大避神社 [兵庫県]
2019/08/07
兵庫県赤穂市坂越にある大避神社(おおさけじんじゃ)です。
飛鳥時代に創建されたと伝わる古社で、聖徳太子の側近して知られる秦河勝(大避大神)を祀っています。
謎の渡来氏族である秦氏と関係が深く、日ユ同祖論にまつわる神社としても知られています。
また、当社の祭礼である坂越の船祭は全国的に有名で、瀬戸内海三大船祭りの1つにも数えられています。
神社概要
由緒
案内板によれば、当社は飛鳥時代に聖徳太子の側近として活躍した秦河勝(はたのかわかつ)を大避大明神(大避神)として祀る神社であり、養和元年(1182年)には既に有力な神社であったとされます。
また、旧赤穂郡(現・赤穂市、相生市、上郡町)には大避神を祀る神社が28社以上もあり、古代から中世にかけて当地が秦氏と密接な関係にあったことが古文献の内容からも明らかになっているそうです。
なお、当社の縁起によれば「秦河勝は聖徳太子死後の皇極3年(644年)9月12日に蘇我入鹿の乱を避けて海路で坂越に漂着し、千種川の開拓を進め、後の大化3年(647年)に坂越の地で没した」とされ、河勝は80余歳で死去した後に生島の古墳に葬られ、当社は地元の民が河勝の霊を祀ったことに始まるとされています(したがって創建は647年頃と考えられている)。
また、当社の祭礼である「坂越の船祭り」は 河勝が坂越に漂着した日が祭礼日に定められており、この伝承を再現するために江戸初期に始められたといわれています。この船祭は他に類例のない船渡御祭として全国的に有名で、瀬戸内海三大船祭りの1つに数えられるほか、国の重要無形民俗文化財にも指定されています。
祭神
大避神社の祭神は以下の通りです。
・大避大神(おおさけおおかみ):秦河勝を指すもので、大避大明神とも呼ばれる
・天照皇大神(アマテラス):太陽を神格化した皇祖神であり、伊勢内宮の主祭神として有名
・春日大神(かすがのおおかみ):春日大社の祭神(武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比売神を指す)
・天照皇大神(アマテラス):太陽を神格化した皇祖神であり、伊勢内宮の主祭神として有名
・春日大神(かすがのおおかみ):春日大社の祭神(武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比売神を指す)
境内社
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大避神社の境内社は以下の通りです。
・新宮:厩戸皇子神社(聖徳太子)・住吉神社(住吉大神)・琴平神社(金比羅大神)・海神社
・天満神社:菅原道真を祀る(元は天神山に鎮座)
・恵美須神社:蛭子神を祀る(元は本町海岸に鎮座)
・荒神社:竈神を祀る(元は東之町に鎮座)
・淡島神社:淡島大神を祀る(和歌山県の加太より勧請)
・稲荷神社
・天満神社:菅原道真を祀る(元は天神山に鎮座)
・恵美須神社:蛭子神を祀る(元は本町海岸に鎮座)
・荒神社:竈神を祀る(元は東之町に鎮座)
・淡島神社:淡島大神を祀る(和歌山県の加太より勧請)
・稲荷神社
関連知識
秦河勝とは?
