人文研究見聞録:『御伽草子・天狗の内裏』現代語訳

『御伽草子・天狗の内裏』の現代語訳です。

鞍馬天狗を調べている過程で翻訳したものを、せっかくなので載せておきたいと思います。

非常に長いので「あらすじ版」と「現代語訳版」の2種を載せておきます。


あらすじ版


幼い頃より鞍馬寺で学問を身に着けた源義経は、15歳で門出して天下に名を挙げた先祖の源義家にならって自らも15歳で門出しようと思っていた。それ以前に鞍馬山には天狗の内裏というものがあると聞いていた義経は、どうしてもそれを見たいと思ってしばらく探し回っていたが一向に見つけることはできなかった。そこで、予てより信仰していた毘沙門天に天狗の内裏を見つけられるように祈願すると、夢に毘沙門天が現れて御坂口から上って五色の築地塀を目指して進めばやがて行き着くだろうと教えられた。

義経が教えられた通りに進んでいくと、やがて五色の築地塀が現れ、遂に天狗の内裏に辿り着くことができた。天狗の内裏は石、鉄、銀、金の塀と門で造られており、中に入ってみると七宝のように美しく、さらに奥に進むと納言や宰相など格式高い者たちが並ぶ広間に行き着いた。そこで素性を尋ねられた義経は偶然行き着いたと説明すると、只者には見えないと言うことで大天狗のもとに案内された。大天狗は神通によって義経の素性を知っていたので、義経を迎え入れると丁重に饗して、愛宕山、比良山、高野山、那智山、神倉山の天狗や、大唐、天竺からも天狗を呼び寄せて、そうした天狗らと共に酒宴を楽しんだ。また、この酒宴の最中、呼び寄せられた天狗らは各々が得意の神通力を披露して、大唐や天竺の様子を見せたり、それを唐紙に写して義経に与えた。

そんな酒宴の中、大天狗の御台所(妻)が義経に会いたいといういうことで、義経と会わせると、御台所は自分は俗界の出身で、甲斐国の長者の娘のきぬひさ姫だと言い、17歳のときに花園山で天狗に誘われて内裏にやってきた、それより7000余年にもなる といった話を聞かせた。また、大天狗は一百三十六地獄や九品の浄土にも飛んで行くことができることや、義経の父・義朝は今は九品の浄土にて大日如来の一部になっているということを教えた。

これを聞いた義経は、大天狗に亡き父に一目逢うことはできないかと頼むと、大天狗は最初は断ったが、義経との対話の中で義経が仏法をよく学び、深く悟っていることを理解したので やがて逢わせることを了承した。大天狗は義経を抱きかかえて冥土に飛んでいくと、まず一百三十六地獄に到って、炎の地獄、餓鬼道、修羅道の光景を見せた。次に十方浄土に到り、北方の弥勒菩薩に礼拝すると、遂に大日如来の座す大極殿に着いた。大天狗は、大極殿にて大日如来に義経が逢いに来たことを伝えると、大日如来は最初は断ったが、大天狗が義経が仏法をよく学び悟っていることを伝えると、大日如来は喜んで迎え入れることにした。

大極殿に入った義経は、大日如来から仏法に関する様々な問いをかけられたが、義経が潔く答えると、大日如来は大変満足し、遂に親子として対面することができた。大日如来は父・義朝として、自分が早々に世を去ったことで義経に苦労をかけてきたことを哀れんで、これからは影身に添って守ることを約束した。また、今も平家の者共が悪行を為していることを悔やんで義経に敵討ちを頼むと、義経は父のために出家を改め、味方を集めて敵を討つことを承諾した。

義経の決意に心を打たれた義朝は、平家を倒すために源氏の過去と未来について教えることにし、源氏の発祥や、この先 奥州に下って味方を集めて上洛し、五条橋で千人斬りをして弁慶を味方につけることなど、未来について数々の助言を与えた。そして、兄の頼朝と力を合わせれば、やがて平家を倒すことができるだろうと教えた。また、平家を倒した後に頼朝と不仲になり、32歳で死ぬことになるが、これは前世の因果によるものだということも教えた。

そして、義経が死後に来ることになる浄土など見せ、俗界でも仏法の教えを守っていくように教えた。義経は このような奇特を見せる大日如来の力に感心し、別れを言って大極殿の門へと進んだ。その後、大天狗と共に内裏に帰ると、御台所におかげで亡き父と逢えたと礼を言い、併せて2人に別れを言った。大天狗らも惜しみながら別れを言うと、義経は大天狗と師弟の契約を交わそうと言った。この後、大天狗が義経を内裏の門まで送って さらば と言ったと思うと、義経は東光坊の中に帰っていた。

現代語訳版


【上】

ところで、判官殿(源義経)は7歳より鞍馬寺にて学問を身につけるが、もとより この君は毘沙門再誕の若君であり、7歳で法華経一部8巻、8歳で大般若経600巻、倶舎経30巻、噴水経14巻、草紙に関しては源氏物語、狭衣物語、ふらうえい(ママ)、ひちやうたはたまきすずり(ママ)、ふらうえんしゆ(ママ)、古今和歌集、万葉集、伊勢物語、百余帖の草尽し、八十二帖の虫尽し、鬼が読みける千島の文(ふみ)、すきのみやきりせがつぼ(ママ)など、草紙に関しては2424巻を読み明かした。また、源(義経)は悟りとは何だろうかという事を少し見たいと思い、10歳の時より参学(仏教を学ぶこと)して、13歳で1700則を明かした。

