人文研究見聞録:稲荷信仰とは?


このページでは、稲荷信仰(いなりしんこう)について解説したいと思います。



概説

区分


まず、稲荷信仰は大きく分けて3種に分類され、その区分は以下の様にされています。

1.神道の稲荷信仰:祭祀者が神職であり、宇迦之御魂神(ウカノミタマ)・保食神(ウケモチ)などを祀る神社によるもの
2.仏教の稲荷信仰:祭祀者が僧侶・修験者であり、寺の鎮守堂で荼枳尼天(ダキニテン)を祭祀しているもの
3.民間の稲荷信仰:祭祀者が土地所有者や氏子・講員などであり、狐神・山の神・水神・福神・御霊神などとして信仰されているもの


神道の稲荷信仰


人文研究見聞録:神道の稲荷信仰

神道における稲荷信仰とは、京都市伏見区にある伏見稲荷の主神「宇賀御霊神(ウカノミタマ、稲荷神」を中心とする信仰を指します。

宇賀御霊神(ウカノミタマ)という神は、宇迦之御魂神あるいは倉稲魂命とも表記され、『古事記』ではスサノオの子(表記は宇迦之御魂神)、『日本書紀』ではイザナギが腹をすかせた際に誕生したとされています(表記は倉稲魂命)。

信仰の起源として、秦氏の祖である伊呂具秦公(いろぐのはたのきみ)によって創建された伏見稲荷大社に始まるとされており、「イナリ」とは「稲生」の意を指し、すべての食物と桑葉を司る神であるとされています。また、田の神の信仰など稲作との結びつきが強く、後世には商売繁盛の守り神としても信仰されるようなります。

京都では平安時代以降、朝廷や庶民の間で盛んに信仰され、伏見稲荷をはじめとする宗教家の解説や宣伝によって全国的に普及していったとされています。

その後、あらゆる願望に応ずる神として、商業神・漁業神・屋敷神など多様な信仰形態をとるようになり、加えて狐を稲荷神の使いとする俗信も民間に広まったとされています。

稲荷神についてはこちらの記事を参照:【稲荷神とは?(稲荷神とキツネ)】


仏教の稲荷信仰


人文研究見聞録:仏教の稲荷信仰

仏教における稲荷信仰とは、空海を開祖とする真言密教において、稲荷神と習合した仏教の神「荼枳尼天(だきにてん)」を中心とする信仰を指します。

起源として、京都市南区にある東寺の建造の際に秦氏が稲荷山から木材を提供したことで、稲荷神が東寺の守護神とみなされるようになり、空海が稲荷神と直接交渉して守護神になってもらったとされています。

そして、稲荷神を真言密教における荼枳尼天に習合させ、真言宗が全国に布教させたそうです。なお、荼枳尼天を本尊とする寺院として、愛知県豊川市の豊川稲荷が有名です。

また、日本三大稲荷の一つ、岡山県の最上稲荷(さいじょういなり)の本尊である最上位経王大菩薩(さいじょういきょうおうだいぼさつ)も、荼枳尼天と同様にキツネに乗った形で表されています。


民間の稲荷信仰


人文研究見聞録:民間の稲荷信仰

民間における稲荷信仰とは、民間信仰における様々な神(狐神・山の神・水神・福神・御霊神など)と習合した稲荷信仰を指します。

稲荷信仰は、全国普及につれて様々な民間信仰と結びついたとされており、中世以降、工業・商業が盛んになってくると、農業神から工業神・商業神・屋敷神など福徳開運の万能の神とみなされるようになったとされています。また、勧請の方法が容易な申請方式となったため、農村だけでなく町家や武家にも盛んに勧請されるようになったんだそうです。

なお、西日本よりも東日本の方で濃密に信仰されており、特に関東地方では屋敷神としての稲荷が非常に多いと言われています。

ちなみに、京都市上京区にある晴明神社は、明治維新以降の近代社格制度によって廃社になりかけたところ、今宮戎神社から齋稲荷(いつきいなり)を勧請して廃社を免れたんだそうです。


