人文研究見聞録:出雲大社の諸説(まとめ) [島根県]

出雲大社に関する諸説・神話をまとめました(随時追加予定)。

一般的な出雲大社の紹介については こちらを参照:【出雲大社】

出雲大社の諸説

出雲大社巨大神殿説


人文研究見聞録:出雲大社の諸説(まとめ) [島根県]

wikipediaによれば、出雲大社の本殿は 上古(神代~平安以前)は32丈(およそ96m)、中古(平安時代)には16丈 (48m)もある巨大神殿だったという伝承があるとされます。16丈あったとすれば、東大寺大仏殿の15丈(45m)や平安京大極殿より大きかったということになるそうです。

この伝承を肯定する意見としては、平安時代に源為憲によって作られた「口遊」で「雲太(出雲大社)、和二(東大寺大仏殿)、京三(京三謂大極殿)…」と数え歌に歌われていることや、2000年に発掘された出雲大社の宇豆柱(1本約1.4mの柱を3本束ねたもの)などが根拠になっているとされています。

なお、この説にまつわる資料は、出雲大社に隣接する古代出雲歴史博物館に展示されており、当博物館では巨大神殿の模型の展示も行われています。

出雲大社と龍蛇神信仰


人文研究見聞録:出雲大社の諸説(まとめ) [島根県]

出雲地方には古くから龍蛇神信仰(りゅうじゃしんしんこう)と呼ばれる信仰があり、龍蛇神の化身とされるウミヘビが浜に打ち上げられると その浜に対応した神社に奉納するという慣わしがあるとされます。

このウミヘビの種類は、背が黒く 腹が黄色み掛かったセグロウミヘビであるとされ、夜に泳いでいるところを照らすと、まるで火の玉が近づいてくるように見えるそうです。

なお、神在月(旧暦10月)には全国の神々が出雲に集まって神議を行うと言われていますが、出雲大社の神在祭において龍蛇神は神々の先導役であるとされ、昔はウミヘビの漂着が神在祭の開始の合図であったとも言われています。

龍蛇神信仰の起源は定かではありませんが、室町時代には存在しており神在祭も行われていたという記録があるとされ、龍蛇神の化身とされるウミヘビは「龍宮の使い」もしくは「龍宮の献上物」であり、当時は龍蛇(ウミヘビ)を2匹 祀ったと云われています。

また、龍蛇神は神々の先導役であるほか、火災予防・水難予防・商売繁盛の神としても信仰されており、神在祭の参拝者は龍蛇神が描かれた「龍蛇札」という御札を授与されるそうです。

参考サイト:出雲大社紫野教会出雲大社・御朱印

大注連縄の諸説


人文研究見聞録:出雲大社の諸説(まとめ) [島根県]

出雲大社の大注連縄(おおしめなわ)は、大黒締め(だいこくじめ)と呼ばれる独特な技法であり、綯い始めが左になっていることが特徴的です。なお、出雲大社をはじめとする大社系の注連縄は全て綯い始めは左になっており、島根県周辺では主にこの技法が用いられているそうです。

また、注連縄は そもそも神域と現世を隔てる結界の役割を持つとされていますが、出雲大社の大注連縄は「」や「大蛇」を象徴しているとも言われており、それぞれの説は以下のようになっています。

雲説


・注連縄の全体が「雲」を表現している
 → 神は雲の上にいると考えられるため(出雲や八雲という語にも関連するとされる)
・注連縄に付けられた紙垂(しで)は「雷」を表現している
 → 雲から生じる落雷を表現しており、その背後にある鈴は雷の音を表現しているとも
・注連縄の〆の子(しめのこ)は「雨」を表現している
 → 〆の子とは、注連縄にぶら下がっているワラの飾りのこと