ある雨の日、なんとなく南の壷に出かけて花を眺めていたが、時が過ぎれば花の盛りもあと少し、人間もこのようなものであろう。私は幼き頃に父を討たれたが、親の敵(かたき)を討てぬまま暮れてしまうことは不本意である。実に我らが先祖の八幡太郎義家(源義家)は15歳で門出し、天下に名を挙げたと承る。恐れ多いことながら、先祖にならって15歳になったら門出しよう。なので13歳までは鞍馬山で退屈な日々を送ることこそ無念である。

鞍馬山には"天狗の内裏(てんぐのだいり)"という、音には聞こえるが目に見えないものがあるという。どうしても この内裏を見たいと思い、雨の降る夜も降らぬ日も、風が立つ日も立たぬ夜も、あちこち草木を分けて尋ね回ったが、天狗はもとより神通自在の者なので、天狗の内裏を見ることはできない。

源(義経)は"私は幼き頃より毘沙門に深く頼み懸けてきたが、この内裏を見られるように"と心の中で毘沙門に祈誓して、33度 身を清め、毘沙門堂に入って鰐口を打ち鳴らし「南無や大慈大悲の多聞天、我ら年月を歩み運びし御利生に、天狗に逢わせたまえ」と、肝胆を砕いて祈願した。夜がようやく更けてきた頃、少し眠くなった時に、有難いことに毘沙門が80歳ほどの老僧の姿で現れ、牛若君(義経)の枕元に立って「いかに牛若、天狗の内裏が望みならば、五更(ごこう)の天も明け行けば、御坂口(みさかぐち)にて待て。そうすれば必ず教えてやろう」と言って、夢から覚めた。

源(義経)は夢のお告げを信じて礼拝を済ませると、夜もほのぼのと明けていき、教えられた通りに御坂口に出かけて利生はまだかと待っていた。すると、恐れ多くも毘沙門は20歳ばかりの法師の姿で現れ、素絹の衣に、紋紗の袈裟、水晶の数珠、けんしゆしやう(ママ)の沓(くつ)を身に着けて、牛若君の前に立って「牛若(義経)よ聞け、天狗の内裏が望みならば、これより さんかい(ママ)に上って尋ねれば、五色の築地(築地塀)があるはずだ。白い築地を左手になし、赤い築地を右手になし、青い築地、黒い築地、黄色い築地を、三界無安の塵(さんかいむあんのちり)と定めて、ただ一どうに踏み鳴らせて行けば必ず内裏に行き着くだろう」と言い、掻き消えるように失せた。

源(義経)は有り難く思って、険しい山の岨(そば)を伝って尋ねていけば、程なくして五色の築地が見えてきた。源(義経)は嬉しく思い、心の中で"私がこれ程に心を尽くしてあちこち尋ね探しても逢えなかったものを、これほどの奇特の有り難さよ"と思って、教えの通りに急いで行けば、まことに天狗の内裏の東門の近くに着いた。そこでまず外の築地を見てみると、80丈余りの石造りの築地があり、石の大門が建てられ、それより内には60丈余りの鉄の築地があり、鉄の門が建てられ、それより内には40丈余りの銀の築地があり、銀の門には夕日が出て立っていた。また、それより内には30丈余りの金の築地があり、金の門には朝日が出て立っており、白洲には金の砂が敷かれている。

御曹司(義経)は恐れずに中に入って屋形の様を見てみると、七宝が展示されているようで、音に聞く極楽世界といえども これには勝るまいと思えた。御曹司(義経)はさらに唐木の階段を6,7間ほど上ってみて中の様子をつくづく見てみれば、納言、宰相巳下、北面の者共が衣冠 気高く引き繕い、順に並んでそこに居た。そこで源(義経)を見て「いかに方々、上古にも末代にも この内裏に人間が参ることは無かった。不思議である」とひしめいている。そして、義経に「何者だ」と尋ねると、義経は「私は鞍馬山で学問を致す少人ですが、当山にて75人の稚児の中から今日 私が花の盤に指されたので、花を尋ねて出かけてみれば、このような内裏に到ったのです。東方ならば薬師の浄土、南方ならば観音の無垢の世界か何かかと存じ上げます。せっかくここまで参ったので、帝にお目にかかりたく思います。なにとぞ奏聞ください」と述べた。すると、中に居た人々はこれを承り、「只人(ただびと)には見えない。如何様に奏聞せよ」と言って紫宸殿に参り、大天狗にこの旨を申し上げた。

