大和神社 [奈良県]
2015/09/13
奈良県天理市にある大和神社(おおやまとじんじゃ)です。
『日本書紀』にも登場する古社であり、祭神に大地主神(倭大国魂神)を祀っています。
また、戦艦大和ゆかりの神社としても知られており、当時は艦内にも祭神が祀られていたそうです。
神社概要
由緒
由緒書によれば、当社は第10代崇神天皇の御代に宮中で祀られていた大地主神(倭大国魂神)が、皇女・渟名城入姫命(ヌナキイリヒメ)によって大和郷(現地)に遷し祀られたことに始まるとされます(崇神天皇6年の創祀とされる)。
創祀については国史である『日本書紀』にも記されており、この記述から推定される当初の鎮座地は現在地よりも東の山麓大市の長岡崎であると考えられており、後に現在地に遷座したと考えられているそうです。
なお、由緒書による説明は以下の通りです。
【由緒書 その1】
当神社は日本の全国土の大地大神で、第十代崇神天皇が宮中より当地に祀り御鎮座される(約二千数十年前)。
延喜式に大社大和坐大國魂神社三座との宮中三殿式の特異な御社殿です。
【由緒書 その2】
大和大明神 日本最古の神社 大和神社(おおやまとじんじゃ)
まほろばなる大和平野に長い森を列ねて鎮座する神々は、第十代崇神天皇六年(2000余年前)まで皇居内に天照大神と共に奉斎されていた大地主(おおとこぬし)に坐(ま)します。皇女・渟名城入姫命(ヌナキイリヒメ)により大和郷(現地)に移されたのが当神社の創建。
往古より、わが国に文化・産業をもたらした遣唐使も交通安全を祈願され、万葉集「好去好来」にうたわれています。また、戦中は世界最大最強を誇る"戦艦大和"の守護神として祀られました。同艦の伊藤整一命外は祖霊社に合祀されています。
当神社は日本の全国土の大地大神で、第十代崇神天皇が宮中より当地に祀り御鎮座される(約二千数十年前)。
延喜式に大社大和坐大國魂神社三座との宮中三殿式の特異な御社殿です。
【由緒書 その2】
大和大明神 日本最古の神社 大和神社(おおやまとじんじゃ)
まほろばなる大和平野に長い森を列ねて鎮座する神々は、第十代崇神天皇六年(2000余年前)まで皇居内に天照大神と共に奉斎されていた大地主(おおとこぬし)に坐(ま)します。皇女・渟名城入姫命(ヌナキイリヒメ)により大和郷(現地)に移されたのが当神社の創建。
往古より、わが国に文化・産業をもたらした遣唐使も交通安全を祈願され、万葉集「好去好来」にうたわれています。また、戦中は世界最大最強を誇る"戦艦大和"の守護神として祀られました。同艦の伊藤整一命外は祖霊社に合祀されています。
祭神
大和神社の祭神は以下の通りです。
主祭神
・(中殿)日本大国魂大神(ヤマトオオクニタマ):日本の全国土の大地大神とされる(由緒書による)
→ 別名:大地主大神(オオトコヌシ)、大己貴神荒魂(オオナムチノアラミタマ)
→ 異説:大国魂神(神社要録)、大倭大明神(元要記)、大年神(元要記一説)、大國魂神(宝暦9年の祭神)
・(左殿)八千戈大神(ヤチホコノオオカミ):大国主の別名とされる
→ 異説:大歳神(神社要録)、三輪大明神(元要記)、大國魂神(元要記一説)、大己貴神(宝暦9年の祭神)
・(右殿)御年大神(ミトシノオオカミ):大歳神の御子神とされる(『古語拾遺』にも登場)
→ 異説:須沼比神(神社要録)、天照大神(元要記)、稲倉魂神(元要記一説)、大年神(宝暦9年の祭神)
※異説:社伝とは別の記録・文献に載っている祭神を指す
・(中殿)日本大国魂大神(ヤマトオオクニタマ):日本の全国土の大地大神とされる(由緒書による)
→ 別名:大地主大神(オオトコヌシ)、大己貴神荒魂(オオナムチノアラミタマ)
→ 異説:大国魂神(神社要録)、大倭大明神(元要記)、大年神(元要記一説)、大國魂神(宝暦9年の祭神)