大蛇説


・大注連縄は龍蛇神を祀る神社に共通する特徴である
 → 龍蛇神信仰で有名な諏訪大社、大神神社、都久夫須麻神社にも大注連縄がある
・出雲には龍蛇神信仰があり、ウミヘビを神の使いとして龍蛇様(りゅうじゃさま)と呼ぶ
 → 龍蛇様は火災予防・水難予防・商売繁盛の神としても信仰されている(龍蛇札という御札もある)
・出雲地方には龍蛇神信仰が根付いており、ワラで作った藁蛇が奉納されている神社も多数ある
 → 分かりやすい藁蛇は阿太加夜神社などに奉納されている
・出雲大社の祭神であるオオクニヌシ(オオナムチ)は、蛇神としても祀られることが多い
 → 同一とされるオオモノヌシの化身も蛇とされる(三輪山に祀られている)


出雲大社の怨霊説


人文研究見聞録:出雲大社の諸説(まとめ) [島根県]

オカルト系のメディアで「出雲大社は怨霊を鎮めた神社である」という説が取り上げられていますが、この元ネタは井沢元彦氏の『逆説の日本史』であるとされ、その根拠には以下のような点が上げられています(詳しくは参考サイトをご覧下さい)。

・出雲大社の本殿は、日本で一番大きな建物であった
・出雲大社本殿の神座は横を向いている
・出雲大社本殿の客神はヤマト系の神で、オオクニヌシを監視している
・注連縄が一般的な神社とは逆方向に締められている
・二礼二拍手一礼ではなく、二礼四拍手一礼である(四が死に通じるとする)
・出雲の「雲」は死の象徴である
・亡ぼしたオオクニヌシを丁重に祀らなければならなかった

参考サイト:出雲大社紫野教会

出雲神話の諸説

『ホツマツタヱ』による出雲神話


人文研究見聞録:出雲大社の諸説(まとめ) [島根県]

神代文字で記された古文書である『ホツマツタヱ』には、『記紀』とは一風変わった内容の神話が記されています。真偽の程は定かではありませんが、各部分の詳細や大国主のその後などが描かれた興味深い内容となっています。

ホツマツタヱの国造り


ソサノヲ(素盞鳴尊)が出雲のクニカミ(国守)となって宮殿を造営していると、その間に妃のイナタヒメ(稲田姫命)が孕んだため、記念に「やくもたつ いつもやゑかき つまこめに やゑかきつくる そのやゑかきわ」という歌を詠んだ。

ソサノヲが この歌を姉のワカヒメ(稚日女尊)に捧げると、八雲打ちという琴の奏法が授けられ、この琴の音に合せてイナタヒメに歌うと、クシタエ(奇跡)が現れた。

このクシタエが現れて生まれた子はクシキネと名付けられ、格別に穏やかな性格だったことから、皆からヤシマシノミのオホナムチ(大己貴命)と称えられた。

オホナムチがアワ国のササザキに居る時、カカミノフネ(鏡の船)に乗ってくる者が居た。その者に素性を尋ねて見たが答える様子が無く、クヱヒコ(久延彦神)に聞くと「あの者はカンミムスビ(神皇産霊神)の1500子で、その教育から落ちこぼれたスクナヒコナ(少彦名命)でしょう」と答えた。それを聞いたオホナムチは、スクナヒコナを手厚くもてなした。

そして、共に協力してウツシクニ(現地)の病を癒し、田畑の害獣・害虫の類を駆逐した。スクナヒコナは、アワシマのカダカキを習い、ヒナマツリを教え伝えて、カダノウラのアワシマカミとなった。

オホナムチが一人で国を巡っている時のこと、民が獣肉を食したことから稲を枯らすホオムシが発生した。これを聞いたオホナムチはヤスカワのヒルコ(ワカヒメ)の元に急いで向かって教え草(害虫駆除のまじない)を習い、このまじないを以ってホオムシをヲシクサ(押草)で扇ぐと、ホオムシは彼方に去って行った。これに感銘を受けたオホナムチは、娘のタカコ(後のタカテルヒメ)をヒルコ(ワカヒメ)の元に奉じた。

オホナムチは、息子のクシヒコ(事代主命)をオオモノヌシ(役職名)の代行とするコトシロヌシとして御上に仕えさせ、自らは出雲に残って民を教育し、123,682俵のヒモロケ(食糧)を数えるほどに豊かにした。また、種袋と槌を以って御宝(民)を育み、飢えの対策に倉を建てて、それを満たすように糧を蓄えた。これにより、雨・風・日照りが起きても十分対応できるようになり、民が飢える心配が無くなった。

