天皇社(大神神社) [奈良県]
2015/09/10
奈良県桜井市三輪にある天皇社(てんのうしゃ)です。
大神神社の末社であり、祭神に第10代崇神天皇を祀っています。
神社概要
由緒
由緒書によれば、当社は大神神社に縁の深い第10代崇神天皇を祀る社であるとされています(詳しくは関連知識を参照)。
なお、案内板による説明は以下の通りです。
【案内板 その1】
御祭神の崇神天皇(御真木入日子印恵命)は、三輪山麓の磯城瑞籬宮(しきみずかきのみや)を都とされました。
天皇は敬神の念がことのほか篤く、天照大御神(アマテラス)を初めて皇居から倭笠縫邑(やまとのかさぬいむら、現在の檜原神社)に遷され、丁重にお祀りされると共に、初めて神社の制度を整えられました。
また、産業を興し交通を整えて国民の福利を進め、大和朝廷の基盤を確立された数々のご事績から初国治らす天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられた聖帝です。
11月14日には御祭神の聖徳を称え、「崇神天皇奉讃祭」が催行され、神楽「磯城の舞」が特別に奉納されます。
【案内板 その2】
第十代崇神天皇は都を奈良率川宮(いさかわのみや)より磯城瑞籬宮(しきみずかきのみや、金屋)に定められ、我国の歴史上画期的な御事蹟を挙げられました。
御敬神の念極めて篤く、天照皇大神(あまてらしますすめおおかみ)をはじめて皇居より倭笠縫邑(やまとのかさぬいむら、現在の檜原神社)に遷し祀られ、大田々根子命(オオタタネコ、若宮さん)を大物主大神(オオモノヌシ)の祭主とされるほか、天社(あまつやしろ)・国社(くにつやしろ)を定め、四道将軍を派遣せられ、教化を盛んにして、大いに皇基を伸張せられました。また、産業交通を興され、国民の福利を進めて大和朝廷の基礎を確立せられました。
天皇の御聖徳を称えまつり、御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)として万世に仰がれる聖天子であらせられます。
御祭神の崇神天皇(御真木入日子印恵命)は、三輪山麓の磯城瑞籬宮(しきみずかきのみや)を都とされました。
天皇は敬神の念がことのほか篤く、天照大御神(アマテラス)を初めて皇居から倭笠縫邑(やまとのかさぬいむら、現在の檜原神社)に遷され、丁重にお祀りされると共に、初めて神社の制度を整えられました。
また、産業を興し交通を整えて国民の福利を進め、大和朝廷の基盤を確立された数々のご事績から初国治らす天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられた聖帝です。
11月14日には御祭神の聖徳を称え、「崇神天皇奉讃祭」が催行され、神楽「磯城の舞」が特別に奉納されます。
【案内板 その2】
第十代崇神天皇は都を奈良率川宮(いさかわのみや)より磯城瑞籬宮(しきみずかきのみや、金屋)に定められ、我国の歴史上画期的な御事蹟を挙げられました。
御敬神の念極めて篤く、天照皇大神(あまてらしますすめおおかみ)をはじめて皇居より倭笠縫邑(やまとのかさぬいむら、現在の檜原神社)に遷し祀られ、大田々根子命(オオタタネコ、若宮さん)を大物主大神(オオモノヌシ)の祭主とされるほか、天社(あまつやしろ)・国社(くにつやしろ)を定め、四道将軍を派遣せられ、教化を盛んにして、大いに皇基を伸張せられました。また、産業交通を興され、国民の福利を進めて大和朝廷の基礎を確立せられました。
天皇の御聖徳を称えまつり、御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)として万世に仰がれる聖天子であらせられます。
祭神
天皇社の祭神は以下の通りです。
・御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと):第10代崇神天皇
関連知識
崇神天皇(すじんてんのう)とは?
