上を往来することで怨念の増した霊を呪物として使った
  ⇒ 方法については、いくつかあるとされる
 → 広義に蠱術(こじゅつ)とも呼ばれ、特定の動物霊を使役する呪詛の一つであった
 → 民間にも流布したとされており、平安期に禁止令が出されたという
・禹歩(うほ):魔除けや清めの効果があるとされる道教の歩行術
 → 「魔を祓い、地を鎮め、福を招く」ことを目的とし、九字を唱えながら行うと良いとされる
 → 道中の安全や悪鬼・猛獣などを避けることができるとも
 → 後足が前足を越す事が無いよう、摺り足のような歩行法をとる
  ⇒ 相撲の四股やすり足、神道の所作のルーツとも云われることがある
・穏形術(おんぎょうじゅつ):自分の姿を相手から見えなくする術
 → 道教や密教などにも同様の術があるとされる
・鬼門封じ(きもんふうじ):「鬼門」とされる東北(艮)の方角に神仏などを祀って「鬼」の出入りを封じた
 → 「鬼門」は鬼が出入りする不吉な方角として万事に忌み嫌われた
  ⇒ だたし、陰陽道における「鬼門」の概念は日本固有のものと云われる
 → 「鬼門」には「裏鬼門」に当たる南西(坤)の方角を司る「猿」を祀ったり、桃の木を植えたりして封じる
  ⇒ 建物の東北に当たる角を凹ませるという手法もある(京都御所の猿ヶ辻や石清水八幡宮に見られる)
・蠱毒(こどく):古代中国より伝わった虫を使った呪術
 → 蛇、百足、蛙などの百虫を同じ容器に入れて互いに共食いさせ、勝ち残った「蠱(こ)」を術の要として使う呪術
  ⇒ 「蠱」を粉にして毒にしたり、怨念を対称に取り憑かせて呪殺に使ったという
 → 中国および日本でも禁止令が出されたという
・式神(しきがみ):人形に切った紙などに、呪文や息を吹きかけて行う秘儀
 → 識神(しきのかみ)、式(しき)とも
  ⇒ 「式」は「用いる」の意であり、神自体の固有名詞ではないとされる
 → 流派によって概念が異なるとも(高知県に残る「いざなぎ流」は陰陽道の中でも独特とされる)
 → 対象に命を宿したり、鬼神を召還して、それらを意のままに使役する呪術だったと云われる(諸説ある)
  ⇒ 式盤を使った祈祷法・呪術の一種であるという説
  ⇒ 霊的な存在を召喚・使役する呪術であるとする説
  ⇒ 黒魔術的な技法であるとする説(物や動物に呪詛をかけて相手を呪う技術)
  ⇒ 気功術説(気を自由に扱う技術)
・射腹蔵鈞の術(しゃふくぞうきんのじゅつ):物質の中身を見通したり、霊的存在や人の前世などを視る視覚術
 → 「透視」や「霊視」に当たる能力とされる
  ⇒ 賀茂忠行や安倍晴明が この能力を持っていたとされる
・呪禁(じゅごん):中国の「呪禁道」に始まる呪術で、刀を持ちながら呪文を唱えたとされる
 → 日本においては呪術医療のために用いられたと考えられている
  ⇒ 禹歩に応用されたとも
・セーマンドーマン:陰陽道における代表的な呪術図形
 → セーマン:晴明桔梗、晴明紋、五芒星
  ⇒ 安倍晴明に由来するとされ、万物の除災、清浄をもたらす霊的な結界を張ることを目的とする
 → ドーマン:九字格子
  ⇒ 芦屋道満に由来するとされ「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・前・行」の九字を表す魔除けとされる
・人形(ひとかた、ひとがた) :紙や木材・草葉・藁などで人形を作り、呪詛をかける対象とする
 → 形代(かたしろ)、撫物(なでもの)とも
 → 呪詛とは霊的な世界に働きかけることの意であり、必ずしも悪用されるものではない
  ⇒ 善用:人形に病や穢れを移して祓う、男女二体の人形を一つにして祈祷し恋愛成就を祈る など
  ⇒ 悪用:対象を傷付けたり、呪殺したりする(ただし、悪用すると呪い返しが来るという)
・猫鬼(びょうき):猫を使用した呪術
 → 猫を使い、蠱毒と犬神を足したような作り方をするとされる(共食い → 首)
  ⇒ 猫鬼が人を殺すと、殺された者の財産が猫鬼を養っている家に移ると云われる
・符呪(ふじゅ):陰陽道の呪文を書いた霊符を使って行う呪術
 → 呪詛や護身のために行われ、それらの符を総称して「霊符(れいふ)」と呼ぶ(種類は以下のものがある)
  ⇒ 呪符(じゅふ):呪詛をかけるために用いられる符
  ⇒ 護符(ごふ):身を守るための符(御札や御守の原型になったとも)
・反閇(へんぱい):道教の歩行呪術を起源とする呪術的な歩行術・作法全般のこと
 → 歩行法の禹歩が有名であり、そのほかにも以下の様なものがある
  ⇒ 刀禁呪:刀持ちながら呪文を唱え、符呪を切るという所作
  ⇒ 浄心呪・浄身呪:心身を清める所作
  ⇒ 浄天地呪:天地を清める所作
・埋鎮の皿(まいちんのさら):二枚の皿に神名や呪文を書いて神的な力を封じ込め、土中に埋める呪術
 → これにより「神鎮め」や「邪気封じ」が行われたとされる
・厭物(まじもの):呪詛の掛けられた物品
 → 主に人形が用いられ、そのほか、呪符、欠損のある物品、古物などが使用されたと云われる
・身固め(みがため):呪詛が掛かった人や衣類に対して、魔や穢れを祓って呪的な守護を行う呪術
 → 詳しいことは不明とされるが、これを行うと呪詛返しが出来るとされる


