秦氏とは?(秦氏と日本)
2015/08/31
秦氏(はたうじ)とは、古代より日本に大挙して渡来した渡来系の氏族です。
豊富な知識と技術を持ち、日本の文化に大きな影響を与えた技術集団だったとされています。
以下、秦氏の関連事項をまとめて解説したいと思います。
概要
秦氏の出自
日本史における秦氏は、応神天皇の時代に朝鮮半島の百済国より大挙して渡来して帰化した氏族とされています。
しかし、渡来時期や先祖については諸説あり、未だに決着が付いていないようです。
以下、伝承や文献における秦氏の来朝履歴をまとめて記載します。
・『徐福伝説』
→ 全国に残されている「徐福伝説」によれば「徐福」は日本に渡来してそのまま留まり、後裔が秦氏となったとされる
⇒ 中国文献の『史記』によれば、徐福は秦始皇帝の命を受けて、東方に不老不死の霊薬を探しに行ったとされる
⇒ 東方とは日本のことであると考えられており、その証拠に日本各地に「徐福伝説」が残されている
⇒ 徐福は紀元前3世紀頃の人物であり、皇紀で言えば第6代孝安天皇もしくは第7代孝霊天皇辺りの時代となる
・『秦氏本系帳』(秦氏の系図)
→ 第14代仲哀天皇の時代に渡来した功満王(こうまんおう)を祖とする
・『古事記』
→ 第15代応神天皇の時代に渡来したと記される
・『日本書紀』(正史)
→ 応神天皇14年(403年)に渡来した弓月君(ゆづきのきみ)を祖とする
・『新撰姓氏録』(平安時代に編纂された古代氏族名鑑)
→ 応神天皇14年(403年)に融通王(弓月君)が127県の民を率いて来朝したと記される
⇒ 古代中国の秦始皇帝の末裔であるとも記載されている
→ 全国に残されている「徐福伝説」によれば「徐福」は日本に渡来してそのまま留まり、後裔が秦氏となったとされる
⇒ 中国文献の『史記』によれば、徐福は秦始皇帝の命を受けて、東方に不老不死の霊薬を探しに行ったとされる
⇒ 東方とは日本のことであると考えられており、その証拠に日本各地に「徐福伝説」が残されている
⇒ 徐福は紀元前3世紀頃の人物であり、皇紀で言えば第6代孝安天皇もしくは第7代孝霊天皇辺りの時代となる
・『秦氏本系帳』(秦氏の系図)
→ 第14代仲哀天皇の時代に渡来した功満王(こうまんおう)を祖とする
・『古事記』
→ 第15代応神天皇の時代に渡来したと記される
・『日本書紀』(正史)
→ 応神天皇14年(403年)に渡来した弓月君(ゆづきのきみ)を祖とする
・『新撰姓氏録』(平安時代に編纂された古代氏族名鑑)
→ 応神天皇14年(403年)に融通王(弓月君)が127県の民を率いて来朝したと記される
⇒ 古代中国の秦始皇帝の末裔であるとも記載されている
秦氏の歴史
秦氏にまつわる大まかな歴史をまとめると以下のようになります。
・秦氏は、初めに豊前国(現・北九州)に入って拠点とし、後に中央政権へ進出していった
→ 大和国・山背国・河内国・摂津国などに入って土着し、土木や養蚕、機織などの技術を発揮して栄えた
⇒ 山背国では、葛野郡(現・京都市右京区太秦)、同紀伊郡(現・京都市伏見区深草)
⇒ 河内国では、讃良郡(現・大阪府寝屋川市太秦)
⇒ 摂津国では、豊嶋郡(現・大阪府池田市、豊中市、箕面市周辺?)