また、オホナムチは産屋の中で子を増やした結果、181人の子を儲けることになった。

ホツマツタヱの国譲り


オホナムチが出雲で民を豊かに治めるようになった後、フトマニ(占い)に"シチリ"の凶事が浮かび上がった。これは「富を塵と言う批難が謀反の原因となり、オホナムチが統治するモノノベが散るだろう」という内容であったため、天(中央政府)は この結果を出雲に報告することにした。

出雲に派遣されたヨコベ(補佐・監査役)が帰って来て「出雲八重垣のオホナムチは、額に"タマガキウチミヤ(玉垣内宮)"と掲げ、ココノヱ(皇居)に匹敵する規模の宮を築いています。これはアメノミチにある"満つれば欠ける"の理の現れでしょうか?」と報告すると、天は謀反が起きぬように出雲の出過ぎた態度を正すことを決定した。

この時に皇位を継承していたオシヒト(天忍日命)は病弱であったため、7代目タカミムスビ(役職名)タカキネ(高皇産霊神)が代わりに国政を執っていた。タカキネがカミハカリ(神議)を開いて「出雲を正そうと思うが、適役は居るか?」と皆に問うと、「ホヒ(天穂日命)が良いでしょう」という声が皆から挙がった。

そのため、ホヒを召して出雲の説得に向かわせたが、ホヒオホナムチに媚び諂って3年経っても返事をしなかった。そこで、ホヒの子のオオセイイミクマノ(大背飯三熊之大人)を派遣したが、父のように帰ってくることは無かった。

再び会議を開いて出雲に派遣する適役を選考した結果、アマ国のアメワカヒコ(天稚彦命)に決定したので、タカミムスビアメワカヒコにカゴ弓とハハ矢を与えて出雲に派遣した。しかし、アメワカヒコは出雲でオホナムチの娘であるタカテルヒメと結婚し、すぐに帰る気を無くした。また、出雲と葦原国を併合しようと考えており、8年経っても帰ろうとしなかった。

そこで、天は名無しのキジを召して様子を見て来させることにした。キジはアメワカヒコの宮の門前に着くと、カツラノスエ(アメワカヒコの堕落)を見て、ホロロホロロと鳴いた。その声を聞いたサクメ(下侍)がアメワカヒコに「名無しのキジが天を嘆いています」と報告すると、アメワカヒコキジに向けてハハ矢を射った。ハハ矢はキジの胸を貫通しても更に飛んで行き、最終的にタカミムスビの前に落ちた。タカミムスビはハハ矢にキジの血が付いていることに気付き、飛んできた方向に射返すと、アメワカヒコの胸に当たって絶命させた。これが、"返し矢 恐るべし"の基になった。

アメワカヒコの死ぬと、妻のタカテルヒメの鳴く声が天に届き、この知らせを知ったアメワカヒコの父母は、出雲に出向いて直ちに屍を引き取り、喪屋を造ってカリモカリ(仮殯)を行った。このとき、タカテルヒメの兄のタカヒコネ(味耜高彦根命)は天に上ってアメワカヒコの喪屋に訪れる許可を得た。

タカヒコネの姿はアメワカヒコとそっくりであったため、喪屋を訪れた際にアメワカヒコの身内の者に「蘇った」と勘違いされ、たちまち寄りかかられて「8年ぶりだな」と纏わられたので、死者と間違えられたことに激怒して「友人だから遠方から遥々訪れたというのに、私を死者と間違えるとは なんと汚らわしい、全く腹が立つ」と言い放ち、喪屋を斬り臥せて 穢れを祓うように葬儀場を去ろうとした。このとき、シタテルヒメ(オクラヒメ)タカヒコネの怒りを諌めようと、ミヂカウタ(短歌)を詠んで諭すと、タカヒコネは怒りと太刀を収めた(詳細は割愛)。

以前の失敗を踏まえて、タカミムスビはカシマタチ(武力行使と取れる)を敢行することにした。このカシマタチにて、諸臣から評価の高いフツヌシ(経津主命)の派遣が推奨された。そのとき、タケミカツチ(武甕槌命)が進み出て「皆、フツヌシだけを推すが、他に優れた者を忘れていないか?」と言うと、タカミムスビも応えてフツヌシタケミカツチを副えて出雲を正すカシマタチを行うことに決めた。

