乙子挟姫伝説(スサノオとオオゲツヒメ)
2015/10/30
島根県益田市の乙子地区は、神代に大宜都姫命(オオゲツヒメ)の末娘である挟姫(サヒメ)が天降り、この地方から開拓を始めて東へ進んでいったという神話があり、これは『古事記』の「スサノオとオオゲツヒメ」の説話に因むものとされています。
なお、オオゲツヒメとは『古事記』にのみ登場する神であり、身体の至る所から食糧を生み出すことができる神とされますが、高天原を追放された後に食糧を求めて訪ねてきたスサノオに身体から出した食糧を振る舞ったところ、スサノオは汚い食糧を出すとは失礼であるとして、その場に斬り捨てたとされています。
それから続く神話が「乙子挟姫伝説」として、佐毘賣山神社の社伝や民話を通してこの地方に伝えられているようです。
ここでは『記紀』にある神話と併せて、この伝説を紹介したいと思います。
佐毘賣山神社についてはこちらの記事を参照:【佐毘賣山神社(益田市)】
『記紀』におけるスサノオとオオゲツヒメ
「乙子挟姫伝説」に繋がる神話として、『記紀』では以下のように伝えられています。大宜都姫命と須佐之男命(古事記)
高天原で粗暴を働いて天照大神(アマテラス)を岩戸に隠れさせた建速須佐之男命(スサノオ)に対し、八百万の神は罰として多くの品々を献上させ、髭を切り、手足の爪を抜いて地上に追放しました。
速須佐之男神(スサノオ)が地上で大気津比売神(オオゲツヒメ)という神に食糧を求めると、オオゲツヒメは鼻や口や尻から食べ物を出し、それを調理してスサノオに差し出しました。それを見たスサノオは「汚れた食糧を出しやがって」と怒ってオオゲツヒメを殺してしまいました。
すると、殺されたオオゲツヒメの頭からは蚕が、二つの目からは稲が、二つの耳からは栗が、鼻からは小豆が、陰部から麦が、尻から大豆が産まれました。これらは神産巣日御祖命(カミムスビ)が取って種としました。
新羅に天降った素戔嗚尊(日本書紀)
ある書によると、高天原での素戔嗚尊(スサノオ)の行いは酷いものでした。よって、神々は千の台座に乗るほどの宝を献上させ、最後には追放してしまいました。このときにスサノオは息子の五十猛神(イタケルノカミ)を連れて、新羅国に降り、曾尸茂梨(ソシモリ)に辿り着きました。
そこでスサノオは「この土地には居たくない」と言い、土で船を作り、それに乗って東に渡り、出雲の簸の川(ひのかわ)の川上にある鳥上之峯(とりかみのみね)に辿り着きました。
そこには土地に人を飲む大蛇が居ました。そこでスサノオは、天蠅斫之劒(アメノハハキリノツルギ)を使って大蛇を斬り倒しました。すると、大蛇の尾を斬ったときに刃が欠けてしまいました。
不思議に思って尾を裂いて見ると、尾の中に一本の神剣がありました。スサノオは「これは私のものにしてはならない」と言い、スサノオの五世孫の天之葺根神(アメノフキネ)によってこの神剣は天に捧げられました。これは草薙剣(クサナギノツルギ)とも云います。
そもそもイタケルが天界を下った時には、多くの木の種を持っていました。それは韓(朝鮮半島)には植えずに全て持ち帰り、筑紫から初めて、大八洲國(おおやしまのくに)に蒔きました。そのため、日本に青々としていない山は無いのです。
地方神話(民話)におけるスサノオとオオゲツヒメ
「乙子挟姫伝説」におけるスサノオとオオゲツヒメは、以下のように語られています。ただし、佐毘賣山神社と益田氏の民話では、内容が微妙に異なるので、その両方を記載しておきます。挟姫降臨の神話(佐毘賣山神社の社伝)
高天原にて乱暴を働いた須佐之男命(スサノオ)は、天照大神(アマテラス)の怒りに触れられ、髪を切り、髯を抜かれ、手足の爪も抜かれて高天原から追放される身となった。
その放浪の途中、新羅の曽尸茂梨(ソシモリ)に立ち寄られた須佐之男命は、そこで大宜都姫命(オオゲツヒメ)と出会い、食べ物を求められたが、大宜都姫命は道中の事とて恐れながら口中の飴ならばと差し出すと、須佐之男命は「無礼である」と大いに怒り、その場で大宜都姫命を斬り捨てた。