→ 山背国からは丹波国桑田郡(現・京都府亀岡市)にも進出し、湿地帯の開拓などを行った
・雄略天皇の時代には秦酒公が秦氏の伴造として各地の秦部・秦人の統率者となり、公の姓を与えられた
→ 『日本書紀』によれば、秦酒公は「太秦」の姓を賜り、その名を土地の名としたとされる
・欽明天皇の時代には秦大津父(おおつち)が伴造となって、大蔵掾に任ぜられた
→ 本宗家は朝廷の財務官僚として活動したとされる
⇒ 『日本書紀』によれば、欽明天皇の夢の中で「秦大津父を大事にせよ」という神託が下ったことがキッカケとされる
→ 現在の淀川の治水工事として、茨田堤を築堤する際に協力したとされる
→ 山背国においては桂川中流域、鴨川下流域を支配下におき、その発展に大きく寄与した
⇒ 山背国愛宕郡(現・京都市左京区、北区)の鴨川上流域を本拠地とした賀茂氏と関係が深かったとされる
・用明天皇~推古天皇の時代には秦河勝(はたのかわかつ)が聖徳太子の側近となって活躍した
→ 『聖徳太子伝暦』によれば「丁未の乱」の際に、物部軍の物部守屋の首を落としたのは秦河勝とされる
→ 荒陵に四天王寺を建立する際には、秦河勝が出資を担ったとされている
→ 秦河勝は太秦に広隆寺を建立した
・天武天皇14年(685年)の八色の姓では忌寸の姓を賜与された
→ 忌寸のほかにも公・宿禰などを称する家系があったとされる
・飛鳥末期より、秦氏は多くの神社を建立した
→ 秦氏は、松尾大社や伏見稲荷大社などを氏神として祀った
→ 秦氏は、現在の伊勢神宮の建立にも関わり、財力や技術力を提供したという説もある
→ 秦氏は、相模原にも上陸し、現在の秦野市の地域に入植してその名を現在に留めている
・平安遷都に際して、葛野郡の秦氏の財力・技術力が重要だったとする説もある
→ 平安時代には多くが惟宗氏を称するようになったが、秦氏を名乗る家系(楽家の東儀家など)も多く残った
→ 東家、南家などは松尾大社の社家に、西大路家、大西家などは伏見稲荷大社の社家となった
→ 大和国・山背国・河内国・摂津国などに入って土着し、土木や養蚕、機織などの技術を発揮して栄えた
⇒ 山背国では、葛野郡(現・京都市右京区太秦)、同紀伊郡(現・京都市伏見区深草)
⇒ 河内国では、讃良郡(現・大阪府寝屋川市太秦)
⇒ 摂津国では、豊嶋郡(現・大阪府池田市、豊中市、箕面市周辺?)
→ 山背国からは丹波国桑田郡(現・京都府亀岡市)にも進出し、湿地帯の開拓などを行った
・雄略天皇の時代には秦酒公が秦氏の伴造として各地の秦部・秦人の統率者となり、公の姓を与えられた
→ 『日本書紀』によれば、秦酒公は「太秦」の姓を賜り、その名を土地の名としたとされる
・欽明天皇の時代には秦大津父(おおつち)が伴造となって、大蔵掾に任ぜられた
→ 本宗家は朝廷の財務官僚として活動したとされる
⇒ 『日本書紀』によれば、欽明天皇の夢の中で「秦大津父を大事にせよ」という神託が下ったことがキッカケとされる
→ 現在の淀川の治水工事として、茨田堤を築堤する際に協力したとされる
→ 山背国においては桂川中流域、鴨川下流域を支配下におき、その発展に大きく寄与した
⇒ 山背国愛宕郡(現・京都市左京区、北区)の鴨川上流域を本拠地とした賀茂氏と関係が深かったとされる
・用明天皇~推古天皇の時代には秦河勝(はたのかわかつ)が聖徳太子の側近となって活躍した
→ 『聖徳太子伝暦』によれば「丁未の乱」の際に、物部軍の物部守屋の首を落としたのは秦河勝とされる
→ 荒陵に四天王寺を建立する際には、秦河勝が出資を担ったとされている
→ 秦河勝は太秦に広隆寺を建立した
・天武天皇14年(685年)の八色の姓では忌寸の姓を賜与された
→ 忌寸のほかにも公・宿禰などを称する家系があったとされる
・飛鳥末期より、秦氏は多くの神社を建立した
→ 秦氏は、松尾大社や伏見稲荷大社などを氏神として祀った
→ 秦氏は、現在の伊勢神宮の建立にも関わり、財力や技術力を提供したという説もある
