人文研究見聞録:物部氏とは?(物部氏と日本)

物部氏(もののべうじ/もののべし)とは、古代日本で宮中祭祀軍事を司っていた有力な豪族です。

いわゆる「武士(もののふ)」とは元来「物部」を指しており、「朝廷における武人」を指す言葉だったそうです。

なお、『日本書紀』によれば初代神武天皇以前(イワレビコ)に大和一帯を支配していた饒速日命(ニギハヤヒ)を始祖とし、『古事記』によれば饒速日命の子の宇麻志麻遅命(ウマシマジ)に始まるとされています(ただし、これについては諸説あります)。

また、仏教伝来以前の古神道を司っていたとされ、物部系の神社では、現在でも古代より続く古神道のしきたりに則った儀式を行っている場所もあります(石上神宮、物部神社、彌彦神社など)。

以下、物部氏の関連事項をまとめて解説したいと思います。

饒速日(ニギハヤヒ)についてはこちらの記事を参照:【饒速日(ニギハヤヒ)とは?】


物部氏の出自


・『古事記』
 → 神武東征においてニギハヤヒがイワレビコに大和の支配権を渡した後、ウマシマジが物部氏の祖となったと記される
  ⇒ 「故、邇芸速日命、登美毘古が妹登美夜毘売を娶して生みし子、宇麻志麻遅命。これは物部連・穂積臣・采女の祖なり」とある
・『日本書紀』
 → 神武東征においてニギハヤヒがイワレビコに大和の支配権を渡した後、ニギハヤヒが物部氏の祖となったと記される
  ⇒ 「天皇、素聞鐃速日命是自天降者而今果立忠效、則褒而寵之。此物部氏之遠祖也。」とある
・『先代旧事本紀』
 → オシホミミとタクハタチヂヒメの子であるニギハヤヒは、天神の御祖神の命により、天磐船で哮峯(生駒山)に天降った
 → その際、ニギハヤヒの守護として、計32柱の天津神と5部の首長を従えて天降った
 → その後さらに5部の造、またさらに25部の天物部と船頭らが天降った
  ⇒ これらの中に各国の物部氏の祖がいるとされている(ウマシマジは、後に天物部の代表的存在となる)
  ⇒ 天物部は、そもそも高天原にいた者達というニュアンスで記されている(神代から存在していたような記述)

「先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)」とは?


『先代旧事本紀』とは『記紀』と並ぶ日本の歴史書であり、神代から第33代推古天皇の時代までのことが記されています。

また、『旧事紀(くじき)』『旧事本紀(くじほんき)』とも呼ばれており、『記紀』には見られない神話や、「ニギハヤヒの出自」、「十種神宝」、「布留の言」などについて数多く記述されていることが特徴です。

なお、序文に「推古天皇の命によって聖徳太子と蘇我馬子が著したもの」とあり、かつては『記紀』よりも古い時代に成立した歴史書であると考えられていたため、平安中期から江戸中期にかけては日本最古の歴史書として『記紀』以上に尊重されることもあったとされています。

しかし、江戸時代の国学者によって偽書認定され、以降その史料価値は大幅に下げられました。ですが、記述内容と土地に残る伝承や史跡の場所が一致することも多く、創建縁起に『先代旧事本紀』の記述を用いる寺社も少なくありません。

なお、現在の歴史学においては、物部氏の氏族伝承など部分的に内容を認める動きがあるそうですが、文献自体の資料価値は『記紀』のそれには及びません。

しかし、江戸時代には『先代旧事本紀大成経(せんだいくじほんきたいせいきょう)』という文献の成立に影響を与えたとされ、現在この文献は、古神道の生き残りとされる物部神道(もののべしんとう)の根本思想となっているとされています。

