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2016年6月7日火曜日

貴船神社にまつわる伝説

人文研究見聞録:貴船神社にまつわる伝説

京都の貴船神社は古い歴史を持つとされ、その歴史の中で様々な伝説が生まれてきたとされています。

そこで、貴船神社にまつわる伝説を此処でまとめて紹介したいと思います。


貴船神社の創祀伝承

人文研究見聞録:貴船神社にまつわる伝説

貴船神社所蔵の『黄船社秘書』には社人・舌宗富によって記された「貴布祢雙紙(きふねぞうし)」という社家の縁起があるとされ、その中に貴船神社の創祀にまつわる以下のような伝承が含まれているとされています。

貴船の牛鬼伝説

貴船明神は天下万民の救済のために、天上界から貴船山中腹の鏡岩に降臨した。その際に御伴として従ったのが仏国童子(牛鬼とも)である

この仏国童子は饒舌で、神戒をも顧みず、神界の秘め事の一部始終を他言したので貴船明神の怒りに触れ、その舌を八つ裂きにされてしまった。そして、貴船を追放されると吉野の山に逃げていったという。

そこで仏国童子は一時的に五鬼を従えて首領となったが、程なく走り帰り、密かに鏡岩の蔭に隠れて謹慎していたところ、ようやくその罪を許されることになった。

なお、貴船神社の社家である舌家では、この鏡岩のところで「屈んで」謹慎をしていたことから、鏡岩を「屈岩」と書いて伝えている。また、この初代・仏国童子の子は僧国童子と名付けられたという。

ある時、仏国童子が"貴船明神の御弓"と"鉄で打った面二寸三分宛の御弓"を取り出し、二張まで折ってしまった。余りの悪事に怒った貴船明神は、童子の手を七筋の鉄の鎖で括ったが、童子は少しも怯まず引きちぎってしまった。そこで、貴船明神は二間四面の大石を膂(背骨)に掛け置いたが、童子はこれも苦としなかったので貴船明神は心を痛めたという。

なお、童子は一日に三升三合の食物を食べる者であったが、百三十歳の時に雷に撃たれて死んでしまった。

二代目・僧国童子は、少年の頃から丹生大明神(貴船大神と同体)に奉仕していたが、後に吉野の五鬼を従えて帰り、父に代わって怠りなく神勤し、百二歳で亡くなった。

また、僧国童子の子を法国童子と名付け、法国童子の子を安国童子と名付け、以上四代目まで鬼の形をしていたという。しかし、五代目よりは普通の人の形となり、子孫代々繁昌して大明神に仕えた。

そして、祖先を忘れぬ為に名を「舌」と名乗ったという。

参考サイト:貴船神社と社人・舌家 ~牛鬼伝説~(facebook)

なお、貴船神社・本宮の境内社である「牛一社」の祭神は、古伝によれば牛鬼(仏国童子)とされているそうです。

貴船神社と謡曲「鉄輪」

人文研究見聞録:貴船神社にまつわる伝説

貴船神社といえば、謡曲「鉄輪(かなわ)」の舞台として有名です。この鉄輪は『平家物語』の剣巻に記されている「橋姫伝説」が原形となっているとされ、そのあらすじは以下のようになっています。

橋姫伝説

嵯峨天皇の御世(809~825年)のこと。

とある公卿の娘が深い妬みに囚われて貴船神社に7日間籠り、「貴船大明神よ、私を生きながら鬼神に変えて下さい。妬ましい女を取り殺したいのです」と祈った。すると、これを哀れに思った貴船大明神は「本当に鬼になりたければ、姿を変えて宇治川に21日間浸れ」と告げた。

そこで女は都に帰ると、髪を5つに分けて5本の角にし、顔に朱をさし、体には丹を塗って全身を赤くした。また、鉄輪(鉄の輪に三本脚が付いた台)を逆さにして頭に乗せ、3本脚に松明を灯し、両端を燃やした松明を口に咥え、計5つの火を灯した。