・(左殿)八千戈大神(ヤチホコノオオカミ):大国主の別名とされる
→ 異説:大歳神(神社要録)、三輪大明神(元要記)、大國魂神(元要記一説)、大己貴神(宝暦9年の祭神)
・(右殿)御年大神(ミトシノオオカミ):大歳神の御子神とされる(『古語拾遺』にも登場)
→ 異説:須沼比神(神社要録)、天照大神(元要記)、稲倉魂神(元要記一説)、大年神(宝暦9年の祭神)
※異説:社伝とは別の記録・文献に載っている祭神を指す
境内社
摂社・高龗神社
大和神社の摂社である高龗神社(たかおかみじんじゃ)です。
崇神天皇の御代に創祀された古社であり、祭神に水神・高龗大神(タカオカミ)を祀っています。
なお、由緒書による説明は以下の通りです。
【由緒書 その1】
商売を計る 天候を司る 高龗神社
日本大國魂大神の使神は龍体に坐しまして、変化自在に天翔し、神威を崇敬者に齎し護り給う。
特に商売を栄えさせ、かつ、水利を授けます。天候を司れば多雨・早天の客を除き給う。暴雨にも災害から護ります。
【由緒書 その2】
高龗神社 祈雨神祭(きうしんさい)について
大和神社の摂社である御祭神は雨師大神すなわち水神様で、崇神天皇の時に渟名城入姫命をして穂積長柄岬(現・新泉星山)に創祀される。
古来より6月1日、10日に一度の大祭には、和歌山・吉野・宇陀 その他の近在する村々から千人余りもの参拝者の列が続いたとある。先頭に丹生川上神社の中・下社が金御幣を持ち、後尾は末社の狭井神社が勤めた。
茅原上の道を経て、箸墓裾で休憩、大倭柳本邑(おおやまとやなぎもとむら)に入り、長岡岬、大市坐皇女渟名城入姫斎持御前の井戸で祓い清める。神職は輿と共に神橋を渡り、笠縫邑から神社へ向かう。
社は古代伊勢神宮と同じ建築様式で、江戸時代の建立になる。昭和25年の台風により被害を受け、半壊する。
【祭神】
・高龗大神(タカオカミ):当社では水神であり、龍体であることから変化自在に天翔すると説明される
→ 天候を司り、商売繁盛に神徳があるとされる
商売を計る 天候を司る 高龗神社
日本大國魂大神の使神は龍体に坐しまして、変化自在に天翔し、神威を崇敬者に齎し護り給う。
特に商売を栄えさせ、かつ、水利を授けます。天候を司れば多雨・早天の客を除き給う。暴雨にも災害から護ります。
【由緒書 その2】
高龗神社 祈雨神祭(きうしんさい)について
大和神社の摂社である御祭神は雨師大神すなわち水神様で、崇神天皇の時に渟名城入姫命をして穂積長柄岬(現・新泉星山)に創祀される。
古来より6月1日、10日に一度の大祭には、和歌山・吉野・宇陀 その他の近在する村々から千人余りもの参拝者の列が続いたとある。先頭に丹生川上神社の中・下社が金御幣を持ち、後尾は末社の狭井神社が勤めた。
茅原上の道を経て、箸墓裾で休憩、大倭柳本邑(おおやまとやなぎもとむら)に入り、長岡岬、大市坐皇女渟名城入姫斎持御前の井戸で祓い清める。神職は輿と共に神橋を渡り、笠縫邑から神社へ向かう。
社は古代伊勢神宮と同じ建築様式で、江戸時代の建立になる。昭和25年の台風により被害を受け、半壊する。
【祭神】
・高龗大神(タカオカミ):当社では水神であり、龍体であることから変化自在に天翔すると説明される
→ 天候を司り、商売繁盛に神徳があるとされる
摂社・増御子神社
大和神社の摂社・増御子神社(ますみこじんじゃ)です。
知恵の神とされ、受験・就職・産業開発に御利益があるとされています。
【祭神】
・猿田彦神(サルタヒコ):天孫降臨の際に天孫を道案内したとされる神
・天鈿女命(アメノウズメ):天照大神の岩戸隠れの際に舞い踊った神であり、芸能の祖として信仰される
・市磯長尾市氏命(イチシノナガオチ):神武天皇の功臣・椎根津彦の子孫
・猿田彦神(サルタヒコ):天孫降臨の際に天孫を道案内したとされる神