出雲に着いたフツヌシタケミカツチは、キツキ(杵築宮)の前にカフツチノツルキ(曲治の剣)を植えてうずくまり、宮の外から大声で「我々は、貴様(オホナムチ)の驕り高ぶり曲がった道を正しに来た。その心、まだ変わらんのか?」と叫んだ。
オホナムチは答えかねると思い、ミホサキにいるクシヒコ(コトシロヌシ)にキジのイナセハギ(稲脊脛命)を派遣して天への対応を問わせた。

クシヒコ(コトシロヌシ)は「私はスズカ(真直ぐ)な気持ちです、父母にこう伝えてください。ホロロと泣けども臣たる我らはチノタヰ(針に掛けられた鯛)なのです。副の身である臣として威勢を極めるだけ愚かなことです。タカマ(天)は民のヱミスタヰ(笑す尊)、すなわち民は喜んでタカマに仕えているのです。このように甚だ畏しい天には、従うことが道理でしょう、これが私の詔です。父が退けば、出雲は諸共に天に降るでしょう」と笑顔で答えたので、イナセハギはすぐに帰ってコトシロヌシの意向を伝えた。

この報告を受けたオホナムチが「私には、もう一人の子がいる」と言うと、その間に千引岩を捧げたタケミナカタ(建御名方神)が現れて「裏でコソコソと我が国を脅す者がいるようだな。出てこい、私と力比べして決めようではないか」と言い放った。そこで、タケミカツチが巨大な千引岩を捕らえて投げ捨てると、タケミナカタは急に恐れを無してシナノウミ(諏訪湖)にまで逃げて行った。しかし、とうとう追い詰められ、タケミカツチが「すわ(さぁ)」と言うと、タケミナカタは恐れて「私を助けてくれ、そうすれば 此処から外に出ず、背かないことを約束しよう」と言ったので、タケミカツチは その場を立ち去った。

そして、オホナムチに再び問うと、ついに子供たちの言う通りに出雲をフツヌシ・ミカヅチに差し出すことに決め、「我が子が去れば、私も去ろう。しかし、今後も逆らう者が出るかもしれない、その時は我がクサナギの矛で平らすと良い」と言ってクサナギの矛を譲り、出雲から去って行った。

オホナムチが出雲を譲った後、二守は逆らう者を斬りつつ、従う者を褒めて出雲を平定した。そして、諸神を率いて天に帰り、タカミムスビより褒賞を得た。

一方、出雲を追われたオホナムチは、子どもたちを率いてヤスカワに至った。その姿は惨めであり、人知れず涙するほど苦労したという。後にタカミムスビの口添えもあり、オシホミミ(天忍日命)からオホナムチに対して詔があった。これにより、ツカルアソベのアカルミヤ(都から遠く離れた宮)を賜ることとなり、枯れた地であるアソベを得たオホナムチは、早速 宮殿の造営に取り掛かった。そして、アソベの領地には千尋の掛橋や百八十縫の白立を造り、壮大絢爛な都を新造し、オホナムチはツカルウモト(津軽の辺境)のクニカミとなった。

また、出雲はホヒに引き継がれ、オオモノヌシ(役職名)はクシヒコ(コトシロヌシ)に引き継がれた。この後、タカミムスビクシヒコに「モノヌシのクシヒコよ、この地では疎かろう。そこで、我が娘のミホツヒメを娶り、80万守を司れ、そして御孫を守り奉るべし」という詔を下すと、クシヒコは詔に従ってミホツヒメと結婚し、ヨロギの地を賜った。そして、この地にナメコト(嘗事・医薬事)のチクサヨロキ(千草万木)の名を起こし、この宮では弱者のために病気を癒す道を開いた。
matapon
著者: matapon Twitter
「日本神話」を研究しながら日本全国を旅しています。旅先で発見した文化や歴史にまつわる情報をブログ記事まとめて紹介していきたいと思っています。少しでも読者の方々の参考になれば幸いです。