『先代旧事本紀』はこちらのサイトで読むことができます。:【先代旧事本紀|天璽瑞宝】

物部氏の歴史


物部氏にまつわる大まかな歴史をまとめると以下のようになります(飛鳥時代まで)。

・物部氏は、元々は宮中祭祀と兵器の製造・管理を主に管掌していた
 → 時代が下るにつれ、次第に大伴氏と並ぶ有力軍事氏族へと成長していったとされる
・5世紀代の皇位継承争いにおいて軍事的な活躍を見せ、雄略朝には最高執政官を輩出するようになった
 → 物部氏は解部を配下とし、刑罰、警察、軍事、呪術、氏姓などの職務を担当し、盟神探湯の執行者ともなったとされる
・継体天皇22年(528)に九州北部で起こった磐井の乱(いわいのらん)の鎮圧を命じられた
 → 物部麁鹿火(もののべのあらかい)が中心となって、これを鎮圧したとされる
・宣化天皇の崩御後、欽明天皇の時代になると物部尾輿(もののべのおこし)が大連になった
 → 仏教伝来に伴い、大臣・蘇我稲目を中心とする崇仏派と大連・物部尾興や中臣鎌子を中心とする排仏派が争った
・稲目・尾興の死後は蘇我馬子、物部守屋(もののべのもりや)に代替わりした
 → 蘇我馬子が本格的に仏法を信奉するようになると、国内に疫病が流行り始めるなどの害が生じるようになった
 → 大連・物部守屋と中臣勝海は異国の神を信奉したために疫病が起きたと奏上し、これの禁止を求めた
  ⇒ 天皇によって仏法は禁じられ、それに伴って守屋らによる仏教徒の迫害が始まった
・物部・中臣の排仏の動きの後も疫病は流行り続け、崇仏・排仏の議論は用明天皇の時代にまで持ち越された
 → 用明天皇が仏法に帰依するとしたため、水面下で蘇我と物部の間に後継者争いが生じるようになった
・物部守屋が推していた穴穂部皇子は謀反を起こしたとして誅殺され、守屋にも誅殺の命が下った(丁未の乱
 → 蘇我馬子は軍を起こして物部守屋を攻めたが、物部氏は元々軍事氏族であったため、これに対抗した
  ⇒ 『日本書紀』によれば、聖徳太子の戦勝祈願が功を奏して大将・物部守屋が討死したとされる
・丁未の乱は蘇我連合軍の勝利に終わり、敗北した物部氏の多くは勝者の奴(奴隷)となったとされる
 → 土地や財を奪われ、朝廷における権力も失墜したが、一部逃げのびた者もいるという
・天武朝の八色の姓の改革の際に、連の姓から朝臣姓へ改めるものがあった

物部氏出身の有名な人物


物部麁鹿火(もののべのあらかい)


人文研究見聞録:物部氏とは?(物部氏と日本)

・『日本書紀』に登場し、武烈即位前紀に大連(大和朝廷の最高の官職)として初めて名が現れる
・第25代武烈天皇の崩御後に継体天皇の擁立を働きかけ、その即位後に再び大連に任ぜられる
・継体天皇21年(527年)6月、九州北部で反乱を起こした筑紫国造磐井の征討将軍に就任した
・磐井の征討の際、天皇から筑紫以西の統治を委任された
・継体天皇22年(528年)11月、筑紫三井郡にて磐井を破って処刑し「磐井の乱」を平定した
・安閑天皇・宣化天皇の代にも大連を務め、宣化天皇元年(536年)7月に没した

物部尾輿(もののべのおこし)


人文研究見聞録:物部氏とは?(物部氏と日本)

・安閑、欽明両天皇の時代に大連に就任した
・欽明天皇の時代に百済の聖明王から仏像と経典が献上された時、中臣鎌子とともに廃仏を主張した
・物部氏、中臣氏が排仏を訴える一方、蘇我稲目が崇仏を訴えたため、排仏派と崇仏派の間に対立が起こった

物部守屋(もののべのもりや)


人文研究見聞録:物部氏とは?(物部氏と日本)

・物部尾輿の子であり、名は物部弓削守屋とも記される
・第30代敏達天皇の即位に伴って大連に任じられた
・第29代欽明天皇の時代から続く、排仏派と崇仏派との抗争を受け継ぎ、崇仏を訴える蘇我馬子と対立した
・馬子が仏塔や仏殿などを建てて仏教を広めていく一方、守屋はそれを破壊するという実力行使に出た
・排仏派と崇仏派の抗争は天皇の後継者争いにまで発展し、結果的に守屋は逆賊に位置付けられる
・逆賊を討伐するという大義名分の下に、蘇我馬子は挙兵して守屋を攻めたが、守屋はこれに対抗した(丁未の乱
聖徳太子の戦勝祈願によって、守屋は太子の舎人の矢に撃たれて重傷を負い、秦河勝に止めを刺された
・『播磨国風土記』によれば、生石神社の「石の宝殿」を造ったとも
・現在は四天王寺の守屋祠などに祀られている