秦河勝 |
秦河勝(はたのかわかつ)とは渡来氏族の秦氏出身で、飛鳥時代に聖徳太子の側近として活躍した人物です。なお、秦氏は古代に朝鮮半島の百済を経由して渡来したとされる氏族であり、一説に秦の始皇帝の後裔であるといわれています。
当時、河勝は秦氏の族長的な立場であり、『日本書紀』や『聖徳太子伝暦』には 丁未の乱に参戦して物部守屋を討ち取ったことや、京都の太秦に広隆寺を創建したことなどが記されています。また、秦氏は商業に長けていたことから、河勝は朝廷の財政にも関わっていたとされ、その財力によって四天王寺の造成が成し遂げられたともいわれています。また、河勝は猿楽・能楽の始祖であるとされ、大避神社にも蘭陵王の面が宝物として伝えられているそうです。
そのほかにも多くの伝説があり、例えば「聖徳太子が志能便(しのび)という諜報組織を作った」という話においては「河勝自身も志能便であり、その後裔が伊賀忍者として有名な服部氏になった」などといわれています。また「河勝は陰陽道に長けていた」という話においては「河勝の邸宅が四神相応に優れていたために跡地に平安京が造営された」とか「播磨の民間陰陽師である蘆屋道満の先祖である」などといわれているようです。他にも「香具師(やし、今でいうテキ屋)の祖である」ともいわれている謎の多い人物であり、どこまでが真実かは分かりませんが調べれば調べるほど興味をそそられます。
河勝の最期は歴史書には記されていませんが、大避神社の縁起によれば 皇極3年(644年)に蘇我入鹿の乱(上宮王家討伐のこと?)に伴う迫害を避けて海路より坂越に渡り、千種川の開拓を進めた後、大化3年(647年)に坂越の地で没したと伝えられており、死後に生島に設けられた古墳に葬られたとされています。このことは世阿弥の『風姿花伝』にもあり、以下のように記されています。
【風姿花伝(抜粋)】
かの河勝 欽明・敏達・用明・崇峻・推古・上宮太子に仕へ奉る。此芸をば子孫に伝へ、化人跡を留めぬによりて、摂津国難波の浦よりうつぼ船に乗りて、風にまかせて西海に出づ。播磨の国しゃくし(坂越)の浦に着く。
浦人舟を上げて見れば、かたち人間に変れり。諸人に憑き祟りて、奇瑞をなす。則、神と崇めて、国豊也。大きに荒るると書きて、大荒大明神と名付く。今の代に、霊験あらたか也。本地毘沙門天王にてまします。上宮太子、守屋の逆臣を平らげ給いし時も、かの河勝が神通方便の手にかかりて守屋は失せぬと云々。
かの河勝 欽明・敏達・用明・崇峻・推古・上宮太子に仕へ奉る。此芸をば子孫に伝へ、化人跡を留めぬによりて、摂津国難波の浦よりうつぼ船に乗りて、風にまかせて西海に出づ。播磨の国しゃくし(坂越)の浦に着く。
浦人舟を上げて見れば、かたち人間に変れり。諸人に憑き祟りて、奇瑞をなす。則、神と崇めて、国豊也。大きに荒るると書きて、大荒大明神と名付く。今の代に、霊験あらたか也。本地毘沙門天王にてまします。上宮太子、守屋の逆臣を平らげ給いし時も、かの河勝が神通方便の手にかかりて守屋は失せぬと云々。
秦河勝についてはこちらの記事も参照:【秦河勝とは?】
坂越の船祭り
坂越の船祭 |
坂越の船祭り(さこしのふなまつり)は、毎年10月の第2土日に行われる船祭です。
大避神社の縁起にある「皇極3年(644年)9月12日、秦河勝は蘇我入鹿の乱を避けて海路で坂越に漂着し、大化3年(647年)に坂越の地で没した」という伝承に基づいて、これを再現するべく江戸初期ころから始められた祭礼です。
この船祭の進行は2日間にわたって宵宮と本宮という形式で行われ、1日目の宵宮は、河勝が葬られたとされる生島の古墳前で墓前祭が行われ、この後 歌船が御船歌を奏しながら浦々を巡り、獅子舞が町内を巡るというものになっています。
2日目の本宮は、櫂伝馬船が坂越湾を巡った後、大避神の分霊を神輿に遷す御霊祭が行われ、猿田彦・神楽獅子を先頭にした神輿行列が神社を出て浜に向かいます。神輿が浜辺に到着すると櫂伝馬船も着船し、橋板バタ掛けが行われて御神体が神輿船に乗船します。この後、和船12隻が船行列を組んで巡航し、生島にある御旅所にて神事が行われます。神事が終わると浜に篝火が焚かれる中 船行列による還幸巡航が行われ、神輿行列も神社に戻ってきます。そして、拝殿にて宮入鎮座祭が行なわれると一連の祭事の終了となります(本宮は12:30~19:00まで行われる)。
この坂越の船祭りには、今でも伝統的な造船技法で和船が用いられることや、御歌・雅楽・演芸などに古来からの伝承を踏襲した伝統芸能的要素が数多く含まれていることから国内でも他に類例のない船祭として全国的に有名で、瀬戸内海三大船祭りの1つに数えられるほか、国の重要無形民俗文化財にも指定されています。
景教の神社説
ヤスライの井戸 |
