人文研究見聞録:比礼振山(権現山) [島根県]

島根県益田市にある比礼振山(ひれふりやま)です。

標高359mの山であり、案内板によれば、上古より蔵王権現の鎮座する霊峰であるとされることから、権現山(ごんげんさん)とも呼ばれています。

また、その起源は有史以前に遡り、先史人達の信仰の場とされていたと云われ、山の神である大山祇命(オオヤマヅミ)の乙子(末子)の木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメ)の鎮座する山であることから、石見小富士、乙子山とも呼ばれているそうです。

なお、道中には月形の奇岩である「三日月岩」があり、また頂上には佐毘賣山神社の旧神社跡や蔵王権現を祀る蔵王社、そのほか地球安全祈願塔というモニュメントなどがあります。

この比礼振山(権現山)には非常に多くの伝説が残されており、その中には『記紀神話』にまつわるものも含まれていることから、なかなか興味深い山であると言えます。

その伝説については文末にまとめておきますので、興味のある方はぜひご覧ください。


山中の見どころ

三日月岩


人文研究見聞録:比礼振山(権現山) [島根県]

比礼振山の三日月岩(みかづきいわ)です。

山頂までの道中に位置しており、三日月形の窪みがあることから この名で呼ばれているそうです。

なお、この三日月岩には以下の様な伝承が残されているとされています。

上古、大伴佐提比古(おおとものさでひこ)が任那の国に遣わされた時、挟衣姫(サヨリヒメ、市杵嶋姫命とも)は高山の嶺に登り、領巾(ひれ)を振って航路の無事を祈ったという。

そのとき、この山の姫神達も高角山の嶺に月隠れるのを惜しんで領巾を振り真似て月形の石に止めたことがあった。その岩が三日月岩である。

権現社


人文研究見聞録:比礼振山(権現山) [島根県]

比礼振山の蔵王権現神社です。

上古より比礼振山に鎮座していたとされる蔵王権現(ざおうごんげん)を祀っています。

なお、蔵王権現は、インドに起源を持たない日本独自の仏であるとされています。

旧神社跡


人文研究見聞録:比礼振山(権現山) [島根県]

比礼振山にある佐毘賣山神社の旧神社跡です。

かつては姫山神社と称し、金山姫命・埴山姫命・木花咲耶姫命の三柱の姫神を祀っていたとされます。

現在は遷座され、山腹にある佐毘賣山神社として鎮座しています。

詳しくはこちらの記事を参照:【佐毘賣山神社】

比礼振山展望台


人文研究見聞録:比礼振山(権現山) [島根県]

比礼振山にある展望台です。

ここからは益田市内の全景を望むことができ、益田十景の一つに数えられているとされています。

人文研究見聞録:比礼振山(権現山) [島根県]
展望台からの眺め

地球安全祈願塔


人文研究見聞録:比礼振山(権現山) [島根県]

比礼振山にある地球安全祈願塔です。

比礼振山に因む「権現仙人の予言」から、全世界人が地球安全祈願をするために建立されたとされています。

「権現仙人の予言」については、文末にまとめて記載しています。

比礼振山(権現山)にまつわる神話・民話

穀物の種を伝えた狭姫(サヒメ)


昔、朝鮮半島から日本へと大海原を一羽の赤い雁が飛んできた。

その背中には狭姫(サヒメ)という小さな神様が乗っており、その手には母親の大宜都姫(オオゲツヒメ)から形見として手渡された稲・麦・豆・粟・ヒエの五穀の種がしっかりと握られていた。

「私が死んだら身体から穀物の種が生えるから、お前はそれを持って東方の日本に行って暮らしなさい。」これが母親が乙子(末子)の狭姫に残した遺言だった。

赤い雁に乗った狭姫は、最初に見つけた小さな島に降りようとしたが、「ここでは魚を捕って食うから種はいらん。」といって断られ、再び雁の背に乗った狭姫は、比礼振山にやって来て、その里の人たちに種を分けたという。

種を伝えたから「」という地名が付けられ、「赤雁」の地名も赤い雁が降りたことから付けられた。

神話についての詳しい内容はこちらの記事を参照:【乙子挟姫伝説(スサノオとオオゲツヒメ)】

狭姫と巨人


ある時、狭姫は巨人に出くわした。その巨人は大山祇巨人(オオヤマツミ)という名であり、悪意は無いが動き回る度に大騒動になる。狭姫も逃げ惑ったが、何せ小さな体なのでどうにもならない。

命からがら逃げ帰った狭姫だったが、ある日、大穴の中で寝ている巨人に声をかけた。巨人は大山祇巨人の子でオカミという名であった。オカミの尊大な態度に狭姫はたじろいでしまったが「直接、お目にかかりたい」と強気の態度で申し出ると「我は頭だけが人で体は蛇のようだから人も神も驚いて気を失うであろう、人を驚かすことは悪いことだから見ない方がお互いのためである」とオカミは急に態度を改めてしまった。