大天狗はもとより神通の事なので「よしよし、苦しうなき人よ。あれは源氏の遺腹(わすれがたみ)で牛若殿と申す者だ。いかにも御馳走せよ」と言って、畳に縁金(へりがね)渡して段々叢雲(むらくも)に敷かせ、柱をばこんきんどんきんにて巻き、天井に金や唐綿を張り、正座に畳7畳を重ねて敷き、銀をぶんとうに立てて催した。そうして大天狗は間の障子をサッと開けて「源様(義経)の御入りは、夢か現か幻か、此方へ御入り候へ」と言って、正座である7畳の畳に招き、自らは畳3畳引き下がって合掌し、3度礼をし奉った。

また、小天狗を一人近づけて「愛宕山の太郎坊、比良山の二郎坊、高野山の三郎坊、那智山の四郎坊、神倉山の豊前坊、彼ら五人の天狗達に珍しい御客が来ているので、ここに参るように知らせよ」と言うと、小天狗は「承知」と申して座席を立ち、刹那の間に走り帰って「只今、五人の天狗達が参られます」と申し上げると、五人の天狗達が数多の天狗のお供を連れて表の縁にやって来た。そこで大天狗は「いかに各々聞きたまえ。源様(義経)の御入りなので、各々も此処に入れ」と招き入れると、天狗達は「畏り候」と言って座敷に入って手を合わせ、皆一同に礼をした。そして五人の天狗たちは、黄金3000両を金の盆に橘形に積ませたり、山海の珍物や酒などを義経に捧げ奉った。

また、大天狗は小天狗を一人近づけて「大唐のほうこう坊、天竺の日輪坊、これら二人の天狗達にも珍しい御客を招待したと申し上げ、ここに参るよう伝えよ」と言った。小天狗は「承知」と申して白洲にゆらりと下りると、瞬時に走り帰って「只今、二人の天狗達は筑紫の彦山にて双六を打っておりますが、今ここに参られます」と申し上げると、二人の天狗がお供の天狗数百人を連れて表の縁にやって来た。そこで大天狗は「二人の天狗達よ、源様(義経)の御入りであるぞ。ここへ参られよ」と言うと、二人の天狗は「承知」と申して若君(義経)のもとに喜んで参った。そして、面々は我も我もと酒宴をなして、遊興にふけった。

御盃も様々であったが、大天狗は座敷をゆらりと立って「いかに二人の天狗達よ、あまり興も候はぬに、御身達の先祖より伝わる神通を御饗応(もてなし)に一つ」と言うと、二人の天狗は簡単なこととして、中座を指して走り出て、大唐のほうこう坊は部屋の障子を開けて「ご覧あれ」と言うと、源(義経)の眼前に大唐の径山寺が現れ、燈心にて鐘を釣り、高麗国の撞木で撞く光景が映し出された。また、なんかい堂に火をかけて一度焼き払うなど御慰み見せられる。天竺の日輪坊も部屋の障子をサッと開けて「ご覧あれ」と言うと、霞に綱を渡して雲に橋をかけ、遠山に船を浮かべて、自由自在に上るといった不思議な光景を見せた。これは「兵法の一つ」として大天狗や五人の天狗達から好まれており、頼まれれば「承知」と言って白洲に飛び下りて秘術を尽くして見せるのである。源(義経)にとって兵法はもとより望みのことだったので、広縁に出て真近で見ており、言葉にできないほどの限りない喜びを覚えた。

すると、大天狗は「二人の神通だけではなく、五人の天狗達の兵法も御目にかけましょう。我らの御饗応(もてなし)に何か良いものがないかと思えば、珍しいことに五天竺を御目にかけようと思います。此方に入られよ」と言って、玉の座敷に招き、まず東の障子をさらりと開けると、そこには東城国760余州が現れ、それを唐紙100帖に写した。また南の障子を開けると、南天竺760余州の民の住処が余すとこなく見え、これも100帖ばかりに写した。また、西の障子を開けると、西天竺700余州の山の姿、木々の様子が夢幻ほど鮮明に現れたので、これも書き写した。また、北天竺の水の流れ、中天竺など、五天竺すべての様体を500帖に写させた。義経はこれを貰い、末代までの宝にしようと喜んだ。

その後、御台所(大天狗の妻)から大天狗のところに御使いがやって来て「ちと申し上げたき事があります」と言った。何事かと思って御台所を簾中に招き入れれば、御台所は大天狗のたもとに寄って「娑婆(俗界)より若君(義経)が参られたことは承知しております。私 自らも娑婆の者でありますから娑婆を恋しく思います。私が娑婆より参って御身(大天狗)と契をしたのが昨日か今日のように思われますが、早7000年にもなります。その年月の御情けに片時の暇を与えては下さいませんでしょうか。出て御目にかかりたく思います」などと掻き口説く申すので、夫(つま)の天狗などどうでもよいとは思えども、さすがに岩や木ではないので「実にも真にも唐土、天竺、我が朝に並ぶ者なき若君(義経)であるから、御目にかかりたいと思うのは理であろう。早々に出て対面するがよい」と対面を許すと、御台所はとても喜んで、十二単衣を引交へ、緋色の袴を踏みしだき、あんせん王のけせう(ママ)の守を掛け、口に仏語を唱え、自らに劣らぬ数多の女房達を連れて出てきた。その姿は、玉のような鬢?(びんづら)を付けた花のような顔容(かほはせ)で、秋の遠山に出た地水を照らす月のようであった。

