人文研究見聞録:籠神社の神話と伝説(まとめ)

籠神社にまつわる諸知識神話・伝説についてまとめました。

籠神社の諸知識

人文研究見聞録:籠神社の神話と伝説(まとめ)

丹波王国


丹波国(たんばのくに)」とは、古代に存在していた国名で丹波国造が統治していた国を指します。

籠神社のある丹後国は713年に旧丹波国から五郡を割いて建国されましたので、ここで云う「丹波」とは旧丹波国を指し、現在の京都府の中部・北部そして兵庫県の一部を指します。

なお、「丹後王国論」においては、旧丹波国は古墳時代(4世紀末~5世紀頃)には最盛を極めており、ヤマト王権や吉備国などと並んで独立性があった大国であると考えられています。

海部氏


籠神社の社家は古来より「海部直(あまべあたえ)」の家系であり、古代より「丹波国造」を世襲し、籠神社の創祀から続く祭神・彦火明命(ホアカリ)の血脈一系で奉仕しているとされています。

なお、「海部(あまべ)」とは応神天皇5年に定められた部民の一つであり、大和朝廷の臣下となり、朝廷に海産物の貢納と航海技術を以て奉仕した「部」を指します。また、「直(あたえ)」とは、大王より地方豪族に与えられた政治的地位の姓(かばね)のことを指し、「海部直」を賜ったことは大和朝廷と密接な関係にあったことを意味します。

ちなみに、籠神社には現存する日本最古の系図である「海部氏系図(あまべしけいず)」が伝わっています。

彦火明命


海部氏の始祖は彦火明命(ホアカリ)という神であり、籠神社の主祭神とされています。天照大神(アマテラス)の孫神である邇邇芸命(ニニギ)の兄神に当たり、穂赤命(ほあかのみこと)という別名から、稲作に関係する側面と太陽神としての側面を持ち合わせているとも云われています。

社伝によれば、皇室の祖先神であるニニギはアマテラスから天照大神の籠った神鏡を賜って九州に天降ったとされ、ホアカリは天祖から豊受大神の籠った神鏡を賜って丹後に天降ったとされており、皇室の祖先神であるニニギは天照大神を祀り、海部家の祖先神であるホアカリは豊受大神を祀ったと伝えられています。

なお、ホアカリには二柱の后がおり、一柱は大己貴神(オオナムチ)の娘である天道日女命(アメノミチヒメ)、もう一柱は素戔嗚尊(スサノオ)の娘である市杵嶋姫命(イチキシマヒメ)とされているそうです。

また、若狭湾に浮かぶ冠島(かんむりじま)、沓島(くつじま)は、ホアカリとイチキシマヒメが天降って夫婦となった神聖な島として、古代から特別視されてきたと云われています。

※市杵嶋姫命(イチキシマヒメ):俗に言う「弁天さん」であり、宗像三女神の一柱

饒速日尊


彦火明命(ひこほあかりのみこと)には、天火明命(あめのほあかりのみこと)・天照御魂神(あまてるみたまのかみ)・天照国照彦火明命(あまてる くにてる ひこほあかりのみこと)という別名があるとされています。

また、『先代旧事本紀』には天照国照彦天火明櫛玉饒速日命(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひのみこと)というニニギの兄に当たる神が登場します。『先代旧事本紀』において「天照国照彦天火明尊」が別名とされることから、この神と彦火明命は同神であると考えられています。

『先代旧事本紀』によれば、饒速日尊(ニギハヤヒ)は大和に天降ったと記されており、籠神社の伝承とはやや異なりますが、籠神社の絵馬には主祭神の名の横にハッキリ「饒速日尊(ニギハヤヒ)」と明記されています。

よって、籠神社では彦火明命と饒速日尊を同神であると捉えているようです。

天村雲命


天村雲命(アメノムラクモ)は海部家三代目の祖先であり、ニニギが天降った際に仕えたとされています。

伊勢外宮の伝承によれば、天村雲命はニニギの命で天御中主神(アメノミナカヌシ)のもとに行くと、「天忍石(あめのおしいわ)の長井の水を汲んで琥珀の鉢に八盛りにしてアマテラスの御饌(みけ)として供え、また残った水は人間界の水に注いで軟らかくして朝夕の御饌として供るように」と命じられました。天村雲命はその命に従い、残った神水を まずは日向の高千穂の御井に遷し、次に丹波の魚井の石井(天の真名井)に遷し、最後は雄略天皇の時代に伊勢外宮の御井に遷したと伝えられています。

なお、天村雲命のは彦火明命と天道日女命との間に生まれた「天香語山命(アメノカゴヤマ)」であり、は彦火明命と市杵嶋姫命との間に生まれた「穂屋姫命(ホヤヒメ)」とされています。


籠神社の神話・伝説

人文研究見聞録:籠神社の神話と伝説(まとめ)

籠神社と天照大神


第10代崇神天皇6年まで、宮中でお祀りされていた天照大神(アマテラス)は、皇女の豊鍬入姫命(トヨスキイリヒメ)に託され宮中の外にお祀りされることになりました。最初にお祀りされた場所は倭国の笠縫邑(かさぬいむら)です。次に崇神天皇39年に天照大神と豊受大神を一緒にお祀りしたのが籠神社の奥宮・真名井神社です。

その後、豊鍬入姫命は各地を巡られましたが、垂仁天皇の皇女である倭姫命(ヤマトヒメ)に引き継がれ、垂仁天皇26年9月に倭姫命が伊勢の地に神宮(内宮)を創祀されました。