呪文・真言など


・急急如律令(きゅうきゅうにょりつりょう):「急いで律令の如く行え」転じて「早々に退散せよ」の意を指す呪文
 → 中国漢代の公文書の末尾に書かれた決まり文句であり、「急いで事を行え」という命令句であるとされる
  ⇒ 他の呪文と組み合わせて使うことで、目的の実現を早める効果が期待できると云われる
・九字(くじ):「山に入る際に邪気をかわす呪文」を起源とする護身の呪文
 → 「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前(りん・びょう・とう・しゃ・かい・じん・れつ・ざい・ぜん)」を指す
  ⇒ 「青龍・白虎・朱雀・玄武・匂陳・帝后・文王・三台・玉女」の意を表す九星九宮のこととされる
  ⇒ 陰陽道、修験道、兵法、密教などで即効性のある呪文として広く使われたとされる
 → 一気に唱えることで、一切の災厄と魔物から身を護る最強の呪文とされる(使い方には以下の様な方法がある)
  ⇒ 剣印の法:両手で印を組んで唱える
  ⇒ 破邪の法:手刀で四縦五横に九字を切る


護身作法・禁忌


・方忌み(かたいみ)・方違え(かたたがえ):神が座す方角を避ける作法・禁忌
 → 人が神座を犯すことで祟られるという思想から、その方角は忌まれた
  ⇒ 陰陽師は凶方を判断して、それを避けることを進言したり、方法を促したとされる
  ⇒ 日本独自の方位神とされる「金神」の方位を犯すと、本人および家族や親しい者が7人死ぬと云われた
・物忌み(ものいみ):謹慎して不吉との接触を避ける
 → 悪夢など凶兆に対して陰陽師が占術を行い、その結果 提案されることがある
 → 基本的には自宅に謹慎し、他者との接触を避ける
  ⇒ 神道や修験道では、特定の食物を避けることを指す(陰陽道とは異なるようである)
・祓い(はらい):凶兆や魔から身を守る、あるいは身を清める作法
 → 弓の弦を手で引き鳴らす「鳴弦」や、節分の鬼払いの「追儺」、夏季に行われる「夏越の祓え」がこれに当たる


祭祀


・五竜祭(ごりゅうさい):雨乞いの儀式(五龍祭とも)
 → 龍は古来より水を司る「水神」としても崇められてきたため、これを祀って雨乞いをしたとされる
  ⇒ 『御堂関白記』に安倍晴明が五龍祭を成功させて雨を降らせたことが記録されている
・御霊会(ごりょうえ):非業の死を遂げた者の怨霊による祟りを防ぐための鎮魂儀礼
 → 非業の死を遂げた者の怨霊を鎮めて「御霊(ごりょう)」に変えることを目的とする儀礼
  ⇒ 早良親王(崇道天皇)や菅原道真公が死後、御霊会によって祀られた代表的な人物である
・泰山府君祭(たいざんふくんさい):穢れを祓い、人の命を司る泰山府君神に延命を願う祭祀
 → 泰山府君祭は道教の祭祀である
 → 泰山府君とは、中国の泰山の山神で人の寿命や福禄を司る神とされ、閻魔大王の書記とも云われる
  ⇒ 安倍晴明によって泰山府君は陰陽道の主神とされた
・追儺(ついな):天皇の穢れ祓いの儀式であり、現在の「節分」の起源となった
 → 金面に四眼の面をつけた方相氏が、矛や盾を持って宮中にいる邪鬼を祓う所作をしながら回る
  ⇒ 陰陽師は卜占を行い、穢れた場所や鬼神の種類、祓いの方法などを占ったとされる
・天曹地府祭(てんちゅうちふさい):泰山府君祭とほぼ同様の祭祀
 → 「天曹地府」とは、天帝をはじめとする神々の役所のことを指すとされる
 → 天曹地府祭は天皇践祚など、天皇の交代時期に一度だけ執り行う祭祀であった
  ⇒ 陰陽師は即位した天皇を天界の神々に合わせ、「黒簿」という寿命などが書かれた書類を書き換えさせるという
  ⇒ 「黒簿」から天皇の名前を削除し、生者の名簿に書き写して、天皇の延命と国政の安泰を祈願したとされる