→ 秦氏は、相模原にも上陸し、現在の秦野市の地域に入植してその名を現在に留めている
・平安遷都に際して、葛野郡の秦氏の財力・技術力が重要だったとする説もある
→ 平安時代には多くが惟宗氏を称するようになったが、秦氏を名乗る家系(楽家の東儀家など)も多く残った
→ 東家、南家などは松尾大社の社家に、西大路家、大西家などは伏見稲荷大社の社家となった
秦氏出身の有名な人物
古代に活躍したとされる秦氏出身の有名な人物を紹介します。
秦酒公(はたのさけきみ)
・『日本書紀』に登場し、第21代雄略天皇に仕えたとされる秦氏の伝説上の人物
・天皇が無実の木工・闘鶏御田(つげのみた)を処刑しようとしたとき、琴を弾いて歌い、誤りを悟らせた
・庸、調(租税)の絹や絹織物をうず高く積んで献上したことから、禹豆麻佐(うつまさ)の姓を与えられた
・京都市右京区太秦の大酒神社において、祭神として祀られている
秦河勝(はたのかわかつ)
・飛鳥時代に聖徳太子の側近として仕えた人物
・富裕な商人でもあり、朝廷の財政に関わっていたともいわれている
・『聖徳太子伝暦』によれば、「丁未の乱」の際に敵側の大将・物部守屋に止めを刺したとされる
・聖徳太子より弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしいぞう)を賜り、蜂岡寺(広隆寺)を建てそれを安置した
・第35代皇極天皇の時代に駿河国の富士川周辺で、大生部多を中心とする常世神を崇める集団を追討した
・赤穂の坂越で没したとされ、神域の生島には秦河勝の墓がある
・兵庫県の大避神社では、大避大神として祀られている
秦氏が創建に関与した神社と寺院
秦氏は、日本に多く分布する神社を建立していったとする説があります。秦氏の関わった神社
・伊勢神宮(三重県)
→ 現在の伊勢神宮建立(7世紀末)には、秦氏が財力や技術力を提供したとされている
⇒ 「元伊勢」の創建にも関わったとも
・香春神社(福岡県)
→ 崇神天皇の時代に建立されたという古社
⇒ 秦氏が古くは九州に上陸した際に建てたものとする説がある
・宇佐八幡宮(福岡県)
→ 八幡神社の総本社
⇒ 「八幡」の「幡」は「ハタ」を指すことから秦氏の神社でする説がある
⇒ 秦氏の支族である辛嶋氏の神社とも
・松尾大社(京都府)
→ 大山咋神(松尾大神)を祀る
⇒ 大山咋神(おおやまくいのかみ)は秦氏の神とされる
・伏見稲荷大社(京都府)
→ 秦氏である秦伊侶具が創建した
・愛宕神社(京都府)
・上賀茂神社(京都府)
→ 賀茂氏と秦氏は関連性があるとされる
・下鴨神社(京都府)
→ 賀茂氏と秦氏は関連性があるとされる
⇒ 下鴨神社にある糺(ただす)の池は、土用の丑の日に手足を洗う祭が行われる
⇒ かつて天皇家は、ここで禊(みそぎ)を行ったといわれる
・木嶋坐天照御魂神社(京都府太秦)
→ 蚕の社、木島神社とも
⇒ 蚕養神社の存在から、養蚕を生業としていた秦氏との関連性が見られるとされる
⇒ キリスト教ネストリウス派の三柱鳥居は、秦氏が持ち込んだとも
・大酒神社(京都府太秦)
→ 広隆寺付近に鎮座する秦氏の氏神を祀る神社
・大避神社(兵庫県)
→ 兵庫県赤穂市坂越にあり、秦河勝を祀る
⇒ 対岸の生島には秦河勝の墓がある
⇒ かつては「大闢神社」と書いており、「大闢」とは中国語で「ダビデ」と読むことから「ダビデ神社」とも
・出石神社(兵庫県豊岡市)
・子部神社(奈良県秦庄村)
・敢国神社(三重県)
・志呂志神社(滋賀県)
・兵主大社(滋賀県)
・日吉大社(滋賀県)
→ 大山咋神(松尾大神)を祀る
・金刀比羅宮(香川県)
→ 別名「旗宮(秦宮、はたのみや)」とも
・白山神社(本社は石川県)
→ 白山信仰の聖地である白山を開いた「泰澄(たいちょう)」は本名を「秦泰澄」といった
⇒ 事実、白山信仰のルーツは古代朝鮮にあるといわれる
⇒ 一説には、白山の白とは、新羅の発音「シルラ」に由来するともいう
・諏訪大社(長野県)
・鹿島神宮(茨城県)