弓削道鏡(ゆげのどうきょう)


人文研究見聞録:物部氏とは?(物部氏と日本)

・奈良時代の法相宗の僧であり、物部一族の弓削氏の出自であるとされる
・平城京改修の折、病を患った第46代孝謙天皇の傍で看病して以来、孝謙天皇(女帝)に寵愛されるようになった
・孝謙天皇に寵愛されるようになったことから朝廷で出世し、政治に関与するようにもなった
・孝謙上皇と対立した藤原仲麻呂の反乱を経て、上皇が称徳天皇として重祚すると道鏡は太政大臣禅師に任命される
・翌年には法王(仏門の最高権力者)となり、仏教の理念に基づいた政策を推進した
・769年、宇佐八幡宮より称徳天皇に対して「道鏡が皇位に就くべし」との神託が下ったとの奏上があった
・称徳天皇は道鏡に皇位を与えようとしたが、和気清麻呂らによって阻止されて失敗に終わる
・770年に称徳天皇が崩御すると道鏡の権力も徐々に失われていき、下野国(栃木)の薬師寺別当としてその生涯を終えた
・死後、平安時代以降の学者により、天皇と姦通していたとする説や巨根説などが唱えられるようになった
・道鏡の巨根伝説は根強く、江戸時代には「道鏡は すわるとひざが 三つでき」という川柳が詠まれたとも
・現在では巨根説が性器崇拝と結び付けられ、弓削神社などで性神として祀られている
・なお、道鏡は物部氏を滅ぼした仏教を学んで、逆に利用したという説もある

物部氏の分布


全国の物部氏


本州から九州にかけて分布する物部氏についてまとめました(知っているもののみ)。

・石上氏:物部氏の本宗家であり、物部守屋の弟・物部石上贄子もしくは兄・物部大市御狩の曾孫に始まるとされる
・東国の物部氏:古代東国に物部氏を名乗る人物が地方官に任ぜられている記録がある(陸奥大目・物部長頼)
・出羽物部氏:秋田県の唐松神社に伝わる古史古伝『物部文書』に記載される内容による秋田の物部氏
・下総物部氏:下総国匝瑳郡に本拠を持つ物部匝瑳連の祖先伝承による、関東(千葉県辺り)の物部氏
・尾張物部氏:古代尾張(愛知県)の東部に物部氏の集落があり、そこに住んでいた物部氏(物部神社、高牟神社)
・石見物部氏:石見国の一の宮の「物部神社」によるとウマシマジが石見国に鎮座して周辺を平定したとされる
・備前物部氏:岡山県には備前一宮として知られる石上布都御魂神社があり、そこの宮司は物部氏を継いでいる
・丹後国の物部氏:丹後半島の籠神社には物部の祖・饒速日尊が祀られ、そこの宮司を継ぐ海部氏も同祖とされる
・常陸国の物部氏:『日本書紀』に登場する東国のアマツミカボシは、物部氏との関連が指摘される(『旧事紀』など)
・その他:上記の他、物部が平定した美濃・越国・播磨・丹波などにも子孫がいるとされる(『旧事紀』、社伝など)

その他、知名度が低く、定説とされていない伝承などが多数あるようです(参考リンク:天璽瑞宝物部氏系の国造)。

物部の名の付く地域


現代の全国の地名で「物部」の付く地域をまとめました。

・栃木県真岡市物部
・滋賀県守山市物部
・滋賀県長浜市高月町物部
・京都府綾部市物部
・兵庫県洲本市物部
・兵庫県朝来市物部
・高知県香美市物部
・高知県香南市物部
・高知県南国市物部
・長崎県壱岐市郷ノ浦町物部本村触