・天鈿女命(アメノウズメ):天照大神の岩戸隠れの際に舞い踊った神であり、芸能の祖として信仰される
・市磯長尾市氏命(イチシノナガオチ):神武天皇の功臣・椎根津彦の子孫
末社・祖霊社
大和神社の末社である祖霊社(それいしゃ)です。
明治7年に創建された社であり、大国主命をはじめ、当社の氏子や戦艦大和の戦没英霊などを祀っています。
なお、由緒書による説明は以下の通りです。
【由緒】
明治政府の官許のもと、古代より代々にわたって大和神社の祭祀を担ってきた大和郷(朝和地区)の氏子各家の祖霊を奉斎するために創建された。
毎年、秋の例大祭には大和神道御霊之社信徒祖霊の分霊が合祀されて、大和郷の守り神となられた。当時、官弊大社に列せられた神社の中で、国家が境内に祖霊社を建立することを許可したのは当社のみである。
ちなみに、大和神社本殿改築の折、御祭神の大国魂神が祀られていた本殿を当地に移築して祖霊社とした。
後の昭和28年、戦艦大和の英霊2736柱、昭和47年には巡洋艦矢矧 ならびに駆逐艦8隻の英霊985柱が合祀されて今日に至る。
【祭神】
・大国主命(オオクニヌシ):国造りの神で出雲大社の主祭神として知られる
・大和郷(朝和地区)の氏子祖霊
・大和神道御霊之社信徒祖霊
・戦艦大和他戦没英霊
明治政府の官許のもと、古代より代々にわたって大和神社の祭祀を担ってきた大和郷(朝和地区)の氏子各家の祖霊を奉斎するために創建された。
毎年、秋の例大祭には大和神道御霊之社信徒祖霊の分霊が合祀されて、大和郷の守り神となられた。当時、官弊大社に列せられた神社の中で、国家が境内に祖霊社を建立することを許可したのは当社のみである。
ちなみに、大和神社本殿改築の折、御祭神の大国魂神が祀られていた本殿を当地に移築して祖霊社とした。
後の昭和28年、戦艦大和の英霊2736柱、昭和47年には巡洋艦矢矧 ならびに駆逐艦8隻の英霊985柱が合祀されて今日に至る。
【祭神】
・大国主命(オオクニヌシ):国造りの神で出雲大社の主祭神として知られる
・大和郷(朝和地区)の氏子祖霊
・大和神道御霊之社信徒祖霊
・戦艦大和他戦没英霊
朝日神社・事代主神社・厳島神社
大和神社の境内社である朝日神社・事代主神社・厳島神社です。
これらの説明は以下の通りです(右から順に解説)。
【摂社】
・朝日神社:朝日豊明姫神(天照皇大神)を祀り、殖産を興し交易を奨め給う
【末社】
・事代主神社:事代主神(えびす)を祀り、織物を繁栄させ一言の願時を叶える
・厳島神社:厳島大神(市杵島姫命)を祀り、美容・弦楽の技を司り、水産の葉を奨め給う
・朝日神社:朝日豊明姫神(天照皇大神)を祀り、殖産を興し交易を奨め給う
【末社】
・事代主神社:事代主神(えびす)を祀り、織物を繁栄させ一言の願時を叶える
・厳島神社:厳島大神(市杵島姫命)を祀り、美容・弦楽の技を司り、水産の葉を奨め給う
関連知識
『日本書紀』による大和神社の創建伝承
当社の創建については『日本書紀』にも記されており、その内容は以下のようになっています。
【崇神天皇記】
第10代崇神天皇5年、国中で疫病が流行り、国民の半数が死亡した。翌年、百姓の中から流浪する者や背く者が現れたことから、ますます国が荒廃していき、徳(うつくしび)を持って治めることが難しくなった。そのため、朝まで寝ずに神祇を祀り、疫病の平癒を祈願したのである。
これ以前のこと、天照大神(アマテラス)・倭大國魂神(ヤマトオオクニタマ)の二神は、皇居の中で並べて祀られていた。そこで、天照大神を豊鋤入姫命(トヨスキイリヒメ)に付けて倭の笠縫邑に祀ることにした。豊鋤入姫命は磯堅城(しかたき)に神籬(ひもろぎ)を立てて神を祀った。また、倭大國魂神は渟名城入姫命(ヌナキイリヒメ)に付けて祀ることにしたが、渟名城入姫命は髪が抜け落ちて祀ることができなかった。