⇒ 「元伊勢」の創建にも関わったとも
・香春神社(福岡県)
→ 崇神天皇の時代に建立されたという古社
⇒ 秦氏が古くは九州に上陸した際に建てたものとする説がある
・宇佐八幡宮(福岡県)
→ 八幡神社の総本社
⇒ 「八幡」の「幡」は「ハタ」を指すことから秦氏の神社でする説がある
⇒ 秦氏の支族である辛嶋氏の神社とも
・松尾大社(京都府)
→ 大山咋神(松尾大神)を祀る
⇒ 大山咋神(おおやまくいのかみ)は秦氏の神とされる
・伏見稲荷大社(京都府)
→ 秦氏である秦伊侶具が創建した
・愛宕神社(京都府)
・上賀茂神社(京都府)
→ 賀茂氏と秦氏は関連性があるとされる
・下鴨神社(京都府)
→ 賀茂氏と秦氏は関連性があるとされる
⇒ 下鴨神社にある糺(ただす)の池は、土用の丑の日に手足を洗う祭が行われる
⇒ かつて天皇家は、ここで禊(みそぎ)を行ったといわれる
・木嶋坐天照御魂神社(京都府太秦)
→ 蚕の社、木島神社とも
⇒ 蚕養神社の存在から、養蚕を生業としていた秦氏との関連性が見られるとされる
⇒ キリスト教ネストリウス派の三柱鳥居は、秦氏が持ち込んだとも
・大酒神社(京都府太秦)
→ 広隆寺付近に鎮座する秦氏の氏神を祀る神社
・大避神社(兵庫県)
→ 兵庫県赤穂市坂越にあり、秦河勝を祀る
⇒ 対岸の生島には秦河勝の墓がある
⇒ かつては「大闢神社」と書いており、「大闢」とは中国語で「ダビデ」と読むことから「ダビデ神社」とも
・出石神社(兵庫県豊岡市)
・子部神社(奈良県秦庄村)
・敢国神社(三重県)
・志呂志神社(滋賀県)
・兵主大社(滋賀県)
・日吉大社(滋賀県)
→ 大山咋神(松尾大神)を祀る
・金刀比羅宮(香川県)
→ 別名「旗宮(秦宮、はたのみや)」とも
・白山神社(本社は石川県)
→ 白山信仰の聖地である白山を開いた「泰澄(たいちょう)」は本名を「秦泰澄」といった
⇒ 事実、白山信仰のルーツは古代朝鮮にあるといわれる
⇒ 一説には、白山の白とは、新羅の発音「シルラ」に由来するともいう
・諏訪大社(長野県)
・鹿島神宮(茨城県)
秦氏の関わった寺院
・四天王寺(大阪府)
→ 四天王寺は、聖徳太子が創建の代表者であり、秦氏が財力や技術力を提供したとされる
・広隆寺(京都府)
→ 秦河勝によって創建された
・乙訓寺(京都府)
・宝菩観院(京都府)
・秦楽寺(奈良県)
→ 秦楽寺(じんがくじ)の門は中国風の建築様式から、秦氏が中国系渡来人であると称していたことがわかる。
・蟹満寺(京都府)
→ 功満王(こうまんおう)の名に由来するといわれる蟹満寺(かにまん)。
・法輪寺(奈良県)
・安養寺(京都府)
・広隆寺(京都府)
→ 秦河勝によって創建された
・乙訓寺(京都府)
・宝菩観院(京都府)
・秦楽寺(奈良県)
→ 秦楽寺(じんがくじ)の門は中国風の建築様式から、秦氏が中国系渡来人であると称していたことがわかる。
・蟹満寺(京都府)
→ 功満王(こうまんおう)の名に由来するといわれる蟹満寺(かにまん)。
・法輪寺(奈良県)
・安養寺(京都府)
備考
秦氏に関する異説
月刊オカルト情報誌の「ムー」でお馴染みの飛鳥昭雄氏によると、初代神武天皇は徐福であり、その後裔が大和民族となったとする説があります。
この説によれば、神武天皇の後裔に当たる皇室およびその子孫は、渡来氏族とされる秦氏であり大和民族となります。
また、秦氏はいわゆる聖書の民(セム人)の後裔であり、聖書において散り散りになった古代イスラエルの支族が、別々に日本に入国していったということなんだそうです。
なお、この説は定説では無いため、信じるか信じないかはあなた次第です。
秦王国
古代中国の隋代(6世紀末~7世紀初頭)を扱った歴史書の『隋書』には、倭国には「秦王国」とされる地域があったことが記録されており、以下のように記されています。
「翌年(608年)、文林郎裴清を倭国へ遣し、百済から竹嶋に到り、南に耽羅国と都斯麻国(対馬)を経て大海に出、東に一支国、竹斯国(筑紫)、また東で秦王国へと至る。その人々は華夏(中国人)と同じようで、なぜ夷州(野蛮な国)とするのか不明なり。」