これを見た源(義経)は、あれこそ大天狗の御台所であろうと思い「実に女房は過飾に余りし者です。どうぞこちらへ」と招いた。そして、御台所は座敷にやってくると、若者(義経)はつくづく拝んで「何も話さないのも恥ずかしいですね。ですから私の先祖のことを話そうと思います。かくいう私も娑婆の者でして、国を申せば甲斐国、処を申せば二橋、こきん長者と申す者が居りまして、そのこきん長者の一人娘のきぬひさ姫とは私のことです。私が17歳の春のこと、花園山に出かけて管絃をして遊んでいました。私は琴の役で、その目の爪音がいつに勝って素晴らしかったので、私は恐らく日の本に並ぶものはない、今日の爪音には誰も勝てまいと高慢になっていました。その折に神風がザッと吹き、そのまま天狗に誘われて この内裏に参ったのでございます。昨日か今日のことかと思いつつも、年月を数えれば、7000余年にもなります。こんなに年月を送っても、事に楽しみ候はねども、一つの喜びは死んで冥土に居る二人の親に月に一度、または二度三度も拝み申します。これが一つの楽しみです。若君(義経)も2歳の年に父に残されたと聞いていますから、さず恋しく思っていることでしょう。我が夫(つま)の大天狗は一百三十六地獄、また九品の浄土にも日々 飛んで行くことができます。御身(義経)の父・義朝は九品の浄土の大日にそなわっております。決して自らが申すとは仰せませんが、大天狗を理なく頼まれれば、最後には逢わせると申すでしょう」と、受け喜ばせ、打解け顔にて語ると、源(義経)は格別に思って「それはそうだが不思議なことよ」と言った。

このように語らうと、大天狗は「めでたく御酒を参らせよ」と命じると、御台所は「承知しました」と申して、若い女房達と共に御酌に立ち、とりどりに御酒を勧めた。そして自らも輪に加わり「何か興を添えたいと思うので、この酒の由来について話しましょう。そもそも、この酒は ありがたくも妙法蓮華経の69384字の文を以って回向し、良薬として造った薬の酒でございます。一度飲めば多くの人に愛され、二度飲めば人に羨ましがられ、三度飲めば願望が叶い、四度飲めば身代(資産)が定まり、五度飲めば五体五輪と現れ、六度飲めば六道の沙汰を表し、七度飲めば仏名に適い、九度飲めば国の主になるのだとか。殊に祝の御酒なので、九献 参られよ」と勧められ、祝の献も通れば、若君(義経)の盃を御台所が賜って「幾年月のめでたさよ」と、また御曹司(義経)に差し参らせると、暇(いとま)と申して簾中深くに入っていった。

かくして御曹司(義経)は、大天狗に「さて、この度の御饗応(もてなし)、申すのも疎かなことです。詞にも及ばれず、筆でも書き尽くし難い。こうした御恩の程、山ならば須弥山、海ならば蒼海、いや、とても言い表し難い。いつの世になろうと忘れることはないでしょう。このような大層な御事にて一つ望みがあります。実に娑婆にて承るところによりますと、御身(大天狗)は一百三十六地獄、または十方浄土にも飛んで行くと聞きました。我が父の義朝には2歳に時に先立たれましたので、どうにかして一目 拝みたいと思っており、これを一途にお頼み申しあげます」と言うと、大天狗は「そう仰せられましても、こればかりは叶えられません。しかしながら、この度せっかくおいでなられましたのに、つくづくかたじけなく思います。我と我との対談をご存知なされてますでしょうか。語られるのならば聴聞しましょう」と言った。そこで御曹司(義経)は「私は7歳で鞍馬に上り、経論聖教、和漢の才、詩歌管絃に心を尽し、参学なども1700則を学びましたが、その中で、天も鉄壁、地も鉄壁、四方鉄壁となった時、これが我との対談です。萬法一如と聞く時は、三界に垣も無し、六道にほとり無し、法に二法なし、仏に二仏は坐さず、これが我との対談です」と述べると、その時に天狗は「なんと有り難いことか、それならば御供しましょう。此方にお入りください」と言って簾中深くに招き入れた。

そこで、大天狗は御曹司(義経)を玉の台(うてな)に置き、娑婆より身につけていた御小袖、直垂を脱がせて、大唐の緋(あけ)の糸と我が朝の蓮の糸で織った衣へと着替えさせ、御髪(ぐし)も元結に結わせた。そして、13歳の若君(義経)を抱き、冥土を目指して急ぐと、その道中には山路にかかる折もあり、浜辺に下る時もあり、一百三十六地獄を巡って そうした光景を義経に見せた。

