磐船神社には『記紀』には記されない伝承に基づく創祀の由来が残されています。

これは、古史古伝に分類される『先代旧事本紀』に記される「饒速日尊(ニギハヤヒ)の天孫降臨」を根拠としており、『記紀』の「神武東征」にて、神武天皇に大和を譲り渡した饒速日命の来歴にまつわる貴重な伝承を伝える神社であると言えます。

なお、この饒速日尊(ニギハヤヒ)の子孫は神武天皇の即位の後に「物部氏(もののべし)」となり、用明から崇峻朝まで大和朝廷の祭祀と軍事を司ったとされています。磐船神社は その物部氏によって創祀され、古代から現代まで様々な歴史の変遷を経て継承されている神社です。

そうした磐船神社に伝わる伝承を紐解いて、その歴史を紹介したいと思います。

磐船神社、饒速日尊についてはこちらを参照:【磐船神社】【饒速日(ニギハヤヒ)とは?】


磐船神社の歴史

古代


磐船神社の鎮座地は『先代旧事本紀』にある「饒速日尊の天孫降臨」で、饒速日尊(ニギハヤヒ)が降臨した記念の地とされる場所です。なお、その際に乗ってきたとされる「天磐船(あまのいわふね)」は神社の境内にある巨大磐座であるとされ、創祀より御神体として崇められてきたとされます。

なお、饒速日尊は天孫降臨の後、大和地方の豪族の首長であった長髄彦(ナガスネヒコ)を従わせて大和河内地方を開拓、発展させ、大和の人々から天神(あまつかみ)として崇敬を集めたとされています。

そして、神武東征の後、政権が神武天皇に移ると饒速日尊の子孫は物部氏として天皇に仕え、朝廷の祭祀と軍事を司ったとされています。それに伴って、磐船神社の祭祀も物部氏が執ったとされ、特に交野地方に居住した肩野物部氏という一族が深く関係していたと考えられているそうです。

なお、肩野物部氏(かたのもののべし)は現在の交野市及び枚方市一帯を開発経営しており、交野市森で発見された「森古墳群」の前方後円墳はこの一族の墳墓と考えられることから、相当有力な部族であったとされています。

また、饒速日尊の六世の孫で崇神朝における重臣であった伊香色雄命(イカガシコオ)の住居が、現在の枚方市伊加賀町あたりにあったと伝えられており、森古墳群中、最大で最古の古墳の被葬者ではないかという説が有力とされているようです。

古代~中世


第31代用明天皇の時代(飛鳥時代)、大連であった物部守屋が「丁未の乱」で蘇我馬子に敗れ、それを以って物部本宗家が滅び、それと共に交野地方の物部氏も一掃されたとされています。そのため、磐船神社の祭祀も衰退を余儀なくされ、此処を総社としていた私市、星田、田原、南田原の四村の人々が共同で祭祀を行っていくようになったそうです。

その後、生駒山系を中心とする修験道山岳仏教が盛んになると、此処もその影響を受けることとなり、修験道北峯の宿「岩船の宿」としてその行場に組み込まれていったとされます(奈良末期(8世紀頃)か)。

平安期に入ると、交野は貴族の御狩場や桜狩りの名所となり、歌所にもなったことから、歌や航海の神である住吉三神の信仰が広まり、磐船神社の御神体「天の磐船」の傍の巨石に住吉四神が祀られるようになったとされます。

この詳しい理由については「饒速日尊と住吉三神がともに船と関係する神であることから結びついた」もしくは『新撰姓氏録』で「住吉大社の神主の津守氏が饒速日命の子孫に当たるため、物部氏滅亡以後に住吉四神が祀られるようになった」とも云われているそうです(なお、住吉大社と磐船神社の関係は深いとされる)。

鎌倉期には住吉三神の本地仏として その巨石に大日如来・観音菩薩・勢至菩薩・地蔵菩薩の四石仏が彫られ、四社明神として祀られるようになり、後に四社明神の前に御殿が建てられたとされています(現存せず)。また、他の大岩には不動明王も彫られ、神仏習合の色合はさらに強調されたそうです。

近世


磐船神社は、近世まで四村で共同の祭祀が行なわれていたとされています。

しかし、度重なる天野川の氾濫などの災害によって社殿・宝物などの流失が続いたため、神社の運営は困難を極めたとされます。さらに江戸時代の宝永年間(1704~1707年)には四村の間で争いが起こり、それぞれの村に新たに社殿を設けて分霊を氏神として祀ったことから、磐船神社は荒廃を余儀なくされたそうです。

ですが、その後 村人たちの努力により饒速日尊降臨の地としての伝承は守られ、明治維新後には多数の崇敬者の尽力によって復興されたとされ、廃仏毀釈の影響も受けなかったことから、境内の仏像群は今でもそのまま残されています。

磐船神社の資料と伝承

『磐船神社略記』


磐船神社の由緒が記された『磐船神社略記』を転載したいと思います。

磐船神社御由緒


御祭神 天照国照彦天火明命櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひのみこと)