天皇は、自らの代に厄災が頻発するのは、自身の政に対して神祇が咎を与えているのではないかと考え、これを占って原因を探ろうと、神浅茅原に行って八十万神を招き、占いで問いかけることにした。
すると、倭迹々日百襲姫命(ヤマトトトモモソヒメ)が神懸かり、「天皇よ、国が治まらないことを憂いているのか、ならば我を祀れば国を平穏にしよう」と言った。そこで、天皇が神に正体を問うと「我は倭国にいる大物主神である」と答えた。
天皇は神託の通りに大物主神を祀ったが良くならなかったので、身を清めて再び神に祈りを捧げ その神意を問うた。すると、その晩の夢に高貴な者が現れて「我は大物主神である。国が治まらないのは我の意思である。我が子孫の大田々根子(オオタタネコ)に我を祀らせれば、国は平穏になり海外の国も自然と従うだろう」と教えた。
この後、倭迹速神淺茅原目妙姫、大水口宿禰、伊勢麻績君の三人が同じ夢を見たと言い、その内容は「夢に一人の高貴な人が現れて"大田々根子命を大物主の神主とし、市磯長尾市(イチシノナガオチ)を倭大國魂神の神主とすれば必ず天下太平となる"と教えてくれた」というものであった。
天皇は歓び、神託の通りに大田々根子命を探させると、やがて茅渟縣の陶邑にて大田々根子を見つけ出した。そこで物部連の祖先の伊香色雄に占わせると吉と出たため、大田々根子を大物主大神の神主とし、長尾市を倭大国魂神の神主とした。また、別に八十万神を祀り、天社・國社・神地・神戸を定めた。
すると疫病が止み、ようやく国が鎮まり始めた。そして、五穀が実って百姓も活気を取り戻すことになった。
第10代崇神天皇5年、国中で疫病が流行り、国民の半数が死亡した。翌年、百姓の中から流浪する者や背く者が現れたことから、ますます国が荒廃していき、徳(うつくしび)を持って治めることが難しくなった。そのため、朝まで寝ずに神祇を祀り、疫病の平癒を祈願したのである。
これ以前のこと、天照大神(アマテラス)・倭大國魂神(ヤマトオオクニタマ)の二神は、皇居の中で並べて祀られていた。そこで、天照大神を豊鋤入姫命(トヨスキイリヒメ)に付けて倭の笠縫邑に祀ることにした。豊鋤入姫命は磯堅城(しかたき)に神籬(ひもろぎ)を立てて神を祀った。また、倭大國魂神は渟名城入姫命(ヌナキイリヒメ)に付けて祀ることにしたが、渟名城入姫命は髪が抜け落ちて祀ることができなかった。
天皇は、自らの代に厄災が頻発するのは、自身の政に対して神祇が咎を与えているのではないかと考え、これを占って原因を探ろうと、神浅茅原に行って八十万神を招き、占いで問いかけることにした。
すると、倭迹々日百襲姫命(ヤマトトトモモソヒメ)が神懸かり、「天皇よ、国が治まらないことを憂いているのか、ならば我を祀れば国を平穏にしよう」と言った。そこで、天皇が神に正体を問うと「我は倭国にいる大物主神である」と答えた。
天皇は神託の通りに大物主神を祀ったが良くならなかったので、身を清めて再び神に祈りを捧げ その神意を問うた。すると、その晩の夢に高貴な者が現れて「我は大物主神である。国が治まらないのは我の意思である。我が子孫の大田々根子(オオタタネコ)に我を祀らせれば、国は平穏になり海外の国も自然と従うだろう」と教えた。
この後、倭迹速神淺茅原目妙姫、大水口宿禰、伊勢麻績君の三人が同じ夢を見たと言い、その内容は「夢に一人の高貴な人が現れて"大田々根子命を大物主の神主とし、市磯長尾市(イチシノナガオチ)を倭大國魂神の神主とすれば必ず天下太平となる"と教えてくれた」というものであった。
天皇は歓び、神託の通りに大田々根子命を探させると、やがて茅渟縣の陶邑にて大田々根子を見つけ出した。そこで物部連の祖先の伊香色雄に占わせると吉と出たため、大田々根子を大物主大神の神主とし、長尾市を倭大国魂神の神主とした。また、別に八十万神を祀り、天社・國社・神地・神戸を定めた。