大天狗は、まず炎の地獄について教え「ここは実に恐ろしいところです。高さ100余丈ばかりの山が炎が立っているように見え、刹那の間に焼け砕け、微塵な粉灰となって四方にバッと立ち消えます。また、彼処を見れば広さが80000由旬、深さも80000由旬ある血の池があります」と説明した。義経が「ここは誰が堕ちるのでしょう」と尋ねると、大天狗は「これこそ女人の堕ちる血の池地獄でございます。この女人というのは、娑婆に居た時に月に一度の月水(月経)、または産の紐解く時に、衣裳や衣類を脱ぎ捨てて海で濯ぐと龍神より咎めがあります。池で濯げば池の神が深く戒めます。水を汲んで濯ぎ、その水を棄てれば地神荒神の御身に剣となって身を通します。川で濯げば、一切衆生が知らずにこの水を汲みます。これを仏や出家者に手向ければ不浄食になります。さて、この苦患(地獄の苦しみ)というのは、血の池の水面に鉄の網を張り、五色に変じた五人の鬼が池の水面に追い立てて、この網を渡れと呵責します。中程までも渡ることができず、踏み外せば堕ちて5尺の身は沈み、丈なる髪は浮草のようになります。もし浮き上げってきたら鉄杖で押入れられ、ああ悲しいなどと言う声は蜘蛛の糸より細い声となり、『これこそ汝が娑婆にて為した罪咎よ。我を怨みと思うな』と獄卒共の怒鳴る声は鳴神よりも恐ろしいです」と言った。義経が「そのような苦患は、どのようにして逃れるべきでしょう」と問うと、大天狗は「それは娑婆にて133品の血盆経を保ち、また御念仏を唱えて後生善所と祈れば すぐに浄土に参ることができます。苦患を受けるのは、娑婆にて善をなさずに悪を好むような邪険な心のみで、仏も法も知らずに死んでいく女の罪業でございます」と語った

そこを過ぎて餓鬼道に着き、源(義経)が周辺を見渡してみると、有財餓鬼(うざいがき)、無財餓鬼(むざいがき)、ちくれん餓鬼といった餓鬼共が数限りなく犇めいていた。風景については、石を重ねる所があれば、花を摘んでいる者も見える。その中の一人の餓鬼は踊り跳ねて笑い喜んでいる。源(義経)は不思議に思って「お前のような身になっても可笑しい事があるのだな」と言うと、この餓鬼が「左様でございます。我らが身にも嬉しい事があるのです。某の七世の孫の一人が今 娑婆にいますが、出家してやがて浮かばれると思うと これだけで笑えるのです」と申し上げた。これを聞いた源(義経)は「仏が説くことによれば、一人出家すれば九族が天上に行くという。今思い出したが、親類の中で出家するものが一人いれば、その塁家の中の牛馬まで成仏するとも聞く。これが妄言だというのならば成仏も妄言と言えると、今となって思い当たる。私は武士を志しているが、この様なことを思う者がいるだろうか。保元、平治の乱で一門皆討たれたのならば、菩提を弔うために出家するのもめでたかろう。また、親の敵を討って本意を遂げる為ならば、弓矢をとって孝養に報いようと思えば、忍び涙をこらえることもできまい」と語った。

そこを過ぎるとやがて修羅道に行き着いた。ここに立ち寄って見渡してみると、まず娑婆で父を人に討たれ、その敵を討てぬまま死んだと見える者が自分で自分を切ったり突いたりしており、普通でないような苦患と見える。此処彼処(ここかしこ)を見れば、娑婆で見たような合図の鉦(かね)や太鼓を鳴らし、法螺貝などを吹き立てて、入り乱れて切り合う様が見て取れる。負けた方は逃げていき、勝っている方は勝鬨(かちどき)を上げ、鬨の声や矢叫の音などが天地に響くばかりである。義経が「さて、この苦患はどのようにして逃れるべきでしょう」と問うと、大天狗は「娑婆での戦の時に、討つべき敵を鉦(鐘)とし、剣を撞木と観念すれば、過去の因果はこのように捉えられます。未来は共に成仏しようと思えば、すなわち解脱となります」と答えた。

ここも過ぎ、地獄の数々を巡って見れば、いずれも言うまでもなく呵責と叫喚で溢れており、怖ろしきこと筆で書き表すこともなかなか難しいものである。

【下】

ところで、十方浄土を拝み奉れば、地獄の苦しみと打って変わって見仏聞法(けんぶつもんほう)の諸仏如来の御相好が見え、その有り難さを喩えることはなかなか難しい。中でも勝って拝まれるのは西方の極楽世界 九品の浄土に及ぶものはない。この九品の浄土こそ、御曹司(義経)の父・義朝は大日如来となって中尊に立たせられていることは有り難い。大天狗は北方より参り、弥勒菩薩のもとを訪れて礼拝し、奉って通れば、瑠璃の砂、玉の石畳、金で造られた埒、七宝の植木は光り濯ぎ、功徳池の蓮華よりも光明を照らし、その匂いがぷんぷんとする。天人の遊ぶ光は花の色に輝き、迦陵頻伽(かりようぴんが)のさえずる声、波の音にいたるまで、まるで法文のようである。

此処に七宝で飾られた門があったので、義経が「これはなんでしょう」と問うと、大天狗は「あれこそ娑婆で善根をなし、至誠心に念仏して往生を遂げる時、この門が開いて迎え入れられます。その時には花が降って異香(良い香り)が生じ、音楽が雲に響き、阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩など、25の菩薩が来迎するのであります」と教えた。