崇神天皇(すじんてんのう)とは日本の第10代天皇です。
現代日本の学術上、実在可能性が見込める初めての天皇であると言われています※。
諡号については、『古事記』において御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえ)、『日本書紀』において御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと)と称えられており、天皇社では後者の諡号を祭神名としています。
崇神天皇に関する有名な説話として、在位期間中に疫病が発生し、その影響で国勢が乱れて国民が全滅しそうになったことから、その原因をさぐったところ、それが大物主大神(オオモノヌシ)の祟りによるものと判明したため、大物主大神(オオモノヌシ)を その子孫であるオオタタネコに祀らせて疫病を鎮め、天下に泰平をもたらしたという話があります。
また、宮中で祀られていた皇室の氏神である天照大神(アマテラス)と、国土の神である倭大国魂神(オオヤマトクニタマ)を初めて皇居の外に遷祀し、現在の神社制度を体系化した天皇でもあります。
こうしたことから崇神天皇は敬神の念が非常に篤かったとされ、大神神社では天皇社を設けて崇神天皇を祀っています。
なお崇神天皇は、産業を興し、交通を整え、国民の福利を進めたことから、大和朝廷の基盤を確立した天皇であるとされており、そうした実績の数々から「初国治らす天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と称えられた聖帝であるとも云われています。
天皇社では、このような崇神天皇の聖徳を讃えて、毎年11月14日に「崇神天皇奉賛祭(すじんてんのうほうさんさい)」が斎行され、神楽「磯城の舞(しきのまい)」が特別に奉奏されるそうです。
※実証を示す物証が多いという意味であり、他の天皇が実在しないというワケではない。
『ホツマツタヱ』における崇神天皇
神代文字で記された文献である『ホツマツタヱ』によるミマキイリヒコ(崇神天皇)の来歴は以下の通りです。
【ミマキイリヒコ(崇神天皇)の来歴】
・ワカヤマトネコヒコ(第9代開化天皇) とイカシコメの第1子で、斎名(諱)をヰソニヱという
・即位3年、シギミヅガキ(磯城端籬)に遷都する
・即位4年、宮中に三種の神器を置いておくのは畏れ多いとして、鏡と剣を宮中から出して祀るという詔を発する
→ アマテル神(八咫鏡)は、カサヌヒ(笠縫邑)に遷してトヨスキヒメ(豊鍬入姫命)に祀らせた
→ オオクニタマ(八重垣剣)は、ヤマベノサト(山辺の里)に遷してヌナギヒメ(渟名城入姫命)に祀らせた
・宮中から鏡と剣を出したため、アマツヒツキノカンタカラ(皇位継承の神宝)として鏡と剣のレプリカを造らせた
→ 鏡のレプリカは、イシコリトメの子孫に造らせた
→ 剣のレプリカは、アメヒトカミ(アマメヒトツ)の子孫に造らせた
・即位5年、疫病が流行って国民の半数が死亡する
・即位6年、疫病の影響で国民が方々に散った
→ この事態に対処するべく、アマテル神とオオクニタマの宮を新造して遷宮を行ったが、解決には至らなかった
・天皇は祭祀に問題があるとし、祭祀方式の改革を行う詔を発した
→ これにより、アサヒハラ(真名井)に御幸して八百万の神を招き、神々に解決方法を乞うた
・この夜、天皇の夢にオオモノヌシが現れて「我が子孫のオオタタネコに我を祀らせれば解決するだろう」との神託を下した
→ 後日、チハラメクハシヒメ、オオミナクチ、イセヲウミの三人にも同様の神託が下ったとの報告があった
・この神託により、オオタタネコを探すことにした
→ 茅渟県の陶村にてオオモノヌシの子孫と名乗るオオタタネコ(大田々根子命)を発見した
→ フトマニ(占い)をして吉と出たことから、オオタタネコを斎主としてオオミワノカミを祀らせた(大神神社)
→ また、ナカオイチ(市磯長尾市)を斎主としてオオクニタマを祀らせた(大和神社)