すると疫病が止み、ようやく国が鎮まり始めた。そして、五穀が実って百姓も活気を取り戻すことになった。
【垂仁天皇記(異伝)】
ある書によれば、垂仁天皇は倭姫命(ヤマトヒメ)を御杖代として天照大神(アマテラス)に奉った後、倭姫命は天照大神を磯城の嚴橿(イツカシ)の根元に祀った。
垂仁天皇26年10月、伊勢国の渡遇宮(ワタライノミヤ)に移ると、倭大神(倭大國魂神)が穂積臣の遠祖の大水口宿禰(オオミクチノスクネ)に降りて このように教えた。
「太初(イザナギの時代)のとき、"天照大神は天原(天界)を治め、その子孫の皇御孫尊(スメマミコト)は葦原中国の八十魂神を治めることとし、我は大地官(地主の神)を治める"と約束した。しかし、先代の御間城天皇(崇神天皇)が神祇を祭祀した時に その源根を探らずに粗(オロソカ)に枝葉に留めた。よって天皇の命は短いのである。今の天皇は、前の天皇が出来なかったことを悔いて慎み、正しく祀れば、天皇の命は長くなり、天下は太平になるだろう」
これを聞いた天皇は、すぐに中臣連の祖の探湯主(クカヌシ)を呼んで、大倭大神(倭大國魂神)を祀らせるべき人物を占わせた。すると、渟名城稚姫命(ヌナキワカヒメ)と出たため、神地を穴磯邑に定めて、渟名城稚姫命に大市の長岡岬に大倭大神(倭大國魂神)を祀らせることにした。
しかし、渟名城稚姫命は病んで身体が弱り、神を祀ることはできなくなってしまった。そこで、大倭直の祖である長尾市宿禰(ナガオチノスクネ)に命じて祀らせることにした。
ある書によれば、垂仁天皇は倭姫命(ヤマトヒメ)を御杖代として天照大神(アマテラス)に奉った後、倭姫命は天照大神を磯城の嚴橿(イツカシ)の根元に祀った。
垂仁天皇26年10月、伊勢国の渡遇宮(ワタライノミヤ)に移ると、倭大神(倭大國魂神)が穂積臣の遠祖の大水口宿禰(オオミクチノスクネ)に降りて このように教えた。
「太初(イザナギの時代)のとき、"天照大神は天原(天界)を治め、その子孫の皇御孫尊(スメマミコト)は葦原中国の八十魂神を治めることとし、我は大地官(地主の神)を治める"と約束した。しかし、先代の御間城天皇(崇神天皇)が神祇を祭祀した時に その源根を探らずに粗(オロソカ)に枝葉に留めた。よって天皇の命は短いのである。今の天皇は、前の天皇が出来なかったことを悔いて慎み、正しく祀れば、天皇の命は長くなり、天下は太平になるだろう」
これを聞いた天皇は、すぐに中臣連の祖の探湯主(クカヌシ)を呼んで、大倭大神(倭大國魂神)を祀らせるべき人物を占わせた。すると、渟名城稚姫命(ヌナキワカヒメ)と出たため、神地を穴磯邑に定めて、渟名城稚姫命に大市の長岡岬に大倭大神(倭大國魂神)を祀らせることにした。
しかし、渟名城稚姫命は病んで身体が弱り、神を祀ることはできなくなってしまった。そこで、大倭直の祖である長尾市宿禰(ナガオチノスクネ)に命じて祀らせることにした。
『ホツマツタヱ』に見るヤマトヲヲコノミタマカミ(倭大国魂神)
『日本書紀』における倭大国魂神は「崇神天皇記」が初出であり、神代の神話には登場していません。そのため、"崇神天皇の代まで、天照大御神と共に宮中で祀られていた"ということ以外の情報は不明となっています。
しかし、神代文字で記された文献である『ホツマツタヱ』には、倭大国魂神の正体と その経緯が詳しく記されています。そこで その内容をまとめてみたいと思います。
【『ホツマツタヱ』における倭大国魂神とは?】
結論から言えば『ホツマツタヱ』における倭大国魂神は、オホナムチ(大己貴神)の子である「クシヒコ」になります。
この「クシヒコ」とは、『記紀』における事代主神(コトシロヌシ)に当たり、現在では恵比須神として全国の恵比須神社などで祀られています(ただし、ヒルコとする場合もある)。