文献に記される稲荷信仰

『記紀』


『記紀(古事記・日本書紀)』には、稲荷神を祀る稲荷信仰の有無についての記載は無いようです。なお、現在 稲荷神社で祀られている稲荷神(稲荷神社の祭神)については以下のように記載されています。

『古事記』


・豊宇気毘売神(トヨウケビメ):イザナミの尿から生まれたワクムスビの子(上巻 神産み)
・大気都比売神(オオゲツヒメ):スサノオに斬られた死体から五穀の種・蚕が生じる(上巻 須佐の男の命)
・宇迦之御魂神(ウカノミタマ):スサノオがカムオオイチヒメを娶って産んだ子(上巻 須佐の男の命)

『日本書紀』


・保食神(ウケモチ):ツクヨミに斬られた死体から牛馬・穀物・蚕が生じる(第五段一書(十一))
・倉稲魂命(ウカノミタマ):神産みの際にイザナギの空腹から誕生(第五段一書(六))

倉稲魂命の表記は日本書紀に見られ、神社によってはクラシネタマとも読む場合がある


『山城国風土記』


『山城国風土記』には、伊奈利社(伏見稲荷)の縁起が以下のように記されています。

伊奈利社(いなりしゃ)


伊奈利と称す理由は、秦中家忌寸(はたのなかつやのいみき)らの遠祖である伊呂具秦公(いろぐのはたのきみ)が、稲を積んで裕福な暮らしをしていた時、驕って餅を矢の的にして遊んでいた。

すると、餅が白い鳥に化けて飛び去り、やがて山の峯に降り立った。伊呂具がその鳥が降りた場所に行ってみると稲が生っていた(伊禰奈利生ひき)ので伊禰奈利(イネナリ)を社名とした。

そして、その末裔が先祖の過ちを悔いて、そこの木を根ごと抜いて屋敷に植えて祀った。今、その木が繁れば福を得ることができ、その木が枯れれば福は得られないと云われている。


『出雲国風土記』


『出雲国風土記』には、伏見稲荷の中社で祀られる佐田彦大神の誕生について以下のように記されています。

加賀神埼(かかのかんざき)


窟(いわや)がある。高さは11丈ほど、周りは502歩ほどある。東と西と北とに貫通している。

いわゆる佐太大神(さだたのおおかみ)が誕生した場所である。

誕生する際に弓矢が無くなった。そのとき、御母である神魂命(かみむすひ)の御子、枳佐加比売命(きさかひめ)が「わたしの御子が麻須羅神(ますらかみ)の御子であるならば、無くなった弓矢よ出て来なさい。」と祈願した。

すると、角の弓矢が水のように流れ出てきた。枳佐加比売命はその弓を取って「これはあの弓矢ではない。」と言って投げ捨てた。すると、また金の弓矢が流れ出てきた。そこで、その金の弓矢を取って「暗い窟である。」と言って射通した。そのため、御母の支佐加比売命の社がここに鎮座している。

また、今の人はこの洞窟の辺りを通る時は、必ず大声を轟かせて行く。もし密かに行こうとすると、神が現われて突風が起こり、行く船は必ず転覆するからである。


ヲシテ文献


ヲシテ文献とは、第12代景行天皇の御代に献上されたという「ヲシテ(神代文字)」で記された年代記を指します。この年代記には『ホツマツタヱ』『ミカサフミ』があり、その中には稲荷信仰について以下のように記されています。