要約すると、この時代に当時の中国と風習を同じくする民族が住んでいる地域があり、そこを「秦王国」と言ったということです。この記述からすると、百済国から来たとされる秦氏は、実はかつて大陸に居住していた民族であり、国々を転々としていた遊牧民族だったのではないかという仮説が浮かびます。
古代イスラエル人も遊牧民族であったため、飛鳥昭雄説もまんざら間違ってはいないのかもしれません。
考察
秦氏と日本人
古代史において、秦氏は「渡来系氏族=外国人」とされていますが、現代においては その定義は当てはまりません。
というのも、まず正史である『日本書紀』を中心とする各文献には「秦氏は大挙して日本に渡来してきた民族であり、天皇に仕えて そのまま帰化した」ということが記されています。
その数は7000戸であり約19万人とされています。当時の大和民族はこれよりも少数であったと言われることから、秦氏の流入以後、確実に混血が為されていると考えられます。
つまり、秦氏が大挙して日本に渡来してから1500年以上も経っている今、我々日本人のDNAにも確実に秦氏の遺伝子が入っていると言えるでしょう。よって、秦氏は現代人にとって先祖に当たるとも考えられます。
また、『日本書紀』と『三国志』の「魏志倭人伝」を読めばわかる事なのですが、我々日本人は単一民族ではありません。
これについて説明しますと、まず日本には原住民族※として、本州に「蝦夷(えみし、えぞ)」と九州南部に「熊襲(くまそ)」と呼ばれる民族が居たとされています。
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※厳密に言えば、「土蜘蛛(ツチグモ)」や「国栖(クズ)」、「八十梟帥(ヤソタケル)」など、人間離れした民族も居たとされています。
この原住民たちは、初代神武天皇が九州の高千穂から畿内へ東遷する際(神武東征)に皇軍に刃向ったことから敵視され、それ以降、幾度となく討伐されています。
例えば、崇神天皇の時代(前1世紀頃?)には四道将軍の派遣によって北陸、東海、西道、丹波は支配され、景行天皇の時代(2世紀頃?)にはヤマトタケルによって西征、東征が行われ、熊襲と蝦夷はそれぞれ討伐されています。
また中国文献の「魏志倭人伝(3世紀末)」には、当時の倭人の特徴として「男子はみな顔や体に入れ墨し、墨や朱や丹を塗っている」と記され、「牛・馬・虎・豹・羊・鵲(かささぎ)はいない」とも記されています。
一方『日本書紀』では、第17代履中天皇の時代に謀反を企んだとされる阿曇連浜子(あずみのむらじはまこ)に罰として入墨を刻んだとされています。大和民族は原住民の風習を罰として用いたことから、原住民とは別の民族であると言えると思います。
また、考古学においては、古墳時代後期(5~6世紀)より急に多数の馬の飼養が行われるようになり、馬の埋葬事例や埴輪の馬が増加したということが分かっています。
よって、大和民族が日本列島の原住民(出雲族を含む)と衝突し、土地の支配と同化政策を行ったことは明白です。
そのため、古代日本にはいくつかの異なる民族が住んでおり、それぞれが小国を築いていた多民族国家だったということが言えると思います。そして、時代が下るにつれて、力を持っていた大和民族に征服・支配され、同化されていったということなのでしょう。
また、『日本書紀』によると、応神天皇の時代に秦氏以外にも漢氏(あやうじ)が渡来し、かつ、朝鮮半島を経由して百済人や新羅人の一部が帰化したことが記されています。ちなみに、秦氏や漢氏は一説によると中国よりもさらに西からやってきたという説もあります。
そのほか、第38代天智天皇の時代には、「白村江の戦い」によって甚大な被害を受けた百済国の残党を帰化させて関東に住まわれたと記されています。