その倭姫命の母神は比婆須比売命(ヒバスヒメ)と申し、海部家(籠神社の社家)の直系子孫であり、垂仁天皇の皇后に上がられました。そのため、倭姫命は海部家の外孫に当たられます(大和と丹後の血筋を引いている)。

伊勢神宮と豊受大神


天照大神が伊勢に鎮座して、およそ480年後になる雄略天皇の時代、倭姫命の夢に天照大神(アマテラス)が現れて「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の比沼真奈井(ひぬまのまない)にいる御饌の神、等由気大神(とようけのおおかみ)を近くに呼び寄せなさい」と告げられました。

それにより、明年の7月7日、大佐々命や興魂命、丹波道主の子孫など多くの神々が丹波国与謝郡(宮津市)までお迎えに見え、雄略天皇22年(478)に伊勢にお遷りになりました。

その際、倭姫命も伊勢からお見えになり、真名井原の藤岡山(真名井神社が鎮座する山)にある磐座の傍らに湧き出る天の真名井の水を伊勢の藤岡山の麓にある伊勢神宮外宮の上御井神社の井戸に遷されたと伝えられています。

天女伝説


神代の昔、八人の天女が真名井神社の神域に舞い降り、粉河(こかわ)と呼ばれる川(真名井川)でお酒を造っていました。

その時、塩土翁(しおつちのおきな)が天女に欲を出し、一人の天女の羽衣を隠してしまったため、天女は天に帰れなくなりました。そのため、しばらく翁と夫婦となり、この地で酒造りに精を出しました。

天女はいつも光を放ちながら空を飛び、その光景はまるで鳥籠から光を放っているようでした。与謝郡に豊受大神を祀る与謝宮(よさのみや)が造られ、この天女が豊受大神をお祀りしました。籠から光を放つことから与謝宮は籠宮(このみや)とも呼ばれました。

この天女は食べ物を天からたくさん降らせました。そしてこの天女は丹波の与謝宮から伊勢神宮の所管社である御酒殿(みさかどの)の守護神・醸造神として勧請されました。これが日本酒の始まりとなりました。

天橋立伝説


神代の昔、国生みをされた男神・伊射奈岐命(いざなぎのみこと)が、地上の真名井原(真名井神社)の磐座(いわくら)に祀られていた女神・伊射奈美命(いざなみのみこと)のもとに通うため、天から大きな梯子(はしご)を地上に立て懸け通われました。

ところが、伊射奈岐命が寝ていらっしゃる間に一夜にして梯子が倒れてしまい、それが天橋立となったと伝えられています。

狛犬伝説


天正年中、作者の魂が宿った籠神社の狛犬が、天橋立に暴れ出て通行人を驚かしていました。

そこに仇討ちに来ていた剣豪・岩見重太郎が鎮霊を決意し、一夜待ち伏せて、狛犬の前足に一太刀浴びせました。

以来、狛犬は社頭に還り、魔除けの狛犬と云われて霊験があらたかになったと伝えられています。

空海と真井御前


平安時代の初め、海部直の31代雄豊の娘に厳子姫がいました。

神官の家柄出身でしたが、物心ついた厳子姫は10歳にして都に上り、頂法寺の六角堂に入って如意輪の教えに帰依し、日々真言の呪を唱えつつ修行に励んでいました。姫は未だ年端は行かないながらも、天性の美しさと優しさと只ならぬ気品を漂わせた しとやかな女性でした。

弘姫が年20歳の時、当時 皇太子だった大伴皇子(後の淳和天皇)に見初められ、第四の妃として迎えられることになりました。名前も故郷にちなんだ真井御前(まないごぜん)の名を戴き、帝の寵愛を一身に集めました。

しかし、この生活も長くは続かず、後宮の女官達の激しい嫉妬に世の無情を感じ、26歳にして侍女二人を連れて宮中を出て、西宮の如意輪摩尼峰に神呪寺を建立しました。

同年、真井御前は空海(弘法大師)を甲山に迎えて如意輪の秘法を修し、その翌年にも再び空海を迎えて受明潅頂(密教の弟子になる儀式)を受けられました。

また、御前は役行者(役小角)の足跡を慕って吉野に赴き、修験の大峰山に登ろうとしました。しかし、土憎たちが「ここから先はうわばみ(大蛇)が道を塞いでいます。また、山の神は女性の入山を許していないので通れません」と入山を阻みました。

ですが、御前はこれに怯まず「この山にも女神がいると聞いています。また、大蛇は穢れた肉をこそ好みますが、私のような浄まった肉体にどうして害を致しましょう」と言って遂には入山を果たし、21日の行を成し遂げて山を出て来てきました。

これを見て土憎たちは驚愕し、これは「きっと神女であろう」と篤く持て成して、後に真井御前の肖像を役行者と共に祀ったと云います。そして、翌年には阿闇梨灌頂(密教の師の資格)を受けられました。

そこで、御前が如意輪観音像を造ろうとしたところ、空海が大きな桜の樹を選んで御前の生き姿を彫刻されました。これが西宮市にある甲山の神呪寺の秘仏・如意輪融通観音であり、天下の三如意輪の中でも随一とも云われています。

その後、真井御前は33歳の時に師・空海のおられる高野山に向かって如意輪観音の真言を唱えながら遷化しました。そして その翌日、空海も真井御前の後を追うように62歳で入定されました。
matapon
著者: matapon Twitter
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。