宮殿楼閣(くうでんろうかく)は、過ぎても過ぎても尽きることなく、金銀に瑠璃の砂は行けども行けども際(きわ)は無い。音楽の音は自然に響き、幡(はた)、華鬘(けまん)、瓔珞(やうらく)が掛かっているところもある。これらを拝むと歓喜の涙をこらえることはできなかった。

大天狗は御曹司(義経)に「ここで待っていて下さい」と言い、自らは大極殿に参って大日如来に「娑婆におります御子の牛若君(義経)と不思議な縁にて出逢い、ここまで御伴して参りました。一目拝みたいと申しておりますので、そのことをお伝えします」と申し上げると、大日如来は「ここは無念の次第である。師弟は三世の契、夫婦は二世、親子は一世の契である。よって叶えられない」と答えた。そこで大天狗は重ねて「おっしゃる通りでありますが、この若君(義経)は三世を悟っておりますので、どうか御対面を」と申し上げると、大日如来は「仏法の三世の利益の巷(ちまた)をどう考えている」と問いかけた。大天狗はこれを承り「それこそ天上天下唯我独尊と申しましても、一経も暗くありません」と答えた。すると、大日如来は「なんと有り難いことか、では此方へ」と言って、義経を招き入れた。

御曹司(義経)を御座に着かせると、仏は蓮華に座した。義経は悪い座り心地に身体が痛み、三世を悟ってはいるものの、まだ凡夫であるから、妄執(心の迷い)の雲が現れる。また、大日如来の御姿は見えず、御声だけで「いかに牛若(義経)、諸々の経の中に第一妙法の法体を何であると心得る」と問うと、牛若(義経)は「その妙というのは、妙(みょう)すなわち妙(たえ)なる法と説きまして、二つでもなく、三つでもない。唯一、乗の法のみのその様に悟っております」と答えた。その時、大日如来は「天地和合とふるたちひん(ママ)とは如何に」と問うと、牛若(義経)は「天地和合とふるたちひん(ママ)と言えば、天には千八界七流れ、地にも九千八界七流れ、天には四十八天の雲を吐き、地には又四十九瀬の関を据え、天地和合とふるたひちん、各礼仏足対座(かくらいぶつそくたいざ)一めい斯くの如し」と答えた。

すると、大日如来は「兜率(とそつ)の三関(さんかん)とは如何に」と問うと、牛若(義経)は「兜率の三関と言えば、やましもやま(ママ)も、引寄せて結べば柴の庵(いおり)であります。解ければ元の原(ママ)です。執の心とはこの様である申し上げます」と答えた。また大日如来は「金剛の心とは如何に」と問うと、牛若(義経)は「金剛の心とは、阿字十方三世仏、弥字一切諸菩薩、陀字八萬諸聖教、皆是阿弥陀仏と申し上げます」と答えた。また大日如来は「金剛の正体とは如何に。早々に申せ」と問うと、義経は「金剛の正体と言えば、木の恩にて木に入り、火の恩にて火に入り、水の恩にて水に入り、金の恩にて金に入り、土の恩にて土に入り、切っても切られず、焚くも焚かれず、手にも取られず、目にも見えず。ただ、そのままの正体であります」と答えた。

大日如来は「この土から娑婆に生まれた時、5つの借物がある。いずれの仏より何を借り、娑婆世界に生まれるのだ」と問うと、義経は「5つの借物と申すのは、骨は大日如来、肉は薬師如来、血は観音菩薩、筋は阿弥陀如来、気は釈迦如来の御前より借り奉って生まれます。そして、娑婆との縁が尽き、浄土に参るその時には地水火風空と定まります」と答えた。重ねて大日如来は「娑婆との縁も尽き果てて浄土に参る時、5つの借物をどのように還すのであるか」と問うと、義経は「木の徳にて木に還し、火の恩にて火に還し、土の恩にて土に還し、金の恩をば金に還し、水の恩をば水に還し、木を木、火を火に還す時、風が吹き来て元の土塊となる。その様に悟っております」と答えた。また、大日如来は「如何に牛若(義経)よ。けんにんでう(ママ)の一句をどのように捉える」と問うと、義経は「けんにんでうの一句とは、凍る一天の雪が消えた後、溶ければ同じ谷川の水、川は5つ、水は5色に流れます」と答えた。

大日如来は「五戒の差別はさて如何に」と問うと、牛若(義経)は「五戒は、殺生、偸盗、邪淫、妄語・飲酒です。まず第一に殺生戒いうのは人間だけでなく畜類、鳥類、虫けらに至るまで物の命を殺す事であります。その戒の歌に曰く『報ふべき罪の種をや求むらん蜑(あま)の所業(しわざ)は網の目毎に』とその様に戒めるといいます。偸盗戒というのは、人の物を盗む事、例えば紙一枚、塵一條であっても、くれないに取るのは盗みであります。その歌に曰く『浮草の一葉(は)なりとも磯隠(いそがく)れ心なかけそ沖つ白波』といいます。また邪婬戒とは、妻の上に妻を重ねず、総じて人の妻を犯すことを邪淫戒の戒とします。歌に曰く『さなきだに重きが上の小夜衣(さよごろも)我がつまならぬつまな重ねそ』と、その様に戒めるといいます。妄語戒というのは、無い事について嘘をつき、人を騙すのが妄語です。歌に『花雪を氷と人の眺むるは皆偽(いつはり)の種となるかな』といいます。さて、飲酒戒は酒飲む事を戒めることです。歌に『酒飲むと花に心を許すなよ酔(えひ)な醒(さ)ましそ春の山風』といいます。五戒とはこうしたものでございます」と答えた。

