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2016年10月10日月曜日

湊川神社(楠公さん) [兵庫県]

人文研究見聞録:湊川神社(楠公さん) [兵庫県]

兵庫県神戸市中央区にある湊川神社(みなとがわじんじゃ)です。

南北朝時代に湊川の戦いで没した楠木正成を祀る神社であり、地元では「楠公さん」と呼ばれて親しまれているそうです。


神社概要

由緒

延元元年(1336年)の湊川の戦いで没した楠木正成は、当地に塚が設けられて そこに葬られたとされます。この塚は正成を慕う人々によってひっそりと守られていたため、豊臣時代まで発見されていなかったそうです。

なお、豊臣時代に発見されて以降、検地によって免租地(地租を免除された土地)に指定され、江戸時代には尼崎藩主・青山幸利によって五輪塔が建てられたとされます。

また、元禄5年(1692年)には水戸光圀によって正成の墓所に「嗚呼忠臣楠子之墓」の碑が立てられ、さらに立派な墓所を建立したとされています。これ以来、楠木正成は水戸学者らに理想の勤皇家として崇敬されるようになったそうです。

そして、幕末には維新志士らの崇敬も集めるようになり、国家に対して正成を祀る神社の創建を求める国民運動が盛んになったことから、明治元年(1868年)に明治天皇によって正成の忠義を後世に伝える神社創建の勅命が下り、明治5年(1872年)5月24日に湊川神社が創建されて現在に至るとされています。

祭神

湊川神社の祭神は以下の通りです。

主祭神

・楠木正成(くすのきまさしげ、大楠公):鎌倉末期から南北朝期に後醍醐天皇の下で活躍した武将

配祀神

・楠木正行卿(くすのきまさつら、小楠公):楠木正成の嫡男
・楠木正季卿(くすのきまさすえ):楠木正成の弟
・一族十六柱:一族の16人の霊
・菊池武吉卿(きくちたけよし):湊川の戦いに参加し、楠木兄弟と共に自害して没した武将

合祀神

・大楠公夫人:楠木正成の妻で、合祀された摂社・甘南備神社の祭神

末社

人文研究見聞録:湊川神社(楠公さん) [兵庫県]
楠本稲荷神社
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菊水天満神社

湊川神社の末社は以下の通りです。

・楠本稲荷神社(くすもといなりじんじゃ):倉稲魂命・猿田彦命・大宮女命を祀る
・菊水天満神社:菅原道真公を祀る

楠木正成とは?

人文研究見聞録:湊川神社(楠公さん) [兵庫県]
楠木正成

楠木正成(くすのきまさしげ)とは、鎌倉末期から南北朝時代にかけての人物であり、後醍醐天皇に仕えて鎌倉幕府打倒に貢献し、建武の新政後も後醍醐天皇に尽くして没した名武将として知られています。

出自については諸説ありますが、通説では河内国赤阪の里(現・大阪府南河内郡千早赤阪村)の出身であり、幼少時は観心寺(楠木氏の菩提寺)にて仏典や兵法を学んだとされています。

また、正成は非御家人(将軍と主従関係を結んでいない武士)であり、元寇の後に与える恩賞を失った幕府が御家人のみを救う永仁の徳政令を敷いた際、幕府に反発した悪党(幕府などの支配体制に対抗した人々)であったという説もあるようです。

その後、後醍醐天皇が倒幕計画を進めると、これに呼応して計画に加担するようになり、赤坂城の戦い千早城の戦いで幕府軍相手に奮戦したことで知られています。

ちなみに、正成は一連の戦乱の最中に、四天王寺にて聖徳太子の記した予言書『未来記』を読んで自らの行動が予言されていることを知り、この予言を以って後醍醐天皇の下で活躍し、建武の新政に大いなる功績を立てたとも云われています。

そして、足利尊氏が離反して京に攻め上ってきた際、圧倒的不利な状況にも拘わらず 湊川にて奮戦し、敗北が決定的になった時には弟・正季と共に「七生報国(七度生まれて朝敵を滅ぼす)」と誓いあって自決するという最期を迎えたそうです。