当社御祭神は天照皇大神(アマテラス)の御孫神であり、『日本書紀』等の国史によりますと、神武天皇のご東征以前に日本の国の中心である大和の国(現今の奈良県)に入らんとして天の磐船(あまのいわふね)に乗り天降られた天津神(あまつかみ)であります。

また『先代旧事本紀』によりますと「天孫瓊瓊杵尊に先立ち天祖の詔を受けて十種瑞の神宝(とくさみずのかんだから)を捧持し、三十二人の伴緒を率いて天の磐船に乗り、天翔り空翔り河内の国川上哮ヶ峯(いかるがのみね)に天降られた」とあります。

太古淀川は枚方(シラカタノ津)付近まで入江となっており、大和に入るには当地哮ヶ峯の麓を流れる天野川(あまのがわ)を遡りつつ大和に入るのが至便であったと考えられます。

御祭神は当地に降臨された後は先ず十種瑞神宝(とくさみずのかんだから)を以って病み災う者を助け給い、和を以って人々を導き給わったのであります。

十種瑞神宝は後世神道家必修の祝詞「十種の祓(とくさのはらい)」の根元をなし、現在でも鎮魂行法の根本として、神職・宗教家の修行、研鑚(けんさん)する処であります。

その後 時代を経て、神武東征の砌(みぎり)、御祭神の子孫は東征軍(皇軍)に敵する鳥見の首長である長髄彦(ながすねひこ)を諌めて神武天皇の大和創業の基幹となり、代々武人の一族である物部(もののべ)として朝廷に仕え、御祭神はその遠祖と崇められたのであります。

その教義(十種瑞神宝)は永く代々の朝廷と共に栄えましたが、用明天皇二年(587)の物部蘇我の争い(丁未の乱)から地に物部氏の滅亡をみ、仏教の隆盛を来したのであります。

以来当社は その影響を受けて社勢の衰退を余儀なくされましたが、御祭神のご事蹟と十種神宝の御稜威(ごりょうい)は磐船の磐座と共に人々に篤く信仰され、その根本意義は なお現として神道の血肉となり伝承されております。

『古事記』『日本書紀』以外の書物では、『先代旧事本紀』などに記されております。

『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』巻五

天照靈貴(天照皇大神)の太子 正哉勝々速日天押穂耳尊(オシホミミ)、高御産靈尊が女(娘)、万幡豊秋津師姫栲幡千千姫命(ヨロズハタ トヨアキツシヒメ タクハタチヂヒメノミコト)を妃となし、天照国照彦天火明命櫛玉饒速日尊(アマテルクニテルヒコ アメノホアカリ クシタマ ニギハヤヒノミコト)を誕生す。(略)

天祖、天璽瑞宝十種を以って、饒速日尊に授けたまふ。即ち此の尊、天神の御祖の詔を稟(う)けて、天の磐船に乗りて大虚空を翔行きて、是の郷を睨(ねめ)りて天降りたまひて、「虚空見つ日本の国(そらみつやまとのくに)」と謂ふは是なり。

『続歌林良材集(ぞくかりんりょうざいしゅう)』(貞享元年(1684)刊)

饒速日尊と申せし神、天祖の詔を受けて天磐船に駕し給いて、天降りて河内国河上哮ヶ峯にいたり、これより遷りて大和国鳥見の白庭にいましき云々、今河内国に磐船明神とておはすはかの饒速日尊をいはひ申すと云う。

『雲根志(うんこんし)』後編巻之産(安永八年(1779)刊)

河内国交野郡天河に岩船大明神と云う大社あり。此処に岩船あり、かたち船のごとし。六月晦日神事なり。

その他、貝原益軒の南遊紀行に磐船明神の事を伝え、明治維新の先覚者伴林光平の捕へらりし時、磐船山間近により「梶をなみ乗りて遁れん世ならねば岩船山もかひなかりけり

このように、古来より有名でありました。

当社は古くは物部氏、特に交野に在住した肩野物部氏が祖先降臨の地として祭祀を行い、物部滅亡後も磐船・星田・河内田原・大和田原の近隣四村の総氏神として崇敬されておりました。

また、当地は生駒・葛城の修験道の発祥の地の近くに位置し、中世以降、その影響を強く受け、生駒修験の北端の霊場として栄えましたが、江戸時代の半ば(宝永の頃)、相次ぐ天災により社殿を失い、交通その他種々の事情により、村々では遂にそれぞれにご分霊を祀り、宝物も分祀せられたことにより、本社は衰退の一途を辿り、磐座のみが残る有様でありましたが、昭和に入り社殿などが整えられ、ようやく復興を遂げたのであります。

境内磨崖仏

神仏習合の伝統を残す石仏です。

四社明神

鎌倉時代の作と伝わる四体の石仏で、磐船和讃が伝承されている。

「きみおちよらい磐船の地蔵菩薩のはすの池 水はなくとも舟はしる、舟はしろかね、櫓(やぐら)はこがね、金銀帆柱おし立てて六字の妙を帆に上げて」

不動明王

室町時代天文十四年(1545)の銘文がある。

岩窟

御神体北側には数多の巨石からなる岩窟があり、古代から続く霊場行場として、近年では岩窟めぐりとして有名です。
matapon
著者: matapon Twitter
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。