河掘稲生神社 [大阪府]
2015/08/25
大阪市天王寺区にある河掘稲生神社(こぼれいなりじんじゃ)です。
第12代景行天皇の御代に稲生の神を祀ったことに始まると伝わる古社であり、四天王寺の鎮守社である四天王寺七宮の一社に数えられています。
神社概要
由緒
由緒書によれば、第12代景行天皇(ヤマトタケルの父)の時代に逆輪井という人物が西浪花潟の昼々丘に神地を賜り、そこに稲生の神(いなりのかみ)を奉ったことに始まるとされます。
その後、聖徳太子が四天王寺の創建時に当地に社殿を建てて第32代崇峻天皇を祀り、四天王寺七宮(四天王寺の鎮守とされる7つの神社)の一宮として稲生大明神(稲生の神)と共に併祀することになったそうです。
なお、由緒書には以下のように記されています。
当社は、第12代景行天皇の御代 己亥年の秋、夏目入穂の孫 逆輪井が西浪花潟の昼々丘に神地を賜り、稲生の神を奉斎し代々祭祀することとなった。
後に聖徳太子が四天王寺創建と共に、この地に社殿を建て、崇峻天皇を祭祀し、四天王寺七宮の一宮として、稲生大明神を併祀することとなった。
又、この地を古保礼と云う。
延暦七年三月、摂津太夫 和気朝臣清麿が、河内摂津の界に川を堀り堤を築き、荒陵の南より河内川を導き、西の海に通せんとして、当社に祈願した。
以後、河堀と書いて「コボレ」と称す。
後に聖徳太子が四天王寺創建と共に、この地に社殿を建て、崇峻天皇を祭祀し、四天王寺七宮の一宮として、稲生大明神を併祀することとなった。
又、この地を古保礼と云う。
延暦七年三月、摂津太夫 和気朝臣清麿が、河内摂津の界に川を堀り堤を築き、荒陵の南より河内川を導き、西の海に通せんとして、当社に祈願した。
以後、河堀と書いて「コボレ」と称す。
祭神
河掘稲生神社の祭神は以下の通りです。
・宇賀魂大神(ウカノミタマ):稲荷神
・崇峻天皇(すしゅんてんのう):第32代天皇、聖徳太子の叔父にあたる
・素戔嗚尊(スサノオ):三貴子の一柱であり、出雲の祖神(江戸時代の合祀)
・崇峻天皇(すしゅんてんのう):第32代天皇、聖徳太子の叔父にあたる
・素戔嗚尊(スサノオ):三貴子の一柱であり、出雲の祖神(江戸時代の合祀)
稲生の神について
通説では稲荷神社は京都の伏見稲荷(8世紀初頭)に始まるとされていますが、当社は それよりも古くから稲荷神を祀った神社であるとされており、「稲荷」の表記も「稲生」とされています。このように表記する神社は大変珍しいのですが、三重県や広島県など、全国には「稲生」と表記する神社がいくつか存在しているようです。
また、大阪市中央区にある玉造稲荷も伏見稲荷より古い時代の創祀であるとされており、ヲシテ文献(神代文字で記された文献)では"神代より既に稲荷信仰が確立していた"と解釈できる記述が多数見られます(「稲荷信仰とは?」を参照)。
境内社
河掘稲生神社の境内社である櫻樹神社(左)と若宮八幡宮(右)です。
それぞれの祭神については以下の通りです。
【櫻樹神社(さくらぎじんじゃ)】
・豊臣秀吉(とよとみひでよし):戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名、天下人
・稲倉魂大神(うがのみたまのおおかみ):稲荷神(表記が独特である)
【若宮八幡宮(わかみやはちまんぐう)】
・應神天皇(おうじんてんのう):第15代天皇
・仁徳天皇(にんとくてんのう):第16代天皇
・和気清麿(わけのきよまろ):奈良時代末期から平安時代初期の貴族
・豊臣秀吉(とよとみひでよし):戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名、天下人
・稲倉魂大神(うがのみたまのおおかみ):稲荷神(表記が独特である)
【若宮八幡宮(わかみやはちまんぐう)】
・應神天皇(おうじんてんのう):第15代天皇
・仁徳天皇(にんとくてんのう):第16代天皇
・和気清麿(わけのきよまろ):奈良時代末期から平安時代初期の貴族
境内の見どころ
鳥居
河掘稲生神社の鳥居です。
拝殿
河掘稲生神社の拝殿です。
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「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。
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