この「七生報国」の精神は「楠木正成精神」とも呼ばれ、後世に幕末の維新志士の勤皇思想や、大東亜戦争時の神風特攻隊員にも多大な影響を与えたとされています。

なお、湊川神社の案内板を参考にした楠木正成の略歴は以下の通りです。

・永仁2年(1294年)、河内国赤坂の里に誕生し、幼名を多聞(たもん)といった
 → 観心寺の滝覚坊(りゅうかくぼう)に兵学を学んだ
・元弘元年(1331年)、後醍醐天皇の倒幕計画が露呈したことにより、天皇は笠置山に籠城した(元弘の乱)
 → 後醍醐天皇は霊夢を見たことによって正成を召し、国を救うために尽力するように命じた
 → 同年、正成は赤坂に城を築き、幕府の大軍を相手に善戦したが、やがて落城した(赤坂城の戦い)
・元弘2年(1332年)、正成は千早城にて幕府軍に奇襲を仕掛けて奮戦し、諸国の武士に影響を与えた
 → 正成の活躍により、足利尊氏、新田義貞、赤松則村、菊池武時らが倒幕挙兵をした
 → この時、隠岐の島に流されていた後醍醐天皇は、名和長年によって救出された
・元弘3年(1333年)、新田義貞の鎌倉攻めによって北条氏が討たれ、鎌倉幕府が滅んだ
 → 正成は京に戻る途中の後醍醐天皇を兵庫(神戸市)に迎えたという
・後醍醐天皇は帰京の後、幕府・摂関を廃して自ら政治を執った(建武の新政)
 → 後醍醐天皇の施策は上手くいかず、武家の大きな反感を買った
・建武2年(1335年)、勅許を得ないまま中先代の乱の鎮圧に向かった足利尊氏が離反する
 → 尊氏は追討令を受けた新田義貞を破るが、京で正成・北畠顕家と争って敗北する
 → 尊氏は九州に落ち延びて翌年に体勢を立て直し、北朝の光厳上皇の院宣を得て京に上る
・建武3年(1336年)、後醍醐天皇は尊氏を討つべく、正成に出陣を命じる
 → 正成は"京から朝廷を一時退避させ、足利軍を京にて迎え撃つ"という必勝の策を考案するが却下される
・同年、湊川にて尊氏を迎え撃つことになった正成は、圧倒的な戦力差によって追い詰められてしまう(湊川の戦い)
 → 遂に死期を悟った正成と弟・正季は「七生報国」と誓い、互いに刺し違えた(死去)
・後世、豊臣時代に正成の墓所が発見され、江戸時代に徳川光圀によって廟所が建立された
 → 幕末には正成の精神が勤皇思想に影響を与え、吉田松陰や坂本竜馬らが場所に参拝したとされる
・明治5年(1872年)、明治天皇の思し召しによって正成の墓所に湊川神社が創建される
 → 大東亜戦争時、特攻隊員の鉢巻に「七生報国」と記され、正成精神が継承されていたとも云われている

境内の見どころ

表門

人文研究見聞録:湊川神社(楠公さん) [兵庫県]

湊川神社の表門です。

鳥居

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湊川神社の鳥居です。

拝殿

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湊川神社の拝殿です。

天井には大青龍をはじめとする天井画が描かれています。

臥牛像

人文研究見聞録:湊川神社(楠公さん) [兵庫県]

湊川神社の臥牛像です。

末社・菊水天満神社の前にあります。

遥拝所

人文研究見聞録:湊川神社(楠公さん) [兵庫県]

湊川神社の遥拝所です。

殉節地

人文研究見聞録:湊川神社(楠公さん) [兵庫県]

湊川神社の殉節地(じゅんせつち)です。

楠木正成が弟・正季ら一族と「七生滅賊」を誓って殉節した場所と伝えられています。

親子さざれ石

人文研究見聞録:湊川神社(楠公さん) [兵庫県]

湊川神社の親子さざれ石です。

この地で採掘された大小のさざれ石であり、正成と嫡男・正行を偲んで名付けられたそうです。

御廟所(楠木正成墓碑)

人文研究見聞録:湊川神社(楠公さん) [兵庫県]

湊川神社の御廟所です。

元禄5年(1692年)に徳川光圀によって建立された正成と一族の墓所であるとされています。

徳川光圀銅像

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湊川神社の徳川光圀銅像です。

料金: 無料
住所: 兵庫県神戸市中央区多聞通三丁目1番1号(マップ
営業: 6:30~17:30(時期によって異なる)
交通: 高速神戸駅(徒歩4分)、神戸駅(徒歩5分)、大倉山駅(徒歩5分)

公式サイト: http://www.minatogawajinja.or.jp/

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