そして、夜が更けると大和大路を南へ向けて走りだした。その鬼のような姿を見た人は驚愕して死んでしまったという。女は その様な姿で宇治川に21日間浸ると、貴船大明神の言ったとおり生きながら鬼になった。これが「宇治の橋姫」である。

橋姫は、"妬んでいた女"、"その縁者"、"男の親族"、終いには誰彼構わず次々と殺していった。なお、男を殺す時は女の姿となり、女を殺す時は男の姿になって殺していったという。そのため、京中の者が申の刻を過ぎると家に人を入れることも、外出することもなくなった。

その頃、源頼光の四天王の一人である源綱(渡辺綱)が一条大宮に遣わされた。その際に夜は危険ということで、名刀・鬚切(ひげきり)を携えて馬で向かうことにした。綱が帰り道に一条戻橋を渡ろうとすると、そこで一人の女を見つけた。その女は20歳ぐらいに見え、雪のように白い肌に紅梅色の打衣を纏い、お経を携えて一人で南へ向かっていた。

そこで、綱は「夜は危ないので、五条まで送りましょう」と言い、馬に女を乗せて堀川東岸を南に向かった。正親町の近くまで来ると、女が「家は都の外なのですが、送って下さいませんか」と頼んできたので、綱は「分かりました。お送りしましょう」と答えた。

そのとき、女は鬼の姿に変化して「愛宕山へ行きましょう」と言い、綱の髪をつかんで北西へ飛び立った。しかし、綱は慌てずに名刀・鬚切で鬼の腕を断ち斬った。すると、綱は北野の社(北野天満宮)に落ち、鬼は手を斬られたまま愛宕の方へ飛び去って行った。なお、綱が鬼の腕を取って見ると、雪のように白かったはずが真っ黒で、銀の針を立てたように白い毛がびっしり生えていたという。

そこで、その鬼の腕を源頼光に見せると、頼光は大変驚いて安倍晴明を呼んで相談することにした。そして、相談を受けた晴明は、「綱は7日間休暇を取って謹慎して下さい。鬼の腕は私が仁王経を読んで封印します」と言ったので、綱は その通りに謹慎した(説話の続編は「一条戻橋」のページに記載しています)。

参考サイト:橋姫(ウィキペディア)

ちなみに、島根県の石見地方に伝わる伝統芸能「石見神楽」の中でも「貴船」という演目として舞われています。

貴船神社と丑の刻参り

人文研究見聞録:貴船神社にまつわる伝説

貴船神社には、いわゆる呪詛の類として有名な「丑の刻参り」にまつわる以下のような伝説があります。

鉄輪井戸

昔、堺町松原下ルに夫婦が住んでいた。

ある時、その夫が浮気すると、嫉妬深い妻は怒り狂い、遂には呪いの願掛けに走るようになった。

その時の妻の姿は、顔に朱をさし、身体に丹を塗り、頭に鉄輪(鉄の輪に三本脚が付いた台)を被って三本の足には蝋燭を灯し、口に松明を咥えていたという。そして、丑の刻になると貴船神社に向かったのであった。

呪詛の満願は七日であったが、妻は その六日目に自宅付近の井戸の傍で息絶えていた。それを見て哀れに思った者が鉄輪を塚に見立てて葬ってやり、その井戸は「鉄輪井戸」と呼ばれるようになったという。

それ以後、この「鉄輪井戸」の水を飲ませると、どんな縁でも切れると云われるようになった。その噂は広く知られるようになり、多くの人が水を求めて この地を訪れたという。

参考サイト:日本伝承大鑑(鉄輪井戸)

なお、この伝説は貴船大神が「丑の年の丑の月の丑の日の丑の刻」に降臨した伝説と結び付けられて「丑の刻参り」と呼ばれるようになったとも云われているようです。

しかし、一般的に知られる"藁人形""五寸釘"などの道具は伝説の中に見られず、伝説の流行った当時に行われていた呪詛と結びついたものと推測されます(個人的には伝説と魘魅を結びつけたものであると考えている)。

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