『ホツマツタヱ』


・カグツチとハニヤスが生む子をワカムスビという、ワカムスビは頭に蚕と桑を、臍からソロ(稲・実)を生じさせた(5文)
 ・ワカムスビの別名をウケミタマという
・昔、ウケモチが尊のウケナ(食菜)を天に乞えば、ヒヨウルタネ(稲と根菜の種)が下された(15文)
 ・8月の初日にウケモチが初穂をトヨクンヌシに奉れば、トヨクンヌシは和幣を以ってアメナカヌシの神を祀った
・オモタルの御代の末より、稲穂が細くなって育ちが悪くなったため、アマテルはツキヨミをウケモチの元に派遣した
 ・ウケモチは肥の柄杓の口で米を煮て、肥の掛かったスズナでスズナ汁を作ってツキヨミをもてなした
 ・ツキヨミは「そんな穢れたものと交われるか」と激怒し、剣を抜いてウケモチを斬り殺した
 ・ツキヨミが帰って報告すると、アマテルは「お前のような反れた者とは顔を合わせたくない」と言って政から離した
 ・ツキヨミの代わりにアメクマドが派遣され、ウケモチの8代目に当たるカダがヒヨウルタネを献上した
 ・アメクマドが持ち帰った種を献上すれば諸県に植えられて、その秋は豊作となって国が富んだ
 ・また、カダは繭を茹でて糸を引くコカヰ(養蚕・絹織)の方法も教え広めた
 ・これにより、8代目ウケモチのカダはカダノカミとなり、代々生活の守り司として讃えられた
・国中でハタレ(魔物)が一斉に蜂起したとき、カダキクミチ(キツネ・クツネ)の鎮圧に向かった(8文)
 ・アマテルよりネスミ(揚げ鼠)やハジカミ(椒)を得たカダは、それを以って総勢33万の敵を悉く捕らえて牢に入れた
 ・捉えた敵はマフツノヤタカガミ(心を写す鏡)に姿を映され、人の姿の者は民となり、異なる者はタマタチが為された
 ・キクミチの頭領の三人はキツネの影が映ったためにミツキツネと呼ばれ、配下33万も含めてタマタチが決定された
 ・カダが庇ってキクミチの放免を諸人に訴えれば、最初は拒まれたものの、7度に亘る懇願でようやく認められた
 ・すると、アマテルはキクミチの頭領をウケミタマの守護に当たらせ、また永くカダの配下に据えるように詔した
 ・そこで、カダはキクミチの頭領三人をイセ、ヤマシロ、アスカノの各地方の守護に当たらせた
 ・また、キクミチの配下の者たちには頭領三人のそれぞれに従って、各地の田畑の鳥を追う役目を与えた
 ・こうした経緯から、ウケノミタマウケモチカダノカミとなった

『ミカサフミ』


・正月が終わり、2月に陰陽が和合して萌え生えれば、種活しを行ってイナルカミを祀り、馬祭を行う(7文)
・水の女神が4月より大陽を招いて夏を告げれば、衣から綿抜きをして、月の半ばの早開きにイナルノカミを祀る(7文)

※ヲシテ文献には『古事記』に登場するオオゲツヒメ、カムオオイチヒメ、ウカノミタマは登場しない


考察

ヲシテ文献に見る稲荷信仰


ヲシテ文献は知名度が低く、ヲシテの信憑性や文献の出処などが怪しいため、学術的には偽書と比定されているようです。なお、文献自体は1780年の『春日山紀』『朝日神紀』に収録されていることから、江戸中期にまで遡ることができるとされています。

偽書とされているものの、この内容を見てみれば、稲荷信仰をはじめ、熊野信仰・白山信仰および賀茂社の由来など、記紀・風土記に載っていない日本の信仰について悉く腑に落ちる内容が載っています。また、内容についても地域の信仰形態や神社の祭神などから一定の信憑性を窺うこともできるため、偽書として簡単に捨て置けないものであると思われます。

なお、『ホツマツタヱ』によれば、『記紀』における天神二代~三代に当たるトヨクンヌの時代から農業が存在し、その豊穣に感謝する祭礼も始まったとされています。そして、その起源はトヨクンヌと同時代に誕生したウケモチに始まり、以後 ウケモチが代々農業および養蚕・絹織の技術を洗練させて行ったとされており、また、カグツチとハニヤスから生まれたワカムスビも、蚕や穀物を生じさせたためにウケミタマとして称えられ、その結果、ウケモチウケミタマが豊穣を司るイナルカミに据えられたようです。

ちなみに、『古事記』においてはスサノオとカムオオイチヒメの子ウカノミタマが生まれたとされますが、ヲシテ文献ではカムオオイチヒメは登場せず、ソサノヲ(記紀で言うスサノオ)とイナダヒメの子にオオトシクラムスビが生まれています。これは『古事記』でいうオオトシノカミとウカノミタマであると推測できますが、ヲシテ文献には いわゆる出雲系の神話に相当する記述が少ないため、その真相は定かではありません。