オカミは兄の足長土(アシナガツチ、アシナヅチとも)に会うよう告げた。この足長土もやはり巨人で、うっかりすると踏み殺されてしまう。これでは安らかな国造りはできないと狭姫は考えた。

後日、狭姫は海岸で手長土(テナガツチ、テナヅチとも)という女の巨人と出会った。夫はいるかと問うと「かように手長なれば…」と手長土は答えた。手が長いことを恥じる手長土に、狭姫は「自分も人並み外れたチビだけど、種を広める務めがある。手長土には手長土の務めがある」と慰めた。

どこか良い土地はないかと赤雁に乗ってあちこち飛び回る狭姫は、足長土と手長土を娶(めあ)わせて、巨人共々三瓶山の麓の広い土地に住まわせることにした。

そして、脚の長い足長土と手の長い手長土は互いに助け合って仲良く暮らしたという。

天道山


赤い雁に乗った狭姫という神が天からこの山へ降りて来た。そこから乙子の神社に行ったという。

この山は、ちょうど天から神が降りてきた道筋に当たるから「天道山(てんどうざん)」という名前がついた。

大蛇のあと


昔、乙子の権現山の道は、都茂鉱山から鉱石を馬で運ぶ往還だった。

ある日、益田で用事を済ませた人が権現山の道に通りかかると眠たくなったので、大きな岩の上で休憩していた。すると、長さ十二尺(約3.6m)、直径は一尺(約30cm)ぐらいの大蛇が出てきたが、そのあまりの大きさに身震いがして動きが取れなくなった。

そのとき、蛇は煙草が嫌いなのを思い出して、そっと煙草に火をつけ吸い始めた。すると、大蛇が向きを変えて逃げ去ったという。

比礼振山の岩清水


比礼振山の大きな岩に凹みがある。方言で「タンポ」と言うが、そのタンポの水はどんなに日照りが続いても水が枯れないという。そのため、皆はそのタンポから水が湧いて出るんだろうと言った。

そして、その水はとても薬効があるとされ、子供の汗疹にも効くし、目につけると目が良くなるという。なので、昔はタンポの水がとても大事にされて、瓶に入れて帰る人が沢山いたそうな。

今でも美味しい水だと言われて、その水を汲みに来る人は絶えないという。

権現山と大麻山の背くらべ


昔、乙子の権現山には杉の木が沢山生えており、浜田の大麻山は石ころの山だった。

ある日のこと、権現山と大麻山が背比べをすることになり、「お前より、ワシの方が背が高いぞ」と、やがて二つの山の神様がケンカをし始めた。

権現山の神様は、自分の山に生えていた杉を抜いて大麻山に向かって投げ始め、反対に大麻山の神様は、自分の山の石を権現山に向かって拾って投げ始めた。

この二人の神様のケンカはどっちが勝ったのかは分からないが、この件が元で権現山には石ころが多いという。

大麻山についてはこちらの記事を参照:【大麻山】

権現仙人伝説


明治43年(1910)の春、長髪で眼光が鋭く顔色の逞(たくま)しい一人の僧が、黒の法衣に脚絆を纏い、草履履きに金剛杖という托鉢の姿で高橋家の旧屋敷跡に現れた。

高橋家の昔から托鉢には白米一合を恵む習慣に倣って僧に白米一合を渡すと、僧は祖父の兼作を見て「私は明治維新の時に徳川幕府軍に属し、益田で薩長軍との戦いに敗れた…」と自分の来歴について語り始めた。

その僧曰く、敗戦の後に権現山の籠立(かごたて)までやって来たが、疲労と空腹で倒れ昏睡していたところ、一人の白髪老人が現れ、「私は権現山の主である。この水を飲め」と水を渡され、それを飲むと急に眠りが覚めて元気になり、それから続けて都茂街道を通って広島の寺町まで逃げられたそうな。

そして寺で坊主になり、益田の戦いで戦死した人の霊を供養しながら旅をし、その途中で比婆山に立ち寄って三年余り仙人生活をした結果、霊感を授って将来の事を予言出来るようになったので、権現山の主にお礼参りに行く途中であるという。

その僧との話は弾み、高橋家の祖父と子の三人で昼食を共にした。そのとき僧は、高橋家の子の芳太郎に「この家は家相や地形をみて紀元前から続いている屋敷であり、付近に沢山の先祖が葬られているから、お前は坊主となって先祖の霊を法要せよ」と言われたが、芳太郎が断ると「お前は人相から姓名判断からも悪いことばかり続くが、何事を行うにも真面目に行え、そうすれば、いつかは神仏のご加護によりより運が必ず開けて、晩年になって幸福が来る…云々」と言った。

