人文研究見聞録:日光の天海大僧正の像

栃木県の日光東照宮の手前にある天海大僧正(てんかいだいそうじょう)の像です。


天海は、徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策や宗教政策などに深く関与した僧として知られていますが、その出自や前半生の記録が曖昧であるとされています。

また、関ヶ原の戦いの直前に突如、家康の側近として現れた不自然さから、只者ではない謎多き僧であるとも言われています。

そのため、その謎については多くの説が唱えられており、最も有名なのが「天海は明智光秀なのではないか?」という説なんだそうです。

その根拠の一つとして、日光東照宮には明智家の家紋である「桔梗紋」が多数ある事や、日光にある「明智平」という区域は天海が名付けたともされています。

なお、天海の明智光秀説として、以下の様な根拠が挙げられています。

天海の明智光秀説


  • 天海の出自が明らかでない。
  • 歴史から光秀が消え、天海が現れた時代が重なる。
  • 光秀と天海の筆跡が酷似している。
  • 光秀の木像と位牌があるのは「慈眼寺」であり、天海の戒名は「慈眼大師」。
  • 比叡山松禅寺に、「光秀」と書かれた石灯籠がある。
  • 日光の「明智平」は、天海が命名した。
  • 日光東照宮の陽明門の入り口の坐像に、桔梗紋(明智氏の家紋)が彫られている。
  • 徳川家の歴代将軍の名前が、明智家に因んでいる。
    • 秀忠、家光の名前は合わせると「光秀」になる
    • 他にも家綱、家継の名はそれぞれ光秀の父の光綱と祖父の光継からとったとも言われる
  • 大阪(岸和田市)の本徳寺の位牌、肖像画に謎の記録がある。
    • 位牌には「光秀が慶長四年(1599)に寺を開いた」と記されている
    • 肖像画には「光秀は出家して僧になった」と書かれている
  • 学僧であるはずの天海が関が原戦屏風に家康本陣に軍師として描かれている。
    • また、その時に着たとされる鎧が残っている
  • 光秀の家老、斎藤利三の娘「於福」が天海に会った時に「お久しぶりです」と声をかけた。
    • その後、3代将軍徳川家光の乳母(春日局)になった
  • 童謡「かごめかごめ」の歌詞に隠された天海の暗号が光秀=天海を示すという説。
    • 日光東照宮の奥宮には、実際に鶴と亀の像がある
    • 「つるとかめがすべった」は「敦賀と亀岡を統べた」という暗号であるという説がある
      • 敦賀と亀岡を統べた人物は明智光秀である

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著者: matapon Twitter
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。