また、大日如来は「紙燭衰滅(しそくすいめつ)とは如何に」と問うと、義経は「我見燈明仏(がけんとうみょうぶつ)、本光瑞(ほんくずい)と、この様に捉えております」と答えた。すると、大日如来は「過去、現在、未来、三世不可得(さんぜふかとく)とは如何に」と問うと、義経は「過去で為した善根は、現世の善となります。これは一世の不可得です。現世にて後生菩提を起こし、よく発心すれば未来で仏果を得るでしょう。そのように捉えております」と答えた。

こうして会話に花を咲かせ、とても潔く答えると、大日如来も大いに歓喜して扇を天に投げた。すると、有り難いことに妄執の雲も晴れて、互いに目と目を見合わせることができた。昔も今も、娑婆も未来も、親子の契は睦まじいものである。義経を見た大日如来(義朝)は「ああ成人となったか。なんと素晴らしい牛若(義経)だろう」と喜びの涙を流した。御曹司(義経)も夢現(ゆめうつつ)ということをわきまえず、涙をこらえることはできなかった。義朝が「牛若よ、ここへここへ」と呼ぶと、義経は遠慮なく大日如来の御前近くに参り、そこで義朝は義経の後ろ髪をかき撫でて「善哉なれや遮那王(義経)、善哉なれや牛若」と言った。

そうしている間に義朝は哀れに思って「果報の少ない子だ。自分が今も世に居たのであれば、このような憂目を見せずに済んだものを。過去の戒行がつたなくて世を早々に去った後、甲斐なき母一人を頼りとし、あちこちと迷う事の不憫さよ。しかしながら、自ら草の陰にて微力ながら影身に添って守ってやろう。お前は夢にもしらぬ真弓を引いて源氏の世にするのだ」と語った。これを聞いた御曹司(義経)は涙を流しながら「それは兎も角、その様に仏になられておられましては、決して苦しまれてはいないのでしょう」と言った。これを聞いた仏(義朝)は「別に苦しみは無いが、ここに一つの思い残しがある。都にて平家の者共が悪行をなすのを見ておきながら、面目を立てないとあれば修羅の苦患を逃れられまい。千部萬部の経は要らない。どうか敵を討ってはくれまいか」と言うと、御曹司(義経)は「私は7歳より鞍馬寺に上り、学問を究めて、日々に御経読誦し、菩提のために回向してまいりました。その様に思われるのであれば、今日より出家の心を打ち棄てて、奥州に下りつつ、被官や家来を引率して敵を討って参りましょう。ですので守りの神となり、弓矢の冥加であってくさだい」と宣言した。

これに心を打たれた義朝は「そうであれば来し方(過去)や行く末(未来)をおよそ語って聞かせよう。よくよく聴聞せよ。我らは清和天皇の孫、また先祖の八幡太郎義家(源義家)は、15歳で門出して東夷を平らげ、名を天下に揚げたのだ。なので、お前も15歳になったときに奥州に下り、秀衡(藤原秀衡)、佐藤(佐藤忠信)を味方につけて都に上れば何も細かいことは考えなくてよい。まず、来年に14歳になる。父の13年の孝養として五條橋にて1000人斬をせよ。999人斬った後、熊野の別当 湛増の嫡子である武蔵坊弁慶が来るだろう。この者は討ってはならぬ。助けて被官とせよ。後々までもお前の役に立つだろう。それから屋形に立ち帰り血祭りにせよ。それから吉次(金売吉次)に頼んで東国に下れば、十禅寺の小松原にて美濃国の住人である関原与一という者が36騎の騎馬をもって都に上るので、お前は会って緩怠すべし。相構えて仮初事とは思っても、源氏の門出の間であるので、逃さず斬って落とせ。左手でお前を討とうとするから、お前は右手で討つのだぞ。

ここに一つの大事がある。お前が東国に下ると聞けば、母の常磐(常盤御前)が留めようとして後に慕って下ってくるだろう。また美濃と近江の堺にある山中という所で、熊坂という夜盗の奴らに酷く害されるであろう。だが、それらは大した力はない。これは前世の宿業である。しかしながら、やがて敵は討たすべし。その時、お前は美濃国垂井で宿をとるならば、ちうこうばう(ママ)という者のところに泊まるべし。そこで吉次の財宝を奪おうと夜盗共が入ってくるので、相構えて、母の敵である間は逃さずに斬って棄てよ。そして思う本意を遂げて血祭りにせよ。それより下るものならば、駿河国番場で宿をとるならば藤屋太夫という者のところに泊まるべし。とても無慙なことだが、お前は不思議な病に冒されるので後枕をわきまえて、吉次を打ち捨てるべし。藤屋は優しいものであるが、その女房は邪険放逸な者であるため、お前を吹上浜の六本松に棄てるだろう。そこでお前は空しくなることはなんと無慙なことだろうか。しかしながら、三河国の浄瑠璃姫を下し、よく看病されれば やがて病も平癒するであろう。それより後は何も細かいことを考えずに奥州に下り、秀衡、佐藤を頼るべし。