そして、僧は芳太郎に「私の言うことを後世に伝言することの出来る者はお前しかいないから、次の事をよく聞け」と以下の伝言を授けられた。

1.文字の無い時代について


文字の無い時代の事は信じられないと言う人がいるが、文字のない時代には伝人がいて、一度聞いた事は絶対忘れる事はなく、次の世代に伝える人が次から次にと生まれて神秘的な記憶力の持ち主が沢山いる。

文字が出来てもその人の考え方や立場から、良きにつけ悪しきにつけ書き残して伝えられている。日本の神代の事も、大和民族の事も、根源があっての事であるから、ただ神話として聞き捨ててはならない

2.釈迦とキリストの来日


釈迦やキリストは、日本に神や仏の道を布教の為に来日されている。キリストのお墓は青森県か岩手県に確かに実在している(青森県に実在する)。また、釈迦の母は、神戸の摩耶山に祀られている。

3.霊について


死んだら必ず霊はあるものとして、生きている間に善を積んでおけ。

そうすれば死んで仏の元に行けるが、霊は無いものとして善を行わずして死んで霊があったときには地獄に行き、取り返しの付かない事になるから、死んでも霊はあるものとして常に善を積むように心掛けておく事である。

4.知恵ある狐狸妖怪について


狐や狸は、昔は人間以上の知恵のあるものが居て人に災いを為したが、文明は狐や狸の最も怖い音や光を出すから、知恵のあるものは生まれなくなっている。

5.戦争について


戦争は勝っても負けても損であるから良くないが、地球に人が住んでいる限り、生きる為に国を盗ったり盗られたりするので、恐ろしい事である。

6.100年後(現在)について


それよりもっと恐ろしいのは、今から約100年後(2010年頃)に天災と人災により地球上に大変動が発生し、約3年間にわたり地球が冷下し、大地震・大津波・大暴風雨等悪天候が続き、害虫類が多発し、人類が滅亡する時期が来る。

その時期に人類の滅亡を防ぐには唯一である、それは天の神仏に地球の安全を今日から祈願する事である。その方法は全世界の人が人種・思想・宗教の別なく男も女も老いも若きも一致団結して地球の安全を祈願する事である。

また一方では、この地球の変動に打ち勝つ為に、強健なる体力と健全なる精神をもつ子孫を後世に残さなければならない。これが為には、男は強い完全なる子種を女に授け、女は妊娠したら胎教、即ち子孫の中に子どもがいる間に神仏を信心し修養、良き子を産み育て、子孫の繁栄を常に心掛けねばならない。

文明は世が進歩するが、一方では地球を破壊し人体を毒化しつつあるから、これに抵抗出来得るよう常に粗末な衣食住に慣れ、強健な体力と健全なる精神力を養い置く事を忘れてはならない

天災や人災で地球上に大変動が発生したら、都会の人は大半滅亡し、田舎の山間部の人は辛うじて生き残る事が出来るが、食料に不足し飢餓死するからこれを防ぐ為には、今のうちから自然食の保存に留意しておかねばならない。

その自然食とは、実のなる桃・梨・柑橘類・くるみ・栗・柿・しい・ドングリ等、山菜類ではくず・わらび・ぜんまい・よもぎ・れんこん等、薬草類ではせんぶり・はっか等、いずれも現在の無災害時から各家庭毎に植え付けておく事。

災害が来てからでは間に合わないから、また悪天候と戦争は地球上に人類の生存する限り何時起こるか判らないから、自然食は平素から確保しておく事を忘れてはならない。

自然食の体験の為、3年余り比婆山に篭もり修行して結果、生き抜く事が出来るのを確かめたからこれを信じ、平素から少しでも実行して非常時に備えておく必要がある。

また、山篭もりする前に人間に最も近い猿の生活状況を研究し、猿は草木を食し繁生しているから、仙人生活にいつでも生きて行くのに困る事はないと比婆の山猿を共に生活したが、何ひとつ困った事はなかった。

この仙人生活中、山の動物は生きる為に昼夜を問わず動き、残った食物は木の枝に、土の中に、色々と工夫して貯えている事を知り、人も100年後の大危機に備えて粗食に慣れ、常に動き持久力をつけ、食物を貯える方法を研究し置かねば、人類滅亡を防ぐ事が出来ない。

と諭された。最後に僧は「地球上の大変動の無きよう、また、仙人となり権現山で地球の安全を祈願する」と言われ、祖父に別れを告げて芦谷を出たのである。

料金: 無料
住所: 島根県益田市乙子町
営業: 終日開放
交通: 益田駅(徒歩100分以上)、自動車推奨(益田駅から車で25分)

公式サイト: http://www.sahimeyama-jinja.jp/index.html
matapon
著者: matapon Twitter
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。