また、『ミカサフミ』によれば、トヨケ(伊勢外宮の豊受大神に比定)が嘗事(季節の祭)について説明する件で、2月の種活し(種浸?)と、4月の早開き(田植え)の際にイナルノカミを祀るということを説明しています(暦が現在と同じかどうかは不明)。なお、トヨケは『記紀』には登場しませんが『ホツマツタヱ』ではイサナミの父となっているため、天神六代に当たる頃には存在していたことになります。

こうした記述から、ヲシテ文献においては相当古くから稲荷信仰に相当する豊穣祈願が為されており、それに対応する祭礼も通例として行われてきたということが窺い知れます。加えて、稲荷神とキツネの関係に関する記述も見られることから、現在 稲荷社に狐像が置かれている理由にも納得ができます。

ただし、あくまでも偽書とされる文献に記載されている内容なので、大々的に正しいと言い切ることは難しいでしょう。また、この史料が江戸時代までの歴史の中で登場しなかった理由についても、推測することしかできません。ですが、ハッキリ言って、『記紀』や『風土記』だけでは神道の全容を知ることは難しいと思います。なぜなら、これら公で認められている史料の内容を読んで見れば、ツッコミどころが山ほど出てくるからです。

そのため、今後は公の研究から溢れた史料も踏まえて、日本について調べて行きたいと思います。


最古の稲荷信仰?


人文研究見聞録:稲荷信仰とは?

大阪市にある河掘稲生神社(こぼれいなりじんじゃ)は、景行天皇の時代に当時 昼ヶ丘と呼ばれていた地に「稲生の神」を祀ったことに始まるとされています(「稲生の神」は、神社名から「いなりのかみ」と読んで良さそうです)。

景行天皇とはヤマトタケルの父であり、その在位年代は1~2世紀頃と考えられ、いわゆる弥生時代に当たります。

一般的には、稲荷信仰は伏見稲荷創建より始まると考えられているため、その起源は8世紀初頭(708~715年頃)とされていますが、河掘稲生神社の社伝に沿えば、稲荷信仰は1~2世紀頃には既に存在していたと考えられ、その起源は定説よりも約500年以上遡ることになります。

全国でも「イナリ」を「稲生」と表記する神社は数少ないですが、もしかすると「稲生の神」が稲荷信仰の最古の神であり、この神社が伏見稲荷以前の最古の稲荷信仰の神社だったのかもしれません(稲生と表記する神社は広島県に多いようです)。

新たな事実を発見しましたので、下記の「元稲荷・五幸稲荷(ごこういなり)」をぜひご覧ください。

河掘稲生神社についてはこちらを参照:河掘稲生神社


日本最古の稲荷信仰 元稲荷・五幸稲荷(ごこういなり)


玉造稲荷神社
五幸稲荷社(鵲森宮)

大阪市にある玉造稲荷神社五幸稲荷神社(鵲森宮の境内社)で祀られている稲荷神は、伏見稲荷の分霊では無い稲荷神であるとされており、その名は「五幸稲荷(ごこういなり)」と言うそうです。

玉造稲荷神社および鵲森宮についてはこちらを参照:【玉造稲荷神社】【鵲森宮】

なお、玉造稲荷神社には、その起源の古さから「もといなり」と呼ばれていたという伝承もあります。

この「五幸稲荷」とはいったい何者なのでしょうか?

そもそも、玉造稲荷神社紀元前12年(弥生時代)に創建された古社であり、現在は稲荷神として宇迦之御魂神(ウカノミタマ)を祀っています。ただし、かつては「五幸稲荷大明神」と呼ばれる稲荷神を祀っており、伏見稲荷の分霊を直接祀らない稲荷社だったということが伝えられています。

一方、鵲森宮の五幸稲荷神社では現在は稲荷神として宇賀魂神(ウカノミタマ)を祀っていますが、その由緒書には「五幸稲荷社は、火難・水難・盗難飢餓・産難を除く、宇賀御霊命(うかのみたま)を祀る日本唯一の稲荷社です。」という意味深な由緒が記されています。