なお、古代の令制国時代の物部の分布は、更に広く分布しているようです(参考リンク:天璽瑞宝)。

同祖とされる氏族


以下は、物部氏の祖であるニギハヤヒ(ホアカリ)を先祖とする氏族です。

・穂積氏(ほづみうじ)
・采女氏(うねめうじ)
・津守氏(つもりうじ)
・海部氏(あまべし)
・尾張氏(おわりうじ)
・掃部氏(かにもりうじ)

物部系の国造


以下は、物部氏出身の国造(各地方を治める地方官)です。

・遠淡海国造(静岡県)
・珠流河国造(静岡県)
・久努国造(静岡県)
・伊豆国造(静岡県)
・久自国造(茨城県)
・三野後国造(岐阜県)
・尾張国造(愛知県)
・参河国造(愛知県)
・熊野国造(和歌山県)
・小市国造(愛媛県)
・風速国造(愛媛県)
・松津国造(長崎県)
・末羅国造(長崎県)など

なお『旧事紀』の「国造本紀」には、これ以上に数多くの国造を定めたとあります(参考リンク:国造本紀)。

出雲と物部氏


人文研究見聞録:物部氏とは?(物部氏と日本)

「日本神話」によれば、「出雲」は天上から天降ってヤマタノオロチを倒したスサノオに始まるとされています。そして、オオナムチ(大国主)に主権が移され、オオナムチ、スクナヒコナ、オオモノヌシによって本格的な国づくりが成され(国づくり神話)、高天原の神々と争った結果(葦原中国平定)、アマテラスの子孫のニニギに国が譲られます(国譲り神話)。なお、このニニギの子孫が後のヤマト王権へと続いていきます。

出雲神話について


スサノオの追放から国譲りまでの神話については下記のリンクを参照してください。

スサノオのヤマタノオロチ退治(古事記版)
因幡の白兎/大国主の根の国訪問(古事記版)
大国主の国づくり/葦原中国平定(古事記版)

この神話における歴史を考古学的に紐解くと、古代日本では紀元前から紀元後300年あたりまで「勾玉(マガタマ)」を中心とする「鏡・玉・剣」の文化があったのにもかかわらず、300年以降はその文化がパッタリと無くなり、その代わりに「馬具」や「王冠」などの文化に変わっていったことが明らかとなっています。

人文研究見聞録:物部氏とは?(物部氏と日本)
鏡(銅鏡)
人文研究見聞録:物部氏とは?(物部氏と日本)
玉(勾玉)
人文研究見聞録:物部氏とは?(物部氏と日本)
剣(銅剣)

この変わり目とされる4世紀のことは未だに明らかにされていないため「空白の4世紀」などと呼ばれており、それに伴って大陸から渡ってきた騎馬民族により古代日本は征服されたとする「騎馬民族征服王朝説」などが唱えられています。

しかし「日本神話」には、上記のとおり出雲の神々によって国づくりが成され、それを高天原の神々(後のヤマト)に譲ったとあり、これは「出雲王朝」と「ヤマト王権」が争って出雲が負けたとも言い換えることができます。

これについては、今までは出雲に王朝があった証拠など無く、ただのおとぎ話であるとして片づけられていましたが、近年、出雲の荒神谷遺跡から大量の銅剣や銅鐸が発見されたことから考古学的な物証が裏付けられたため、出雲王朝の存在は軽視できなくなりました。

人文研究見聞録:物部氏とは?(物部氏と日本)
荒神谷遺跡の大量の銅剣
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荒神谷遺跡の銅鐸など

また、北は東北から南は九州に至るまで、全国の遺跡から勾玉が発掘されていることから、出雲王朝は「鏡・玉・剣」の文化を以って、北海道、沖縄を除く全国を支配していたということが言えます。

さて、その出雲王朝物部氏の関係ですが、物部氏は「饒速日尊(ニギハヤヒ)」を始祖とする氏族であるとされています。このニギハヤヒは「日本神話」における神武東征の際に突然名前が登場し、後の初代天皇となるイワレビコの敵として描かれています。そのため詳しい出自については諸説あり、未だに議論されています。

