神代神社 [島根県]
2019/03/16
島根県出雲市にある神代神社(かむしろじんじゃ)です。
『出雲国風土記』に登場する古社であり、主祭神に宇夜都辨命(宇夜都弁命)を祀っています。
また、当社の鎮座する山頂には石神と呼ばれる巨大な磐座があります。
神社概要
由緒
当社は『出雲国風土記』の「出雲郡条」に"神代社"として記載されている古社であり、主祭神の宇夜都辨命(ウヤツベノミコト)については同書の郷里を紹介する部分に「宇夜里と名付けられたわけは、宇夜都弁命が この郷の山の峰に天降り、この神が今でも当地に鎮座している。だから宇夜里という」と記されています。また、社伝によれば「宇夜都辨命は当地に天降って以降、開拓・耕作・漁・女の道など、住民を守り、教え賜う神である」と伝えられているとされます。
また、由緒書によれば 当社の創建年代は不明なものの、平安時代には延喜式内社となり、現在では当社裏山の山頂にある巨大な磐座を崇める石神信仰(巨石信仰)のパワースポットとして人気を集めているそうです。なお、配祀されている八幡神は高瀬城主・米原氏が勧請したもので、延宝元年(1673年)に合祀したとされています。
また、当社には古来より龍蛇神を祀って五穀豊穣を願うという信仰があり、これに基づいて総荒神祭という樹木に大龍をかたどった藁蛇を巻き付けて祀るといった特殊神事が今でも行われているそうです。
祭神
神代神社の祭神は以下の通りです。
【主祭神】
・宇夜都弁命(ウヤツベノミコト):出雲国風土記に登場する神で、当郷の山の峰に天降ったとされる
→ 社伝によれば女神であり、天降って以降 荒地を開拓し、色々な道を広めた開運神として崇められているとされる
→ 当社裏山の山頂に巨大な磐座があり、おそらくそれが天降った場所とされている
【配祀神】
・誉田別命(ホンダワケ):第15代応神天皇のことであり、八幡神として全国の八幡宮などで祀られる
・大穴牟遅命(オオナムチ):オオクニヌシの名で知られる出雲大社の主祭神
・大年神(オオトシノカミ):スサノオの子神で、『古事記』によればオオヤマクイの父神に当たる
・宇夜都弁命(ウヤツベノミコト):出雲国風土記に登場する神で、当郷の山の峰に天降ったとされる
→ 社伝によれば女神であり、天降って以降 荒地を開拓し、色々な道を広めた開運神として崇められているとされる
→ 当社裏山の山頂に巨大な磐座があり、おそらくそれが天降った場所とされている
【配祀神】
・誉田別命(ホンダワケ):第15代応神天皇のことであり、八幡神として全国の八幡宮などで祀られる
・大穴牟遅命(オオナムチ):オオクニヌシの名で知られる出雲大社の主祭神
・大年神(オオトシノカミ):スサノオの子神で、『古事記』によればオオヤマクイの父神に当たる
境内の見どころ
社号標
神代神社の社号標です。
石段
神代神社の石段です。
拝殿まで行くには勾配のある坂道を登っていく必要があります。
拝殿
神代神社の拝殿です。
本殿
神代神社の本殿です。
社日
神代神社の社日です。
社日は当地でよく祀られている五角形の石塔で、田の神を祀っているといわれています。
なお、この五角形の各面には天照大神・大己貴命・少彦名命・埴山姫命・倉稲魂命と刻まれています。
神代社旧跡
神代神社にある神代社旧跡です。
丸い石に「神代社 大己貴命 旧跡」と刻まれています。
山頂と磐座
山頂までの道のり
当社の拝殿付近には山頂まで登ることのできるルートがあり、山頂には「石神」と呼ばれる巨大な磐座があります。
山頂までの道のりには簡素な足場が設けられていますが、基本的には山道なので滑りやすく、また距離も思った以上に長いので「登山するつもり」で登ることが望ましいと思われます(往来するとかなり疲れます)。
なお、当社の入口付近には「貸出用の杖」が用意されているので、登山するつもりならば借りていった方が無難です。また山道の途中には「石神(巨石)信仰 吉祥」と記された案内板なんかも掲げられているので、迷うことは無いと思います。
石神(宇夜都辨命の磐座)
山頂には巨岩に注連縄の掛けられた「石神」が鎮座しています。
かなり巨大で かつ 周囲が断崖のように狭い足場になっているので全景を撮ることはできませんでしたが、どことなくパワーを感じるような立派なものになっていました。
しかし、具体的な由来や御利益などは示されていなかったので、どのような信仰があるのかは分かりません。ですが、磐座の前には『出雲国風土記』にある健部郷の一文が記された案内板がありました(内容は以下の通り)。
【由来】 ※読みやすいように意訳しています
健部郷(たけるべのさと)。
郡家の正東12里224歩なり。先に宇夜里(うやのさと)と名付けられたわけは、宇夜都弁命(うやつべのみこと)がその山の峰に天降ったためである。その神の社は今に至るまでここに鎮座している。なので宇夜里(うやのさと)という。
後に改めて健部と名付けられたわけは、纏向檜代宮御宇天皇(第12代景行天皇)が「私の御子 倭健命(やまとたける)の御名を忘れまい」という勅を発したので健部が定められることになり、神門臣古彌(かんどのおみこみ)を健部と定めたのである。よって健部臣らが古から今に至るまで此処を居に定めた。よって健部という。
健部郷(たけるべのさと)。
郡家の正東12里224歩なり。先に宇夜里(うやのさと)と名付けられたわけは、宇夜都弁命(うやつべのみこと)がその山の峰に天降ったためである。その神の社は今に至るまでここに鎮座している。なので宇夜里(うやのさと)という。
後に改めて健部と名付けられたわけは、纏向檜代宮御宇天皇(第12代景行天皇)が「私の御子 倭健命(やまとたける)の御名を忘れまい」という勅を発したので健部が定められることになり、神門臣古彌(かんどのおみこみ)を健部と定めたのである。よって健部臣らが古から今に至るまで此処を居に定めた。よって健部という。
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「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
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