両者ともに「伏見稲荷の分霊では無い」という点が特徴であり、神社の創建年代も伏見稲荷より相当古いことが挙げられます。

そもそも伏見稲荷をはじめとする全国の稲荷神社で祀られている稲荷神は宇迦之御魂大神(ウカノミタマ)という神様であり、その出自は『古事記』によれば素戔嗚尊(スサノオ)と神大市比売(カムオオイチヒメ)の子であるとされています。そして、名前の「ウカ」は穀物・食物の意味であるとされることから、食物を司る食糧神とされています。

一方、『日本神話』には、ウカノミタマが誕生する以前にも数柱の食糧神が登場しており、例えば『日本書紀』では自ら食糧を吐き出すことのできる保食神(ウケモチ)、『古事記』では自らの身体から食糧を生み出すことのできる大宜都比売(オオゲツヒメ)や、豊宇気毘売神(トヨウケビメ)がいます(トヨウケビメは、玉造稲荷神社のHPではオオゲツヒメもしくはワクムスビの子として紹介されています)。

つまり、『日本神話』に登場する食糧神にも「新・旧」が存在するということです。

では「五幸」とは何なのでしょうか?ここでは読んで字のごとく「五つの幸」の意であると仮定して推測したいと思います。

五幸」を「五つの幸」として解くと、「五つの幸」とは日本で古来より食糧の代名詞とされてきた「五穀(五種の主要な穀物)」ではないかということが想起されます。

『日本書紀』では、アマテラスの命によってツクヨミウケモチのもとへ訪れ、ウケモチが吐き出した食糧でツクヨミを持て成したところ、汚らわしいとしてその場でウケモチを斬り殺し、その死体から牛馬や蚕、そして五穀の種が生じたという説話があります。

『古事記』では、高天原を追放されたスサノオが食糧を求めてオオゲツヒメのもとを訪れ、オオゲツヒメが身体から生み出した食糧でスサノオを持て成したところ、失礼であるとしてその場でオオゲツヒメを斬り殺し、その死体から五穀の種が生じたという説話があります。

これらの説話の共通点として、もともと食糧を司っていた神を殺した後に「五穀の種」が生じたという点が挙げられ、これがそのまま「五つの幸」、つまり「五幸」へと繋がっていったと考えることができるのではないでしょうか?

そうした仮説に基づき、「五幸稲荷」を調べてみると京都北部の京丹後市に「ウケモチ」を主祭神とする「五幸稲荷神社」が見つかりました。この神社自体の創建年代は不明ですが、京都の京丹後市(丹後半島)には紀元前に遡るほど古い時代から文明が存在していたという話も多く、古代日本における中心地であったという説もある地域です。よって、この神社が伏見稲荷以前に存在していた古い神社であるという可能性は十分あると考えられます。

また、上記の大阪市にある河堀稲生神社(こぼれいなりじんじゃ)は、社伝によると景行天皇の時代(1~2世紀)に当地に「稲生の神(いなりのかみ)」を祀ったことに始まるとされており、同市内に位置する垂仁天皇18年(紀元前12年)に創建された玉造稲荷神社の五幸稲荷信仰に続く信仰であると考えれば大分辻褄が合います。

これらのことをまとめると、以下のようになると考えられます。

・ウケモチ(元・稲荷神):紀元前より丹後半島および畿内を中心に古くから祀られる「五幸稲荷大明神」である
・ウカノミタマ(現・稲荷神):8世紀初頭に創建された伏見稲荷を起源とする現在の「稲荷大神」である

上記の仮説に基づけば、日本の稲荷信仰は紀元前より存在する食糧神を祀る信仰であり、その起源はウケモチを主祭神とする「五幸稲荷信仰」であったと考えられ、8世紀初頭に創建された伏見稲荷を境に、ウカノミタマを主祭神とする稲荷信仰に切り替わったということが言えるのではないでしょうか?

そうなると、日本古来の稲荷信仰は紀元前にまで遡ることができる相当古い歴史を持つ信仰であり、これが日本最古の稲荷神の正体であったと言えると思います。

※上記はあくまで個人研究による仮説です。

関連記事:稲荷神とキツネ

matapon
著者: matapon Twitter
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。