ニギハヤヒは多くの別名を持つことでも知られており、神社によっては「天照国照彦火明櫛玉饒速日命(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)」という名前で祀られています。この名前には「アマテラス」や「ホアカリ」など別の神とされる名前も含まれていることから、これらは神としての役割を表す世襲名ではないかとも取れます。また、これらを包括する名を持つニギハヤヒは、ヤマト王権以前の日本国において最も尊い神であったとされていたのではないかとも取れます。

なお、このニギハヤヒの出自については諸説あります。

『先代旧事本紀』によれば、オシホミミとタクハタチヂヒメの子であり、ニニギの兄に当たるとされ、ニニギ以前に天降って地上を平定したものの、子のウマシマジを儲けた後に亡くなってしまったと記されています。

一方、第73世武内宿禰を自称する竹内睦泰氏によれば、スサノオとカムオオイチヒメの子である「大年神(おおとしのかみ)」がニギハヤヒであり、現在は奈良県桜井市の三輪山(大神神社)に祀られているということだそうです。


大神神社の主祭神と言えば大物主(オオモノヌシ)であり、「国づくり神話」によれば大国主(オオクニヌシ)スクナヒコナと国づくりを行っていたが、スクナヒコナは途中で常世国に帰ってしまった。ひとりになった大国主が国づくりについて悩んでいると、彼方から海を照らしてやってくる神がおり、その神は大国主に自分を三輪山に丁重に祀るのであれば国づくりに協力しようと言った。大国主は その神の言う通りに三輪山に丁寧に祀ると、国は見事に治まったとされています。なお、『古事記』において「国づくり神話」の後すぐに大年神の系譜が説明されるのですが、「大物主=大年神」であるならば、その流れにも納得がいきます。

人文研究見聞録:物部氏とは?(物部氏と日本)
大物主(オオモノヌシ)と大国主(オオクニヌシ)

よって、「国づくり神話」における主要な神の一柱に「大物主」こと「ニギハヤヒ」がおり、そのニギハヤヒは「鏡・玉・剣」の文化を以って日本国を統治した出雲王朝の神でもあるというということになります。

なお、上記のことをまとめると、物部氏の始祖であるニギハヤヒの出自は以下のようになります。

1.オシホミミとタクハタチヂヒメ(オモイカネの妹)の子(『旧事紀』による)
2.スサノオとカムオオイチヒメ(オオヤマツミの子)の子の大年神であり、大物主である(竹内睦泰氏による)

これらは出自が異なるため、その信憑性について考えさせられますが、その血統はとどのつまりスサノオに帰結します。

人文研究見聞録:物部氏とは?(物部氏と日本)
素戔嗚尊(スサノオ)

スサノオが天降って最初に辿りついたのは島根県です。その島根県では石見(西部)、出雲(東部)問わずスサノオを尊崇しており、アマテラスを祀る神社や知名度は比較的少ない傾向にあります。また、スサノオを主祭神とする神社やスサノオにまつわる地名なども多いです。

よって、スサノオは最初に島根県から国家を造りはじめ、後のオオナムチ(大国主)の時代に出雲王朝という大王朝にまで成長したものと考えられます。そして、大年神ことニギハヤヒが出雲から出て大和の三輪山に拠点を置き、そこから畿内を平定したことで出雲王朝が初めて日本国を治めたと推測できます。

その後、アマテラスの子孫であるヤマト王権が日本国の主権を主張して出雲王権と争ったということでしょう。

そして、出雲王朝が敗北して国譲りが行われた後、まずはニニギが九州に君臨し、後にその子孫であるイワレビコ(神武天皇)が九州から大和に東征した際、ニギハヤヒからイワレビコに主権が譲渡され、その際にニギハヤヒの臣下が物部氏となってヤマト王権に仕えたということなのだと思われます。

上記のことから、物部氏はスサノオから続くニギハヤヒの臣下であった者達であり、その源流は出雲王朝にあると言えます。よって「物部氏とは、かつて日本国を治めていた出雲王朝の末裔である」と言い換えることができるでしょう。

饒速日についてはこちらの記事を参照:【饒速日とは?】【大年神とは?】【大物主とは?】
matapon
著者: matapon Twitter
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。