道具


・烏帽子(えぼし):陰陽寮所属の陰陽師の象徴とされた
 → 非官人の陰陽師との差別化を図るためのものだったと考えられている
・渾天儀(こんてんぎ):天文上の変異を知るために天文観測に用いた道具
 → 天球儀(てんきゅうぎ)とも
 → 天文博士の道具であったとされ、指標となる星の運行の組み合わせや配置を観測した
  ⇒ 箒星(彗星)が現れると、大災や天変地異が起こるとされた
・太上神仙鎮宅霊符(だじょうしんせんちんたくれいふ):「鎮宅霊符神」が宿るとされる72種の護符
 → 「太上秘法鎮宅霊符」「鎮宅七十二道霊符」などとも呼ばれ、仏教、神道などの間でも広く受容された
 → 「鎮宅霊符神」は道教の玄天上帝(玄武を人格神化した神)であると考えられ、日本の星辰信仰に影響を与えた
・六壬式盤(りくじんちょくばん):式占の「六壬式占」を行う際の道具
 → 「地」を表す四角い方盤に「天」を現す天盤がついているものであり、陰陽師に重要視された道具と云われる


陰陽道の神

方位神


方位神(ほういじん)とは、九星術(生年月日の九星と、干支・五行を組合わせた占術)から生じた神々で、その神のいる方位に対して事を起こすと吉凶の作用をもたらすと考えられたとされます。

また、それぞれの神に定められた規則に従って各方位を遊行するとされ、吉神のいる方角を「吉方位」といい、凶神のいる方角を「凶方位」というそうです。

なお、この思想は陰陽道における方違え(かたたがえ)の基本とされ、平安時代には盛んに応用されたと云われています。

吉神


・歳徳神(としとくじん):その年の福徳を司る神(年徳、歳神、正月さま とも)
 → 歳徳神の在する方位を恵方(えほう、吉方、兄方)もしくは、明の方(あきのかた)と言う
・歳禄神(さいろくじん):その年の富福を司る神
・月徳合(げつとくごう):その月の福を司る神
・歳枝徳(さいしとく):災いを救い、弱きを助ける神
・歳徳合(さいとくごう):万事に吉で忌むことがないとされる神
・生気方(しょうげのかた):万物育成の徳を備える神
・奏書(そうしょ):水神の性格を持つ吉神
・天道(てんどう):月ごとに位置を変え、その方角に向かって事を行えば吉とされる神
・天徳(てんとく):火の神(陽神)で万物の育成に徳があるとされる神
・天徳合(てんとくごう):天徳よりも一つ格下の吉神
・博士(はかせ):火神の性格を持つ吉神

凶神


・天一神(てんいちじん):十二天将の主将であり、天一神のいる方角を犯すと祟りがあるとされる
 → 出自については、帝釈天の大臣、北極星の精、荒神、天女など諸説ある
・金神(こんじん):戦争・大水などを司る凶神(大金神・姫金神とも)
 → 金神の座す方位は、あらゆることが凶とされる
・八将神(はっしょうじん):方位の吉凶を司る八神の総称(民間伝承では牛頭天王の八王子とされる)
 ・太歳(たいさい):木曜星(歳星)の神格で、十二支の方位に座す神(普段は吉神)
  → 太陰神の夫とされ、本地仏は薬師如来とされる
 ・大将軍(だいしょうぐん):金曜星(太白)の神格で、3年同じ方位に留まるとされる凶神
  → 「三年塞がり」といわれ、万事に大凶とされる
  → 魔王天王とも呼ばれる大鬼神で、本地は他化自在天とされる
   ⇒ 古くは牛頭天王の息子で、スサノオと同一視されたとも(現在、スサノオは牛頭天王と同一視される)
 ・太陰(たいおん):土曜星(塡星)の神格で、縁談出産には凶とされる神
  → 本地仏は聖観音菩薩とされる
 ・歳刑(さいぎょう):水曜星(辰星)の神格で、耕作には凶とされる神
  → 本地仏は堅牢地神(けんろうちしん)とされる
 ・歳破(さいは):土曜星(塡星)の神格で、移転旅行には凶とされる神
  → 本地は河伯大水神とされる
 ・歳殺(さいさつ):金曜星(太白)または火曜星(熒惑星)の神格で、縁談に凶だが仏事には吉とされる神
  → 本地仏は大威徳明王とされる
 ・黄幡(おうばん):羅睺星の神格で、武芸に吉だが移転普請には凶とされる神
  → 元々はインド神話に登場するラーフと呼ばれる蛇神とされ、日本に入るとスサノオと習合した
 ・豹尾(ひょうび):計都星の神格で豹のように猛々しいとされ、家畜を求めたり、大小便に凶とされる神
  → 本地は三宝荒神とされる