その後、四国の讃岐国の法眼(鬼一法眼)に伝わる いしたまるた神通(ママ)という巻物がある。法眼の一人娘である皆鶴姫と契を籠め、その巻物を盗み取り、それから帰れ。また日の本より艮(東北)に当たる きまん国という島は鬼の島であるが、鬼の大将の八面大王という者は42巻の虎の巻物を持っている。そのため、その島に渡って大王に婿入し、一人娘の朝日天女と契をなして、この巻物を引出物として受け取り、そこからも立ち帰れ。そして、お前が18歳になる年に、秀衡に50万騎を引率させて都に上るべし。その道中で伊豆国の北条蛭に小島がある。そこでお前の兄の兵衛佐(頼朝)に人数を差し出すべし。そして、一同に心を合わせて都に押し上がれば、平家は必ず滅ぶことになるだろう。そこで西海に追い下し、屋島の壇ノ浦にて互いに戦を励むべし。

その時、平家の大将の能登守教経(平教経)は、お前と会って矢壷を乞う(矢を打ち合うことになる)だろう。相構えて臆せずに受けよ。これはお前には当たらないだろう。しかしながら、奥州の住人である佐藤荘司の2人の子のうち、兄の継信(佐藤継信)がお前の身代わりとなって矢に当たって死ぬだろう。これも前世の宿業であるため、それまでの命であるのだ。その後、平家は滅びつつ、お前が21歳になったときには必ず天下を治めることになるだろう。しかし、兵衛佐(頼朝)が関東に御所を建てて鎌倉殿として崇められることになり、お前の都の堀川の御所は仰がれることはない。その時は何の細かいことを考えなくてよい。

しかしながら、梶原(梶原景時)がお前のことを兄の兵衛佐(頼朝)に讒言し、兄弟仲は不和となる。その詳細を語って聞かすべし。また、後の世には頼朝(源頼朝)、時政(北条時政)、景時坊(梶原景時)という3人の聖(ひじり)が生まれる。頼朝とは今の兵衛佐、時政とは北条の四郎時政、景時坊とは梶原のことである。その頃には、お前は大和の社に籠もる鼠になるが、笈(おい)の中に飛び入って60余州を廻った功徳により、今、牛若として生まれることになる。それゆえ、経の文字を食うことにより、景時坊を憎い憎いと思う念によって、讒言を以って、お前が32歳となる年の4月29日には、奥州の高舘にて空しくなるだろう。このように前世の因果は、車のように廻るだろう。構えて人も身も怨むことのないように。お前が死んでから参る浄土を拝ませよう」と語った。

そして、間(部屋)の障子をさらりと開けて「あれを拝むがよい」と見せると、そこには有り難いことに、金銀、瑠璃、七宝を敷かれ、瓔珞(ようらく)で飾られた25の菩薩聖衆が音楽をなして舞い遊んでいる光景があった。義経は、再び娑婆に帰ることなく、このまま此処に留まりたいと言えるほど有り難いと思った。大日如来は「未だに娑婆との縁が尽きてない、さあ牛若よ、帰りたまえ。構えて後生菩提を悲しみ、片時も念仏を忘れず、しじやう心、信心、回向、発願心を旨とすべし。いとまごいの餞に娑婆をみせてやろう」と言い、とある障子を開けると、三千大千世界に何日何時如何様(いつなんどきいかさま)の事が映り、自分自身を鏡に映すが如く、一目で見ることができた。

義経は、このような奇特を見せられるとは流石に六通の仏菩薩であると感心し、言葉を謹んで「名残惜しく思いますが、暇を申し上げて去ります」と言って、御門を目指して出ていった。大日如来もしばらく義経を見送っていたが、互いに涙をこらえることはできなかった。そして、義経は大天狗とともに内裏に帰ると、紫宸殿の簾中に入り、御台(大天狗の妻)に「あなたの仰せによって父に御目にかかることができ、有り難い限りです。それでは大天狗よ、それでは御台よ」と別れの言葉を残して、表を目指した。そこで大天狗も御台所も「名残惜しいですが若君(義経)よ。今しばらく」と言うと、義経も「また参りたいと思います。そして今より師弟の契約を交わしましょう」と言った。そして、大天狗が義経を金の門まで送り届けた時に「さらば」と言ったと思えば、東光坊の中の座敷に帰っていた。

このような事を聞くからには、この世の中は仁義礼智信を表とし、内に後生菩提を願うべし。これも源氏が未だに繁昌し、100代の果報が故なのだと見える。



参考サイト:天狗の内裏
matapon
著者: matapon Twitter
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。