大宜都姫命は、息絶える前に娘の挟姫(サヒメ)※を呼び、全身の力を振り絞って顔・胸・手・足など五体を撫で擦りながら、稲・麦・豆・粟・稗などの五穀の種を生み出された。そして、挟姫にその五穀の種を授けて「母亡き後は豊葦原(とよあしはら)に降り、五穀を広めて瑞穂の国とせよ」と言い残して息絶えた。
挟姫は、母の亡骸にすがって泣き悲しんだが、その時、どこからとも知れず飛んで来た1羽の赤い雁に促され、涙をぬぐって五穀の種を携え、雁の背中に乗って東方へ旅立ったのである。
やがて雲間より、鷹島(高島)という一つの島が見えた。挟姫はその島に降りて種を広めんとしたが、そこに棲む大山祇命(オオヤマヅミ)という荒くれた男達は「この島では魚や鳥、獣を獲って食うので種はいらぬ」と挟姫を追い返した。
挟姫が次の島である須津(すづ)の大島(鷲島)に辿りつくと、そこに棲む足長土(アシナヅチ)という荒くれた男達に「この島では魚を獲って食うから、種などいらぬ」と再び追い返された。
そこで挟姫は大浜の亀島(神路泊)で一休みし、次に豊葦原の本土に渡って赤雁(地名)にある天道山(てんどうざん)に降り、そこから一際高い比礼振山(ひれふりやま)に降り立った。
挟姫は比礼振山を中心として五穀の耕作を広めながら、日々の糧を恵み、民を助け、賊徒を追い、心安らかな国を開かれた。そして、種村(たねむら)、弥栄(やさか)、瑞穂(みずほ)、佐比売村(さひめむら)など東へ東へと進み、遂に佐比売山(小三瓶)まで辿りついた。
最初に耕作を始めた村が、大宜都姫命の乙子(末娘)ということに因んで「乙子町(おとこちょう)」となり、種を伝えたことから「種(たね)」となり、持参した五穀の種を赤雁の背から大空に千振(ちぶり)に振り蒔いたその様から「千振(現・種村町)」となり、「赤雁(あかがり)」の地名も赤い雁が降りたことから付けられたという。
※乙子挟姫(オトコサヒメ):大宜都姫命の末娘であり、佐姫とも表記する。佐姫の「佐」は小さいという意味もあり、それに因んで地元では「チビ姫」の名で知られる
乙子狭姫伝説(益田氏の民話)
神様がこの世を治めておられた頃のお話です。広い海の上を1羽の雁(がん)が飛んでおりました。この雁は、羽の一部に赤い色が混じっているのか、光の加減で体全体が赤く見えることがあります。
また、よく見ると、その背中に小さくて可愛い女の子がしっかりとしがみついています。しかも、その腰には小さな袋がくくりつけてあります。雁は女の子に「もうすぐでございます。目指す島が見えてきましたよ。」とでも言うように、1つの島を目指して大きく羽ばたいて飛んでいました。
この小さな女の子は乙子狭姫(オトコサヒメ)という名であります。母は大宣都比売命(オオゲツヒメ)と言って、乙子狭姫はその末娘でした。そして、母はもともと五穀(米、麦、キビ、アワ、マメの5種類の作物)を育てる神様でした。この母神様は実に不思議な力を持っておられまして、身体のどこかを撫でれば作物の種が自由に出てきます。
このことを知った曽茂利(そもり、朝鮮半島)に住んでいる気性の荒い神様が、「大宣都比売命の身体は、一体どんな仕組みになっているのやら実に不思議だ。どれ、ひとつ身体の中を調べて見てやろう。」と言って、ある日、大宣都比売命を呼んできて、その身体を目も当てらないほどに切り裂きました。しかし、特別変わっていることなど何もありませんでした。それをもって大宣都比売命は憐れな最後を遂げてしまわれたのです。
大宣都比売命は、自分がいつかはこんなことになると知っておれたんでしょうね。ある日、乙子狭姫を呼んで、「私に万一のことがあったら、お前は遠い東の国へ行きなさい。そして、その時にはこの袋を必ず持って行きなさい。この中には色んな作物の種がある。この種を東の国の人に分け与えるが良い。種は千年も万年も生き続けるでしょう。東の国は、美しい静かな国だからそこでお前は暮らすのよ」と言っておられた矢先のこの災難でしたからねえ。