十二天将(十二神将)


十二天将(じゅうにてんしょう)とは、陰陽道の六壬神課で使用する象徴体系の一つであり、北極星を中心とする星や星座に起源を持つとされています。また、伝説では安倍晴明が使役した鬼神(式神)であるとも云われています。

なお、一般的には十二神将と呼ばれるものの、仏教における十二天、十二神将とは全くの別物とされています。

・騰虵 (とうだ):炎に包まれ羽の生えた蛇の姿(騰蛇・螣蛇とも)
・朱雀(すざく):四神の一、南の守護神
・六合(りくごう):平和や調和を司る
・勾陳(こうちん):金色の蛇の姿、京の中心の守護を担う(勾陣とも)
・青竜(せいりゅう):四神の一、東の守護神(青龍とも)
・貴人(きじん):十二天将の主神で天乙貴人、天一神、天乙とも
・天后(てんこう):航海の安全を司る女神
・大陰(たいいん):智恵長けた老婆
・玄武(げんぶ):四神の一、北の守護神
・大裳(たいも):天帝に仕える文官(太常とも)
・白虎(びゃっこ):四神の一、西の守護神
・天空(てんくう):霧や黄砂を呼ぶ力を持つ


土公神


土公神(どくしん・どこうしん)とは、陰陽道において土を司る神とされ、仏教における堅牢地神(地天)と同体とされます。また、地域によっては土公様(どこうさま)とも呼ばれ、仏教における普賢菩薩を本地とするとも云われているそうです。

季節によって遊行し、春は竈(かまど)、夏は門、秋は井戸、冬は庭にいるとされ、遊行している季節に土を動かす工事を行うと怒りを買って、祟りがあると云われています。

なお、竈神の性格を持つとされることから、竈に祀って朝晩に灯明を捧げることとされており、その際、不浄を嫌うため清潔にすることや、刃物をかまどに向けてはならないなどの禁忌もあるとされています。


備考

天社土御門神道


天社土御門神道(てんしゃつちみかどしんとう)とは、福井県おおい町(旧・名田庄村)に本庁を置く神道・陰陽道の流派であり、天文学・暦学を受け継いだ安倍氏の嫡流である土御門家出身の土御門泰福(つちみかどやすとみ)を開祖としています。

明治維新以後、国家の近代化に伴って陰陽寮の廃止や陰陽道の禁止が行われましたが、天社土御門神道は陰陽道の流れを汲む神道の一流派として関係者に守られたため、古来の陰陽道を現代に伝えているとされています。

そのため、祭儀や祈祷には平安時代より伝わる秘伝の陰陽道が用いられているそうです(公式サイトによる)。

公式HP: http://tsuchimikado.ehoh.net/(天社土御門神道本庁 東京支教会)


いざなぎ流


いざなぎ流(いざなぎりゅう)とは、高知県香美市(旧・物部村)に伝わる民間独自の陰陽道とされています。

そのため、陰陽道の要素を含むものの、都で発展した陰陽道とは大きく異なり、伝承によれば、天竺(インド)のいざなぎ大王から伝授された24種の方術に基づくとしているそうです。

また、法具は無く、儀式の都度にそれに応じた定式の和紙の切り紙(御幣)を使うことが特徴で、いざなぎ流における式神は「式王子(しきおうじ)」と呼ばれているそうです。

さらに神についても独特であり、例えば 大工神は「ショウトクタイシ」、鍛冶屋神は「テンジン」、家神を「えびす」と呼ばれる神が存在しているとされています。

matapon
著者: matapon Twitter
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。