『記紀』では事代主神は「国譲り」の段で登場する程度で ほとんど触れられることはないのですが、『ホツマツタヱ』においてはオホナムチが出雲を拠点に威勢を放っていた時代からニニキネ(瓊々杵尊)が即位する前まで活躍し、多くの実績を残しています。
【クシヒコの来歴】
・オホナムチ(大己貴神)がタケコ(田心姫神)を妻として生まれたのがクシヒコ(事代主神)である
→ タケコはアマテル(天照大御神)の娘になるため、クシヒコはアマテルの孫に当たる
・大物主(役職名)のオホナムチは、自分の代役を務めさせるためにクシヒコを事代主(役職名)とした
→ オホナムチが出雲の経営に専念していたため、クシヒコが代わって天(中央政府)に仕えた
・フトマニ(占い)で「出雲の謀反」を示す結果が出たため、カシマ立ち(国譲り)を迫られることになった
→ この際、クシヒコは「副臣が威勢を極めるだけ愚かなこと」として、オホナムチに出雲を去ることを薦めた
・カシマ立ちの後、タカキネ(高木神)の娘のミホツヒメを娶って2代目大物主となる
→ この際に賜ったヨロギの地に宮を建て、千草万木の植えて医薬の道を開いたとされる
・クシタマホノアカリ(櫛玉火明命)が大和に下ることになった際にモノノベ(役人)を率いて同行する
→ クシタマホノアカリが遷宮した翌日に、凶兆を見て再び遷宮しようとしたことに異議を唱えて失脚する
・この後、ニニキネ(瓊々杵尊)に召されてニハリの開拓に同行する
→ この際に「宮造りの法」の制定を命じられ、これを成したことからヲコヌシ(大国主)の称号を与えられる
・この後、アマテルとの問答で人格を認められたことから、天逆矛を譲り受ける
→ 同時にアマテルよりヤマトヲヲコノミタマカミ(倭大国魂神)の称号を与えられる
・クシヒコが12万8100歳のときに区切りをつけ、ミモロヤマ(三輪山)の洞に隠れて現世を去った
→ この際、トヨケノリ(地上界を守る法)を守ると誓い、天逆矛を曝け出して洞の中に籠ったとされる
・人皇の代には三種宝の一である八重垣剣にオオクニタマカミの神霊が宿っているとされていた
→ 崇神天皇の御代に宮中から出されることになり、ヌナギヒメによって山辺の里に祀られた(大和神社の創祀)
・ヱミス(恵美姿・恵比須)もクシヒコを指すとされる
→ フトマニ(文献)に「延の縄の 釣はヱミスの 程々に 鮎と鯛との 富ぞ招ける」とある
結論から言えば『ホツマツタヱ』における倭大国魂神は、オホナムチ(大己貴神)の子である「クシヒコ」になります。
この「クシヒコ」とは、『記紀』における事代主神(コトシロヌシ)に当たり、現在では恵比須神として全国の恵比須神社などで祀られています(ただし、ヒルコとする場合もある)。
『記紀』では事代主神は「国譲り」の段で登場する程度で ほとんど触れられることはないのですが、『ホツマツタヱ』においてはオホナムチが出雲を拠点に威勢を放っていた時代からニニキネ(瓊々杵尊)が即位する前まで活躍し、多くの実績を残しています。
【クシヒコの来歴】
・オホナムチ(大己貴神)がタケコ(田心姫神)を妻として生まれたのがクシヒコ(事代主神)である
→ タケコはアマテル(天照大御神)の娘になるため、クシヒコはアマテルの孫に当たる
・大物主(役職名)のオホナムチは、自分の代役を務めさせるためにクシヒコを事代主(役職名)とした
→ オホナムチが出雲の経営に専念していたため、クシヒコが代わって天(中央政府)に仕えた
・フトマニ(占い)で「出雲の謀反」を示す結果が出たため、カシマ立ち(国譲り)を迫られることになった
→ この際、クシヒコは「副臣が威勢を極めるだけ愚かなこと」として、オホナムチに出雲を去ることを薦めた
・カシマ立ちの後、タカキネ(高木神)の娘のミホツヒメを娶って2代目大物主となる