乙子狭姫は母の大宣都比売命にすがりついて泣きました。しかし、いつまでも悲しんでおるわけにはいかない。母神様が言っておられたように、袋を持って東へ東へと向いて海の上を飛んでいました。姫が乗っている赤い雁は、姫が小さい頃から可愛がって育てた鳥でした。なので雁はよく姫の言うことを聞き分け、また姫も雁の顔を見るとその気持ちがよく分かります。
長いこと飛んでいた雁は、やがて1つの島に舞い降りました。するとその時「ワシの背中に降り立ったのは誰じゃ」と言って、荒々しい声が地の底から聞こえてきました。「私は大宣都比売命の子の乙子狭姫です。五穀の種を、はるか西の国から持ってきたんですよ」姫は大きな声で答えました。「ワッハッハッハッ…五穀の種か。ここは大山祗(オオヤマヅミ)と足長土賊(アシナヅチぞく)の使いの鷹(タカ)が住む島だ。ワシらは肉食こそするが五穀の種などはいらん。そうそうに立ち去れ」姫と雁は仕方なく、再び飛び上がりました。この島は「高島」という名の島で、畑を作ってもほとんど何も作物はできなくなってしまったそうです。
鷹の勢いに驚いて飛び立った雁は、遥か彼方の島へ舞い降りました。しかし、ここでも「ワシの背中で休む者は誰じゃ」と言って叫ぶ者がいました。姫は先ほどと同じように名を名乗りました。「ここは、大山祗の使いの鷹が住むところじゃ。ワシらは肉を食らう者だから五穀の種などには用はない。1日たりともここに置いておくわけにいかん。早く立ち去れ」この島は「大島」という名の島でした。
こうして雁と姫は、あちらこちらを飛び回ってようやく安住の地を見つけました。それが今の「狭姫山(さひめやま)」でした。またの名を「比礼振山(ひれふりやま)」とも言いいます。「狭姫」というのは「小さい姫」いう意味なのです。後の世の人は、この姫を「ちび姫さん」と呼ぶようになりました。また、雁が降り立った地を「赤雁(あかがり)」と呼び、後に地名となりました。
姫はこの山を住処にして、あちらこちらの里に出ては、稲や麦の種を分け与えました。それで、この辺りを「種(たね)」と呼ぶようになったのだそうです。山に囲まれ、海にも近いこの土地は、五穀が非常に豊かに実り、里ではのんびりとした暮らしが続きました。人々は乙子狭姫を「ちび姫さん」と呼んで親しんだそうです。そして、姫の働きを讃えて感謝して狭姫山の近くにお宮を建てて祀りました。
これが「乙子の権現さん」であり、今でもこの辺りの人達は五穀豊穣を願ってお参りしています。
乙子挟姫伝説の考察
石見地方とスサノオ
石見地方では冒頭に挙げた「スサノオは新羅国に天降った」とする『日本書紀』の異伝に基づく伝承が多く、益田市でもこの説話をとった伝承が広められているようです(当然、それに因むとされる場所がいくつもあります)。
そのため、石見地方の伝承から、スサノオは出雲に天降ったのではなく「石見 → 出雲」というルートで進行していったとも捉えることができます。なお、山口県の須佐の伝承から、スサノオは出雲国を統治した後も、朝鮮半島と行き来していたとされています。
よって、高天原追放後のスサノオの起点は朝鮮半島の新羅国であるとも考えられ、スサノオの本地とされる牛頭天王(ゴズテンノウ)も新羅の牛頭山(ソシモリ山)に由来するともされることから、新羅にはスサノオに関連する謎が存在するのかもしれません。
ちなみに『日本書紀』における新羅は三韓の中でも浮いた存在であり、周辺諸国および倭国とも争いが絶えなかったという風に描かれていますが、聖徳太子は新羅との外交を経て日本に弥勒信仰を導入し、四天王寺には牛頭天王(ゴズテンノウ)を祀っていたという研究結果もあります(参考:中山市朗ブログ)。
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「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
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