このことから、古代日本では既にかなりの国際化が為されていたことが分かります。よって、歴史学および考古学的に「日本人は単一民族では無く、多くの民族の混血民族である」と言えると思います。
また、遺伝学的にも日本人が単一民族では無いことが分かります。これは遺伝子診断を行うまでもなく、見た目で簡単に分かります。
どういうことかというと、日本人には大きく分けて2種類のタイプに分かれます。いわゆる「ソース顔」と「醤油顔」です。
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「ソース顔」は俗に「縄文系」とされ、「彫りが深く、毛深くて、全体的に濃い顔である」という特徴があります。また「醤油顔」は俗に「弥生系」とされ、「彫りが浅く、毛が薄くて、全体的に薄い顔である」という特徴があります。仮に単一民族であるとするならば、ここまでハッキリした特徴に分かれるものでしょうか?
また、個人的な経験則によりますが、九州南部から沖縄出身の方および東北地方から北海道出身の方は「縄文系」の特徴を持っていることが多く、畿内を中心とする本州一帯出身の方は「弥生系」の特徴を持っていることが多い傾向性にあります。
ただし、人々の居住区域で その傾向性が確実に分かれるワケではありません。つまり、遺伝学的にも、現在の日本人は大和民族および渡来系氏族や帰化人、そして原住日本人の混血で出来上がった民族であると言えるでしょう。
そして、こうした多方面から検証できる事実により、「日本人」とは民族によって定義される枠組みでは無く、日本という国家に所属する国民として定義される枠組みであると言え、いわゆる「民族主義」で唱えられるナショナリズムは、歴史的根拠のない幻想であると言い換えることが言えます。
昨今、誤った知識による民族差別のヘイトスピーチが横行していますが、冷静に歴史を紐解いていけば ただの戯言に過ぎません。ゆえに我々日本人は、正しい日本を知るために、神代より続く歴史を「神話」から学び直す必要がある時期なのだと思います。
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「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
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コメント
2 件のコメント :
「百済から竹嶋に到り」は倭国に行くための経路です。
秦王国人が百済から来たという意味ではありません。
倭国へ行こうとしたら秦王国が途中にあった・・・という意味です。
それと、一時の大規模渡来という説は近年の研究で否定されています。
どちらかと言えば断続的な小規模渡来です。
中国南部と北九州に残る遺伝子の類似性は証明されているので、徐福伝説は興味深い所です。
>>匿名さんへ
『隋書』の記述は、隋の使節による日本についての報告であり、「6世紀末~7世紀初頭の日本(筑紫より東)には"秦王国"という"中国に類似した地域"が存在した」と言っているものと思われます。
日本史における秦氏の渡来は応神朝(5世紀頃)とされているため、「隋書の内容=秦王国人が百済から来た」とは"ならない"と思います(「百済から竹嶋に到り…」は直接的な秦氏の渡来を指すものではない)。
ただ、初めての渡来から1~2世紀経った時代、隋の使節が「日本で中国に似た風習を持つ秦王国なる地域を発見した」と記していることから、表面的には百済から渡来した一族であるとされる秦氏は、実は中国大陸を経由して渡来してきた一族であったのではないかと考えることができます。
個人的には秦氏は中国よりも さらに西を起源とする一族であると考えているため、参考までに「秦王国」を載せておきました。
また、「大規模渡来説の否定」についての出典を教えていただけるとありがたいです。
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