・この後、神を崇めるべくカミナフミ(神名記)を作り、カンヘ(神部)を定めて八百万の神を祀らせた
→ これによって疫病も平癒し、稲も実って豊かに治まった
・即位10年、民を治める教えはカミマツリにあるとして、四道に勅使を派遣する詔を発する(四道将軍の派遣)
→ 同時期にタケハニヤスが謀反を起こしたが、これを破った
・即位11年、四道将軍が蝦夷を平定する
・即位12年、疫病や夷狄との戦闘により疲弊した民の為に兵役や貢物を止めて、繁栄の猶予を与えた
→ これによって国が再び立ち直ると、この代は"ハツクニシラスミマキノヨ"と呼ばれるようになった
以下略
・ワカヤマトネコヒコ(第9代開化天皇) とイカシコメの第1子で、斎名(諱)をヰソニヱという
・即位3年、シギミヅガキ(磯城端籬)に遷都する
・即位4年、宮中に三種の神器を置いておくのは畏れ多いとして、鏡と剣を宮中から出して祀るという詔を発する
→ アマテル神(八咫鏡)は、カサヌヒ(笠縫邑)に遷してトヨスキヒメ(豊鍬入姫命)に祀らせた
→ オオクニタマ(八重垣剣)は、ヤマベノサト(山辺の里)に遷してヌナギヒメ(渟名城入姫命)に祀らせた
・宮中から鏡と剣を出したため、アマツヒツキノカンタカラ(皇位継承の神宝)として鏡と剣のレプリカを造らせた
→ 鏡のレプリカは、イシコリトメの子孫に造らせた
→ 剣のレプリカは、アメヒトカミ(アマメヒトツ)の子孫に造らせた
・即位5年、疫病が流行って国民の半数が死亡する
・即位6年、疫病の影響で国民が方々に散った
→ この事態に対処するべく、アマテル神とオオクニタマの宮を新造して遷宮を行ったが、解決には至らなかった
・天皇は祭祀に問題があるとし、祭祀方式の改革を行う詔を発した
→ これにより、アサヒハラ(真名井)に御幸して八百万の神を招き、神々に解決方法を乞うた
・この夜、天皇の夢にオオモノヌシが現れて「我が子孫のオオタタネコに我を祀らせれば解決するだろう」との神託を下した
→ 後日、チハラメクハシヒメ、オオミナクチ、イセヲウミの三人にも同様の神託が下ったとの報告があった
・この神託により、オオタタネコを探すことにした
→ 茅渟県の陶村にてオオモノヌシの子孫と名乗るオオタタネコ(大田々根子命)を発見した
→ フトマニ(占い)をして吉と出たことから、オオタタネコを斎主としてオオミワノカミを祀らせた(大神神社)
→ また、ナカオイチ(市磯長尾市)を斎主としてオオクニタマを祀らせた(大和神社)
・この後、神を崇めるべくカミナフミ(神名記)を作り、カンヘ(神部)を定めて八百万の神を祀らせた
→ これによって疫病も平癒し、稲も実って豊かに治まった
・即位10年、民を治める教えはカミマツリにあるとして、四道に勅使を派遣する詔を発する(四道将軍の派遣)
→ 同時期にタケハニヤスが謀反を起こしたが、これを破った
・即位11年、四道将軍が蝦夷を平定する
・即位12年、疫病や夷狄との戦闘により疲弊した民の為に兵役や貢物を止めて、繁栄の猶予を与えた
→ これによって国が再び立ち直ると、この代は"ハツクニシラスミマキノヨ"と呼ばれるようになった
以下略
上記の流れは『日本書紀』と概ね同じですが、"三種の神器のレプリカを造らせたこと"や"国が再起した時代をハツクニシラスミマキノヨと呼んだ"ことなど、内容が異なる部分がいくつかあります。
なお、『ホツマツタヱ』における"ハツクニシラスミマキノヨ"は"果つ国治らすミマキの代"と訳すことができ、現代語に直せば"破れた国が直った回帰・改革の時代"と解釈することができると考えられます。
参考リンク:ミマキイリヒコ(ホツマツタヱ解読ガイド)、ホツマツタヱ34文 ミマキの代 任那の文
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「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
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