大避神社の祭神である秦河勝(大避大神)は秦氏の出身ですが、この秦氏という渡来氏族は謎の多いことで有名です。古代朝鮮の百済系氏族であると説明されることが多いようですが、秦の始皇帝の後裔であるなど、様々な説が唱えられています。
その中には秦氏のルーツをユダヤ人とするものがあり、景教(ネストリウス派キリスト教)の研究者である佐伯好郎は「秦氏の大部分は景教徒のユダヤ人である」という説を唱えたとされています(いわゆる日ユ同祖論)。この説において佐伯氏は「大避神社の"大避"とは"避"と"闢"が類字であることなどから、本来は聖書に登場するダビデ王の漢訳である"大闢(ダヴィ、たいびゃく)"のことを指すものであり、ダビデ王を祀った神社である」と主張していたそうです。ちなみに京都の太秦にある大酒神社おいても「かつては昔は"大辟"、さらに遡れば"大闢"と号していた」の説を唱えていたとされますが、学術的にはほとんど支持されていないそうです。
しかし、秦氏に関する神社には奇妙な由来や建造物があることも多く、例えば京都の木嶋神社(蚕の社)には「三柱鳥居」という三本柱の鳥居があり、これについて佐伯氏は「三位一体を表現している」と主張しています。また秦河勝が建てた広隆寺には「いさら井」と呼ばれる井戸があり、佐伯氏は「これはイスラエルの転訛である。したがって秦氏は旧約聖書に登場する失われた10支族の末裔なのではないか」などと推察しているそうです。
ちなみに大避神社にも「ヤスライの井戸」と呼ばれる井戸がありますが、この呼称もイスラエルの転訛ではないかと言われています。また、当社の伝承によれば「秦河勝は、鼻が高く、西洋人顔であった」と伝えられているとされ、宝物の中には「高い鼻の面」もあります。これは「河勝公が自ら彫ったか聖徳太子から賜ったとされる1300年前の日本最古の面であり、みだりに目に触れさせてはならない」と伝えられてきた蘭陵王の面とされていますが、西洋人の顔のように見えなくもありません。果たして、秦氏は古代イスラエルとは無関係なのでしょうか?
12にまつわる謎
12×8枚の天井絵 |
上記で秦氏と景教(ネストリウス派キリスト教)に関連について紹介しましたが、大避神社にはキリスト教で重要視される「12」という数字にまつわる事柄が多数あります。これについては「秦河勝が12人の供人を伴っていたこと」にまつわると伝えられているそうですが、景教とは無関係なのでしょうか?
【大避神社の12にまつわる事柄】
・拝殿に向かう階段が12段
・境内のヤスライ井戸の石柱が12本
・神社への初穂料が12の倍数(昔は12銅)
・拝殿の天井絵が12×8枚
・坂越の船祭の祭礼日が旧暦の9月12日(河勝の漂着日)
・船渡御の祭礼船は12隻
・櫂伝馬船の漕ぎ手が12人
・神社を守る社家は12家
・拝殿に向かう階段が12段
・境内のヤスライ井戸の石柱が12本
・神社への初穂料が12の倍数(昔は12銅)
・拝殿の天井絵が12×8枚
・坂越の船祭の祭礼日が旧暦の9月12日(河勝の漂着日)
・船渡御の祭礼船は12隻
・櫂伝馬船の漕ぎ手が12人
・神社を守る社家は12家
境内の見どころ
鳥居
大避神社の鳥居です。
社頭
大避神社の社頭の様子です。
石段の数は12段となっています。
神門(表)
大避神社の神門(表)です。
表側には随神が祀られています。
神門(裏)
大避神社の神門(裏)です。
裏側には仁王像が祀られています(随神と仁王のセットは大変珍しいです)。
拝殿
大避神社の拝殿です。
板絵
大避神社の拝殿天井には多数の板絵が飾られています。
楽船
大避神社にある楽船です。
坂越の船祭で使用されたものであり、兵庫県の有形文化財に指定されています。
ヤスライの井戸
大避神社にあるヤスライの井戸です。
石柱の数が12であり、一説にヤスライという響きはイスラエルの転訛であるといわれています。
料金: 無料
住所: 兵庫県赤穂市坂越1299(マップ)
営業: 不明
交通: 坂越駅(徒歩30分)
公式サイト: http://ako-kankou.jp/sightseeing/osake-shrine.html
住所: 兵庫県赤穂市坂越1299(マップ)
営業: 不明
交通: 坂越駅(徒歩30分)
公式サイト: http://ako-kankou.jp/sightseeing/osake-shrine.html
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「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
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