→ この際に賜ったヨロギの地に宮を建て、千草万木の植えて医薬の道を開いたとされる
・クシタマホノアカリ(櫛玉火明命)が大和に下ることになった際にモノノベ(役人)を率いて同行する
→ クシタマホノアカリが遷宮した翌日に、凶兆を見て再び遷宮しようとしたことに異議を唱えて失脚する
・この後、ニニキネ(瓊々杵尊)に召されてニハリの開拓に同行する
→ この際に「宮造りの法」の制定を命じられ、これを成したことからヲコヌシ(大国主)の称号を与えられる
・この後、アマテルとの問答で人格を認められたことから、天逆矛を譲り受ける
→ 同時にアマテルよりヤマトヲヲコノミタマカミ(倭大国魂神)の称号を与えられる
・クシヒコが12万8100歳のときに区切りをつけ、ミモロヤマ(三輪山)の洞に隠れて現世を去った
→ この際、トヨケノリ(地上界を守る法)を守ると誓い、天逆矛を曝け出して洞の中に籠ったとされる
・人皇の代には三種宝の一である八重垣剣にオオクニタマカミの神霊が宿っているとされていた
→ 崇神天皇の御代に宮中から出されることになり、ヌナギヒメによって山辺の里に祀られた(大和神社の創祀)
・ヱミス(恵美姿・恵比須)もクシヒコを指すとされる
→ フトマニ(文献)に「延の縄の 釣はヱミスの 程々に 鮎と鯛との 富ぞ招ける」とある
参考サイト:クシヒコ(ホツマツタヱ解読ガイド)、ヤマトヲヲコノミタマカミ(ホツマツタヱ解読ガイド)
戦艦大和ゆかりの神社
当社は戦艦大和ゆかりの神社であり、戦艦大和の艦内には大和神社の祭神が祀られていたとされます。
そのため、当社の末社・祖霊社には戦艦大和の戦没英霊が祀られているのだそうです。
なお、案内板による説明は以下の通りです。
大和神社は戦艦大和ゆかりの神社です
戦艦大和には大和神社の御分霊が祀られています。
奈良時代、遣唐使らは出発に際して必ず大和神社へ航海安全の祈願に参詣されました。そうした御縁があって戦艦大和の艦上に大和神社の御分霊が祀られていました。
昭和16年、大和神社を描いた堂本印象画伯作「戦艦大和守護神」は戦艦大和の館長室に掲げられていました(広島県江田島市 海上自衛隊 第一術科学校 教育参考館所蔵)
祖霊社には、戦艦大和が撃沈した時の殉死者2736名の御霊が祀られています。戦艦大和の長さは大和神社の参道とほぼ同じ270mで、幅は参道の約5倍40mです。
戦艦大和には大和神社の御分霊が祀られています。
奈良時代、遣唐使らは出発に際して必ず大和神社へ航海安全の祈願に参詣されました。そうした御縁があって戦艦大和の艦上に大和神社の御分霊が祀られていました。
昭和16年、大和神社を描いた堂本印象画伯作「戦艦大和守護神」は戦艦大和の館長室に掲げられていました(広島県江田島市 海上自衛隊 第一術科学校 教育参考館所蔵)
祖霊社には、戦艦大和が撃沈した時の殉死者2736名の御霊が祀られています。戦艦大和の長さは大和神社の参道とほぼ同じ270mで、幅は参道の約5倍40mです。
境内の見どころ
鳥居
大和神社の鳥居です。
拝殿
大和神社の拝殿です。
公式サイトによれば、ネットから遥拝できるとされています。
本殿三社
大和神社の本殿です。
拝殿から見ることができます。
ゆかりの碑
大和神社のゆかりの碑です。
戦艦大和の戦没者の慰霊と、平和を祈願するために建てられた石碑です。
磐座
大和神社の磐座(いわくら)です。
詳細は不明ですが、「天から降臨した神が安産される石」と説明されています。
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「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
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